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現代文明学研究:第8号(2007):447-486
生命学とは何か
森岡正博


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序章 

1 はじめに

  私は、この論文で、「生命学」とは何かについて論じる。生命学という名前の付いた本や論文をいままでたくさん書いてきたが、生命学の方法論について正面から論じるのはこれが始めてである。この論文によって、生命学のアウトラインが明確になるだろう。
  生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら生きていくことである。これが生命学の基本的発想である。森岡はこれをさらに次のような形で掘り下げる。すなわち、生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである。このように、生命学には「基本的発想」と、各個人による個別的な「掘り下げ」がある。この二段構えについては、次節で説明することにする。生命学という言葉は、私が1988年に作り出したものだ。その後、いろいろな展開があったが、2005年に十数名の仲間たちと金沢と京都で生命学研究会を開催し、そこで生命学について様々な角度から検討を行なった。生命学の基本的発想は、そのときそこに集まった全員が了承できる最大公約数として作成したものである。それに対して、個別的な掘り下げのほうは、森岡の個人的なバイアスがかかっている。この意味で、森岡による個別的な掘り下げは、あくまでもたかだか一つの生命学の姿にしかすぎない。しかし森岡個人にとっては、これがもっとも具体的で大事なものとなる。
  ところで、森岡の生命学は、私のこれまでの思索と執筆活動によって練り上げられてきた。本論文の読者で、森岡の生命学に関する書物をまだ読んでない方がおられたら、論文末にある「補論2・森岡の生命学の軌跡」にぜひ目を通していただきたい。それを読むことによって、私がなぜいま本論文を書こうとしているのかが理解できるはずである。と同時に、本論文に登場する生命学のいくつかのキーワードが、これらの思索のなかで生まれてきたことも明らかになるであろう。生命学は、生命倫理学の限界を突破しようとする試みのなかから誕生した。生命学というタイトルを持った私の著書が、生命倫理の問題を中心に扱ってきたのはそのためである。しかし、いまや生命学は、生命倫理学の枠を飛び越えて、さらに汎用性の高いものへと変貌しようとしている。本論文では、その新しい姿を明らかにしていきたい。
  また、生命学を構想する過程で分かったのは、生命学を実践してきた人々はおそらくいままで数限りなくいただろうということである。たとえば「補論2」で述べたウーマン・リブの女性たちや、青い芝の会の障害者たちは、生命学という言葉を使ってはいないが、私が生命学と名付けたいものを、十全に生き切ろうとしていたように思われる。いや、むしろ正確には、彼らが作り上げた生の軌跡が、様々なルートを通して私にまで届いて、私に言葉をしゃべらせているというべきである。同じような営みは、未来に向けても広がっていくであろう。私の書いたものを共感的に読んだ人が、その人独自の生命学を作り上げていくにちがいない。このようなことを考えるにつけ、森岡の生命学は、この世に無数にあり得る様々な生命学の、たかだかひとつの形にしかすぎないと、私は思うようになった。森岡は森岡の生命学を追求し、AさんはAさんの生命学を追求する。そしてそのあいだで、やりとりがあり、学び合いがある。生命学とはそういう形で展開していく学なのである。

2 生命学の基本的発想

 2005年に行なわれた生命学研究会で、生命学とはそもそも何なのかについて話し合われた。そして研究会のメンバーたちがそれぞれ心に抱いていた生命学のイメージを、お互いに出し合って、時間をかけてひとつの文章にまとめあげた。これが、生命学の基本的発想である。すなわち、

◆生命学の基本的発想
生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことである。

というのがそれである。この基本的発想を源泉として、そこから様々な方角に向けて発展していくであろうすべての試みが、生命学と呼ばれるのである。この基本的発想を豊かな地盤としながら、その上に思いも付かぬようなかたちで生い茂っていく樹木たちが、生命学なのである。
  次に進む前に、ここで二つほど注意点を述べておきたい。
  まず、この生命学の基本的発想からはずれた営みは、生命学とは呼べないということである。たとえば、生命について深く考えているのだが、自分のことをまったく棚上げにして生命について考えているのだとしたら、それは生命学とは呼べない。(自分を棚上げにするとはどういうことかについては後述する)。したがって、生命学の基本的発想は、生命学の必要条件だと言える。
  第2に、上記の生命学の基本的発想の文章は、あくまで2005年の生命学研究会で合意された文章にすぎないということである。すなわち、この文章によって意味されているものが生命学の核心部分であることに間違いないのだが、その核心部分をさらによりよく表現する文章があれば、それで置き換えていってもよいということである。たとえば、2006年に開催された生命学研究会においては、メンバーたちから、「自分をけっして棚上げにすることなく」の部分を、「自分を入り口にして」「自分と向き合って」「つねに自己言及しつつ」などに変えたほうがよいのではないかという意見が出された。これはちょうど、既製服を自分の体型に合わせて微調整していくようなものである。上記の生命学の基本的発想の文章によって意味されているものの枠を踏みはずさないように注意しながら、それを自分自身にぴったりくるような仕方で表現し直していくことは大事である。したがって、「生命学とは何か」を一義的に定義するのは不可能である。それは、生命学を主体的に引き受けようとするそれぞれの人間によって、たえず再解釈され、豊かなものへと展開されなければならないのである。私のこの論文もまた、その試みのひとつである。生命学は、本質的にオープンエンドの学である。
  ここからただちに、次のことが導かれる。
  すなわち、生命学は、生命学をしようとする人の数だけある、ということである。森岡は森岡の生命学を遂行していくのであり、AさんはAさんの生命学を遂行していくのであり、BさんはBさんの生命学を遂行していくのである。そして森岡の生命学の具体的な中身と、Aさんの生命学の具体的な中身と、Bさんの生命学の具体的な中身は、それぞれ違ったものとなるのであり、また違ったものとならなければならないのである。これは非常に重要な点である。生命学の基本的発想は全員が共有しているのだが、具体的な生命学の中身については、それぞれの人たちが、自分自身の個別の生命学を掘り下げていくということになるわけだ。したがって、生命学は、「森岡の生命学」「Aさんの生命学」というふうに、固有名詞付きで深まっていくのである。
  このことは、生命学が「自分をけっして棚上げにしない」学であるという点からも導かれる。つまり、「自分を棚上げにしない」とは、いまここで生きているこの私というものを、たえず思索の対象に繰り込みながらものを考え、行動していくことである。ということは、森岡が自分を棚上げにせずに生命学をするということは、森岡がいままでどのように生きてきたのか、いまどういうふうに生きているのかということを、つねに思索の対象に繰り込みながらものを考え、行動していくことになる。すなわち、「自分を棚上げにしない」ということは、ものを考えているこの私という固有名詞を、みずからの学問の中へと組み込んでいくことなのである。ということは、森岡が行なう生命学には、森岡という固有名詞が深く組み込まれていくわけであり、Aさんが行なう生命学には、Aさんという固有名詞が深く組み込まれていくわけである。つまり、生命学をするということは、必然的に、各自の固有名詞が深く組み込まれた〈各自の生命学〉を探求することになるのである。生命学には、「自分を棚上げにしない」という絶対条件があるおかげで、生命学をしようとすると、それはかならず〈各自の生命学〉へと変容してしまうのである。
  たとえば、森岡は宗教の道は通らずに生命学を作り上げると宣言しているが、これとは逆に、宗教の道を通りながら生命学を作り上げることも可能である。これはきわめて重要な点である。生命学は、生命学の基本的発想の条件を満たすかぎりにおいて、すべての宗教を許容するのである。生命学という土俵の上に乗ることによって、諸宗教者のあいだの対話、宗教者と非宗教者のあいだの対話が成立するはずである。私はここに大きな可能性があると考えている。このことは、宗教以外にも当てはまる。生命学の基本的発想さえ共有されていれば、あとはそれぞれの人の自由な考え方や生き方にまかされるわけだから、実に様々な生命学が可能になることだろう。
  では、各自の生命学とは、いったい何であろうか。
  それは次のようなものになるはずである。

◆各自の生命学
各自の生命学とは、生命学の基本的発想と出会うことをきっかけとして、自分にとっての生命学とは何かを発見し、掘り下げ、展開していく終わりのないプロセスのことである。

 たとえば、生命学の基本的発想を読んだときに、「自分を棚上げせずに生命について深く考え表現しながら生きていくとは、自分自身にとっては具体的にどのようなことを意味するのだろう」と自問し、そのような生き方の可能性を探っていく人は、各自の生命学を開始しているのである。あるいは、生命学の基本的発想を読んだときに、「自分はそこで言われているようなことをすでに行なってきた」と思う人もいるだろう。もしそれが正しいのならば、その人がそれまで行なってきた営みが、ここで言う各自の生命学なのである。あるいは、生命学の基本的発想を読んだとき、自分自身の中にそれと同じ発想が存在していることに気づく人もいるだろう。その人の場合、各自の生命学とは、自分自身の中にあるその発想をさらに掘り下げ、具体的に展開していく営みとなるはずである。
  またあるいは、自分の仕事に、生命学の基本的発想が応用できると思う人がいるかもしれない。自分を棚上げせずに、生命について深く考え表現しながら生きていくという姿勢で、自分の仕事を展開していったらどうなるのか、自分の芸術を展開していったらどうなるのか、自分の学術を展開していったらどうなるのか。これもまた、各自の生命学のひとつの形であろう。私はこのような関わり方のことを「アプローチとしての生命学」と呼ぶことにしたい。
  ここで重要なことを述べておきたい。
  生命学をするとは、「生命学者」になることではない。生命学をするとは、生命学を職業として選択することでもないし、学問分野としての生命学を専攻することでもない。私は生命学を提唱したわけであるが、私は自分のことを「生命学者」だとは思っていない。私は自分のことを「哲学者」だと思っている。そのうえで、私は、自分の一度かぎりの人生を、生命学的に生き切りたいと願っている。そして、自分のライフワークである哲学の営みに、生命学的にアプローチしていきたいと考えている。
  生命学とは、生き方のことであり、アプローチのことである。であるから、生命学をするとは、まずは自分自身の生き方を問いなおしてみることであり、自分がしている仕事や活動に生命学の視点からアプローチすることによって、それらを再創造していくことである。
  したがって、生命学は、誰にでもできるものなのである。自分の生き方を問いなおし、自分の仕事や活動を問いなおしていくことが生命学なのだから、これはすべての人々に開かれた学なのである。この論文は、そのための方法論を解明するために書かれている。
  さて、この論文では、これから二つの作業を行なっていく。それは、

(1)「生命学の基本的発想」を、森岡の視点から、さらに掘り下げて解釈すること
(2)森岡自身にとって生命学とは何なのかを具体的に考えること(森岡版・各自の生命学)

の二つである。第1章で前者を行ない、第2章で後者を行なう。
  生命学についての一般論は、ここで終わりである。これ以降は、森岡の目から見たかぎりにおける生命学について、述べていくことにする。読者は、森岡の思索を参考にして、では自分の場合はどうなのかということを絶えずみずからに問いかけながら、読んでいってほしい。読者自身の生命学は、森岡とは異なった仕方で深められなければならないからである。
 
第1章 生命学の基本的発想

1 「自分を棚上げにしない」とはどういうことか

  この章では、生命学の基本的発想を、森岡の視点から検討する。もっと具体的で実感に富んだ話は第2章の個別篇で詳しく扱うので、そこに行く前に、まずはここで生命学の基本について考えてみてほしい。
  生命学の基本的発想は、次のものである。

生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことである。

  まずは、「自分をけっして棚上げにすることなく」という箇所である。何度も言うように、これが生命学の最大のポイントである。これがなければ、生命学と呼ぶことはできない。
  ここで言う「自分」とは、生命学をしようとしている、いまここで生きている「私」のことである。この「私」はけっして一般化できない存在である(1)。いまこの論文を書いているこの私が、ここで言うところの「自分」である。そして、自分をけっして棚上げにすることなく考えるとは、「何かについて考えるときに、それについて考えている私というものを、つねに考える対象に組み込んで考える」ということである。さらに厳密に言えば、それは、「何かについて考えるときに、私自身はそれをどう思うのか、私がそれを考えようとしているのはなぜなのか、私はそれに関していままでどのように生きてきたのか、いまどのように生きているのか、これからどのように生きていくのか、ということが、常に(明示的であれ暗黙的であれ)少なくとも自分の中で参照され続ける」ということ意味する。
  たとえば、差別について考えるとしよう。生命学的に考えるとは、差別について考えるときに、差別について考えている私というものを、つねに考える対象に組み込んで考えることである。すなわち、私自身は差別をどう思うのか、私が差別について考えようとしているのはいったいなぜなのか、私はどのような差別を受けてきたのか、あるいは私はどのような差別に加担してきたのか、私はいま差別にどのように関わっているのか、私はこれから差別ということに関してどのような生き方をしていくのか、ということが、常に(明示的であれ暗黙的であれ)少なくとも自分の中で参照され続けるような形で、考えていくということである。したがって、生命学的に考えるとは、何かについて考えることが、これからの自分の生き方にどのように反映していくのかということを、たえず意識しながら考えることである。考えることが、つねにこの私に向かってブーメランのように返ってくるという覚悟をもって考えることが生命学である。これが、自分を棚上げにしないということの意味である。生命学的に考えるときには、必ずこのような形を取らなくてはならない。
  生命学はこのようにして駆動しはじめる。社会学では、ある理論の切れ味を試すために、実際の素材を使用して「応用問題を解く」ことがある。このような素材の用い方は、生命学からはきわめて遠い。
  このように述べると、では生命学をするとは、一秒たりとも自分を棚上げにしないということなのか、という疑問が湧いてくるかもしれない。もちろん、自分をけっして棚上げにしないというのは生命学の根本原則である。それに間違いはない。しかしながら、人は一秒たりとも自分を棚上げせずに生きる、などということはできない。目の前の生命現象について深く考えているまさにそのときには、それを考えている自分自身のことは脳裏から消え去ってしまっていることだろう。またそれらの問題について、友人と語り合っているその瞬間も、自分自身のことは脳裏から消え去ってしまっているかもしれない。大事なのは、一通り考えを巡らしたあとで、かならず「ではこの自分はどうなのか?」というふうに、自分自身へと思索を戻してくることである。そして自分自身のことを探索し、点検し、ふたたび当初の思索へと戻っていくことである。自分をけっして棚上げにすることなく考えるとは、絶えず自分自身へと舞い戻ってくるような形でものを考える、ということを意味するのである。
  ここで、自分を棚上げにしないということを、別の角度から見てみよう。
  自分を棚上げにしないとは、「自分が言っていること」と、「自分がしていること」を一致させるように生きることだろうか。王陽明の説いた知行合一が、生命学の目指すところであろうか。これについても慎重に考えを進めていかなければならない。『宗教なき時代を生きるために』でも紹介した実例なのだが、環境を守ることの大切さを説いていた人物が、バス停でタバコを足元に放り投げ、靴でもみ消して排水溝に捨てたのを、私は目撃したことがある。それを見たときに、私はその人がそれまで語ってきたことを、すべて疑わざるを得なかった。この人のしたことは、まさに棚上げの典型例である。「言っていること」と「していること」が、完全に相反している。これは、生命学からはもっとも遠い生き方であると言ってよいだろう。生命学においては、自分の考えたことが、いまここからの自分の行動や生き方にフィードバックされる必要がある。自分を棚上げにしないとは、そういうことであった。
  それを確認したうえで、さらに考えてみたい。
  「言っていること」と「していること」が常に一致している人は、たしかに自分を棚上げにしてないと言える。だが、そのような人間はまれである。たいがいの人間は、「言っていること」を自分の行動や生き方に反映させようとしても、なかなかうまくいかないものである。では、自分が公言しているとおりの人生を自分が歩んでいないとき、その人は、自分を棚上げにしているということになるのだろうか。
  たとえば、「嘘を付いてはいけない」と主張する人がいたとする。しかしその人は、自分の人生のなかでどうしても嘘を付いてしまう。「嘘を付いてはいけない」という生き方を自分自身に当てはめようと試みているのだが、自分自身でどうしてもそれを裏切ってしまう。このような矛盾に直面したときに、その人はどういう態度を取るであろうか。
  第一のパターンは、開き直りである。「言っていること」と「していることが」一致する人間なんて、聖人君子だけだ。普通の人間は、「言っていること」と「していること」が食い違っても仕方ないんだ。だから、このままでいいのだ、という態度である。
  第二のパターンは、自分の主張内容を変更する態度である。「言っていること」をちゃんと行なうことができないから、その主張を、たとえば「できるかぎり嘘を付いてはならない」というふうに変更する。そうすることで首尾一貫性を保つことができる。
  第三のパターンは、「言っていること」と「していること」が食い違っているという事実を認めない、という態度である。「私は嘘を付いたことはない」と公言し、自分に対してもそのように信じ込ませようとする。
  これらの三つのパターンは、いずれも、自分を棚に上げていると言ってよい。第一の場合は、食い違ったことをしている自分の姿をどう批判的に考えるのか、という点から目をそらしている。第二の場合は、嘘を付いてはならないと最初に自分が主張したときの自分の姿から、目をそらしている。第三の場合は、自分の行なっている事実から目をそらしている。
  では、自分を棚上げにすることのない、生命学的な態度とはどのようなものなのか。それは、「言っていること」と「していること」が食い違っているのはいったいなぜなのかを、自分自身の問題として考え続け、そこからけっして目をそらすことなく、これからの自分の生き方を模索していくことである。その結果として、食い違いがなくなるかもしれないし、将来にわたって食い違いはなくならないかもしれない。後者の場合、それでもなお、そこに食い違いがあり続けているのはなぜなのかを、つねに考え続け、生き方を模索していくことが、生命学的なあり方である。そしてその終局的な結果として、どのような結論が導かれるのかは、生命学をする個々人の実際の人生によってしか明らかにされ得ない。矛盾の解決の場は、論理の中にあるのではなく、実人生の中にあるのである。
  また、自分自身の問題として考え続けるとは、自分の内面ばかりを探求するということではない。この私は、様々な規範に支配された社会の中に埋め込まれており、また自分では変えることのできにくい肉体の制約に縛られている。逆に言えば、私というものは、それら社会や肉体によって作り上げられており、生かされているとも言える。自分自身の問題として考えるとは、自分というものを、それを一方においては制約し他方においては開花させるところの、肉体、社会、制度、規範、さらには自然環境条件などとのかかわりにおいて、考え続けていくということである。
  自分をけっして棚上げにしないとは、このようなことを意味するのである。別の言い方をすれば、自分をけっして棚上げにしないとは、知行合一を目指した道徳的な生き方をする、ということと同一ではない。そうではなくて、もし道徳的に生きられないのであれば、それはいったいなぜなのかということから、けっして目をそらさずに、自分の生き方を模索し続けるということなのである。
  さらに言えば、生命学は、「言っていること」と「していること」を完全に合一させようとする倫理学者には、疑いの目を向ける。なぜなら、そのような態度は、結局のところ、現実の自分が充分に実行可能な「身の丈にあった」道徳規範を提唱するに終わりかねないからであり、それは矛盾に満ちた社会を変革していくにあたって、ほとんど力をもたないと思われるからである。かと言って、食い違いがあってもよいという開き直りも排する。生命学はその両者のあいだを縫っていくのである。
  さらに先走って指摘しておけば、「自分はこういうふうに生きたい」「社会はこういうふうであってほしい」という願いが自分の中にあったり、「人はこのように行動すべきである」「社会はこのような原理で運営されるべきである」という社会規範に共感を寄せていたりしたとしても、実は私の中にはそれを根本から裏切ってしまう「暗い情念」や「エゴイスティックな欲望」や「暴力衝動」のようなものが潜んでいて、いつ自分自身をその内側から突き崩すかもしれない、という点に、森岡の生命学は強い関心を寄せるのである。森岡の生命学は、自分の内側に潜んでいるかもしれないそれらの魔物を撃退するのではなく、そこから目をそらそうとするのでもなく、むしろ逆に迎え入れようとする。そのような魔物が潜んでいるという点において自分自身が首尾一貫していないかもしれないということを、ありのままに迎え入れ、その地盤の上に生命学を築いていくのである。首尾一貫していないかもしれないからこそ、生命学が必要となるのである。首尾一貫していないかもしれないからこそ、生命学が可能になるのである。「首尾一貫していない私」を大切にすること、しかしそこに開き直らないこと、これが生命学的な考え方であり生き方であると、私は考える。
  ここまで、自分を棚上げにしないということの意味について考えてきた。しかし、そもそもなぜ「自分を棚上げにしない」ことが、生命学の最大の原則となるのであろうか。なぜそれは重要なのだろうか。「補論2」にも書いたように、私はいままで何度も、自分のことを棚上げにしたまま倫理規範や生き方について語る人々を見てきた。最近では、少女の援助交際について評論する男性知識人たちが多くいたが、しかし彼らのほとんどは自分自身が少女に対してどのような性的欲望を持っているのか(あるいは持っていないのか)についてほとんど語らなかった。そのようなところから発せられた言葉は、性について悩んでいる人たちの心の奥深くには届かない。生と死、セクシュアリティ、欲望、暴力などについて、自分を棚上げせずに考え、発言していくことによってしか、人々の心の奥深くに届く言葉は発せられないのではないかと私は強く思ってきた。それが、「自分を棚上げにしない」ことを私が強調する理由のひとつである。
  それに加えて、さらに論理的な理由がある。生命学は、生命について深く考えていくのであるが、それを考えている人間もまた生命という形で生きている。後に述べるように、生命とは、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくという姿を取るものなのだが、そういう生命について考えようとしている私もまた、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくのである。「死」について考えるとさらにはっきりするが、「死」について考えている者もまたいずれ「死んで」いくのである。生命について考えるとは、このような、「この私」を必然的に組み込んだ循環構造について考えることなのである。であるがゆえに、生命についてきちんと考えるためには、必然的に、生命という様式で生きている個別的なこの私についても、正面から考えなくてはならないのである。生命について考えるとは、生命について考えているこの私について考えることでもある。これが、「自分を棚上げにしない」で考えるということの意味である。生命学をすることは、必然的に、「自分を棚上げにしない」やり方で生命について考え、生きていくことになるのである。生命を考えるとは、この「循環構造」に自覚的にコミットしながら考え、生きていくことである。いままで、生きるということを真摯に考えてきた多くの人々が、このようなタイプの思索を行なってきた。生命学とは、それらの思索と生き方を、ひとつの自覚的な「方法論」へと結晶させる営みである。方法論を獲得することで、私たちはさらに先に向かって進めるのである。
  ところで、あるテーマになぜ関心を持ったのか、いままで自分がそれにどのようにかかわってきたのかを明確にするために、自分のこれまでの体験を言葉にして語ってみる「私語り」の手法が使える場合がある。自分のいままでの歴史を振り返り、自分がいままで何をしてきたのか、どんな人生を生きてきたのかを、まずは自分に向かって言葉にしてみることは有効である。
  その作業をひとりでするのではなくて、誰か信頼できる人に聞いてもらうというのもひとつのやり方であろう。私は、読者を念頭に置いて、本の中で自分自身のことについて書いてきた(その典型的な例は『感じない男』である(2))。自分の過去を自分に都合のよいように改変してしまう危険性に自覚的であることができ、また、自分の感情や思考というものの社会構築的な側面に敏感であることができるのならば、「私語り」の手法は大きな武器となる。
  では、生命学をするのに、「私語り」は必須なのだろうか。その答えは、「私語り」は生命学の重要な手法であるが、必須のものではないということになる。もちろん、なぜそのテーマに関心を持つのか、いままでそのテーマにどのように関わってきたのかということを、自分自身に対しては明確にしておく必要がある。ただし、それを他人に対してまで物語ることは必須ではない。その理由については「補論1・私語りについて」で述べたので参照してほしい。
  「自分を棚上げにしない」ことについて、最後に大事な注意をしておきたい。人々が集まって生命学に関する話し合いをするときに、ぜったいにやってはならないことがある。それは、誰かに向かって「あなたは自分を棚上げにしているのではないか?」と人々の面前で突きつけることである。それは、その人間を公開処刑することになる危険性があり、生命学を目指す営みを潰してしまう危険性がある。もちろん、「自分を棚上げにしないこと」は生命学の最大の原則である。しかしながら、上記の問いは、第一義的には他人に対してではなく、自分自身に対して問うてみるべき問いである。もしあなたが、他人に対して、自分を棚上げにしているのではないか自問してみてほしいと思ったときには、もっとソフトにそのことを気づかせるようなやり方で、その働きかけを行なわなくてはならない。

2 生命学とは何をすることなのか

  ふたたび、生命学の基本的発想に戻ろう。
  生命学とは、「表現しながら」生きていくことである。単に生命について深く考えて生きていくだけではなくて、自分が考えたことや、考える途中で感じたことなどを、何かの形で表現して自分以外の人々に向かって放出していくことが大事である。
  表現とは、文章を書いて発表することだけではない。自分の身体を動かして人々と交流すること、おしゃれをして歩くこと、社会運動を立ち上げること、看病をすること、芸術活動をすること、春の息吹を感じて歌を口ずさむこと、これらすべてが生命学の具体的な表現となり得る。自分を棚上げせずに生命について深く考える営みから必然的に立ち上がってくるところの、自分を取り巻くものたちへ何かを伝えたいという気持ちを、言葉や身体でもって具体的な形にしていくこと、それが生命学の表現行為なのである。
  次に、生命学とは、深く考え表現しながら、「生きていくこと」である。だが、考えることが学であるというのは分かるが、生きていくことが学であるというのは奇妙だ、という疑問が起きてくるかもしれない。しかしその疑問は、「学問は自分を棚上げにした〈客観的〉なものでなくてはならない」という近代自然科学の目で生命学を見ているから生じるのである。
  生命学においては、「生きること」それ自体が学となる。生命学とは、そのような形でしか成立しない、特殊な学なのである。そのことを順序立てて説明してみたい。
  生命学は、自分を棚上げにしない学である。であるから、生命について深く考えたすえに発見したことや、気がついたことや、提言したことなどを、ほかならぬ自分自身にまず適用してみて、それらが本当に自分自身に当てはまるのか、それらは本当に自分のケースで有効にはたらくのか、自分が提言したような生き方を自分は本当にできるのか、などを確かめることが必要となってくる。いわば、自分の人生で具体的に実証してみるわけである。そのような実証を行なうためには、私は実際に自分の人生を生きなければならない。そうやって自分の人生で検証することによって、私は自分の発見したことが正しかったということを確かめることができる。あるいは、逆に、まったく思いもよらなかったような結末を見出すことになる場合もあるだろう。自分の人生に適用することによって、新たに分かったことを、私はふたたび思索へと戻してゆく。自分の実人生を生きながら、このような往復運動を繰り返していくのが、生命学の営みなのである。
  すなわち、生命学という「学」の営みの内部には、私が自分の人生を実際に生きることが、学の一部として必然的に含まれているのである。自分の実人生を巻き込みながら、生命学は進んでいくのである。その意味で、生命学においては、「生きること」それ自体が学となると言えるのである。
  このように、生命学では、「考えること」と「生きること」が必然的に結合する。これが生命学の大きな特徴であり、オリジナリティである。また、生命学は、自分の人生を実験台とする一種の「実験学」だと言うこともできる。自然科学が実験学であるのとはまた異なった意味で、生命学は一種の実験学なのである。生命学を行なう人々が、自分の人生で実験してみて気がついたことを、お互いに報告し合って、学び合うようになる、という将来像を私は描いているが、これは人々の人生をまるごと大きな実験場とする集合的な実験学だと言うこともできる。生命学がなぜ「学」と呼ばれなくてはならないのかについては、今後書かれる予定の生命学の「学問論」において詳述することにしたい。そのときには、固有名詞を含み込んだ学が、いかに「客観性」を獲得できるかについて説明する必要がある。
  最後に、「生命について深く考え表現しながら生きていく」というときの「生命」とは何かについて、簡単に触れておきたい。「生命」とは何かについての一般的な合意は存在していない。「生命の概念については、今後書かれる予定の論文「生命の哲学」において詳しく検討するが、ここではとりあえず次の点のみ確認しておくにとどめる。私は、「生命」と「生命あるもの」を分けて考える。「生命」とは、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというあり方のことである。「生命あるもの」とは、そのようなあり方でもって存在するもののことである。ここでは、人間や、人間以外の生物個体を想定すればよい。(生物個体の集合体や生態系が生命あるものであるかどうかについては、「生命の哲学」で検討する。その際には、生態学、環境思想、オートポイエーシスなどを参照することになるだろう。また、「再生産」とは、必ずしも直接的に子どもを産み出すことだけを意味しない。子どもの再生産に直接関わらない者であっても、社会全体で見れば、次世代の育成基盤の維持と創出という点で再生産に寄与している)。
  生命の概念について重要なことは、生命あるものは、つねに他の生命あるものとの「かかわり」のなかでのみ存在し得るという点である。と同時に、この世の生には「かぎりがある」ということである。かぎりがあるということは、生は一度きりしかないということであり、その意味ですべての生命あるものは「かけがえがない」ということになる。(これらについては拙論「The Concept of Inochi」で論じた(3))。生命学とは、自分を棚上げにすることなく、それらの性質を持った「生命」や「生命あるもの」について深く考え表現しながら、生きることなのである。われわれ人間は、大自然から生み出され、大自然の恵みによって支えられている。したがって人間の生命について考えることは、必然的に、それを生み出し、支えるところの大自然について考えることでもある。
  以上で、生命学の基本的発想についての検討を終えることにする。
  では次に、生命学の具体的な営みについて考えてみたい。
  生命学の具体的な営みを網羅することはできないし、私がいま想像できるイメージは非常に限られたものでしかないが、とりあえずそれを以下の四つに分類しておきたいと思う。
  (1)私の実人生
  (2)自由な思索と表現の交流
  (3)社会への働きかけ
  (4)学術的な生命学
  まず「私の実人生」の次元で言えば、自分を棚上げせずに、生命について深く考え表現しながら、私が自分自身の実人生を生きていくことが、生命学である。生命について深く考え、表現しながら生きることによって、実人生がより味わい深いものとなり、豊かなものになる。これが生命学の成果である。逆に、そのような営みによって、実人生が苦しく耐えがたいものになるときがあるかもしれない。しかしそこをくぐり抜けることによって、新たな生き方が開けてくるかもしれない。また、深く考え、表現し、積極的に人々と交流した結果、自分自身のいままでの生き方が変わってしまうこともある。わくわくしながら変わっていくこともあるだろうし、いやいやながら変えられてしまうこともあるだろう。これもまた実人生における生命学の成果なのである。
  現代のほとんどの学問は、私が生きることそれ自体が学問になるとは考えなかった。しかし、生命学は、自分を棚上げせずに私がいまここで生きることそれ自体が学問になる、と考える。自然科学の成果が論文という形をとって結実するように、生命学の成果は私の実人生という形をとって結実するのである。これは、「自分をけっして棚上げにしない」という生命学の根本原則から必然的に導かれる結論である。また、「私の実人生」としての生命学こそが、生命学のすべての営みの基盤である。実人生における生命学の営みがないような生命学は存在しない。(「学術的な生命学」の営みのない生命学はもちろん存在する)。
  「自由な思索と表現の交流」もまた、生命学にとって大切な営みである。生命学の営みは、どうしても孤独なものになりやすい。そのような営みをお互いにささえあうために、思索を自由に交換したり、互いの表現を味わったりする場所が必要となる。思索の交流よりも、芸術的な表現やパフォーマンスの交流のほうが、より発展するかもしれない。だがここで、注意すべき点がある。いったん生命学の同志がまとまって共同体を作ってしまうと、自分たちの考え方や行動がしだいに独善的なものになってしまっても、まったくそれに気づかないということが起こり得る。私はその危険性について、オウム真理教を扱った『宗教なき時代を生きるために』で詳細に論じた(4)。独善的なカルトになるのを防ぐためにも、生命学のグループは、たえず外部の異質なものへとみずからを開いていかなければならない。もちろん信頼できる仲間同士の親密なささえあいは必要である。しかしながら、閉ざされた同質空間へと退行しないような仕組みもまた、生命学の営みにはどうしても必要なのである。
  「社会への働きかけ」も、生命学の大切な営みである。というのも、自分を棚上げせずに生命について深く考え、それを自分の実人生に生かそうとしたときに、自分の都合だけでは解決できないような大きな問題にぶつかることがあるからである。自分はこういうふうに生きたいのに、社会のなかに不条理な仕組みがあって、それが自分の生をきつく束縛してくるという場合がある。また、自分にとって大切な人々が、そのような不条理な仕組みによって苦しんでいることもある。そのような場合、自分の実人生のために、あるいは大切な人々の実人生のために、社会に向かって働きかけをしなければならないところにまで追い込まれることもある。自分を棚上げにしないことによって必然的に要請されてくるような社会への働きかけもまた、生命学の営みなのである。(自分を棚上げにしたままでの社会運動や、運動のための運動は、生命学の営みとは言えない。社会運動はそのような罠にはまりやすいので、大きな注意が必要である。)
  「学術的な生命学」も生命学のひとつの形である。自分を棚上げせずに生命について考えていると、生命の難問について、どう考えればいいのか分からなくなって悩んだり、迷ったり、混乱したりすることがある。あるいは問題の全体像を見渡したくなったり、先人たちがどのように考えてきたのかを知りたくなるときがある。問題点を整理したり、さらに深めて考えたいときがある。そのときに役立つのが学術的な生命学である。
  この論文も、「生命学とは何か」を明らかにするための、学術的な生命学の営みである。学術的な生命学は、実人生において生命学をしていこうとする人々に役立つものでなければならない。学問的な精緻化を目指すためだけの、「生命学のための生命学」は避けなければならない。また、自分の実人生で生命学の営みを行なっていない者が、単なる知的興味だけで学術的な生命学に耽溺するのは欺瞞である。哲学研究や倫理学研究においては、そのような欺瞞的なスタイルの研究は完全に許容されている。これが、生命学とそれらの学問の決定的な違いである。
  また本論文は、生命学の方法論を明らかにするものであるから、この論文をもって学術的な生命学の典型例とみなしてはならない。この論文はいわばメタ生命学(生命学の学問的基礎を探る営み)であり、抽象的な議論に終始している。森岡が議論するとどうしても哲学的・抽象的になってしまう。本論文にはそのようなバイアスが強力にかかっているということを念頭に置いて読んでほしい。通常の学術的な生命学は、本論文とは異なって、もっと具体的な素材を幅広く扱うものとなるはずだ。
  生命学の営みは、実は、人々がはるか昔から延々と行ない続けてきたことである。それらの人々が遺してきたものから学び、そしてこれから同じ道を行くであろう人々の人生へと学びの成果を受け渡していくのが生命学の営みである。これらの人々が織りなすであろう連綿たる試行錯誤の流れが、生命学の参照軸となる。学術的な生命学とは、多くの人々がすでに知っているのだがまだ言葉にすることができていない大切なことがらに、明晰な言葉を与えて、その重要性を示していくことである。学術的な生命学がなすべき仕事は、それに尽きる。
  「私の実人生」における生命学の営みが基盤となりながら、これら四つの営みがバランスの取れた発展をしていくのが理想である。
  本章では、生命学の基本的発想について考察した。ここで述べたことを前提条件としながら、そのうえで読者一人ひとりの独自の内容を持った生命学が打ち立てられていくのである。生命学は学者の専有物ではない。それは、自分を棚上げせずに生命について深く考え表現しながら生きていこうとするすべての人々に、開かれたものである。繰り返し指摘しておくが、本章で述べたことはあくまで生命学の前提条件であって、生命学の具体的な中身ではない。その中身については、各自が独自に作り上げていかなくてはならない。ここで述べた抽象的な革袋に、芳醇な酒を注ぎ込むのは、これを読んでいる各自のなすべきことである。

第2章 森岡にとっての生命学

1 悔いなく生き切るための生命学

  ここからは、各自の生命学について考察する。森岡にとっては、森岡の生命学を探求していくことが、各自の生命学の具体的な営みとなる。読者は、森岡の生命学を参考にしながらも、それとは異なった読者独自の生命学を考えていってほしい。
  森岡の生命学を一言で言えば、「悔いなく生き切るための生命学」である。「悔いなく生き切るための生命学」とは次のようなものである。

生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである。

  これは、生命学の基本的発想よりも、かなり踏み込んだ内容になっている。私がいままで考え続けてきたことを凝縮すると、このような表現となるのである。「悔いなく生き切るための生命学」は、森岡の生命学だけではなく、それ以外の人々の生命学をも含み得るが、ここでは暫定的に森岡の生命学をもってそれを代表させて論じていくことにしたい。以下、「悔いなく生き切るための生命学」という言葉を使っていくが、とくに森岡個人の営みを強調する必要があるときには、「森岡の生命学」という言葉を使って、それを「悔いなく生き切るための生命学」一般から区別したいと思う。(したがって、厳密に言えば、「悔いなく生き切るための生命学」とは、森岡の生命学をも含めたいくつかの生命学を、同じ種類のものとしてグルーピングしたときの名称であるということになる。また、他の種類の生命学、たとえば「競争せずに生きていく生命学」のようなものも構想可能であり、それは、そのように生きたいと願う複数の人々の生命学を内包することになるだろう)。
  では、上記の定義について、ひとつずつ順番に考えていきたい。
  まず、「何かの生きづらさをかかえた人」という箇所について。そもそも、私はなぜ生命について深く考えようとするのだろうか。もちろん、生命というものに強い知的関心があるというのは、理由のひとつである。人間の生命や、生物学的な現象には、不可思議なことが多く、それを解明してみたいという知的好奇心が存在するのは確かである。しかしながら、動機はそれだけではない。それよりもさらに強い動機があった。それは、この社会のなかで、私がこのような状況で生きていくことが、とてもつらかったからである。だから、私が生きていくとはどういうことなのかを、深く突き詰めて考えざるを得なかったのだ。私の生きづらさとはいったい何なのかを確かめたい、私の生きづらさがどうして生まれてきているのかを知りたい、そして私の生きづらさを解決する道を探したいという思いがあったのである。
  悔いなく生き切るための生命学は、なによりもまず、「生きづらさ」をいま抱えている人が主人公となる生命学である。だから、自分を棚上げにしないということが、とくに重要となる。真の問題は、生きづらさをかかえたこの私なのだから、自分を棚上げにしていては話が進まないのである。「生きづらさ」は、単に「つらいこと」とは異なる。お腹をすかしたまま仕事をするのは「つらい」が、ご飯を食べればそれは解消する。「生きづらさ」は、そう簡単には解消しない。それは、この社会で私がいままで生きてきたこと全体にかかわるような「つらさ」である。
  「生きづらさ」は、社会のなかのマイノリティの人々から発せられることが多い。経済的なハンディがあったり、負のレッテルを貼られたり、大多数とは異なった嗜好を生まれつきもっていたり、構造的に差別されたり搾取されたりする人々の口から、「生きづらさ」の言葉が発せられてきた。しかしそれと同時に私が思うのは、社会のなかのマジョリティと思われているような人々や、加害者側であると思われているような人々もまた、別種の「生きづらさ」をかかえている場合があるということである。それは、マイノリティとはまた異なった種類の「生きづらさ」である。だが、それもまた「生きづらさ」であることに違いはない。この社会は、マイノリティも、マジョリティも、ともに「生きづらさ」をかかえながら、マジョリティがマイノリティを支配している社会なのである。
  では私はどのような「生きづらさ」をかかえているのであろうか。それを言葉にするまでに非常に長い時間がかかった。まず私は、自分が「死すべき」存在として生きていかなければならないことに対して、大きな「生きづらさ」をかかえている。望む限り果てしなく生き続けることができたらどんなにかいいだろうと思いながら、この限りある人生を生きていかなければならない。それが私の根本的な傷である。悔いなく生き切りたいという私の強い思いも、ここから出てきている。また、私は「欲望」をかかえたまま生きていかなければならないことに対して、大きな「生きづらさ」をかかえている。ひとつの欲望を満足させたとしても、さらに次の段階の欲望に向かって駆り立てられる。どこまで行っても充足というものがない、このような生き方に大きな「生きづらさ」を感じる。かと言って、欲望を捨てきることもできない。いくら他人を搾取して、競争に勝って、社会集団の上層部に到達したとしても、その心はまったく充足してないし、幸せになったとも思えない。私の「生きづらさ」はこのような形を取る。これは私の個人的な性質に由来するだけではなく、この社会の仕組みそのものから生み出された「生きづらさ」でもあるのだと私は考えた(5)。また、私のセクシュアリティが、社会から是認されるマジョリティのものではないかもしれないという意識が、大きな「生きづらさ」を生んできた。これについては『感じない男』を見てほしい(6)。そのほかにも、いくつかの「生きづらさ」があるのかもしれないが、まだそれを言葉にするには至っていない。簡単に言葉にならないこと自体が、「生きづらさ」の大問題のひとつである。
  私はこのような「生きづらさ」をかかえて、生命学を構想しようとしている。もちろん、「私はさほど生きづらくない」と思っている人々もたくさんいるだろう。それらの人々に対しては、次の二つのことを述べておきたい。ひとつは、「生きづらさ」を前提としないような生命学は、当然、成り立ち得るということである。「生きづらさ」から出発するのではなく、他のスタートラインから出発して、自分を棚上げせずに生命について考え表現しながら生きていく生命学は構想可能だ。もうひとつは、「私はさほど生きづらくない」と思っている人も、真実はそうではないかもしれないということだ。私も若いときには、自分はこの社会でさほど生きづらくはないと漠然と思っていた。いまから振り返って分かるのは、そのとき私は、自分自身の傷を見るのが怖くて、そこから完全に目をそむけていたのである。
  次に「限りある人生」についてである。『無痛文明論』で述べたように、私の人生に終わりが来るのかどうかについて、論理的に決定することはできない。しかしながらそれとは別次元のリアリティとして、私は自分の人生に限りがあるということをありありと全身で感じる。老いによって、あるいは事故や病気によって、私が明日の日の出を見られなくなるということがいずれ起きると、私はありありと予想する。この世で死んだあとにどうなるのかを、私は知ることができないが、少なくともこの世での人生にいつか終わりが来ることだけは確かであると感じざるを得ない。
  人生に限りがあるということは、私に、恐ろしさ、悲しさ、はかなさ、憂いを感じさせる。先に述べたように、限りある人生を生きなければならないというのは、私にとって大きな「生きづらさ」である。しかし他の選択肢はないのだから、私はこの限られた人生を生きていくしかない。このことを考えるのはつらいから、ふだんはこのことから目をそらして生きている。しかしいつまでもこのことから目をそらし続けていると、死の間際になって後悔してしまうことになりかねない。だから、私は絶えず「人生に限りがある」ということを思い起こす必要がある。しかし「人生に限りがある」ということは、つらいことばかりではない。人生に限りがあるからこそ、私は、いま目の前に広がるこの世界を、このうえなく愛おしいものとして愛することができる。これは死に裏付けられた甘美の世界である(7)。私は限りある人生を生きなければならない。このことは、大きな不条理感をもたらす。すなわち、「いずれ死んでしまうのに、なぜ私は生きなければならないのか」「私が生きなければならない生は、なぜ、いずれ死んでしまうような生なのか」という不条理である。森岡の生命学は、この問いに対する答えを探求し続けるものである。いままでこの問いに答えを与えてきたのは宗教であるが、森岡は宗教の道を通らずに、答えを探求しようと試みるのである。
  自分の人生には限りがあるが、それでも自分の死を超えて、何ものかが連綿と続いていくにちがいないという感覚を、多くの人々は抱いてきた。人々は、その感覚を「いのち」という言葉にこめてきた。「いのち」という言葉は、死によって断絶してしまう生命を意味すると同時に、何ものかが死を超えて連綿と続いてゆくということをも意味していた。私の死を超えて何ものかが伝わっていくというヴィジョンは美しい。生命学にとっても、これは重要な観念である。しかしながら、それとは独立の問題として、私の人生にはやはり終わりがくるのであり、私の人生には限りがあるのである。このことからけっして目をそらさず、生命について深く考え表現しながら生きていくのが、悔いなく生き切るための生命学である。「人生に限りがある」とはどういうことなのかを深く考察することは、学術的な生命学の大テーマである。
  次に「他者とともに」という箇所であるが、これも重要である。生きづらさをかかえた人間が、悔いのない人生を生きようとするとき、その人は自分の人生のことだけに集中してしまいがちになる。ひとつ間違えば、自分だけが悔いのない人生を生き切ればいいのだというふうになるおそれがある。しかしながら、自分ひとりが悔いのない人生を送り、自分のまわりの人々がみな悔い多き人生を送らなければならないとしたら、それでも私は、自分は悔いのない人生を生き切ったと胸を張って言えるだろうか。私が悔いのない人生を生き切れるのは、少なくとも私が大切に思っている人々もまた悔いのない人生を生き切れるように、私が彼らに働きかけているときだけではないのだろうか。私の悔いのない人生は、私以外の人々の人生と繋がり合っている。すなわち、私の悔いのない人生は、他者との関わり合いのなかでのみ成立するということである。「他者とともに」という言葉は、このようなことを意味している。宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言ったが、この「宮沢賢治問題」は生命学にとってきわめて重要なので、後に改めて論じることにする。
  次に、「悔いなく生き切る」ことについて。これが、森岡の生命学におけるもっとも中心的な課題である。これについて詳しく考察していきたい。
  限りある人生を、悔いなく生き切るとはどういうことか。私は次のように考える。

悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、限られた人生を自分がこのように生きてきたということ全体についてはこれでよかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。

  要するに、自分が死ぬときに、こんな人生は間違いだったというふうに思うことのないように、いまここを生き尽くすことである。「悔いなく生き切る」という言葉は、自分の人生に限りがあり、私はいずれ死ななくてはならない、という強い意識があってはじめて出てくる言葉である。私の人生には限りがあり、人生を二度とやり直すことはできないのであるから、死に面したときに、これまでの自分の一度限りの人生を「これでよかった」と全肯定できるようになりたいのである。そして死に面したときに、そういうふうに言えるように、いまここの生をきちんと生きたいということなのだ。
  「悔いなく生き切る」ということを提言すると、すぐに、「悔いのない人生なんてあり得ない」と反論される。「私の人生はいままで悔いばかりだ」と言われることもある。ここは大事な点なので慎重に考えてみたい。私が「悔いなく生き切る」と言うとき、それは、人生において一度も悔いを感じないように生きるということを意味しているのではない。そうではなくて、人生に様々な悔いがあり、失敗があったにもかかわらず、私が死に面したときに、それら悔い多き人生全体をそのまままるごと「悔いなく」肯定することができるということなのだ。「あのときあれをしなければよかった」とか、「あのときに声をかけてあげればよかった」などの後悔の念がたくさんあるにもかかわらず、そのようなたくさんの個別の後悔を含んだ自分の一度限りの人生全体については、そのような人生を生きてきたことを「これでよかった」と悔いなく肯定できる心境に達することがあり得る。すなわち、悔いある出来事の多い人生が、そのまままるごと悔いなき人生となることが、あり得るのである。人生のなかで悔いのある出来事がたびたび起きるということと、そのような人生を生きることそれ自体に悔いがないということは、同時に成立する。それが「悔いなく生き切る」ということの意味なのである。人生は一度限りであるがゆえに、このように一見矛盾するような不思議な性質をもっているのである。ここにある「生命の一度限りの論理」を、私は「生命の哲学」でさらに探求していきたい。
  人生が悔いなきものとなるためには、私は「中心軸」を生きなければならないであろう。「中心軸」とは、死の直前において「私は生きてきてよかった、なぜなら私はこの一点において、自分に誠実に生きてきたからだ」と自分に向かって心底言えて、自分の人生全体を深く肯定できるところの、その一点のことである。すなわち、人生において様々な悔いがあったのだが、この「中心軸」という一点においてだけは悔いがなかったと心底言えることが、「悔いなく生き切る」ということなのである。仮に、中心軸をはずれることがあったとしても、その後の人生で取り戻すことができる。「中心軸」の具体的な内容が何であるかは個々人によって異なる(中心軸については『無痛文明論』で詳述した(8))。
  「生きる」と「生き切る」の違いについても触れておきたい。「生き切る」とは、「いまここの生を生き尽くすこと」である。自分の「中心軸」にかかわるときにはいつでも、自分に与えられたすべてを使い切って、いまここで、自分の限界を生き尽くすことである。限界を生き尽くすとは、限界ある自分の能力やパワーを、その限界点まで発揮し尽くすことである。自分の限界点にまで登って、その限界を肯定的に味わい尽くすのである。
  さて、悔いなく生き切るとは、人生をそのまままるごと「悔いなく」肯定できるように生きることであった。人生をまるごと肯定することは、「生まれてきて本当によかった」と心底思えることでもある。したがって、悔いなく生き切ることを、次のような形で表現することができる。

悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「生まれてきて本当によかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。

 「生まれてきて本当によかった」とは、たとえこれまでの人生のなかで後悔や失敗があったとしても、この世に生まれてきて人生を経験できたこと自体は本当によかった、と肯定できることである。後悔や失敗が散りばめられた人生ではあるが、それでも、この世に生まれてきて人生を経験できたことは本当によかったと思えることである。
  相田みつをに「生きていてよかった」という言葉がある(9)。似たような言葉だが、「生きていてよかった」と「生まれてきて本当によかった」は、意味するものが決定的に異なる。「生きていてよかった」という言葉には、何かすばらしい体験をしたときに、今日まで生きてこられたから、このような体験をすることができた、だから、「生きていてよかった」というニュアンスがある。今日まで健康に生きてこられてよかったということ、強く言えば、絶望にかられて死んだりせずによかったという感慨である。強調点は、「まだ死んでなくてよかった」というところにある。これに対して、「生まれてきて本当によかった」は、この世に生をうけたことそれ自体が、ほんとうによかったということなのである。今日まで生きてこられたことがよかったというのではなくて、そもそも生まれてきたことそれ自体が本当によかった、ということなのである。この二つは、意味する次元が異なる。悔いなく生き切るための生命学の基盤となるのは後者の考え方である。
  では、ここで言う「生まれてきて本当によかった」ということと、悔いなく生き切ることの第一の解釈である「このように生きてきたということ全体についてはこれでよかった」ということは、どこが違うのだろうか。それについて説明すれば、第一の解釈は、かくかくしかじかの出来事の連続であった自分の人生の〈具体的な中身の全体〉に対して「これでよかった」と言うことであるのに対して、「生まれてきて本当によかった」というのは、まさに自分が〈生まれ出てきたこと〉それ自体が「本当によかった」と言っているのである。もちろんこの二つの自己肯定は、互いに密接に結びついている。そのうえで、この二つは、同じ自己肯定のそれぞれ別の側面を強調しているのである。
  さて、このような観点からすれば、悔いなく生き切るための生命学の最大の敵は、「私など生まれてこなければよかった」と人々に思わせるようなすべてのできごとや仕組みであるということになる。私は『生命学に何ができるか』において、生命を選別するテクノロジーが、人々から「根源的な安心感」を奪い去っていく危険性があるということを指摘した。この場合の「根源的な安心感」とは、「私がどんな人間であったにせよ、〈生まれてこなかったほうがよかったのに〉とか、〈いなくなっちゃえばいいのに〉という視線で見られることはないし、そういう態度で扱われないという安心感」のことである(10)。すなわち、生命を選別するテクノロジーは、「私など生まれてこなければよかった」と人々に思わせる危険性のあるテクノロジーであるからこそ、批判されねばならないのである。社会を見回してみれば、「私など生まれてこなければよかった」と人々に思わせるような価値観や制度をたくさん発見することができるだろう。それらに立ち向かい、その価値観や制度を変えていくことが、悔いなく生き切るための生命学の必然的な課題になるのである。
  これに関連して、「不法出生訴訟wrongful birth action」と「不法生命訴訟wrongful life action」について触れておきたい。不法出生訴訟とは、医師が胎児の障害についての情報を妊婦に伝えなかったために、望まない子どもを産んでしまったとして、親が医師を訴える訴訟のことである。不法生命訴訟とは、障害を持って生まれてきた子ども自身が原告となって、もし適切な情報が親に与えられていたならば、自分は中絶されており、こんな姿で生まれてこなくてもよかったはずだとして、医師を訴える訴訟のことである。前者はすでに各国で勝訴の例があり、後者も請求権が米国で認められている(11)。いままで述べてきた観点からすれば、不法出生訴訟とは、障害児に対して「お前など生まれてこなければよかった」と宣言することであり、不法生命訴訟とは障害者自身が「私など生まれてこなければよかった」と宣言することである。悔いなく生き切るための生命学からすれば、これらの人々に、そのような発言をさせるような状況や社会がどこか間違っているのではないかということになる。彼らがそのように発言することそれ自体に介入することはできないが、そのような発言が生じてしまう社会背景に対しては、この私が悔いなく生き切るためにも、何かの問題提起と働きかけをしていかなくてはならない。
  「悔いなく生き切る」ということを、さらに別の角度から考えてみよう。「悔いなく生き切る」とは、死に面したときに、「別の人生を生きていたほうがよかった」と思わなくてすむように、いまここを生きることである。私が別の人生を生きていたとしたらそれはそれで面白かったかもしれないのだが、しかしながら「私は別の人生を生きたほうがよかった」と実際にはけっして思わない、ということである。この世での私の人生は、いま生きているこの人生一度きりである。その一度きりの人生を悔いなく生き切るとは、「これが別の人生ならよかったのに」と思わなくてもよいように、この人生を生きることである。
  この考え方をさらに押し進めると、次のようになる。

悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」と、心の底から思えるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。

  これは、悔いなく生き切るということの究極の定義である。生まれてきたことを肯定できており、いままでの人生のプロセス全体を肯定できているがゆえに、自分の死期が迫ったときに、「もっと生き続けていたい」という欲望からも、「はやくこの生を終わらせてしまいたい」という絶望からも解放されているという状態が、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」という言葉の意味である。悔いなく生き切るための生命学とは、死に面したときに、心の底からこのように思えるようになることを目指して、いまここの生を生き切ることである。そして人々がそのような生の閉じ方を追求することができるような社会を作っていくことである。
  では、「もっと生き続けていたい」という欲望から解放されるとはどういうことだろうか。それは、「もっと生き続けていたい」という欲望が自分の中にまだ残存しているにもかかわらず、その欲望に私が振り回されることがなくなっているので、死へと向かいゆく生のあり方を無理に否定してまでも「もっと生き続けていたい」と思ったりしないような状態のことである。これが「もうこれ以上生き続けなくてもよい」ということの意味である。では、「はやくこの生を終わらせてしまいたい」という絶望から解放されているとはどういうことだろうか。それは、自分が生まれてきたこと、これまでの人生を自分が送ってきたこと、そして現状のような生をいま生きていることを心の底から肯定できるがゆえに、「はやくこの生を終わらせてしまいたい」という気持ちが湧いてこないことである。「これ以上生き続けていてもいい」とは、このことを指すのである。
  悔いなく生き切るとは、死に面したときに、そのような気持ちでいられるようになることを目指して、いまここを生きることである。
  ところで、この文章の中の、「もうこれ以上生き続けなくてもよい」という言葉は、自殺、安楽死、尊厳死を肯定するもののように見える。悔いなく生き切るための生命学がそれらをどのように考えているのかを、ここで明確にしておく必要がある。以下、いくつかの例をあげながら検討してみたい。
  まず、自殺について検討する。自殺の多くは、絶望による自殺である。「このような人生が今後も続くのなら、これ以上生きていたくない」と思ったり、「自分が生まれてきたこと自体が間違っていたのだ」と思ったりして自殺するのである。人が絶望に至る理由としては、人間関係、社会的条件など様々なものがあるとされている。また、鬱状態になって、明瞭な理由なく自殺する場合もある。これらの自殺は、「生まれてきて本当によかった」と思えることを目指す生命学にとっては、もっとも避けたい出来事のひとつである。この点をまず押さえておきたい。
  そのうえで、悔いなく生き切るための生命学は自殺を全否定するのかと問われれば、そうではないと答えたいのである。まず次のような例を考えてみよう。それは、終末期の患者が、自分の死期を悟って、延命治療を自分の明瞭な意思でことごとく断わっていくケースである。これは本人の意思にもとづく延命治療停止(消極的安楽死)であり、広い意味での自殺の一種であると考えられる。そしてこの人は、いままでの人生を悔いなく生き切ってきたと思っており、自分が生まれてきて本当によかったと思っている。そして、この人は、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」と思っているのだが、それと同時に、死んでゆく自分の身体の自然なプロセスに無理に逆らってまで死を先延ばしさせたくはないと思っているのである。すなわち、「これ以上生き続けていてもいい」と思っているのだが、死にゆく身体に大きな無理をかけてまで延命したいとまでは思っていないのである。このような場合、延命治療停止の選択は絶望によるものではないし、この人は自分の死に際して「生まれてきてほんとうによかった」と思えているのだから、この人がみずから延命治療停止を選択すること、すなわち自殺することは肯定されると私は考えたいのである。
  では、終末期の患者ではない場合はどうだろうか。登山家が雪山で遭難したときのことを考えてみよう。この登山家は雪に埋もれて動けなくなり救出を待っている。そのときにヘリコプターが上空まで飛んでくる。手を振ればヘリコプターに気づいてもらえるかもしれないのだが、この登山家は、思い直して、手を振らないのである。なぜなら、彼はいままで数え切れないほど登山をしてきて、自分はいずれ山の中で死ぬ運命だと考えている。もしここで助かったとしても、自分はまた登山を続けるだろうし、そしたらまたこういう状況に遭遇することだろう。登山家の道を選んだ自分の人生に悔いはないし、生まれてきて本当によかったと思っている。どうせ山で死ぬのなら、自分がもっとも愛したこの山で死ぬのが本望だ。雪に埋もれて死ぬのが自分にはいちばん似合っているだろう。そう思って、ヘリコプターに手を振らないのである。これも一種の自殺であろう。この登山家は、悔いのない人生を生きてきたのであるから、愛する雪山で遭難して動けなくなったいま、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」という心境なのだが、仮に救助されて生き続けてもいずれまた山で死ぬことになるのだろうから、それよりはこの山でいま死を選びたいと判断するのである。このようなタイプの自殺もまた肯定できると私は考えたい。
  この二つの例は、ともに極端なケースかもしれない。しかし、自殺であっても肯定されるべきものがあることは、きちんと見ておく必要がある。もちろんこれらの例であっても、遺された家族や親友が、当人の自殺をどう思うのかという点は充分に考慮されなくてはならないだろう。家族や親友に大きなダメージを与えるような自殺は誉められるべきではない。かと言って、誰かを苦しませるから自殺をしてはいけないと主張するのも抑圧的であるように思える。
  自殺は、自殺する人のことを大切に思っている家族や親しい人々にとってはつらい出来事であるし、深い結びつきのない者にとってもやはりつらい出来事である。であるから、まず第一に大事なことは、悩み苦しんでいる人が、絶望の自殺にまで追い込まれないように、まわりの人たちが適切に気遣っていくことである。また、誰かが自殺を試みようとしているときに、それを止めようとして外部の人々がおせっかいに介入することそれ自体は当然のことであるし、その介入は許容されるべきである。それに対して、自殺を肯定的に考える人々からは、「自殺の自由はないのか」という反論が出されるだろう。この点について言えば、たしかに自殺は、その当人が最終的に行使できる最後の選択肢として確保されるべきであり、人々は、(その人の幸せを心から願ってその人に働きかけるという)共感的倫理の限界地点として、自殺の自由を甘受せざるを得ないように私には思えるのである。
  次に、安楽死について検討する。耐えがたい苦痛にあえぐ末期患者が、これ以上の延命を望まず、殺してほしいと願う場合はどうだろうか。緩和医療の進展によって、末期の疼痛はかなり改善されるようになったので、まずは痛みを抑える医療を可能なかぎり試みるべきである。これが第一の優先事項である。しかしながら、薬剤によっても緩和されない痛みや吐き気やかゆみなどに苦しむ患者は少ないながら存在する。いかなる手を尽くしても、耐えがたい苦痛が消えないとき、もし患者が殺してほしいと願うのならば、その患者を安楽死させてよいのだろうか。このような場合の処置としては、睡眠薬を注入して深い眠りの状態に導く「セデーション」という手法がある。致死量の睡眠薬を注入すれば心停止に至る。医師が措置した場合は積極的安楽死、本人が飲んだ場合には自殺と言える。
  「もしこのような耐えがたい苦痛がずっと続くのならば、私は生まれてこなければよかった」と追い詰められるまでに苦痛がひどい場合で、その苦痛を除去する有効な方法が他にないことが確実であれば、その患者が限りある人生を悔いなく生き切って生を閉じることをサポートするためにも、その患者の意思を慎重に確認したうえで、それらの処置は許容されるべきであると私は考える。したがって、このようなケースにおいては、セデーションが許容される場合がある、ということになる。
  最後に、尊厳死について検討する。死ぬ間際に過剰な延命をしてほしくないという意思表示をしている患者がいる。その患者が実際に昏睡状態になったときに、たとえば人工呼吸器をはずしてよいかどうかを医師と家族は決断しなくてはならなくなる。これが尊厳死のケースである。そのような意思表示をまったくせずに、患者が末期の昏睡状態に陥るケースはさらに多い。このときも、延命治療を続けたほうがいいのかどうか、医師と家族は決断を迫られる。
  いずれのケースにおいても、事前の意思表示があろうがなかろうが、昏睡状態に陥っている現在の患者がその内面で何を感じているのか、あるいはどんな気持ちでいるのかを、外側にいる人間は知ることはできない。患者本人の現在の気持ちが確認できない以上、どのような処置をすることがその人の悔いなき生き方をサポートすることになるのかを、外部の人間は確実に知ることはできない。患者の存在様態ががらっと変わったのだから、以前の意思表示が、現在の気持ちと同じであるという保証はない。そもそも、患者の内面に「気持ち」というものが存在するのかどうかも定かではない。「悔いなき生」をサポートする生命学は、この地点で立ち止まらざるを得ない。唯一言えることは、その患者の内部で、まだ悔いなく生き切ろうとする気持ちや葛藤や心的作業が続いている可能性がゼロではない以上、生命維持の停止についてはできるかぎり慎重であることが望まれるということである。
  現場においては、これまでも様々なかたちで、昏睡状態の患者の治療レベルを下げることが行なわれてきたはずである。今後も、同じような状況が続いていくことであろう。しかし、昏睡状態の患者の現在の内面は謎であるわけだから、悔いなく生き切るための生命学は、彼らへの措置について、なんの具体的な指針をも与えることができない。何をすることが真に彼らの悔いなき生のためになるのかを、外部の人間は確実に知ることはできないという状況に、われわれは耐えなくてはならない。人間の死にこのようなかたちで介入せざるを得ないことの重さに、われわれはひたすら耐えなければならないのである(後述)。
  ところで、安楽死と尊厳死に関しては、それを公然と認めた場合の「政治的影響」というものを無視することはできない。自殺とは異なって、安楽死と尊厳死は、医師が患者を直接的・間接的に殺すことだからである。「安楽死や尊厳死は許容される」という発言は、ただちに次のような政治的メッセージとなって社会に広まっていきかねない。すなわち、社会や家族の負担になるような重病人、高齢者、障害者たちは、早めに死なせてしまってもよいのだし、むしろ彼らはみずから進んで社会や家族のために死を引き受けるべきである、ということになりかねないのである。われわれはこのような考え方を否定する。悔いなく生き切るための生命学は、このような政治的メッセージに対しては、断固としてそれを否定し、それを広めようとする勢力と戦っていかねばならない。それが、自殺・安楽死・尊厳死などを部分的にでも論理的に肯定しようとする者の、社会的責務であると私は思うからである。
  以上のように、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」という考え方は誤解を招きやすいものであるが、しかしそれでもなお、悔いなく生き切るための生命学はこれを基本思想のひとつとしたいと思う。なぜなら、このような思想を基盤とすることによってはじめて、われわれは、「貪欲な欲望によって寿命をどんどん延ばしてゆき、能力をどんどん高めてゆく」という欲望拡大のスパイラルに対して、それを拒絶する根拠を提出することができるからである。
  これに関連するが、悔いなく生き切るためには、できることは全部したい、そのための時間が無限に欲しい、他人を手足として使って自分のしたいことをすべてかなえたい、という欲望を満足させる必要があるのではないかという意見もあるだろう。しかし仮にその欲望をすべて満たしていったとしても、最後には自分自身がその欲望の奴隷となってしまって、絶望に陥りながら死を迎えなくてはならなくなると私には思えて仕方がない。したがって、真に悔いなく生き切るためには、これらの欲望からどこかで離脱することが必須であると私は考えるのである。
  「限りある人生を悔いなく生き切る」とはどういうことかについて、私は三通りの解釈を示した。それらは、「悔いなく生き切る」という基本思想を三つの異なる観点から描写したものである。私はその三つの解釈に対し、それぞれ「人生まるごとの肯定」「誕生肯定」「欲望でもなく絶望でもなく」という言葉を与えることにする。そのうえで、以下に再整理しておこう。

◆人生まるごとの肯定
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、限られた人生を自分がこのように生きてきたということ全体についてはこれでよかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」

◆誕生肯定
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「生まれてきて本当によかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」

◆欲望でもなく絶望でもなく
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」と、心の底から思えるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」

  これら三つの側面に支えられて、悔いなく生き切るための生命学の基本思想が成立するのである。この点についてのさらなる考察は、「生命の哲学」の領域に委ねることとしたい。

2 「人間の尊厳」と「自由」

  ここで、次のような問題を考えてみたい。すなわち、ある人が悔いなく生き切りたいと思いながらも、実際には自分の人生を後悔しながら死んでいったとき、これは「人生の失敗」なのかどうかという問いである。自分の人生はこんなはずじゃなかったと呻きながら死んだり、「まだ生きていたい、死にたくない」と叫びながら死ぬのは、人生の失敗なのだろうか。この問いに対する、悔いなく生き切るための生命学からの答えは明快である。人生には成功も失敗もない。なぜなら、この世ではただ一度の人生があるだけなのであり、厳密な意味でただ一度しか生起しないことに対しては、「成功」も「失敗」もないからである。「成功」や「失敗」というのは比較概念であるから、この宇宙でただ一度しか生起しない私の人生というものに対して適用することはできない。他人の人生と比べたり、あるいは自分が思い描いていた人生と比べたりして、現実の自分の人生は失敗だったと考えることはあるかもしれないが、それは、本来比較できない二つのものを無理やり比較するという誤りに陥っているのである。もし仮に私が二つの別個の人生を生きることができるのだとしたら、どちらかが成功でどちらかが失敗ということは言えるかもしれないが、そういう事態はほぼまちがいなくあり得ない。
  したがって、たとえ私が悔いのない人生を生き切ることができなかったとしても、そこには、「死ぬときに悔いが残った」という事実がただ生起するだけのことであり、それは「成功」でも「失敗」でもないのである。私はそのことを充分認識したうえで、人生を悔いなく生き切ることを目指すのである。その営みが、悔いなく生き切るための生命学になるのである。結果はいっさい関係ない。一見、不思議な論理のようにも思えるが、この論理は、私の人生が「厳密な意味で一度しかない」という前提から正当に導かれるものである。
  だがこれは、さらに大きな問題へとつながっていく。
  絶望による自殺の場合を考えてみよう。2006年10月11日に、福岡県の中学2年の男子生徒が自殺した。彼は、みんなの前で担任の教師にいじめられ、それ以降友人たちにも激しくいじめられるようになり、みずからの命を絶った。彼の遺書には次のように書かれている。「お母さん お父さん こんなだめ息子でごめん 今までありがとう。 いじめられて、もういきていけない」(12)。彼のこの文章から迫ってくるのは、「これからの生にまったく希望がもてない、こんなことなら生まれてくるんじゃなかった」という絶望の思いである。ここには、自分の人生を悔いなく生き切ることなく死んでいった一人の少年の思いが凝縮されている。しかしながら、悔いなく生き切るための生命学によれば、この少年の13年間の人生は、成功でも失敗でもなかったということになるのである。彼はその一度限りの人生をそのように生きて死んだのであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。この一点だけは、動かすことができない。だが、遺された両親は、息子の死をそのようなものとして理解し、これからの自分たちの人生を悔いなく生き切っていくことができるだろうか。
  2005年11月に大阪市で19歳と27歳の姉妹が見知らぬ男によって殺害される事件が起きた。初公判を終えた家族は記者会見をした。長男は、姉から「気持ち悪いことがあったので来てほしい」とのメールを受け取っていたのだが、「後日訪問すれば大丈夫だろうと思った自分を今も責め続けている」と述べ、父親は「死刑判決が出なければ、(裁判所に)死んで訴えようと妻と話している」と述べている(13)。この長男と父親が、これからの人生を、私の言う意味で「悔いなく生き切る」ことが果たしてできるのであろうか。このような事件が起きてしまった自分の人生というものを肯定し、自分が生まれてきて本当によかったと、心の底から肯定するときが果たして来るのだろうか。もし仮に彼らが、自分の人生を悔いなく生き切りたいと願うときに、生命学はそれを支えることができるのだろうか。
  2006年7月から8月にかけてのイスラエルのレバノン侵攻の際に、あるレバノン人の中年男性の姿がBBC国際放送に映し出されていた。その男性は、イスラエル軍の空爆によって、一瞬のうちに妻、子ども、家のすべてを失い、ただ呆然と座り込んでいた。住み慣れた家での家族との団欒をすべて奪い去られたこの男性が、その後の人生を悔いなく生き切ることが果たしてできるのか。その男性が、「自分は生まれてきて本当によかった、このような人生を送ってきたことを心の底から肯定できる」と言い得る日が果たして来るのだろうか。悔いなく生き切るための生命学は、この男性の人生もまた成功でも失敗でもないと主張するのであるが、その言葉はこの男性の心に届くのだろうか。これらのことを考えると、このような生を送らざるを得ない人々にとって、悔いなく生き切るための生命学はそもそもまったく無力なのではないか、という疑問が沸き起こってくる。
  これらの絶望と苦しみは、世界中の至るところで日々生み出されている。遠い世界だけではなく、われわれの身近の日常のそこかしこで、これらの絶望と苦しみは生み出されている。けっして他人が入り込むことができないような、これらの絶望と苦しみに対して、生命学はどのようにアプローチできるのだろうか。
  ひとつの道は、たとえばこの私が、レバノンの男性のところに行き、その男性に向かって、自分自身の言葉で、あなたの生は成功でも失敗でもない、あなたはこれからの人生を悔いなく生き切ることができるはずだと言うことである。おそらく私はこの男性から拒絶されるであろうが、自分を決して棚上げせずに考え表現しながら生きていく生命学の本筋は、これであると私は確信する。そして自分を棚上げせずに、その男性と向き合っていくためには、私の側に、そのような行為に出るための何らかの必然性がなければならない。その必然性がない場合には、私の行為は単なる私の自己満足と偽善に終わってしまうことだろう。
  もうひとつの道は、たとえそれらの絶望と苦しみを経験したとしても、人はその絶望と苦しみを抱えた人生の全体を、いつかきっと心の底から肯定することが可能であるし、自分は生まれてきて本当によかったと心の底から思うことも可能であるということを、論理的に示して、人々に伝えていくというものである。
  これはきわめてロジカルな作業になる。まず、人生では、「あのときああすればよかった」とか「あれをしなければよかった」という後悔がたくさんあるのが普通である。しかしそれにもかかわらず、「それらたくさんの後悔をまるごと含んだ人生を、これまで生きてきたこと」それ自体についてはまったく後悔していない、という心境に人は至ることができるのであった。そしてそれが、限りある人生を悔いなく生き切るということなのであった。
  先に引用した人々の絶望と苦しみを、このロジックに代入してみよう。人生の中で悲惨な出来事が起こり、二度と立ち直れないような絶望と苦しみに襲われたとする。そして「あの出来事さえ起こらなければよかったのに」という後悔が沸き上がってくる。しかしそれにもかかわらず、「立ち直れないような絶望と苦しみと、それに起因する後悔をまるごと含んだ人生を、これまで生きてきたこと」それ自体についてはまったく後悔していないという心境に、人が至ることはできない、とはけっして言えないはずなのである。二度と立ち直れないような絶望と苦しみと後悔によって「破断」されたかのように見える人生を、しかしそれでもなお全体として「これでよかった」と心の底から肯定し、自分は生まれてきて本当によかったと心の底から思えるようになる可能性は、論理的にはつねに開かれているのである。その可能性は、まさにその人が生を閉じるその瞬間まで、開いている。アウシュヴィッツの地獄を経験し、生き延びたフランクルは、人はどのような困難な状況に置かれたとしても「それでも人生にイエスと言う」ことができると表現している(14)。たとえ「絶望と苦しみと後悔を生み出す人生の破断」があったとしても、それでもなお、そのような破断を含んだ人生全体を「これでよかった」として肯定できる可能性は、すべての人に対して、つねに開かれているということを、悔いなく生き切るための生命学は論理の名のもとに確約する。
  悔いなく生き切るための生命学は、次のようなものであった。「生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである」。この文章の中の「生きづらさ」を、上で述べたような「破断」に置き換えてみれば明らかであろう。肉親が自殺した人や肉親を殺された人が抱えざるを得ない「破断」は、悔いなく生き切るための生命学で言うところの「生きづらさ」の典型的な例のひとつである。人生において「破断」を経験した彼らこそが、悔いなく生き切るための生命学の重要な主人公のひとりなのである。だが、当然のことながら、「生きづらさ」に明瞭な深浅の区別はない。上記のような分かりやすい例もあれば、「生きづらさ」の内容が容易には言葉にできないような場合もある。さらには非常に抽象的な「生きづらさ」もあるだろう(たとえば、私がかかえているところの、死ななければならない生をなぜ生きなければならないのかという「生きづらさ」は、かなり抽象的なものだと言える)。
  そのような破断を含んだ人生全体を「これでよかった」として肯定し、自分は生まれてきて本当によかったと心の底から思えるためには、その可能性を論理で保障しただけではダメである。では、どうすればいいのか。その答えを得るために、それぞれの人たちがお互いに関わり合って「探求しながら生きていく」ことが必要になってくるのである。破断や生きづらさがあるから人生が終わるのではなく、破断や生きづらさがあるからこそ、そこから「探求しながら生きていく」生命学の営みが開始されるのである。しかしこれは簡単な営みではない。JR宝塚線脱線事故で10年余り連れ添った男性を失った30代の女性が、事故から一年半後の2006年10月15日に飛び降り自殺した。彼女は、「希望がなくなった。死にたい」と漏らしていた(15)。悔いなく生き切るための生命学は、彼女が絶望の自殺を選ばなくてすむような力を、彼女に分け与えることができるようなものへと、成長しなければならない。
  そのためにどうすればいいのかについて、ここで答えを出すことはできないが、ひとつの手がかりを示すことはできるように思う。それは、人生の破断が「生きる希望の消滅」へと直結するのではなく、破断を起点とした「人生の再創造」へと導かれるように、これからの生き方を作り上げていくことである。それは一人きりではけっしてできないだろうから、似たような破断を経験した人々や、別種の破断を経験した人々や、これらのことに長年かかわってきた人々が、お互いに関わり合いながら、それぞれの人生の再創造へと向かっていくことが、ひとつのやり方となる。破断が起きたから人生が終わるというのではなく、破断が起きたからこそ新しい人生をここから始めることができるのだ、と心の底から思えるように、お互いにサポートし合っていくのである。であるから、これらの営みは、セルフヘルプグループの活動に酷似するであろう。
  そのときにポイントとなるのは、「破断を受け入れること」と、「破断が起きた自分の人生を受け入れること」の二つを、慎重に区別することである。破断それ自体は受け入れがたくても、破断が起きた自分の人生そのものは尊い、と心の底から思えるようになる可能性は残されている。愛する人を失ったことは受け入れがたくても、愛する人を失った自分の人生そのものを愛し続けることは可能であるということだ。
  この微妙ではあるが決定的な区別を、まさに全身でもって了解しながら、破断を起点とした「人生の再創造」へと歩んでいくというのが、破断の問題を解決するひとつの方向である。それは、いわば破断という出来事によって、新たな人生へと否応なく生まれ変わっていくことである。そして最終的には、破断という受け入れがたい出来事が新しい人生の根底に存在しているということそれ自体を、心の底から肯定できるところにまでたどり着けることを、目指すのである。そのときには、自分の破断だけに固執するのではなく、同じような破断、あるいは違ったような破断を経験した他の人々と関わり合って、お互いに支えあっていく営みへと積極的に参与することが効果的であり、それがひいては自分自身へと良い影響を与えていくことにつながる。これは、セルフヘルプグループの活動に参加した人々が口を揃えるところである。その原因のひとつはおそらく、他者の破断へと真剣に関わることをとおして、自分のいまの人生の肯定面を発見し、そのことによって、「破断それ自体」と、「破断が起きたにもかかわらずここまで生きのびている自分の人生」とを、徐々に身をもって区別することができるようになるからだろう。もちろん、セルフヘルプグループは万能ではないし、積極的に参与することが別種の問題を引き起こすこともある。だが、破断をめぐる生命学の営みは、セルフヘルプグループから多くを学ぶだろうし、またセルフヘルプグループの活動に対しても貴重な示唆を与えることになるはずだ。
  この破断の問題は、さらに大きな課題を生命学に投げかけることになる。破断には、いままで述べたもののほかにも、たとえばレイプ被害、児童虐待、DVなど深刻なものがある。自分の家族がそれらの被害に遭う場合もあるし、自分自身が被害者になる場合もある。サバイバー(生きのびてきた被害者)は自己肯定的な生き方をどうやって作り上げていけばいいのかという問題が、生命学のテーマとして入ってくるのである。さらには、被害者と加害者を対面させて、深い次元の交流をうながし、それぞれの新しい生き方を探る「修復的司法」の試みも始まっている。これも生命学のテーマである。さらに言えば、自分が加害者になったがゆえに人生の破断をかかえてしまうケースも存在する。たとえば、子どもを虐待死させたことが破断となるケースや、人工妊娠中絶の経験が破断となるケースがある。これら加害者となってしまったことに起因する破断は、被害者となったことに起因する破断とは、ずいぶん異なった側面をもっているはずである。「加害―被害」と「生きづらさ」がどのように交錯しているのかを、生命学は解明しなければならない。そしてそれを、生きづらさをかかえた人々を支えることのできる知恵へと還元しなければならない。この論文ではこれ以上述べることはできないが、今後の大きな研究テーマである。
  さて、たとえどんな破断や生きづらさを抱えた人間であっても、人はその後の人生のなかで、自分は生まれてきて本当によかったと心の底から思えるように自分を変えていける可能性があるということを、私は「人間の尊厳human dignity」と関連づけて考えてみたいと思うのである。
  「人間の尊厳」は、生命倫理学のなかで大きな争点となっている概念である。一方においては、受精卵にも「人間の尊厳」はあるのだからそれを破壊してはならないとする立場があり、他方においては「人間の尊厳」という概念の無効性を主張する立場がある。人間の生命に深く介入する技術が進展したために、旧来の「人間の尊厳」という概念の有効性は、はげしく揺らいでいるのである。
  「人間の尊厳」という概念にもっとも明瞭な輪郭を与えたのは、カントであった。カントによれば、人間は理性を持った存在であり、理性によってみずからの行為を「自律」していくことができる。この点にこそ、「人間」が単なる「物件」とは異なる根拠があるのである。人間のどこに尊厳があるのかと言えば、まさに人間が理性でもって「自律」できるところにこそある。であるから、「自律する人間」は他の「自律する人間」を「単なる道具」として扱ってはならない、という道徳の基本原則が、導かれることになるのである(16)。
  このように、カントは「人間の尊厳」の根拠を、人間の「自律」に見た。その思考方法を参考にしつつ、私は「人間の尊厳」をカントとは別様に考えてみたい。
  人間に尊厳があるとすれば、それはどこにあるのか。それは、たとえどんな破断やつらいことを経験しようとも、人はその後の人生のなかで、「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えるように自分を変えていける可能性があるということ、そこにこそ「人間の尊厳」があるのだと私は考える。生まれてきて本当によかったという「誕生肯定」の可能性に対して、人はその最後の瞬間まで開かれているという点に、人間の尊厳はあるのである。カントの「人間の尊厳」論を私はこのように書き換える。
  そのうえで、次のことが言える。
  社会の中で「人間の尊厳」を守るために、もっとも必要なことは何か。それは、生きづらさを抱えた人たちが、「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えるように自分を変えていこうとしているときに、その営みを妨げないようにするということである。さらに強く言えば、その営みを破壊しようとする行為があれば、それを食い止めるということである。具体的に言えば、誕生肯定を得ようとしている人たちに向かって、「生まれてこなければよかったのに」とか、「死んでしまえばよいのに」などの言葉や視線を浴びせたり、それらを浴びせるのと同じ効果のあるような社会制度を作ったりすることを、食い止めていくということである。このことは、「根源的な安心感」という言葉を使えば、さらに的確に表現することができる。
  前節でも述べたが、「根源的な安心感」とは、私がどんな人間であったにせよ、「生まれてこなければよかった」とか、「死んでしまえばいいのに」という視線で見られることはないし、そういう態度で扱われないという安心感のことであった。より正確に言えば、「たとえ知的に劣っていようが、醜かろうが、障害があろうが、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられたはずだし、たとえ成功しようと、失敗しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられ続けていると確信できる」という安心感のことである(17)。
  すなわち、人は、「生まれてこなければよかった」とか「死んでしまえばいいのに」という視線を浴びないという安心感(=根源的な安心感)に守られてはじめて、「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えるように自分を変えていこうとすることができる、ということである。したがって、「人間の尊厳」を社会の中で守るためには、人々のこのような「根源的な安心感」を守ることが必要であり、人々の「根源的な安心感」を破壊しようとするものがあればそれを食い止めることが必要だということになる。
  以上のように、悔いなく生き切るための生命学においては、「人間の尊厳」は、「誕生肯定」と「根源的な安心感」によって構成されることとなる。「人間の尊厳」の中核であるところの、生まれてきて本当によかったという「誕生肯定」は、「根源的な安心感」に支えられてはじめて開花するのである。これをもって、悔いなく生き切るためのの生命学の根本思想とみなすことができるだろう。(カントの「自律」に対応するものが「誕生肯定」であり、「単なる道具として扱わないこと」に対応するものが「根源的な安心感を守ること」である)。
  ここから、悔いなく生き切るための生命学の行為規範が導かれることになる。それは、(1)「根源的な安心感」を浸食するような行為や制度を解体していかねばならない、(2)「誕生肯定」の可能性を外部から無理やり消滅させるような行為は食い止めなくてはならない、という二種類である。これらについて、簡単に述べることにしたい。
  まず第一の点について考える。限りある生を悔いなく生き切ることをサポートするためには、「根源的な安心感」を保障することが必要である。そのためには、「根源的な安心感」を浸食するような行為や制度を解体しなければならない。「根源的な安心感」を浸食するような行為とは、ある人に向かって、「生まれてこなければよかった」とか、「死んでしまえばいいのに」という視線を繰り返し浴びせたり、発言したりすることであり、あるいはその人がみずからのことを「生まれてこなければよかった」「死んでしまえばいいんだ」と否定するように仕向けていくことである。
  もっとも典型的なのは、子ども、高齢者、配偶者などへの「虐待」である。それら虐待の大きな目的は、被害者が「自分は生まれてこなければよかった」「自分は死んでしまえばいいんだ」と思うところまで、被害者を追い詰めることである。学校でのいじめなどもこの種の虐待の一種であろう。これが社会的な規模にまで広がったものが、人種差別、障害者差別、マイノリティ差別などである。恐怖によって相手を支配するようなタイプの暴力(DVなど)も、この一種であろう。これらの虐待や差別を受け続けた人は、自分で生きていこうとする力を奪われ、無力化させられる。その結果、絶望の自殺を選ぶこともある。このような結末はなんとしてでも食い止めなくてはならない。
  選択的中絶や受精卵の選別なども、この種の行為だと考えられる。これについては『生命学に何ができるか』で詳述したが、障害のある胎児や受精卵を選別廃棄することは、「そのような子どもは生まれてこないほうがよい」と宣言することであり、ひいては同じような障害や病気をもって生きている人々に対して、「あなたは生まれてこないほうがよかったのだ」と宣言することに等しい(18)。障害胎児は生まれてこないほうがよいが、かといって現存する障害者にまでそのような態度を取るわけではない、という論理を矛盾なく生きれるほど人間は器用ではない。したがって、「障害がある場合は中絶する」という条項を法律に書き込むことは食い止めなくてはならない(ドイツはこの条項を法律から削除した)。もうひとつの問題は、我々の内側にある「内なる優生思想」である。現存する人々に向かって「あなたは生まれてこないほうがよかったのだ」と宣言するに等しいような思想感情、たとえば「障害児ならいらない」という気持ちが自分の中にあるとすれば、我々はその思想感情をどうすればいいのかを模索しなければならない。これは生命学の最大の難問のひとつとして引き続き考えてゆくべき問題である。また、生命を選別するような形のテクノロジーに対して多くの人々が持ってしまう違和感の正体もここにある。それは、生命を選別するテクノロジーがある種の人々を生きにくくするだけではなく、結局のところこの社会を生きる我々すべてから「根源的な安心感」を奪ってしまうところにまで行き着くのではないか、という不安感なのである(19)。条件つきの愛情の問題も、これと関連している(20)。
  「根源的な安心感」を浸食するものとして、「自虐的自己否定」とでも呼ぶべき行為がある。それは、「私は生まれてこなければよかった」とみずからを否定するだけではなく、その人を支えようと関わってくる人々の気持ちを次々と裏切って、「結局あなたの善意などは何の役にも立たないのだ」ということをその人たちに思い知らせ、そうやって人々を自分の自己否定に巻き込んでいくことである。その結果として、自己否定のエネルギーが、他人を巻き込んでどんどん大きくなり、社会へと影響を与えていくところにまで成長する危険性もある。フロムが言うところの「ネクロフィリア」という心性は、この自虐的自己否定を見事に描いたものと言えるだろう(21)。「私は生まれてこなければよかった」という自己意識を次々と拡大させ、それを基盤としてある種の美的快感やスノビズムを構築しようとする勢力があるが、それは悔いなく生き切るための生命学の目標であるところの「生まれてきて本当によかった」という境地を、全否定するものである。
  「自虐的自己否定」と「自己否定」は大きく異なる。「自己否定」というのは、自分に価値がないとか、生きている意味がないと思うことである。しかし「自己否定」の状態を準備期間として経ることによって、そののちに「自己肯定」へと至る可能性がつねに開かれている。ところがこれに対して、「自虐的自己否定」とは、そのような「自己肯定」への道を自分自身で徹底的に潰していき、他人の「自己肯定」への道もまた潰していくことをもって快感とするような情念なのである。「根源的な安心感」をむしばんでいくのは、後者である。鬱状態になったり、自傷行為を繰り返したりして、「自己否定」から抜け出せない人がいるが、そのこと自体が問題なのではない。そのような「自己否定」はつねに「自己肯定」への可能性をはらんでいる。問題は、それが「自己否定」のための「自己否定」となり、「自己否定」のエネルギーでもって他人をまでをも「自己否定」の大きな渦の中に巻き込もうとしはじめるときである。このとき、それは「自虐的自己否定」へと成長し、「根源的な安心感」に対する大きな脅威となるのである。
  さて次に、第2の点について考えたい。それは「誕生肯定」の可能性を外部から無理やり消滅させるような行為は食い止めなくてはならない、というものであった。言い換えれば、「生まれてきて本当によかった」と思えるようになることを目指して生き続けようとする営みを、外部から暴力的に断絶させてはならないということである。具体的には、まず「死刑」と「戦争」があげられる。それらは人生そのものを外部から断絶させることによって、悔いなく生き切る可能性の前提条件そのものを破壊することであり、けっして許容できない。
  ただしこのテーマに関しては、非常にむずかしいジレンマが生じることがあるので、それらについて簡単に触れておきたい。まず、平和のための戦争も「誕生肯定」に反するのかという論点がある。それについて答えれば、仮にそれしか選択肢がないと仮定したとしても、やはり平和のための戦争は「誕生肯定」の可能性を消滅させるものである。そこまで追い詰められる前に、可能な限りの道を模索するべきである。では自己防衛はどうか。目の前に襲ってくる犯罪者を殺さないかぎり自分も死んでしまうような場合である。この場合であっても、自己防衛のためにその犯罪者を殺すことはその犯罪者の「誕生肯定」の可能性を消滅させるものである。それしか選択肢がない場合、私は自己防衛の行為を行なわざるを得ないかもしれない。それは法的には正当防衛であり、社会倫理的にも間違った行為ではないとされるだろうが、生命学的には肯定できない行為なのである。ではお前はそういうときに黙って殺されろというのか、と問われるだろう。悔いなく生き切るための生命学はそのような答えは出さない。黙って殺されるのもひとつの選択肢であり、自己防衛して反撃するのもひとつの選択肢である。ただし、いずれの選択肢も生命学的には肯定できないということだ。そして生き残った者は、そこから引き続いて生じるであろう様々な心的・身体的な出来事の連鎖を引き受けなくてはならなくなるだろう。悔いなく生き切るための生命学は、適切なサポートのもとでそれを真摯に引き受けよと言うのみである。自己防衛は、一般的な社会倫理の規範と生命学の規範が鋭く対立するケースである。
  人工妊娠中絶についてはどうだろうか。成長しようとする胎児を外部から暴力的に破壊するのは、「誕生肯定」の可能性を消滅させるものであるように一見思える。しかしながら、実は、胎児が「生まれてきて本当によかった」と思うことのできる存在かどうかを、われわれはまだ知ることができない。「誕生肯定」とは、生まれてきて本当によかったと思えるようにいまここを生き切ることであった。しかし、胎児が「誕生肯定」をすることのできる主体としていまここに現存していると言えるかどうかは、外部からは判断できない。したがって、人工妊娠中絶が胎児にとっての「誕生肯定」の可能性を消滅させるものであるのかどうかを、悔いなく生き切るための生命学は決定することはできないのである。それはわれわれにとって、「謎」にとどまる。(この文脈では胎児にのみ注目して考えたが、人工妊娠中絶そのものは妊婦と胎児の密接なかかわりのなかで決断されるものであるから、中絶の生命学の全体を考えるときには、妊婦と胎児の関係性や、妊婦と彼女を取り巻く人々の関係性にまで視野を広げることが必須となる)。
  では生まれたばかりの赤ちゃんはどうか。実は赤ちゃんにとっても事情は同じである。悔いなく生き切るための生命学は、赤ちゃん殺しが「誕生肯定」の可能性を消滅させるものであるのかどうかを決定することはできない。赤ちゃん殺しは、法的には犯罪であるし、通常の道徳観念にも反するのだが、悔いなく生き切るための生命学の視点からは判断のつかない問題なのである(私のこの考え方と、パーソン論を混同しないでほしい)。同様にして、悔いなく生き切りたいといまここで思っているかどうか分からないようなカテゴリーの人間たち、たとえば脳死の人についても、同じ結論が導かれる。彼らの身体的な生命を停止することが「誕生肯定」の可能性を消滅させるものであるのかどうかを、われわれは決定することができない(22)。終末期の昏睡状態の人の尊厳死についても、同じことである。われわれは、尊厳死をさせること、あるいはそれを拒否して延命させることについて、悔いなく生き切るための生命学の視点からは何の確定的な答えも出ないまま、それが突きつけてくる生命学的な問いに耐え続けなくてはならないのである。生命学的な問いとは、そのような処置をしたことが、あるいはしなかったことが、本当にその人の悔いなき生をサポートすることにつながったのか、という問いである。そうすることが、その人にとって本当によかったのだろうかという問いである。彼らの存在は、「他者」であり「謎」である。生命学的には永遠に解けないであろう問いを、それらの存在は発し続け、それらの存在が消滅したあとでもなおわれわれに向けてその問いを発し続け、われわれからの応答を要求し続けるのである。われわれはその生命学的な問いに対して確定的な「答えが出ない」ということに、死ぬまで耐え続けなければならないのである。
  「誕生肯定」の可能性を外部から無理やり消滅させるようなもうひとつの種類の行為は、人々が悔いなく生き切るために保障されなければならない最低限の衣食住、環境、経済的基盤、安全、公正などを、彼らから奪うことである。さらに言えば、「悔いなく生き切る」ための保障どころか、「ただ生存し続ける」ための保障をすら奪われた人々が、開発途上国だけではなく、先進産業国の内部においてすらたくさん存在する。このような現状を積極的に維持したり、消極的に放置することは、彼らの「誕生肯定」の可能性を消滅させるものである。したがって、われわれは現在の社会システムを具体的に変革して、すべての人が悔いなく生き切ることができるための社会基盤を保障しなくてはならない。この点に異論をはさむ人はほとんどいないだろう。生命学が行なうべき社会運動・政治運動のかなりのパワーは、ここに注ぎ込むべきである。ここから生じる様々な問題点は、「生命の政治学」で解明される必要がある。
  以上、生命学の行為規範について概観した。そこには、社会倫理的な配慮の次元とは異なった、生命学的な配慮の次元が存在することがわかった。それと同時に、次のようなことも考えておかなくてはならない。「誕生肯定」の可能性を消滅させる行為をしてしまう傾向や、「根源的な安心感」を浸食する行為をしてしまう傾向は、ほかならぬわれわれ一人ひとりの内側にあるということである。思わず自己防衛をしてしまう自分はたしかに存在するし、障害のある子どもは生まれないでほしいと思う気持ちも自分の中に存在する。これらの傾向から完全に逃れられている人はほとんどいないのではないかと思われる。古来より宗教は、このような人間の本性のことを「悪」と呼んできた。キリスト教においても仏教においてもそうである。「悪」という言葉を使うことが許されるのならば、悔いなく生き切るための生命学には、独自の「悪」の定義があるということになる。すなわちそれは、(1)「誕生肯定」の可能性を求めて生きることを外部から暴力的に断絶する行為、および、(2)「根源的な安心感」を浸食するような行為や制度のことである。そしてこれらの「悪」は、われわれ一人ひとりの内側に存在していて、われわれを気づかないうちに背後からコントロールしようとする。さらに言えば、上記の「悪」を行なってしまったときに、われわれは往々にしてそのことを認めようとはせず、逆にみずからの行為が「悪」ではないと自己正当化をはじめようとする。自分が行なったことは「悪」ではないと自己正当化すること、これが第3の「悪」である。
  悔いなく生き切るための生命学が行なうのは、ただ単に他人の「悪」を指摘して、批判していくことではない。また「悪」の言葉によって、人々を抑圧していくことでもない。悔いなく生き切るための生命学が行なうのは、私をも含めた多くの人々が「悪」に陥っているときに、それを解体しようと試みることであり、人々を「悪」へと追い込んでいく社会の仕組みを解体しようと試みることである。そのときに忘れてはならないのは、「悪」は私をも含めたすべての人々の内側に潜んでいるということ、したがって、「悪」を行なう人間に対しては、私自身も同罪であるという自覚で対峙することである。さらには、「悪」はいったん解体されたとしても、つねにわれわれの内側から新たに沸き上がってくるということを知らなければならない。また、すべての人間は「悪」をはらんでいるから仕方ないんだ、という開き直りに陥らないことが重要である(23)。
  以上の話は、「誕生肯定」や「根源的な安心感」を破壊しようとする行為を、食い止めなければならないというものであった。では逆に、人々が「生まれてきて本当によかった」と思えるように、人々を積極的にサポートする次元についてはどうなっているのであろうか。これについては、一言で言えるような指針はない。なぜなら、ある人が「生まれてきて本当によかった」と思えるようになるために、まわりの人が具体的に何をすればいいのかを、演繹的な手法で知ることはできないからである。何をしてはいけないのかについては、ある程度のことは言えるが、何をすればよいのかについては、ほとんど何も言えないのである(ハンス・ヨナスが『責任の原理』で同様のことを指摘している(24))。したがって、積極的なサポートについては、まずは個々の人間が、具体的な人間関係と環境のもとで、それぞれ模索していくしかないことになる。そしてその後に、それらの経験を活かしながら、一般的に通用する考え方や手法を編み出していくのがよいと思われる。
  人々へのサポートに関して言えば、ここで検討しておくべき大きな論点がある。それは、私はどうして他人の「生まれてきて本当によかった」という思いのことまで考えなければならないのか、という問題である。私は、自分自身が「生まれてきて本当によかった」と思えるようになることだけを考えていればいいのではないか。さらに極端に言えば、他の人々が「生まれてきて本当によかった」と思うことができなくても、私だけが「生まれてきて本当によかった」と思うことができれば、それでいいのではないかという論点である。
  これを一般化すれば、私が「生まれてきて本当によかった」と思うことと、他人が「生まれてきて本当によかった」と思うことが、どのようにつながっているのかという問題になる。
  まず直観的に考えれば、私はけっして孤島の上でただひとり瞑想することによって「生まれてきて本当によかった」という境地に至るわけではない。そうではなくて、私は、私のまわりの大切な人々とのかかわりのプロセスのなかで、「生まれてきて本当によかった」という思いを抱けるようになるのである。この意味で、私の「生まれてきて本当によかった」の中には、まわりの人々の思いもまた混ざり込んでいるのである。したがって、私が自分のことを「生まれてきて本当によかった」と思えるのは、私の愛する人や親友もまた彼ら自身のことを「生まれてきて本当によかった」と思っているときだけだろう、というわけである。
  この考え方には説得力があるが、それでもなお二つの問題が生じてくる。ひとつは、たしかに私の「生まれてきて本当によかった」の中に、まわりの人々の思いが混ざり込んでいるのは事実だとしても、しかし私が「生まれてきて本当によかった」と思えるためには、なにもまわりの人々すべてが「生まれてきて本当によかった」と思えてなくてもかまわないかもしれないのである。まわりに「生まれてきて本当によかった」と思えていない人や、自己否定に苦しんでいる人が少々いたとしても、人は自分の死に際して「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えるくらい、図太い精神を持っているように思われるからである。このように考えを進めていけば、人は結局、他人のことはそれほど気にせずに、自分が「生まれてきて本当によかった」と思えるようになることだけを考えて生きていけばいいのだ、ということになるのではないか。
  もうひとつは、これとはまったく逆方向の問題である。仮に、まわりの人々の思いが、私の「生まれてきて本当によかった」の中に混ざり込んでいるのだとしよう。そのとき、もしまわりの人々すべてが「生まれてきて本当によかった」と思えてないのに、私だけが「生まれてきて本当によかった」と思えたとしたら、それは何か私の「間違った」思い込みなのではないかということになる。この考え方が極端に進めば、まわりの人々すべてが「生まれてきて本当によかった」と思えるようになるまでは、私もまた「生まれてきて本当によかった」という境地にいたることはあり得ない、というところにまで行き着くであろう。そして「まわりの人々」の範囲は、地球上すべてにまで拡大することだろう。これは、以前に述べた「宮沢賢治問題」と同型である。宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言った(25)。この文章の「幸福」を、「生まれてきて本当によかった」に置き換えてみるとよい。
  「宮沢賢治問題」は、直観的に理解しやすい。たしかに、虐待されている子どもたちや、絶望の中で自殺を試みようとしている人がたくさんいるときに、あるいは医薬品もなく死んでいく人々が世界中にたくさんいるときに、私ははたして「生まれてきて本当によかった」などと自分に向かって言えるのであろうか。自分が「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えるようになることを目指していまここを生き切ろうとするのが、悔いなく生き切るための生命学である。「宮沢賢治問題」は、悔いなく生き切るための生命学に突きつけられた刃であると言ってよい。
  この問題に対して、私は以下のように考える。
  たとえ「生まれてきて本当によかった」と思えない人々が私のまわりにいたとしても、私は死に際して「生まれてきて本当によかった」と心の底から思うことができる。そしてその思いは、虚偽でも、自己欺瞞でもなく、文字通り「生まれてきて本当によかった」という思いとして成立し得るのである。たとえ、私のまわりに虐待されている子どもがいたとしても、たとえ絶望の自殺を試みようとする人がいたとしても、たとえ医薬品がなくて死んでいく人々がいたとしても、それらの人々と共にあった私の生において、私は「生まれてきて本当によかった」と心底から思いながら自分の生を閉じることが可能である。たとえそれらの人々が私とともにいたとしても、私が「生まれてきて本当によかった」と思うことが可能だということ、私はそこに人間の「自由」というものを見る。これが、悔いなく生き切るための生命学における「自由」の意味である。人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などに囲まれていながらも、それにもかかわらず「生まれてきて本当によかった」と心の底から思いながら自分の生を閉じることのできる能力が人間には備わっている。その能力のことを私は「自由」と呼びたいのである。私はここで、「自由」というものに対して、新たな哲学的な意味を付与しようとしている。
  さらに考えてみよう。悔いなく生き切るための生命学は、次の二つの行為を区別する。すなわち、(1)人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などから目をそむけ、それらを忘却することによって自分は「生まれてきて本当によかった」という思いを得ることと、(2)人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などに直面しながらもなおかつ自分は「生まれてきて本当によかった」という思いを得ることを、区別する。ともに「誕生肯定」の営みであることには間違いはないが、「自由」の名に値する「誕生肯定」は後者のほうに限られる。なぜかと言えば、ここで言う「自由」とは、人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などと〈共にあり〉ながら、それでもなお「誕生肯定」を得る能力のことだからである。前者は、その意味での「自由」を行使する可能性から逃げ去り、退行していると言える。私は前者には高い価値を与えない。
  この意味で、「自由」の行使には、「責務」が伴うと言える。それは、人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などと絶えず共にあろうとする「責務」であり、そこからけっして目をそらさないという「責務」である。そのうえで、人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などに対して、何かの具体的な態度を取っていくという「責務」である。その具体的な態度がどうあるべきかという点については、一人ひとりの行動にまかされることになる。自分に何がどこまでできるのか、しなければならないのか、そういうことを各自で考えなくてはならない。
  ふたたび「宮沢賢治問題」に戻ろう。以上の考察より、悔いなく生き切るための生命学はこの問題に対してひとつの答えを出すことができる。世界全体が幸福にならなくても、私は幸福になることができる。それが人間の「自由」の意味である。虐待されている子どもたちや、絶望の中で自殺を試みようとしている人々や、医薬品もなく死んでいく人々が世界中にたくさんいるときであっても、私は死に際して「生まれてきて本当によかった」と心の底から思うことができる。世界の悲惨と苦しみに対して目をそらさずに関わることを前提として、私は世界の悲惨と苦しみと〈共にあり〉ながら、「生まれてきて本当によかった」と思うことができるということ、それが人間の「自由」の意味である。ただし、そのような「自由」を行使する人間は、それらの人々と共にあり、彼らから目をそらすことをせず、彼らに対して何かの具体的な態度を取っていくという「責務」が課せられるのである。そしてこのときの具体的な態度とは、〈みずからの既得権を解体しつつ〉、世界の悲惨と苦しみに対して、あるいは目の前の人々の悲惨と苦しみに対して、具体的に関わっていくという態度でなければならない。みずからの既得権を解体しつつ、世界の悲惨や苦しみと共にあろうとするときに、私が「生まれてきて本当によかった」と心の底から思うことができるということ、これが人間の「自由」の意味である(26)。
  個人主義的な「自由」の解釈と比較してみれば、本論文でいう新しい「自由」の考え方の独自性が、よりいっそうはっきりとするだろう。個人主義の立場に立てば、世界の悲惨と苦しみを目の前にしたときに、それに対して手をさしのべることもできるし、手をさしのべないこともできる、という選択能力が人間に与えられていることが「自由」の第一義的な意味だということになる。これに対して、森岡の生命学は次のように考える。世界の悲惨と苦しみを目の前にしたときに、みずからの既得権を解体しつつ、それらと共にあろうとするプロセスのただ中で、「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えることがあり得るということ、すなわち、「世界に悲惨と苦しみがあるから私は〈生まれてきて本当によかった〉と思うことができない」という束縛から私が「解放」され得るということ、それが「自由」の第一義的な意味なのである。私はこの考え方を、古来よりの「自由」の思想に、新たに付け加えたいと思うのである。
  ではもうひとつの論点、すなわち、人は、他人のことなどそれほど気にせずに、自分が「生まれてきて本当によかった」と思えるようになることだけを考えて生きていけばいいのだ、という点に関してはどうだろうか。
  まず確認しておくべきは、他人の「誕生肯定」の可能性を消滅させたり、他人の「根源的な安心感」を破壊したりしないかぎりにおいて、人は、他人の「悔いなき人生」のことを積極的に気にかけずに、自分のことだけを考えて生きていく「権利」を持っているということだ。しかしながら同時に言えることは、その権利行使は、けっして「自由」の行使ではないということである。なぜなら「自由」とは、共にある人々から目をそらさずに、みずからの既得権を解体しつつ、何かの態度を取っていくという責務を、人に課すものだからである。したがって、上記のように生きる人は、「自由」を奪われているということになる。その人は、「自由」を奪われた生を生きなくてはならないのである(27)。
  そのことを確認したうえでさらに考えてみたいのは、他の人々を「自分は生まれてこなければよかった」という絶望の気持ちに追い込むことを、なぜやってはいけないのかを、きちんと説明できるかどうかということである。たとえば、他人を絶望へと追い込むことによって、快楽を感じたり、「自分は生まれてきて本当によかった」という気持ちがふつふつと湧いてくる人はいるかもしれない。また、他人を絶望へと追い込むことによって自分もまた絶望へと突き進んでいくという「絶望のスパイラル」を、みずから好んで求める人がいるかもしれない。それらの人に対して、他人を絶望へと追い込むことをしてはならない理由を、示すことができるだろうか。
  まず社会的な次元で言えば、成人を絶望へと追い込むことがわれわれの社会で犯罪とみなされていないのならば、そして脅迫・名誉毀損・暴力・威嚇・拘束などが慎重に避けられているのならば、それらの行為を社会的に禁止する理由はどこにも見当たらないだろうということである。そして実際に、このような巧妙な絶望への誘導は、犯罪とはみなされない可能性が高いと考えられる。そして社会の隅々や、人間関係の裏側を慎重に眺めてみれば、このような悲惨な事例は、実にたくさん生じていることが分かるはずである。
  次に、そのような行為を行なう人間に関して言えば、もし彼らに向かって、「他人を絶望へと追い込むことは、その人の人生を台無しにしてしまうことになる」と言ったとしても、彼らは「自分はそれを望んでいるのだ」と答えるだろう。「別に殺すわけじゃないし」と答えるだろう。彼らに向かって、もしあなた自身が誰かによって絶望へと追い込まれたらどうするのだと問うたとしても、彼らは「自分がそうなるのはいやだが、他人がそうなるのはぜんぜんかまわない」と答えるか、さもなくば「他人も自分もともに絶望に落ちていくことを望んでいるのだ」と答えるだろう。このようにして、彼らを説得することもまた失敗するにちがいない。
  ここから分かることは、自由主義的な社会においては、他人を巧妙に絶望へと追い込んでいく個別の行為を社会的に禁止する原理的な理由は見当たりそうにないということであり、上記のような人々を説得してそれらの行為を自発的にやめさせることもまた難しいだろうということである。
  このことをよく理解したうえで、このような絶望への誘引を断固として拒否する方角へと「実践的に」立ち上がるところから、「悔いなく生き切るための生命学」はスタートするのだと私は考えたい。自分であれ、他人であれ、人を絶望へと追い込んでいくことはけっして許されない、という無根拠の確信があってはじめて、「悔いなく生き切るための生命学」はスタートするのである。その実践的な立ち上がりは、いわば無根拠に開始されるのであり、暗闇の一撃に似た原初点から開始されるのである。これは、これ以上さかのぼって根拠を示すことができない最終的な地盤なのであり、あらゆる思想や信念体系が内包している特異点である。「悔いなく生き切るための生命学」が、このような無根拠性の上に成立することを、われわれはけっして忘れないようにしなくてはならない。「悔いなく生き切るための生命学」は、この無根拠の確信に立ったうえで、最初の問い、すなわち〈他の人々を「自分は生まれてこなければよかった」という絶望の気持ちに追い込むことをなぜやってはいけないのか〉という問いに対して、最終的な根拠を示すことなく「それはしてはならない」と明言するのである。そしてたとえそのような行為が社会で犯罪とみなされなくても、それらの行為に対して、何かの働きかけを行なっていくのである。
  さて、これまでの考察によって、「人間の尊厳」と「自由」についての、新しい考え方を示すことができたように思う。すなわち、「人間の尊厳」とは、誰のどんな人生であっても、死に際して「生まれてきて本当によかった」と思える可能性が開かれているということであった。これは、「誕生肯定」を、人生の時間軸に沿って考えたときに見出されるものである。これに対して、「自由」とは、他の人々がどのような状況であろうとも、私は彼らとともにありながら、「生まれてきて本当によかった」と思うことができるということであった。これは、「誕生肯定」を、人々の共同性のもとで考えたときに見出されるものである。
  「誕生肯定」を時間軸で捉えたときに見出されるのが「人間の尊厳」であり、共同性の軸で捉えたときに見出されるのが「自由」である。また、人間にこの意味での「人間の尊厳」と「自由」が与えられているということは、それが人間にとっての「救済」となる可能性を示している。死の直前まで「誕生肯定」が開かれていること、そして、自分や他人がどのくらいつらく苦しくても、そのただなかで「誕生肯定」を得る可能性があるということ、これは限りある生を宿命付けられている人間にとって「救済」以外の何ものでもないであろう。この地点において、生命学はたしかに宗教性の次元と触れ合うことになるのである。(もちろんこれが宗教性の一断面でしかないことは言うまでもないが)。

     *

  長い考察となったが、ここでふたたび、生命学から見れば人生には「成功」も「失敗」もない、という点に戻りたい。これと並んで強調しておきたいことは、生命学から見たときには、「生きる目的」や「生きる意味」もまた一義的には決まらないということである。生命学は、その一般的な次元においては、(1)「生きる目的はあるのか、あるとすればそれは具体的には何か」という問い、そして(2)「生きる意味はあるのか、あるとすればそれは具体的には何か」という問いに対して、何の答えをも出さない。これはとても重要なことである。もしそれらの問いに答えが出されるとするならば、それは、各自の生命学の次元において、各自の責任において出されるべきであり、各自によって実際にその答えを目指して生きられるべきである。そこで出された答えは、けっして他の人間に押しつけてはならないし、一般的な命題、たとえば「人間が生きる意味とは××である」というような命題として提言してはならない。このような言葉を発してみたいというのは、生命について考える者がつねに駆られる誘惑のひとつであるが、生命学はそれを拒絶する。この点において、生命学は、「生きる目的」や「生きる意味」について、一般的で具体的な解答を与えようとする「人生論」や「ある種の生命哲学」と袂を分かつのである。
  さて、これまでの記述によって、悔いなく生き切るための生命学がいったい何を目指しているのかが分かってきたと思う。では、森岡の生命学は、具体的にはどのような作業を行なっていくことになるのだろうか。まず、1988年に生命学を提唱してから、今日に至るまで、私が行なってきたことすべてが森岡の生命学の具体的な知的作業の内容である。それについては、「補論2」に概観を示したのでご覧いただきたい。今後も、それをさらに発展させる形で思索を深めていきたいと思っている。
  まず、『無痛文明論』で行なったような現代文明批判を、今後も生命学の視点から行なっていきたい。とくに、人間の身体や脳に介入するようになったテクノロジーと、社会全体を監視するシステムの高度化が、果たしてわれわれの「誕生肯定」につながるのかどうかを正面から考えたいと思っている。また、本論文で何度も触れたように、現代社会における生と死と自然のあり方について哲学的に思索を深める「生命の哲学」というジャンルを作り上げたい。現在の「生命倫理」は、現場での判断指針の模索に重点が置かれるために、そもそも生とは何か、死とは何か、自然とは何かという問いが深められない欠点がある。それを補いつつ、さらに広い学問分野と接続させるためにも、「生命の哲学」が必要である。私は、生命学のひとつのアカデミックな営みとして、「生命の哲学」を構想している。そこでは、思想史研究からのバックアップも要請されることになるだろう。それとともに、人間が自然の中で生きるとはどういうことかについての思索も進めていく必要がある。「生命の哲学」は、環境思想をも重要な部分として含むのである。「生命とは何か」という問題は本論文では考察できなかったが、それについても本格的な考察を行ないたい。生物学、哲学、宗教などの知見をもとにして考えていきたい。また本論文では不完全にしか行なえなかった、「加害―被害」と「生きづらさ」についてもさらに考察を深める必要がある。
  また、われわれの「生命観」についての実証的な研究も進めたいと考えている。その一部は英語論文「The Concept of Inochi」として発表したが、その研究をさらに進めたい。そのプロセスにおいて、われわれは様々な生命観・死生観と出会うことになるだろうし、「生まれてきて本当によかった」ということの実質的な内容とも出会うことになるだろう。また、この作業をとおして、森岡の生命学は狭義の学術的世界の外部へと解放されることになるかもしれない。
  「悔いなく生き切るための生命学」という言葉には、非常におおげさな響きがある。なぜなら、特別な学などなくても、自分の人生を悔いなく生き切っている人はたくさんいるからである。いままで好きなように生きてきたから、いつ死んでも悔いはないと語る人も多い。しかしながら、どうしようもない生きづらさをかかえて、自分の人生を模索している人もまたたくさんいる。「悔いなく生き切るための生命学」は、後者のような人々を勇気づけるような学へと成長しなければならない。

おわりに

  以上で、「生命学とは何か」の原理論の部分が終わる。これに引き続いて、生命学の「学問論」と「実践論」が書かれなければならないが、大部になるので、それについては本論文の続編として発表することにしたい。また、ここまで述べた内容についても、それは現時点における試作品にすぎない。読者からの意見や批判を聞きながら、さらに大幅に書き直していきたいと考えている。
  学問論と実践論について簡略に触れておけば、まず生命学がなぜ「学」と呼ばれるのかについて考えなければならない。また、それが、現代の標準的な学問形態である「自然科学」とどのように異なるのかについても、明確にしなければならない。そのうえで、既存の諸学に対して、生命学がどのように切り込んでいけるのかを考えたい。臨床心理学や経済学や社会学などに対して、生命学はある種のインパクトを与えることができると思われる。また、「悔いなく生き切ること」を中核として、関連する諸学を統合化することも可能であるように思われる。生命学はその意味で、真の総合研究となり得るのである(28)。
  次に実践論について言えば、生命学が開花するのは、学術においてだけではない。むしろ学術の外でこそ生命学は多様に開花するように思われる。「自分をけっして棚上げにしないこと」や「悔いなく生き切ること」を中心に据える生命学は、たとえば、音楽、身体芸術、文学などのアートの領域でどのような役割を果たすのであろうか。また、それは、医療の現場、看護の現場、福祉の現場、サイコセラピーの現場などにおいて、何かの扉を開くかもしれない。生命学の営みは、教育の場でどのようにはたらくのだろうか。宗教と生命学の対話は、もっとも実りの多い領域のひとつとなるであろう。また意外かもしれないが、生命学と「仕事」というのも大事な領域であると思われる。このほかにも、私がいま気づいていない様々な開花領域がたくさんあるはずだ。それらについても、読者からのサポートを得ながら考えていきたい。
  以上で、本論文を終えることとしたい。

補論1・私語りについて

  本論で述べた「私語り」には、負の側面があることも認識しておかなくてはならない。とくに他人に向かって自分のことを語る場合、どうしても自分に都合のよいような物語を作り上げてしまいがちである。その物語は、それを聴いてくれる他人との関係性のただ中で作り上げられるのであるから、物語によってその人をコントロールしようとする欲望が出てくる危険性がある。物語は、あるときにはナルシスティックになり、あるときは自虐的になり、あるときは相手を飲み込む洗脳的なものになるかもしれない。私語りを本や印刷物にするときも同じである。
  また、グループで生命学的なディスカッションをするときに、私語りの手法が用いられることがある。これも有効であると同時に、危険な面がある。私語りによってその場をコントロールしようとする駆け引きがはじまることもあるし、私語りをしないメンバーに向かって私語りの暗黙の強制をする結果になることもある。過剰なナルシシズムがその場を白けさせることもある。
  なぜそれらが危険なのかというと、そのような状況では、「私語り」が自分を棚上げにせずに考えることへと結びつくのではなくて、まったく別種の情念へと結びついていくからである。たとえばそれは、自分と他人の関係性や、グループの中での自分の位置などを自分の望み通りに調整したいという、本来の目的とはまったく離れた情念に取って代わられる危険性がある。
  とくにグループ内で私語りをするときには、語る私は非常に「弱く」「敏感に」なることがある。そうしたとき、弱くなった者は過度に感情的になったり、攻撃的になったり、過度の同調を求めたりすることがある。そうなると、グループの良好な関係性を維持するために、メンバーは非常に大きなエネルギーを割かねばならなくなる。
  これらの負の側面があるのだが、それを充分に認識したうえで、かつ、その負の面を回避するスキルがメンバーにある程度備わっているのならば、私語りは、自分を棚上げせずに考え、自分を棚上げせずに他人とやりとりをしていくための有益な手法になるはずである。それだけではなく、「語り」によって人間のあいだの関係性を再構築していくことを目指すナラティブアプローチと連動させれば、さらに有益な結果が導かれる可能性がある。
  さて、本論で、私語りは必須ではないと述べた。この点については、慎重な配慮が必要である。人は、どういう動機から、生命について深く考えたいと思うようになるのだろうか。生命というものへの驚嘆や感動から、生命について考えたいと思うようになることもあるだろう。しかし動機はそれだけではない。自分や身近な人の生と死、暴力や殺戮などによって心に深い傷を受けた人が、それを解決するために、あるいはそのテーマから離れられずに、生命についての思索へと導かれてくることがある。そのような場合、「私語り」は、その人にとって大きな負担を課することとなるだろう。その人が「私語り」をすることがその人にとって負担になるだけではなく、その人の前で他の人が「私語り」をすることもまた、大きな負担となるのである。なぜなら、他の人が「私語り」をするのを見ることによって、自分の心の奥底に秘めていた記憶が意に反して浮上して、コントロール不可能になるかもしれない。あるいは、自分も同じように「私語り」をして、心の傷について告白しないといけないのではないか、という心理的な圧迫を感じるかもしれない。そして、そのような心理的圧迫が生じるかもしれないということを予感して、生命学からは距離を取りたいと思うようになる可能性もある。自己否定感の強い人の場合は、私のことをきちんと語れない自分というものに幻滅するかもしれない。
  自分自身に対する「私語り」は生命学において必須であるが、他人の前での「私語り」には慎重な配慮が必要である。もちろん、信頼できる他人の前で自分について語ることによって、その人が新たな状況へと突破できることはあり得る。しかしそれに過大な期待をかけてはならない。すでに述べたように、過大な期待をかけることによって、自分を棚上げにしない思索は、まったく異なったものへと変質してしまう危険性があるからである。

補論2・森岡の生命学の軌跡

  補論2では、そもそもどうして私が生命学という新たな学問を構想しなければならなかったのかについて、これまでの経緯をまとめておきたい。生命学がどのようにして作り上げられてきたかを知ることは有益であると思うからである。
  1980年代に生命倫理の問題を研究しはじめたとき、私は大きな問題にぶつかった。私は当時のアメリカ合衆国の生命倫理学の論文を多数読んだのだが、倫理的に何が正しくて何が間違っているのかを緻密に議論する彼らの論文に、大きな閉塞感をいだいたのであった。なぜなら、正邪・善悪を理屈では分かっていたとしても、人間は実際にはそのとおりには行為できないものである。「分かっているけど、できない」というのが人間の真実であるのに、生命倫理学は人間をそのような総体として捉えようとしない。そんなことでは、泥沼のような人間の生と死を正面から考えることはできないのではないかと思ったのだった。かといって、いくら倫理を説いても結局は無駄だというような開き直りにも陥りたくなかった。正論にも開き直りにも陥らないような道が必要ではないかと思った。
  理詰めで正論ばかりを説く論者に対しては、ではあなた自身はいままでどのように生きてきたのか、そしていまどのように生きているのかと問いたい気持ちになった。「私はこういうふうに生きていきたい」という願いと、「しかし実際はそのように生きていけない弱い私がいる」という現実の、そのあいだで揺れ動く人間の姿というものが、生命倫理学ではほとんど捉えられていないように思えた。「考えること」と「実際に生きること」のあいだにある切実な緊張関係から出発する学問が必要なのではないか、と私はそのときに思った。私はそのようなスタンスに立つ学問を「生命学」と呼ぶことにした。私の最初の本『生命学への招待』(1988年)には、その決意がナイーブな形で表明されている。

 生命学は、「学問」というもののあり方に、一石を投じることができるのではないか、と考えることがある。生命学とは知識をただ与える学問ではなく、生命を持った私・私たちが、生命のただ中で生きてゆく、その生き方に何かを与える学問なのではないだろうか。言い換えれば、知ることがすなわち生きることにつながり、生きることがすなわち知ることへとフィードバックされてくるような学問のあり方を、示唆しているのではないだろうか。真理を追求する学問から、私たちが生きるための学問へ。(29)

  「知ること」と「生きること」のあいだの緊張関係というのは、古来からの哲学の根本問題であるが、私は生命倫理の問題を考えていくなかで、その問いに正面からぶつかってしまったのであった。生命学の原点は、ここにある。この意味で、生命学は、生命倫理学の限界を内側から破ろうとする試みとして誕生したと言える。そして、生命についての思索をもっと学際的に開いていこうという意図があった。米国の生命倫理学は、自然環境の問題を扱わなかったし、非常に窮屈なものであった。
  またこの本のなかで私は「姥捨山問題」という問題提起をした。われわれは、これから襲ってくるであろう苦しみから逃れるためならば、あるいはいまよりも楽になるためにならば、少々他の人々が犠牲になっても仕方ないし、目に見えないところの人々が死んでしまっても仕方ないと思っているのではないか。中絶問題、老人施設問題、南北問題などはそのようなわれわれのエゴイズムから生まれるのではないか。そしてさらに大事なことは、そのようなエゴイズムを行使する自分の姿から目をそらすための仕組みが、この社会の中には埋め込まれているのではないか。私は、このような、人間のエゴイズム、苦しみからの逃避、それらを内在させた自分の姿から目をそらさせる社会の仕組み、が合体したもののことを「姥捨山問題」と呼んだのであった(30)。生命学には、当初から、人間のエゴイズム、苦しみ、それらから目をそらさせる社会の仕組み、というものへの問題意識があった。これは、その後の私の思索の根本テーマのひとつとなり、後の「無痛文明」というアイデアへと結実することとなる。
  その後、『脳死の人』(1989年)では、脳死と臓器移植の問題を、人と人との関わり方という面から捉えなおす作業をした。脳死問題を「関係性」の視点から考察するというのは、それまでの生命倫理学には乏しかった発想であり、生命学的な視点が生かされたものとなった。また『生命観を問いなおす』(1994年)では、もっと長く生きたい、もっと快適な生を送りたいというわれわれの「欲望」と、それを具体化するための社会システムが、みごとに結びつくことによって、現代の病理が生まれてきていると主張した。「欲望」の問題が、生命学のテーマとして浮かび上がってきたのである。
  1995年のオウム真理教事件を見たとき、私はそれを他人事とは思えなかった。ひとつ間違えば、私も彼らと同じような事件を起こしていたかもしれないと痛切に思った。この汚れた世界のなかで生きる意味を見つけようとしていた彼らが、どうして大量殺害事件を起こしてしまったのか。それを考えることは、他でもないこの私自身を考えることでもあった。私は『宗教なき時代を生きるために』(1996年)で、私自身のそれまでの人生を自己告白的に語りながら、科学と宗教の問題に迫っていくという手法を取った。そうすることによって、オウム真理教という事件を、いまここで生きている「この私の人生」と切り離すことなく考えることができると思ったからである。これによって、生命学に、「自分語り」の手法が導入された。私がなぜこの問題を考えるのか、私がこのテーマを考えようとしている必然性はどこにあるのか、私はいままでどのように生きてきたのか、そしてこれからどのように生きていくつもりなのか。その地点から考えはじめることで、「考えること」と「実際にこの私が生きること」を、固く結びつけたまま学問をすることができると思ったのである。
  翌年の『自分と向き合う「知」の方法』(1997年)で、私はそれを「自分を棚上げにしない」思想と呼んだ。

 この本で、私が言いたいのは、自分を棚上げにする思想は終わった、ということだ。・・・(中略)・・・人は、ものごとを、自分に都合のいいように正当化しよう、正当化しようとする。私もまた、そういう罠に、何度も落ちてきた。だから、「自分のことを棚に上げて考えよう」とか、「自分に都合のいいように正当化しよう」という無意識のこころのはたらきが出てきたときに、それを最後のぎりぎりのところで食い止められるような知性が、いまどうしても必要なのだ。(31)

  「自分を棚上げにしない」というキーワードが、こうして登場した。本論でも述べたように、これが生命学を生命学たらしめている、最大の特徴なのである。自分を棚上げせずに、学問をしていくとは、いったいどういうことなのか。その問いに答えるのが生命学なのである。自分を棚上げにしないなんて、簡単で当たり前のように見えるが、実はこれこそが、現在のアカデミズムの学問のアキレス腱なのである。これこそが、いま学問を考えるうえでの急所である。自然科学は自分を棚上げすることによって成立している。社会科学もまた、自分を棚上げする方向へと学問を洗練させてきた。生命学は、それとは逆の道を行くのである。
  同書から、別の個所を引用してみたい。

 このように「生命」を問うとは、やがて死ななければならない私自身の生と死を問うことであり、私という生命が組み込まれているところの現代社会について考えることであり、このような社会を生み出してきた我々の歴史を捉えることであり、そして私がそこから生まれ、そこへと死んでいくところの地球生命圏について考えることでもある。それらの問いを、ばらばらに考えるのではなく、お互いに深く連関し合ったひとつながりの問題群として考えていくこと。それが「生命学」の基本である。そのときに大事になるのが、まさに、自分を棚上げにしない思索なのだ。(32)

  いまここで生きる自分を棚上げにせずに、自分自身の生と死について考え、それを支える人間や社会や歴史について考え、それを取り囲む自然世界について考え、そうやって考えながら、いまここでの自分自身の生を吟味して生きていくのが生命学であるということだ。
  このような意味での生命学を強烈に実践していた人々がいた。それは、1970年代のウーマン・リブの女性たちと、脳性マヒ者の青い芝の会の人たちである。私は彼らが書いた資料を調査して、彼らから多くを学んだ。『生命学に何ができるか』(2001年)はその報告である。彼らは自分たちがなぜ生きにくいのかを突き詰めて考えた。それは、彼らが、自分は生きる価値がないという自己否定の状態に追い込まれているからだ。彼らをそのような状態に追い込んでいるのは、この社会のマジョリティの人々と、それらの人々によって作られたこの社会構造である。だから、自分たちが自己肯定して生きることができるようにするために、つまり「ありのままの自分でいていいんだ」と心から思えるようになって、実際に生き生きと生きていけるようにするために、この社会を変えていかなくてはならないと彼らは考えた。と同時に、彼らは、マジョリティの人々がもっているのと同じエゴイズムや欲望や悪を、自分たち自身も持っているということから目をそらさなかった。外側にいる敵と戦うだけでなく、みずからの内なる敵とも戦う必要があると彼らは考えた。これが彼らの生命学である。また彼らは、他者によって自分たちの考え方や行動の矛盾を突きつけられたときに、「揺らぐ」ことが大事だと考えた。首尾一貫した自己を守るのではなく、他者と出会い、衝突し、揺らぎながら前進してゆくことこそが、自分を棚上げにせずに生きている証拠だ、と彼らは言いたかったように私には思える。
  この『生命学に何ができるか』は、生命倫理への、生命学からのアプローチという内容の本である。生命倫理の諸問題に対して、生命学からどのような寄与ができるかを様々に探求したものである。新優生学によって「根源的な安心感」が奪われていく、などの重要な問題提起も行なったので、その詳細については同書を見ていただきたい。
  この本の最終章で、私は生命学のアウトラインを書こうと試みた。その内容は多岐にわたるが、そこからいくつか抜き出してみたい。まず私は、生命学を、「私が、限りあるかけがえのないこの人生を、悔いなく生き切るための知の運動」として捉えた。かぎりある人生を「悔いなく生き切る」というキーワードがここに登場する。一度きりしかない、このかけがえのない人生を、悔いなく生き切るために必要とされる知が生命学であり、また、悔いなく生き切ろうとすることそれ自体が生命学である。

 これは、欲望や、悪や、死などの限界性を背負ったわれわれが、現代文明のなかで悔いのない人生を生き切るとは、いったい何をすることなのかを探求してゆくことである。そしてその探求を原動力にして、実際に、悔いのない人生を生きてゆくことである。(33)

また、このようにも書いた。

 生命学は、自分の実人生における問いの明確化と、それへの決着を優先させる。悔いなき人生を生き切ることが生命学の目標なのだから、自分が発見したことを自分自身の人生に反映させて、みずからの人生に決着を付けることを最優先させなければならない。そのような私の行為は、私のその後の人生をとおして、人々へと伝わっていく。論文や、作品を書き残すことのみが学問なのではない。みずからの生に決着を付けながら生き続けることそれ自体が、学問となりえるのである。「自分を棚上げにしない思想」とは、このことを指している。(34)

このことは、さらに以下のように展開される。長くなるが引用しておく。

 まず、私の「生き方」としての生命学というものがある。このように言うと、生き方そのものはけっして「学問」にはならないという反論が返ってくる。それに対して、私はあえて、生き方そのものが学問の営みと融合しているような学問は存在し得ると答えたい。ある学問が生命学であるためには、その成果が自分自身の人生において実際に生きられることが必要となる。生命学とは、そもそも、そのような学問として構想されているのである。自分の人生へのフィードバックなしでも成立するような机上の思弁や、論理ゲームや、自分を棚上げにした実証研究・自然法則探求は、生命学にはならない。・・・(中略)・・・悔いのない人生を生きるために発案されたことは、実際に自分の人生において実験し、その効果を我が身をもって検証する。そして、自分の実人生での実験・検証の結果を公開し、生命学を営んでいる他の人々とその結果をめぐって対話し、お互いに学び合ってゆくのである。・・・(中略)・・・生命学は、自分自身の人生における実験と検証によって、独断を排そうとする、一種の「実験学」なのである。自然科学は、外部世界を実験の対象とした。認知心理学は、他人を実験の対象とした。生命学は、最後に残された自分自身を実験の対象にするのである。生命学においては、自分自身が、自分自身の実験動物になるのである。(35)

  自分を棚上げにしないとは、考えたこと、提唱したことを、かならず自分自身の実際の人生に当てはめてみるということであり、その結果分かったことをふたたび思索の材料にしていくことである。そして、そのプロセスを人々と分かち合い、伝えていくことである。このように、自分自身の人生を実験台とするという意味で、生きることそれ自体が学問であると論理的に言えるのである。生命学を一種の実験学として捉えることで、「考えること」と「実際に生きること」を学問の名のもとに結合させることができるのである。この発想は、今後の学問論や科学論に大きな示唆を与えることになるだろう。
  2003年の『無痛文明論』は、それまでの私の思索の集大成であり、もっとも重要な本である。私にとって生命学をするとはどういうことかを、この本で具体的に書いた。苦しみやつらさから逃げ続けるための仕組みが、この社会の隅々に埋め込まれているような文明にむけて、私たちは邁進している。その社会は、私たちに気持ちよさと安楽さを与えるが、それと引き替えに、深いよろこびを奪っていく。そのような状況下で、私たちはどのようにして悔いのない人生を生き切ればよいのか。「深層アイデンティティの解体」と「私が私であるための中心軸」、「身体の欲望」と「生命の欲望」などの考え方が全面展開された。無痛化を支えるテクノロジーと文明のあり方をあぶり出した。そして私たちひとりひとりが、無痛化する社会とどのように戦えばいいのか、どのように生きればいいのかを問いかけた。森岡にとっての具体的な生命学の営みのひとつが、これである。しかし無痛文明論をもって、「生命学」のモデルとみなしてはならない。本論文の読者たちにとっては、生命学はまったく違った形をとることになるはずだ。それぞれの人たちに、それぞれの生命学がある。
  2005年には『感じない男』というセクシュアリティ論を書いた。『宗教なき時代を生きるために』で用いた「私語り」の手法を、ぎりぎりまで押し進めたものである。私は自分が男の身体へと成長したことを、自己肯定できていない。したがって私は生きにくい。そのことが、どのようなねじれとなって私のセクシュアリティに影響を与えているかを、自己分析して、これからの生き方を探った。この本もまた、森岡にとっては生命学のひとつの実践である。
  このように、本論文で語られたアイデアの多くが、私のこれまでの思索の中に、萌芽的な形で含まれている。また、これらの本で書かれた内容と、それを書きながら生きてきた私の実人生が、私にとっての個別的な生命学の具体的な内容であったということができる。

(1)哲学的に言えばこれは「独在的存在者」のことである。森岡正博「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味」池上哲司・永井均ほか編『自己と他者』昭和堂 1994年 110〜132頁。<http://www.lifestudies.org/jp/kono01.htm>
(2)森岡正博『感じない男』ちくま新書、2005年
(3)Masahiro Morioka, The Concept of Inochi: A Philosophical Perspective on the Study of Life, Japan Review vol.2 (1991):83-115 <http://www.lifestudies.org/inochi.html>
(4)森岡正博『宗教なき時代を生きるために』法藏館、1996年
(5)森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003年、参照。
(6)森岡正博『感じない男』参照。
(7)森岡正博『無痛文明論』参照。
(8)「悔いなく生き切る」ことの重要性をはやくから主張したのがニーチェであろう。だが、彼は悔いなく生き切ることを可能にするために「永劫回帰」という装置を必要とした。私は、神なき時代の自己肯定を追究したニーチェの姿勢には深く共鳴するが、彼が「永劫回帰」という虚構を要請した点には賛同できない。
(9)相田みつを『生きていてよかった』ダイヤモンド社、1998年
(10)森岡正博『生命学に何ができるか』344頁
(11)森岡正博『生命学に何ができるか』364〜366頁
(12)『朝日新聞』大阪版、2006年10月29日夕刊
(13)『朝日新聞』大阪版、2006年5月2日朝刊
(14)フランクル『それでも人生にイエスと言う』春秋社、1993年
(15)『朝日新聞』大阪版、2006年10月15日夕刊
(16)カント『人倫の形而上学への基礎付け』。なお、カント自身はいわゆるパーソン論を否定しているとする保呂の議論は注目に値する。保呂篤彦「人間の尊厳をめぐって−バイオエシックスとカント」『岐阜聖徳学園大学紀要(教育学部編)』第42集、2003年、1〜15頁
(17)森岡正博『生命学に何ができるか』344頁
(18)虐待の被害者は胎児や受精卵ではなく、いま生きている障害者たちである。
(19)森岡正博『生命学に何ができるか』参照。
(20)森岡正博『無痛文明論』参照。
(21)フロム『悪について』紀伊國屋書店、1965年(原著1964年)
(22)『脳死の人』では、家族による看取りの重要性を強調した。なお脳死の病態と問題点については『生命学に何ができるか』で詳述したので参照してほしい。植物状態については、回復の可能性があるので、本文中のカテゴリーには属さない。
(23)「悪」という言葉は抑圧的なので、頻繁には使用しないほうがよいかもしれない。しかし上に述べたように、「悪」という言葉を使うことによってクリアーに見えてくる事柄もある。このような文脈では、「悪」という言葉で考えていくことも妥当であると私は考えたい。しかし同時に、私は、「実体としての悪」が人間の内部に刻印されているとは考えない。ここで私が「悪」と呼ぶものは、人間がめったにまぬがれ得ないところの傾向性のことである。それが根深いことは歴史が証明している。だがその一方で、上で定義したような悪の具体的な中身を考えてみるに、そこには社会的に構築され規定されている面があることは明らかである。その両面から見ていく必要がある。
(24)ヨナス『責任の原理』東信堂、2000年(原著1979年)。
(25)宮沢賢治「農民芸術概論綱要」『宮沢賢治全集10』ちくま文庫、1995年、18頁
(26)〈みずからの既得権を解体しつつ〉という箇所は、拙著『無痛文明論』の「暗闇の中の自己解体」の思想を下敷きにしている。
(27)また同時に着目すべきことは、経験上、自分が「生まれてきて本当によかった」と思えるときに、人は自分だけでなく他人のことをもまた深く配慮していることが多いであろうということである。自分のことだけを考えていて、その結果として自分が「生まれてきて本当によかった」と思えるようになるケースは、少ないであろうということである。
(28)総合研究については拙論「総合研究の理念」(『現代文明学研究』第1号(1998):1-18)参照。
(29)森岡正博『生命学への招待』勁草書房、1988年、15頁
(30)同書、第10章
(31)森岡正博『自分と向き合う「知」の方法』ちくま文庫、1997年、2006年、1〜2頁
(32)同書、37頁
(33)森岡正博『生命学に何ができるか』401〜402頁
(34)同書、403頁
(35)同書、421〜424頁