現代文明学研究ホーム現代文明学研究とは規定書誌執筆者一覧

現代文明学研究:第6号(2004):372-387
「障害者アート」と「共同性」
ある知的障害者施設の創作現場から
岸中聡子


 ←印刷用のPDFファイルをダウンロードできます(頁番号付き)


はじめに

  1990年代以降、障害を持つ人の創作が、「アート」として展示される機会が増えており、その表現そのものに注目が集まっている(1)。それらは発話者の立場により、「アウトサイダー・アート」(2)、「障害者アート」(3)、「エイブル・アート」(4)などと呼ばれるが、ここでは一括して「障害者アート」と呼ぶことにする。
 そこには、美術の埒外とされてきた障害者の作品の中にも評価すべきものがある、それを認めていこうという姿勢と(5)、障害ゆえに独自の表現があるのではないか(6)という予感とが伺える。現在では、「埋もれていた才能を発掘する段階から、質を問い、評価する試みにいたり始めている」(7)との見解もみられる。
 しかし、これらの展覧会ではあまり示されていないことがある。それは、創作過程における作者への援助の重要性をどう捉えるかということである。もちろん援助が重要であるという認識は関係者の中にはあるが、やはり評価する人たちの関心の中心は作品であり、作者である障害を持つ人である。それらの創作を「アート」と捉える上で、援助の重要性をどのように作品やその評価、展覧会に反映させるかについてはほとんど語られていない。映画『まひるのほし』で障害を持つアーティストをとりあげた佐藤真は「共同制作といえるほどまで深く関わっていると思います。そういう人たちの存在がないと、彼らのアートも立ち上がってこないし、この映画も成立しなかったとも言えます」(8)と率直な感想を述べている。
 本稿では、従来の作品中心の評価のありかたとは別の視点を提示したい。それは障害を持つ人の創作過程において、作者と援助者との間にどのような関わりがあるのか、特にその「共同性」を積極的に明らかにしていこうとするものである。それらの関わりは、一般には福祉の現場のエピソードとして理解されがちであるが、実際にはむしろ「障害者アート」を構成する重要な部分として受けとめられるべきものである。作品だけでは「障害者アート」全体を捉えることはできないのだ。
 本稿では、まず、「障害者アート」について、特に評価の視点を概観する。次に、障害を持つ人の創作がどのような状況で、どのような関わりをもって生まれてくるのかについて、実際の創作の現場で調査を行い、それを「共同性」という視点から考察する。プロセスに注目することで、「障害者アート」についての新しい議論を提起することができると私は考えている。

第一章 「障害者アート」への視線 

 「アウトサイダー・アート」という言葉を積極的に用いる服部正は、「「アウトサイド」は「インサイド=美術の枠組み」に納まりきらない奔放さを意味する肯定的な表現」と述べている。その一方で、一般の人の関心が作品そのものではなく、作者やその境遇に向かう傾向があることを指摘し、そのような関心は福祉の範疇であるとして、純粋な作品との対話がなされなくなることを危惧している(9)。はたよしこは「芸術活動の魅力は常に、インサイダー(公的モラルや文化制度、社会制度の中にいる人たち)とアウトサイダー(外部の存在)との拮抗した綱引きのその張力の上にこそある」と考える。「既成の概念に危機感を与えること、そういう関わりのダイナミズムがなければ、これは所詮福祉的善意の産物にしかなりえない」という(10)。これら「アウトサイダー」という表現は制度の外部を表すと同時に、彼らの表現への期待が込められているとも言える。また、「障害というひとつの個性を持つことによって独自の表現が可能になるということも、あり得ないことではないだろう」(11)と障害をアートのプラス面として捉えようとする発言も見られる。高橋直裕は、美術館や既存の美術は高度に専門化しすぎて、一般市民に貢献できていないと言う。そして、美術の世界にまで入りこんだ「「心の文化」の喪失」から、美術本来の意味や役割を取り戻すための、希望をたくすことのできる潜在能力を秘めたものとして「障害者芸術」を捉えている(12)。真室佳武も、「近年エイブル・アートが一般に知られるようになり、そのアートに対する評価も現代美術と同じように、作品の質が問われるように変わってきている」と述べ、人を感動させる作品かどうかという芸術的価値の評価の問題をエイブル・アートの今後の課題であるとしている(13)。
 
以上のように「障害者アート」は、既存の美術制度や文化に危機感を与えたり、「心の文化」を復活させるものとして捉えられるなど、現在の状況へのインパクトになるものと受け止められている。美術の側には、美術や美術館が一般の観覧者から遊離してしまっているという危機感もある。また、作者のバックグラウンドに関心が傾きがちなことに、強い懸念も示されている。それは純粋に作品を論じ、普遍的な価値を見出したいとする人たちからの、「作品」そのものへの期待の大きさによるものといえる。したがって、創作のプロセスや作者本人への関心は、福祉の範疇とされてしまう。評価の対象とされるものは、まずは「作品」そのものなのである。
 一方、冒頭で見た佐藤真の「共同制作」という言葉のように、障害を持つ人の創作に関わる場における「共同性」を指し示す表現を、幾つかの文献に見出すことができる。障害を持つ人の中に潜在していた能力を巧みに引き出す援助者のことを「同行者、同学の士」(14)とするものや、「創作の場の自由な雰囲気」や「施設の柔軟さ」が重要(15)であると指摘するものがある。また展覧会場でのふれあいにおいて、命と命のつながりを実感することが「共同制作」であると野寺夕子は感想を述べている(16)。展覧会を実際に精神科病院の患者や職員、ボランティアと共に企画したことを指して、安彦講平は「協働作業」と表現しており(17)、アートが多様な場面で他者との関わりの中から立ち上がってくることが伺える。
 これらの視点を念頭に置きながら、次章では、知的障害者施設あけぼの寮(仮名)の創作現場における作者と職員との関わりについて考察する。

第二章 施設における、創作の現場

第1節 調査の概要

調査の視点 アートの展覧会では、それぞれの作品がどのような関わりを持って立ち上がってきたのかを知ることは難しい。そこで、「障害者アート」を理解するひとつのキーワードとして「共同性」に注目する。障害を持つ人の創作が、どのような状況で、どのような関わりのもとにうまれてくるのかについて見ていく。作者本人ができること、できないことは何か。個々の寮生への関わりかた、声かけ、行き詰まったりスランプの時の創作への促し、その他内面的な関わり全般を見ていく。
調査対象 知的障害者更正施設と知的障害者授産施設を設ける「あけぼの寮」(仮名)。入所型施設で、施設内に6つの作業所を有しており、今回の調査の中心はそのなかの「やきもの科」にて行われた。入所者80名、平均年齢は52歳(2002年4月1日現在)。近年、このやきもの科の作品もアートの展覧会に招かれる機会が増えている。調査期間2002年8月26日〜9月30日(9/10〜9/14を除く平日)
調査方法 「やきもの科」(1980年発足)の活動を中心に、担当職員への聞き取りおよび参与観察による。午前の作業として週3日の散歩、2日のカレンダー作成、そして毎日の午後の粘土。特に「自由創作」「焼成」の場面について見ていく。(やきもの科:男性6名、女性2名が所属。「やきもの」とはいわゆる陶芸である。)

やきもの科に集まるメンバーたち(仮名)

職員

井山さん(男性:56)

やきもの科発足以来の担当者。陶芸経験はなかった。

徳岡さん(女性:32)

やきもの科担当。この施設に就職して直後に配属。10年になる。井山さん同様、陶芸経験はなかった。

やきもの科

井川さん(女性:53)

発足当時から参加。粘土に触れて4年目後半から、細いひも状粘土で大きな作品を作り出し、今日に至っている。

小田さん(女性:54)

発足当時から参加。とにかく、粘土をすることが一番。蟻塚のような形の重量感のある作品をどんどんつくる。

正木さん(男性:50)

<お母さんのお墓>と言って作品を作っていた。天性の表現力の持ち主。病気以後はたまにしか作品をつくらない。

清水さん(男性:53)

発足当時から参加。以前いた施設でも粘土をしていた。失明後は、小さくちぎった粘土の感触を楽しんでいる。

松野さん(男性:62)

発足当時から参加。手がよごれるのを嫌い、粘土は丸めることを得意とする。最近ひもができるようになってきた。

中野さん(男性:53)

絵も得意。写真を撮るのも好きで、好奇心旺盛。

中村さん(男性:51)

怪獣や人形が得意。

高田さん(男性:53)

ただ今、休職中。

他作業所から

藤田さん(女性:50)

毎日、午後。スイスのアール・ブリュット美術館に彼女の作品が所蔵されている。

渡辺さん(男性:52)

毎日、午後。職員の手伝いも積極的。突然大きな作品をつくる。

大川さん(男性:53)

週2日、全日。コンスタントに制作する。スイスのアール・ブリュット美術館に彼の作品が所蔵されている。絵も得意。

原田さん(女性:50)

週1日、午後。ケーキと称して楽しんで作っている。

 

 尚、この施設では、利用者のことは寮生、職員のことは先生ではなく、職員と呼ぶ。両者は互いに名前で呼び合っており、表記上分かりづらいので、寮生の名前は太字で記す。

第2節 自由創作「粘土する」

 「粘土しょっかー」、「粘土するー」と毎日のように耳にするこれらの言葉は、やきもの科で職員と寮生との間で作業が始まる時に、合い言葉のようにかわされている。粘土をするのは平日の午後で、15時頃にはラジオ体操があり、その後おやつの時間をはさんで、また16時過ぎまで制作を行う。その後掃除と反省会で終了となる。
 
ここでおこなっている自由創作では、ひとりひとり、そのひとらしさの出る作品づくりを目指している(職員は、「顔の出る作品」と表現している)。障害と言ってもひとくちに言えるものではない。手にマヒがあったり、歩行がスムーズでない、発作、視力障害等、重複して障害を持つ人もおり、寮生にとって、できることとできないことは人によってまちまちである。平均年齢52才というこの施設にあって、加齢によって迎える、実家の家庭環境の変化、自身の身体の変調などもあり、職員の創作における関わりは、実作業だけでなく、メンタルな面への配慮もなされる。ここではその実際を観ていくことにする。大きく次の4つの視点を設けた。(1)「制作補助」(2)「創作への促し」(3)「寮生の内発的な創作」(4)「総合的な関わり」である。

(1)「制作補助」

 制作において、物理的な助けも欠かせない。ここではその工程について事例をあげていく。

粘土準備
 まず、職員が粘土の固まり(自分の頭より少し大きいくらい)を寮生の目の前に置いていく。「堅いわ」という声が上がる。粘土の堅さも本人の好みや、手の力によって異なるので、なるべく調節する。粘土の量はちょっと手に余る位を目安に置く。少ないとイメージが拡がらないからだ。

底をつくる
 
小田さんが、手回しろくろに粘土を打ちつけて、パンパンと手のひらで叩いて底の部分をつくろうとする。徳岡さんがそれをもう一度手のひらで打って、底を3p位の厚さに整え、ろくろからはみ出た部分を切り取ってあげる。
 
中心をたたくということが寮生たちにとっては簡単ではない。底をつくっても、周りは叩けるが、中心を叩いてだんだん広げていくのは難しい。皆大きな作品をつくるので底の粘土に空気が入っていたり、安定していないと、焼成の時に割れたり、制作中に倒れる原因になる。
 徳岡さんの手が底から離れると、小田さんは迷わず、その底の周囲に太く短いひも状の粘土をつけて囲って積んでいき、外側の段差を手でなでつけていく。このはじめのとっかかりはスムーズで、いつものように行われているのだと見受けられる。例えば、餅つきのつき手と相棒を連想させる。
 徳岡
さんは「最初は私がやってたんですけど、やっぱりちがうかなと思った」と言う。
 最初から職員が用意することはせず、まず、寮生がやってから少し、手直しする。

形を安定させる
 川上さんは細長いひも状粘土を円形の底の周囲に巻き付ける。乗せていくような感じである。外側はなでつけない。ひも状粘土を前のひもが終わったところから、続きに螺旋状に乗せていく、両手の親指から中指の3本の指で上から挟んで丁寧に押さえていく。高さ50pくらいのものから、大きなものは1mを超える作品ができる。縄文土器を思わせる形をしている。しかしその大きさとは反対に、繊細で華奢で、持ち上げると一瞬戸惑う程に軽い。制作中、30p位の高さになってくると、徳岡さんが両手のひらで作品の側面を挟んで、パンパンと両側から軽く叩く。
 
「(彼女のは、)中心からずれやすいので形を整える意味でやってます。それと叩くことで粘土の上下がくっつくんですよ。もちろん彼女もやってるけど、力が弱いので、余計くずれたりするから・・。」
 
川上さんの指の力が弱いので、粘土が乾いてくると積んだひもの上下に隙間ができることがある。叩くことで隙間を押さえることができ、全体が安定する。

修正への補助
 
川上さんは、手回しロクロに置いた底に、30p程の細長いひもを螺旋状にどんどん積み上げていく。暫くして、積んでいた粘土の上部を数段取ってしまった。「なんで取るの?」と徳岡さん。川上さんは、形が歪むと感じるからか、時々積んだ部分をちぎって取ってしまうことがある。「気に入らんかったし」と言うときもある。潰したり、一からやり直そうとはしない。そして、再び積もうとする時、積み終わりの点がどこか分からず、別の所から積んで全体が歪む原因になる。そうすると、彼女自身の意に反して、積み上げたものが倒れてしまったりするので、職員はきちんと続きに粘土が積めるよう、つなぎ目を探してあげる。粘土を取る前に教えてくれるといいが、いつもそうはいかないようだ。

乾燥との競争
 
粘土の創作過程においては乾燥は大敵である。夏の冷房や冬の暖房も制作スピードの遅い人にとっては、作品の仕上げを難しくする。その点も、職員が制作時に気を使うところである。
 
大川さんは、粘土を軽く乗せたり、巻いたりしながら作品をつくるので、粘土が乾くと作品の一部がはがれてしまうことも少なくない。中野さんも、乾燥に悩まされる。彼は右手にマヒがあるので、粘土をコロコロと転がすことができない。親指の付け根の辺りを使って、実に巧みに粘土をキューブ状に形作っていく。3〜5p位のものをこしらえて四角い形に用意した底に、周囲からブロックのように積み上げていく。階段や小部屋のようなものをブロックで仕切ることで内部を作り、外壁を積んでいく。水をつけ、丁寧にへらを使って周囲をなでつけていく。この時、片側だけに集中的にキューブを積んでしまうと、反対側が乾いてしまい、いざ積もうと思った時には、粘土がくっついてくれなくなる。粘土は上から乾いてくる。中野さんは手のマヒのせいで積む速度が格段に遅い。
 職員が忙しくて、粘土の渇きに対応できないこともある。制作途中のものには、濡れ雑巾をかけたりするが、「こっちの不注意で(作品を)ボツにした時は、悪かったなぁって思う。本人はね、すごくやる気で頑張ってくれてるのに」と徳岡さんは言う。時間との競争なのである。

仕上げの補助
 粘土の積み終わりは、みな自分で決めている。
 
小田さんが「もういいわ。いいか、もう終わっていいか?」と職員に尋ねている。職員が、もう少し積めるんじゃないかなと感じた時は、作品の上に濡れぞうきんをかぶせて、粘土が乾くのを防ぎ、次の日に本人の気が向いたら積むことができるように可能性を残して終わることもある。
 「終わりは本人が決めるけど、こっちも見てて、だいたい出たなぁ、とわかる」と井山さんは言う。
 職員は粘土の仕上げにも気を配る。その日の藤田さんは壷のようなものをつくっていた。
 
藤田さんが「徳岡さん、見てー」と声をかけると「もう、積まへんの?じゃ最後長いひもで一周して」。藤田さんは、一周粘土を乗せる。「はい、それで、最後仕上げて」と徳岡さんが促すと、藤田さんが手で口の外側をなでつける。続けて胴の部分に、取っ手のようなものを3つ付けた。徳岡さんは口の部分の乾いてひびの入ったところを、水をつけてきれいに手直しをし、取っ手と胴体の接着部分も筆を使って水で補強した。

(2)「創作への促し」

 寮生たちは自分で仕事にめりはりをつけることが苦手である。職員による創作への促しは、相手によってもちがう。
 川上さんは、制作中、それまで調子よく作っていても、一瞬集中力が途切れる時がある。職員が「もう少し積もうか」と言っても「しんどい」ということもある。そういう時は「おやつまで休憩しよっか」と休憩を挟む。おやつが終わると気分がかわって「やるわ」と、また集中できる。
 渡辺さんの場合はまたちがう。
  この施設では寮生たちに、生活の中に季節を感じとってほしいと、年間を通して多くの行事がとりいれられている。調査期間中も地蔵盆、秋の旅行、彼岸の追悼会の他、10月の文化祭の準備が行われていた。寮生たちはとてもこれらの行事を楽しみにしており、その話題は尽きない。けれどもなかにはそのために落ち着かなくて、粘土に集中できない人もいる。最近の渡辺さんも、近づく旅行に心が浮きたっている。何処へ行くか、行った先で何をするか、粘土を触りながらも、ずっと話しっぱなしである。粘土を作っても10分程で「できた」といって棚に乗せてしまう。このような時、徳岡さんは、渡辺さんに職員の仕事を手伝ってもらうことにしている。その日も彼は、再生にまわす乾いた粘土を、金づちで砕くように頼まれた。他のメンバーはそのまま粘土を続けている。
  「気が入ってないから作品もよくなくて・・」「そういう時は粘土をやめて、(再生のための)粉つくりを渡辺さんが嫌になるまでやってもらうんです。」
 ここでは一旦使って乾いた粘土を水につけて、それを土練器(もう一度粘土の堅さを調節して練り直しす機具)で再生して使用しているが、その準備として、失敗して乾いた作品を金づちで細かく砕くのである。新しもの好きな彼は、気持ちよく手伝ってくれる。その日も、防じんマスクをつけて、どんどん砕いていく。けれども「さすがに3日もやると自分から「粘土やりたい」っていわはる。そういう時に粘土をわたすと、(集中して)いいものができる」と徳岡さんは教えてくれた。このような方法は、誰にでも同じように効果があるわけではない。職員は常に寮生それぞれの性格や健康状態などに注意をはらいながら、その人に応じたモチベーションの維持を助けようとしているのである。
 
また、ここでは、通常の粘土以外に赤い粘土も使っており、寮生の気分がのっていないと感じた時には、粘土の色を変えることで気分転換をはかることもある。

(3)「寮生の内発的な創作」

 寮生たちは常に職員に促されて創作を行っているわけではない。

充実してつくる
 全くコンスタントにコツコツと作品をつくって行く人もいる。大川さんは自分の前に1枚板を置いてもらうだけで、高さ10〜15p位の小品を作っては、1列目の左から右へとできたものから並べていく。4〜5分で1つ作る。同じ形のものを7つ程作ったところで、デザインがかわる。この日も3つのパターンのデザインを披露してくれた。2列目になると、今度は手前に向けて置いていく。並べ方にもこだわりがあるようだ。
 
大川さんが井山さんを呼び止めて、「これ」と自分の作品を指差す。
 井山さん、ちょっと立ち止まって「ん、いいねー」と応える。
 
大川さんはふっと微笑んでまた続ける。創るペースが落ちることはなく、充実した面持ちで淡々と創っていく。こんな時は、職員は声がかかるまでこちらからは動かない。大川さんの作品は、細長い角のようなものが立っているデザインの高さ15pくらいの小さな作品が多い。これらは焼成すると、熱でまっすぐであったものが歪んだりして、また別の味を生み出す。職員は「素焼き」(18)と「焼きしめ」(19)の両方の焼成法を試みて彼の作品を仕上げている。

打ち込むようにつくる
 
焼成のときに小田さんのナマ(20)の作品を運んだが、制作過程を見ると、なる程重いはずである。分厚いひもというより、12〜13pの長い餅のような固まりを、どんどん螺旋状に、時には1.5m程も積んでいくのだから。まるで蟻塚を思わせるような作品だ。上に向かうにつれてだんだん口が細くなっていくスタイルはここ10年程変わらない。彼女はこのやきもの科の中でも、とにかく粘土をやっていたい気持ちの強い人である。年齢が上がるにつれて、家庭の事情や、自身の体調の変化からか、心の動揺が隠せない日もあるが、「粘土する」気力だけは衰えない。どんどん積んでいく。ほぼ一日で1mほど積み上げてしまい、さらに次に取りかかることもある。集中していると「掃除しよー」と声をかけても、全然終わらない。ここでは、寮生たちの体力維持のために散歩が日課として設けられているが、小田さんは、最近この散歩が嫌でしょうがない。「粘土したい」とアピールする。とにかく、現在の彼女は粘土をすることが、一番大切なことのようだ。けれども井山さんは、そんな彼女に「歩かないとだんだん歩けなくなるよ。元気でないと粘土もできなくなるしね」と何度も諭すように言う。一時は納得したようでも、また次の日は嫌になるようだ。

(4)「総合的な関わり」

みんなに声かけ
 
川上さんの作品を徳岡さんが触っていると「見てー」「徳岡さーん」と自分のも見てほしいと次々声がかかる。
小田さんのなんか直しようがないからパンパンって格好だけ一応するんです(笑)」と徳岡さん。自分もきちんと見てもらえていることを確認することは、寮生たちにとって大切なことのようだ。
 
作品らしきものにならない人もいる。そういう人にこそ、なお声かけは大切である。
 「これなに?」と徳岡さん。「ケーキ」と、この日参加していた原田さんが応える。「ケーキかぁ、じゃあもっとおいしそうに飾ろかー」と徳岡さんが促すと、「もっと飾った方がいい?」と原田さんはさらに続ける。

毎日やる
 
川上さんは毎日やっていないと、手が落ちる。今の施設が建て替え工事の時に仮住まいをしなければならず、その間2〜3ヵ月ほど粘土を触ることができないことがあった。粘土を再開した時、手が覚えた勘が、すぐに戻らなかったそうだ。だから人によっては毎日やることが大事だと職員は考えている。

待つということ
 粘土では、できなかったことが出来たり、何か形になったり、という変化は5年、10年待ってやっと起こる。「待つ」ことも大きな関わりの一つである。10年待ったのに、最後の5分で、口を出して失敗したこともあるという。井山さんは「それは結局待てなかったっていうことなんですよね。受け身で待っていた。精神のどん欲さや好奇心を失わず、一方で寮生の表現をじっと見続ける。それができて最後の5分間が待てるのに、瞬間的な反射って正直だと思う」と振り返る。「いいものができた」と感じると、うれしくなってしまったり、もっと作ってほしいと欲がでたりしてしまう。口数の少ない寮生たちを、まるで自分が映る鏡のように感じることがあるという。

第3節 焼成 職員の出番

 焼成は、粘土を固めて「やきもの」とするのに不可欠な工程である。寮生だけでは到底できない大きな作業であり、職員のちからが発揮される場面である。小さな作品はたいてい施設に設置されている、電気窯で焼かれるが、50p以上もの大きな作品や、焼き味を工夫するものなどは、薪窯で焼く。やきもの科発足当初は、電気窯で釉薬をかけて焼いていたこともあるが、手型や指紋が消え、微妙な寮生の持ち味が失われるので最近では使用していない。現在は電気窯で「素焼き」にするか、窯を借りて「焼きしめ」にしている。窯を借りられなかったころは、「野焼き(21)」を行っていた。
 今回は9月2日〜6日の5日間の日程で焼成が行われた。

 第1日:窯づめ

 第2日、3日:2日間で約15時間のあぶり(22)、同時に薪切り、薪の積み上げ

 第4日:朝方4時頃から本焼き開始

 第5日:夕方6時頃まで本焼き

焼成作業の様子(参加者名は敬称略)

[1日目 午後:窯づめ 寮生:川上、小田、正木、清水、松野、藤田、渡辺

 井山さんは窯の前に腕組みの状態で立っている。これからどのように作品を窯の中に配置するかは、職員にとって楽しみでもあり、ひじょうに悩むところでもある。位置を決める時、焼き上がりをイメージしているのか尋ねると、「そう(してる)、火の回りかたとかを考えてね」と火の回りかたを予測し、灰のつきかたをイメージして、なるだけ多く焼けるように配置を考える。あまり焼けてほしくないもの、灰を多くかぶってほしくないもの等は下のほうに置くというふうに工夫する。
 
この間寮生たちにできることはないので、皆木陰で座っているが、日中は気温35℃とひじょうに暑い。どの寮生もちょっと疲れぎみで、口数も少ない。配置は井山さんが決める。方針が決まると作品を抱き上げ、徳岡さんが作品の底に童仙房(底がくっつかないように予防するための別の粘土)を奇数個つける。窯の中に作品を配置し終わったら、入り口を煉瓦で塞いでいく。
 
川上さんが「あたしのも、入ってるわ」と、煉瓦を運ぶ私に、わざわざ声をかける。
 自分から「焼いてほしい」という人はいるのだろうか。徳岡さんは、「いますよ、窯づめするときに「私のは、私のは」って。そういう人は、窯出しした時自分のが出てくるとうれしそうにしますね」と答えた。
 
自分が作り上げた作品の最終的な仕上がり具合(焼き上がり)について、好みを主張する人はいないが、どう扱われているかについてはよく見ている。

[2日目 寮生:午前:川上、小田、正木、清水、松野、中村。午後から渡辺、藤田、中野

 午前中から薪積みを行い、午後からあぶりも並行して行う。あぶりの温度は300℃位で開始。2日間で約15時間行う。まだ、薪の切り出しが必要なので、職員と体力のある寮生とで切り出しに向かう。私は、残りの寮生たちと残って、あぶりの火の番をする。この日も気温35℃と暑い。残りの寮生たちは皆、木陰に腰掛けている。
 
渡辺さんは、自分の作品が窯に入っているせいか「焼ける、焼けるわ」とうれしそうに話しかけてくれる。彼は、腕力のない他の寮生たちの中では体力に恵まれているほうで、焼成の時には、特に頼もしいメンバーだ。彼は全く作業の手を抜かない。
 
トラックが薪を積んで戻ってきた。
 
「みんなで、薪をおろすよー」という井山さんのかけ声で、皆がゆっくりと腰を上げる。薪運びができるのは2人の職員と比較的体力のある5人の寮生である。トラックの荷台から、取りあえずドサッと下ろされた薪を、皆で窯の横にあいたスペースまで運んでいく。それぞれ、手に持てるのは、せいぜい1本か2本の薪だが、どんなに効率が悪くても職員の側で全部やってしまうことはしない。「はいよー」「あいよー」と藤田さんはかけ声も元気だ。彼女のように全く手を抜かず、楽しんでやっている人がいるかと思えば、中には他の人が3回運んでいる間にちゃっかり2回は休んでいる人もいる。皆が運んだ薪を職員が受け取って、大小分別して井桁に積み上げていく。松野さんは最高齢(62才)だが、この日は元気で、周辺の木屑をひろっては、ゴソゴソと独自に窯のそばまで持っていく。作業の役にたっているとは言いがたいが、そんなことおかまいなしの風情が職員たちの笑いを誘う。皆とは違う流れの中で、この窯の場所に馴染んでいる。
 
暑さで、だんだんこちらもばててくる。差し入れのアイスクリームを食べて休憩した。食べ終わって、また「さあ、もうひと頑張りしよー」という井山さんの声に、小田さんは首を横にふっていたが、「小田さんの焼いてるんでしょ」(徳岡)、「なんか、変だなあー」(井山)といわれ、しぶしぶ2回目の薪の切り出しに行く。私と中野さん中村さんが火の番に残った。

[3日目 気温35℃、暑い 寮生:川上、小田、正木、清水、松野、中村、大川、渡辺、藤田

 薪切りや薪積みの作業を、窯入れまでに済ませておけると、かなり作業は楽だが、人手が足りず、どうしても同時進行でやることになる。この日も午前中は薪運びを行う。知り合いのつてで、もらえる薪があるので、トラックで井山さんがもらいに行く。残りのメンバーは火の番に残る。気温が高いのと火を焚いているのとで、暑さは倍増する。寮生たちも口数が少ない。井山さんが戻ったので、まずテント張りを行う。日よけのためと、ふいの雨で薪がぬれることを防ぐためである。渡辺さんと2人の職員と実習生と私の5人で張る。その後、童仙房土で窯の入り口の煉瓦の隙間を目貼りしていく。

[4日目 寮生:川上、小田、正木、清水、松野、中村、渡辺、藤田

 明日の明け方から本焼きに入る。あぶりぐらいだと危なくはないが、本焼きは火力が強いので、寮生たちは、いよいよ見ているだけになる。徳岡さんは、「粘土だけが「やきもの」じゃなくて、薪を切ったり焼いたりも同じ仕事だということです」という。
 
出来ないことも多いが、参加意識を持ってもらうことを大切にしている。
 夜は、寮生の参加はないが、夜中の火の番はやきもの科の担当二人だけでは対応できない。施設内で呼び掛けて同僚たちに応援を頼んだり、個人的な友人によるボランティアでなんとか対応している。人手がかかり過ぎるため、窯での焼成は年に2〜3度に留まっている。

[5日目 午前2時〜午前4時半頃]

 私も窯の火の番を引き受けた。窯の温度を1200℃を目指してあげていく。1250℃くらいになったら、あと6時間程焼く。
 
温度計を見ていて、針が上がり切ったところから、ちょっと元へ戻った時を見計らって薪を足す。煙突から出る火を見ていればそのタイミングが分かるそうだが、私には難しい。こうして、何度も繰返して徐々に温度を上げていく。
 「窯にも性格がありますしね。無理に上げようとしても上がらない。ここの窯は、どっちかっていうと素焼き向きなんです」と井山さんは言う。素焼きの場合はナマから作品を入れるので、急激に高温にする必要がない。だから、簡単に温度が上がらないのだ。
 
「窯も呼吸してるんです。生きてるんです。まー、人と一緒ですね」と井山さんは続ける。何ごとも、自分のペースでは進まないやきものを、寮生たちとの関わりに重ねているように聞こえる。
 作品の印象は焼成でずいぶん変わる。同じように粘土をおこなう近隣の施設の中には、黒陶で作品を仕上げているところもある。薪でも、焼き過ぎると崩れたり、光ってしまって感じが変わることもある。井山さんは「焼き方がまずくて、作品を損ねているのではないかという恐れが常にある」と言う。粘土は、仕上がって黒光りしている、まだ水気が残っている時が一番美しいそうだ。しかし、反面、いい作品は乾いてしまっても、良さが変わらないという。いずれにしても、共同作業的な部分ではあるものの、何かを付与するのではなく、作品の良さをどうそのまま出せるか、という点に悩んでいる。
 この日、午後6時頃まで焚いて、窯に蓋をして、窯焚きを終了。

[5日後 午前 窯だし]

 ひとつずつ入り口の煉瓦をはずす。井山さんは緊張ぎみの様子。徳岡さんが「見においでよ、窯があいたよー」と寮生たちに声をかける。見にくるのは川上さん小田さんである。小田さんは積極的に作品を運び出すのを手伝っている。作品は窯のなかで置かれた場所によって、灰のかかり具合や色の濃さ、光り方が大きく違っている。全ての作品を窯から出して並べて、ひとつひとつチェックしていく。作品のあがりを見ながら、火の回りかたや、温度のあげかたについて話し合う。
 
小田さんの作品が5本中3本割れていた。土と窯との相性もあるが、今回は「冷めぎれ」(23)だろうということだった。
 
焼成は日常の粘土の「ケ」に対して「ハレ」の作業と言える。
 
職員たちは、寮生たちが、まずその場に参加しているという意識を持てるように労力を割いている。ほとんど見ているだけの人もいるが、仕事のできる人もできない人も、いつもとは別の場所で、皆で一緒に作業をしているということを感じてもらうことを職員たちは第一に考えているようだ。
 
暑い時期の作業で寮生も職員も大変であった。

第4節 職員の「関わり観」

 作業の流れを一覧してみると、作品が生まれる過程の職員の力は、やはり大きいことがわかる。この施設に限らず、創作の現場に関わる人たちは、自分たちが制作にどのように関わっているかについて積極的には語らない。その点について「作品が生まれるのには、職員のひとの力は大きいと思うのですが・・」と尋ねてみた。「いやぁ、そんなことは考えたことないです。粘土の捏ね方も寮生から習って、ほんと全然わからなくて・・」と徳岡さんは、10年前に施設に就職して、初めて粘土に関わったころのことを振り返りながら、次のような関わり観を語った。

 「知り合いの陶芸家の人が、職員には教えるけど、寮生には教えないっておっしゃったんです。寮生には寮生の持ち味があって、自分が教えることによってその持ち味をこわすかもしれないし、絶対教えないって。でも職員には寮生をサポートするために知っておいた方がいいから教えてあげることはできるよって」「でも、そうすることで、今までと違う接し方になったら、(寮生の)作品が変わるんじゃないかって。そう思ったら、ほんとにそれでいいのかなと思う部分があって。いや、もう自分ではしないでおこうって決めたんですよ。何もわからないまま皆といるほうが、皆の作品や作風が壊れずにいて・・。私は今のままのほうがいいかなと思ってます。」

 積極的に学ばないという選択をしているのである。こういう彼女は、今も自分の粘土作品はつくっていない。
 井山さんは「職員は黒子でいるべき」だと言う。そして、その理由について次のように語っている

 「アートとなると職員がクローズアップされる。どうしても、自分が指導したものっていう感じになってしまう。作っているのも本人だし、出来上がったものも本人のだし・・。「あの人が指導したから・・」じゃなくて、僕らは作りやすい環境を用意するしかない。」(岸中の質問:「職員がクローズアップされるのはよくないですか」に対して)「誰が主体なのか。主体は表現する本人だという原点が忘れられがちになりますよね。人間って弱いでしょう。見栄もはたらくし・・。無意識のうちに本末転倒してしまう。そうなるのが恐いですね。」

第5節 寮生本人の自分の作品への気持ち

 作者である寮生たちは、焼成の仕上がり具合には意見をいわないが、自分の作品を窯に入れてもらっているかどうかについては関心を示す。また施設内の文化祭の展示では、訪れる多くの人たちに、自分の作品の前まで誇らしげに案内したり、仲間の作品を紹介したりしている。作品が売れたときには嬉しそうである。自分の作品がどのように仕上がるか、どこにどのように展示されるか、いくらで売れるかについては頓着がない。けれども、窯にいれてもらえること、展示されること、それを見に来てくれるひとがいること、ほめてくれること、そして売れることは、自分の作品が関心を持たれている、大切にされているという意味でけっして無関心ではいられないようである。この点に関しては、いずれ他の機会に詳述したい。

第6節 この調査で明らかにしたこと

 この調査の目的は、創作のプロセスにおいて、寮生たちと担当職員との間にどのような関わりがあるのかについて観察し、そこにどのような「共同性」が見出せるかを知ろうとするものであった。以下にその点について述べる。
 
まず、「自由創作」の場面に見られる「制作補助」についてどういう意味があるのかを考えたい。結論をいえば、それらの細々とした補助を、その作品を作るための積極的介入とみるべきではない。この行為は、寮生のモチベーションの継続を促す行為として受け止められるべきものである。例えば、川上さんは年に何度か、ものすごい集中力を発揮して、全く修正されることなく一気に粘土を積み上げてしまうことがある。そんなとき、職員は「すごい、川上さんらしさの出たいい作品ができた」と感じると言う。このことからも、日頃の補助は、目の前のものを仕上げることよりも、もっとさきにある、<寮生の持ち味>の出る作品が生まれてくるための、モチベーションの確保とみるほうがよい。「創作への促し」と併せて捉えられるべきものである。介入や誘導と見ることは、寮生自身が持っている、粘土をやりたいという気持ちを見えなくしてしまう。
 
次に粘土の創作は、必然的に焼成を伴い、一見して共同作業だとわかる面があるが、その点だけをとらえて「共同性」があるというのは早すぎる。職員たちは非常に大きな作業をしているにも関わらず、作品は「あの人たちのものだ」と感じているからである。それは底を手直しする徳岡さんの「最初は私がやっていたんですけど、やっぱりちがうかなと思った」という言葉にもあらわれている。それは、ここで何を作るかについて、職員は全く指示を出さないし、何をどのように作るかは、寮生にゆだねられているからである。そして寮生の小さな創作への兆しを見のがさないために、職員は積極的に「待つ」ことが求められてくるのである。
 
ここにみられる関わりは、職員が、一方的に援助したり、リーダーシップを発揮するようなものではない。職員たちは、寮生を「自分を映し出す鏡」であると自戒したり、極力影響をあたえないように、自らは積極的に技術を「学ばない」選択をしたりして、日々、自分たちの「力」に謙虚であろうとする。
 
一方「焼成」においては、寮生よりも職員のほうが生き生きしていた。彼らにはちょっとした高揚感があった。 焼成作業は「やきもの」のいのちとも言える。それは、作品を壊してしまうかもしれないという怖れと、それが生まれてくる瞬間に立ち会うことの期待と心地よい緊張の作業である。作品は寮生たちのものであっても、それに対する愛着が職員たちにはある。関わる人たちのこのようなわくわくする気持ちや、楽しむ気持ちがなければ、寮生たちのいきいきした創作は生まれてはこないだろう。手間のかかる薪窯をわざわざ借りて、焼成を行う。薪を調達し、トラックで窯場まで運ぶ。灰のかぶり方や焼き上がりを予測しながら、窯のなかに作品を配置する。夜通し火の番をし、温度の管理を行う。それでも「冷めぎれ」などのため、作品が割れてしまうことも珍しくない。ここでの寮生たちの仕事は、薪を積んだり、窯用の煉瓦を運んだりと力仕事が主になるが、それも体力のあるひとに限られる。職員は、「自由創作」と「焼成作業」の分業は行なわず、寮生たちと場を共有することを大切にしているが、焼成作業に関しては職員主導で進められ、寮生たちの活動は受け身にならざるを得ない。
 
このように、やきものの創作過程では、「自由創作」と「焼成」の二つの場面で、寮生と職員の力のバランスは大きく変わる。いいかえれば、「自由創作」で粘土に込められた寮生たちの持ち味を、「焼成」によってもう一度引き出すことで、作品は立ち上がってくるのである。どちらも作品にとっては欠くことのできないものである。しかし、職員たちは時には「黒子」という表現を用いて、自分たちの関わりを積極的には語らない。なぜなら、自分たちは援助者であり、主役は寮生たちだという役割意識とも言える気持ちがはっきりとあるからである。そして、私たちが「作品」と呼ぶ寮生の創作も、職員たちは「作品だとは思っていない」という。芸術を志向して作ったものではないからだ。どの作品もそのひとの思いの発露であり、それぞれそのひとらしいので「選べといわれても、選べない」と徳岡さんは言っている。けれども、その作品が評価されることは職員にとっても嬉しいことである。「アートとして」だからではなく、作品として素直にいいと思ってもらえること、寮生を個人として認めてもらえることがうれしいのである。指導によって作られたとか、手伝ってもらってできたと思われることは心外なのであり、おそらくは、そう思われることによって作品の魅力や個人への評価が軽減されることを恐れるのである。
 
このように、職員は創作のプロセスをけっして共同作業とは表現しない。しかし、そこには「表現する」という寮生の行為に対して、彼らのモチベーションの継続を助け、創作への促しを技術・メンタルの両面からサポートし、創作に関わる者に自問自答を引き起こし、それによって相手への関わりに変容をもたらし、さらに自らもそのプロセスを楽しむことができ、その結果いきいきとした「表現」が生まれてくるような「共同性」が見出されるのである。それは、援助者から被援助者への一方的な指示や、作業の単純な分業ではない、相互関係性(24)とも言えるものなのである。そして、そこから生まれたものを私たちは「作品」と名付けているのである。

第三章 「障害者アート」における「共同性」

 「作品」の評価について、美術関係者のなかには、アートと福祉とを関連づけて語ることに強い警戒感がある(25)。また私たちも、福祉の現場で起きている事や、障害者と援助者との関係は、福祉の範疇のことと考えがちである。しかし、今回の調査に見られる障害者の創作のプロセスにおける「共同性」は、作品の重要な部分をなすものであった。「作品」というものについて、それを制作者個人の内面の発露であるとする作品観はいまだ根強いが、本稿で見たように「作品」は、他者との共同性のなかに現れてくる総体としてもまた捉えることができるのである。
 表現への強い衝動をまわりの人々がサポートすることによって「共同性」が生まれる事例を、この他にも紹介しておきたい。
  自閉症特有のこだわりの行動も、それを一つの表現と捉える人たちを通して「アート」として世の中にでていくことがある。映画『まひるのほし』で紹介された西尾繁さんは、作業所のボランティアの女性に宛てて、膨大な量の手紙を書き続けた。「8時54分に電話を下さい」というその手紙に応えて、その女性は電話を入れ続けた。そして1年後彼のその手紙は、ギャラリーに一堂に展示された。ともすれば問題行動とされかねない行為が、私たちには彼が生きている証となって迫ってくるのである。また、映画『花子』(26)にもなった今村花子さんは、毎日食べ物を畳の上に並べていたが、それを彼女の母が、「花子の表現だ」と思い写真に撮った。これは「残飯アート」(27)として展覧会で紹介され、花子さんの「並べる」行為への執着が、観るものに「表現する」とは何かを考えさせる。西尾さんの場合は彼が通う作業所の所長がギャラリー展示を促したのであった。今村さんの場合も、彼女の母の視線がアートへの起点となっている。
 
展示された西尾さんの手紙は、西尾さんだけの「作品」だろうか。今村さんの行為と、それを撮影した母とでは、どちらが作者といえるだろうか。西尾さんと今村さんのそれぞれの強烈な表現への衝動が一連のプロセスの発端ではあるが、その衝動が他者の行為を経由することによって意味が立ち現れてきたのであり、ここに見られるのは、やはり共同性である。アートが「アート」として現れる過程には、もともとこのような関係性が内包されているのではないだろうか。
 また、より積極的に、制作プロセスにおける他者との共同性を重視し、それを開示するアーティストもいる。
 作曲家の野村誠は「しょうぎ作曲」という共同作業的作曲法を発明し、老人ホームや、小学校、自治体主催のワークショップなどで、プロではない、複数の人たちとの間で作曲を行う。「しょうぎ作曲」とは、順番を設定し、自分の番がきたら、その場面にどういうパートを作るかを決めてもらうという方法をいう。反応速度の遅い人たち(音楽の専門家でない人、お年寄り、子どもなど)との共同制作の際に「やられた!」と感じる体験を彼は面白いと感じている。それはさらに発展して、オーケストラで演奏する「しょうぎ交響曲」を生み出すに至っている(28)。
 
川俣正は、長期間にわたって多くの人たちと一緒になって、公共の場に、土木建築的なものを打ち建てるというプロジェクトを続ける美術家である。制作プロセスに起きる様々なことは、「その場とその時間に携わった人たちにしかわからない、かけがえのない成立絶対条件」と捉えられ、その「制作プロセスを作品と呼ぶこと」や「プロセスを結果的に出来上がるもの以上に重要視する方向で作品を作ること」が模索されていく。このことは「作品」という概念の捉え直しをも要請するのである(29)。すなわち、そのプロセス自体をアートとみることができるのである。
 作品が生み出され、それが「アート」として社会で認められていくプロセスは、本来、多様な関係性に基づく営みである。孤立無援な存在として作者やアートの作品が在るのではない。野村や川俣が行おうとしていることは、個的なアート観ではなく、関係性を重視したアート観を取り戻そうとする作業だともいえる。障害者の創作過程に見られる「共同性」は、すでにこのことに気づかせてくれるものであった。調査で見出された「共同性」は福祉の現場で起こっていることではあるが、けっして福祉の範疇のこととして切り離せる事柄ではないのである。もし、共同性をありのままに開示していくことが、マイナスだと感じられているのなら、なぜそう感じられるのか、むしろそのことに議論が向けられるべきだろう。
 視覚障害をもつ画家光島貴之は、ある展覧会でひとつの問題を提起している。この時光島は、自らの作品展示を数年来のアート・コーディネーターとの共同作業で行ったことを図録に明記するよう求めたのである(30)。つまり、自らの活動に生じる共同性を認め、それを明らかにすることは、決して作品の評価を下げるものではないと意志表明したのである。同時にこれは、障害者の作品ということで過剰に謳歌されがちなことへの警鐘とも言え、作家としての自負が伺える。私たちは、彼のこのような問いにどのように応えるべきなのだろうか。
 あけぼの寮における創作過程の調査において、そこに見られる寮生と職員との「共同性」は、寮生のモチベーションを維持するための職員による技術的なサポートや、メンタルな面における創作への促し、さらには、やきものが作品として現れるために不可欠な焼成作業に至るまでのきめ細かな深い関わりであった。そのどれもが、川俣の言葉を借りれば「かけがえのない成立絶対条件」である。そしてそれは、けっして職員たちの一方的な指示や指導によるものではなく、職員自身にも常に自分を振り返らせるような、相互的な営みであった。
 本稿で私は、「障害者アート」という言葉を使用してきた。しかしそれは、知的障害や精神障害、身体障害を持つ人たちに対して、医学的な見解にしたがって彼らの創作活動を説明しようとするものではない。むしろ「障害者アート」は、表現することを契機とした、障害を持つ人と彼らに関わる人たちとの相互関係的な共同性の発露であると考える。そこに見られる関係は、予測された何かを成立させるためのものではない。出来上がった作品のみで評価を行うことは、相互関係性によって生まれる作品の魅力や、関係性そのものが持つダイナミズムを見落とすことになるのではないだろうか。本稿で示したような創作過程の「共同性」に目をむけることは、従来の「個人」に帰着するような「アート」や「作品」の捉え方に再考を促し、いままで美術の埒外とされてきた障害者の創作について、議論を活発化させるためのひとつの視点になるはずである。

謝辞

 本稿は、あけぼの寮の皆様の御理解と御協力がなければ、成り立たないものでした。調査を御快諾頂き、多くの御教示、御助言を賜りましたことを深く感謝しております。また、調査についてアドバイスを頂戴しました大阪府立大学の工藤宏司先生、民族芸術について御教示頂きました福田珠己先生に御礼申し上げます。そして、常に辛抱強く御指導していただき、さらに現代文明学研究に発表することをお勧めくださいました同大学の森岡正博先生に、心から感謝しております。皆様、本当にありがとうございました。

 

(1)1990年代以前にも障害者の創作が紹介される機会はあったが、転機となったのは1993年の「パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダー・アート」展と、それと同時開催された「パラレル・ヴィジョン 日本のアウトサイダー・アート」展(世田谷美術館)だろう。これを契機に「アウトサイダー・アート」という言葉も広く知られるようになる。1997年には「アール・ブリュット(生の芸術)」展が開催されたほか、兵庫県(’98)や福岡市(’98)などの公立の美術館でも障害者アートの展覧会が行われた。1995年には福祉の現場からも芸術活動がおこり(註4)展覧会が活発化している。

(2)精神障害者や幻視者の創作に魅せられた画家、ジャン・デユビュッフェが「芸術文化に感染していない人」の意味を込めて命名した「アール・ブリュット(生の芸術)」に対して、1972年ロジャー・カーディナルが英訳語として創案した語。その中には、精神障害者、幻視家、霊媒や囚人などが含まれ、障害者のアートのみを現すものではない。正規の美術教育を受けていないアーティストの仕事で、アートの歴史的分類を無視するような作品を作るような訓練されていない「衝動」の存在を、カーディナルはアウトサイダー・アーティストの基準としている。『アウトサイダー・アート』求龍堂2000年、服部正『アウトサイダー・アート』光文社新書2003年、 Vera L. Zolberg and Joni M. Cherbo, (eds.) Outsider Art. 1997, Cambridge University Press等参照。

(3)柴田勝則は「自分の意志に関わらず、たまたま身体、知的、精神に障害があるとされた人々によって創造されたアート」と定義している。「揺らいでいる、でも見えている」『流動する美術X障害者アートの一側面を考える/兆し、徴し、癒し?の造形』福岡市美術館,1998年p.3

(4)1995年に奈良県にある福祉施設「たんぽぽの家」の理事長、播磨靖夫が「障害を持った人たちの芸術を新しい視座で見直そう」と提唱した「可能性の芸術運動」。企業のメセナ活動とも積極的に連携して、「魂の対話エイブル・アート’97東京展」をはじめとし、展覧会、ワークショップ、シンポジウムなどを展開している。「作品中心のアート」だけでなく、「存在と生活のアート」を開拓しようと試みている。播磨靖夫「新しい知と新しい美のムーブメント」『SRIC ARTS FORUM』no.16Spring 2002UFJ総合研究所 芸術・文化政策室発行2002年 pp.2-5他参照

(5)高橋直裕「これからのエイブル・アート・ムーブメント」『トヨタ・エイブル・アート・フォーラムから考える エイブル・アート・ムーブメントのこれまで・これから』トヨタ自動車(株)、エイブル・アート・ジャパン2002年 pp.43-45

(6)@播磨靖夫「「魂の芸術家」たちとアートと生命をおりなす新しい運動」『ABLEART  魂の芸術家たちの現在』(財)たんぽぽの家 1996年p.4、A服部正「他者のまなざしから内側へー「アウトサイダー・アート」の昨今」『アート・ナウ'98ほとばしる表現力『アウトサイダー・アート』の断面』兵庫県立近代美術館 1998年p.7

(7)朝日新聞 2003年8月23日 「KALEIDSCOPE 6人の個性と表現展」(世田谷美術館)展評

(8)佐藤真監督作品 映画パンフレット 1998年

(9)服部正「エイブルがアートであるために」(前掲5) pp.46-51

(10)はたよしこ「エイブル・アートの現在を考える」(前掲5)p.50

(11)服部正(前掲5)

(12)高橋直裕「現代社会におけるABLE ARTの意味」(前掲6)pp.48-49

(13)真室佳武「エイブル・アートと美術館」(前掲4)pp.11-15

(14)柴田勝則「揺らいでいる、でも見えている」『流動する美術X障害者アートの一側面を考える/兆し、徴し、癒し?の造形』福岡市美術館1998年 p.7

(15)(前掲6-A) p.49

(16)野寺夕子『ころぼっくるの手 やまなみ工房の土と人』(財)たんぽぽの家1998年 p.76

(17)安彦講平『癒しとしての自己実現』エイブル・アート・ジャパン 2001年 pp.34-37

(18)成形し、乾燥させた素地から、さらに水分を除き、強度を与えるために700〜800度で焼く。

(19)作品の素地に釉薬を掛けないで、堅く焼き上げること。備前、越前、信楽など。

(20)作られたあと、まだ素焼きもしていない、乾燥だけした状態のものをいう。

(21)平地や窪みに薪や藁を積み上げ、その上に、粘土で成形したものを置いて燃やし、その上に更に薪を積んで焼成する原始的な焼成法。

(22)あぶり焚きという。焼成のはじめに、400〜500度までゆっくり温度を上げていくこと。水分を飛ばすことが目的。

(23)焼成後、窯出しまでの間に、窯の温度の下がり方が影響して作品の表面に亀裂が入ることを言う。

(24)美術家の川俣正は、自らの共同作業的な創作プロセスにおいて、インターラクション(相互関係性)を成立させるためには、限りなくヒエラルキーを持たないようにその場を仕向けて行くことが大切だと考える。 川俣正「「保証なきマイノリティ」とセルフ・エデユケーション」川俣正、ニコラス・ペーリー、熊倉敬聡編『セルフ・エデュケーションの時代』フィルムアート社2001年pp.70-81

(25)註(9)、註(10)

(26)佐藤真監督作品 2001年

(27) @森村泰昌「写真をめぐる私的なエピソード」『手探りのキッス・日本の現代写真』東京都写真美術館企画/監修 淡交社2001年 p.14、また、Aはたよしこ「エイブル・アートの現在を考える」、島本昭三「これまでのエイブル・アートと私」(前掲5)でも紹介されている。

(28)野村誠「しょうぎ交響曲の誕生」『diatxt.』number12 京都芸術センター2004年 pp.10-16、菊池典子「作曲家・野村誠による「お年寄りたちとの共同作曲」」『教育』3月号No.662教育研究会2001年pp.66-70

(29)川俣正『アートレス』フィルムアート社2001年p.94

(30) 柴田勝則「断章;視覚を超えて・巡りて」『流動する美術Z 視覚を超えて・巡りて 日高理恵子/光島貴之の絵画』福岡市美術館2001年 p.5