現代文明学研究ホーム現代文明学研究とは規定書誌執筆者一覧

現代文明学研究:第8号(2007):487-499
「脳死は一律に人の死」なのか?
:臓器移植法改正「中山案」を解剖する
倉持武


 ←印刷用のPDFファイルをダウンロードできます(頁番号付き)


 

T 法案の通称について

現在開催中の第166回国会では二つの「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案」が審議されている(2007424日現在) [] 。衆第14号議案 [] と衆第15号議案 [] である。両法案は共に2006331日に第164回国会に提出されたものであり、一方は中山太郎氏外5名によって衆第14号議案として提出されたもの、他方は斉藤鉄夫氏外3名によって衆第15号議案として提出されたものである。衆第14号議案は、河野太郎氏と福島豊氏が法案を作成し、200588日、第162回国会最終日に中山氏外3名によって衆第38号議案として提出され、審議未了となった法案 [] が、第164回国会に再提出されたものであり、衆第15号議案は同じく第162回国会最終日に斉藤氏外3名によって衆第39号議案として提出され、審議未了となった法案 [] が、第164回国会に再提出されたものである(以下衆第○号議案の「衆」は省略する)。

これまで、同一名称の二つの法案を区別するために通称が用いられてきた。第14号議案はA案あるいは河野・福島案、第15号議案はB案あるいは斉藤案と呼ばれてきたのである。第15号議案をB案あるいは斉藤案、第14号議案をA案と呼ぶことにはまったく問題がない。しかし、第14号議案を河野・福島案と呼ぶことには抵抗があると感じる者がいるかもしれない。議案提出者である中山太郎氏外5名の外5名とは津島雄二、大村秀章、山内康一、富岡勉、福島豊の5氏であって、福島氏は入っているが、河野氏は入っていない。第164回国会への法案提出時、法案の実質的作成者である河野氏は法務副大臣の職にあって(200511月就任)議案提出の資格を失っていたからである。

問題は法案の通称を法案の実質的作成者に基づけるか、法案の提出者に基づけるかということになる。河野氏自身は第14号議案が第164回国会に提出されるまではこれを「河野・福島案」と呼んでいた [] 。しかし、法案提出者の中に名前のない者の名を、公的性格を多少なりとも有する当の法案の通称として使うことには無理があると思うし、国会でも「中山案」と呼ばれることが多いということなので、本拙論では第14号議案を中山案、第15号議案を斉藤案と呼ぶことにしたいと思う。

U 斉藤案

  斉藤案は第162回国会第39号議案から変わっていない。斉藤案の骨子は、有効提供意思表示年齢の現行の15歳以上から12歳以上への引き下げ、「親族への優先提供の意思表示」および「移植医療に関する教育の充実、啓発等」の規定の新設である。

現行法では、有効意思表示年齢は「「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン)」 [] (以下ガイドラインとする)の第1「書面による意思表示ができる年齢に関する事項」で規定されており、「15歳以上の者の意思表示を有効なものとして取り扱うこと」とされている。斉藤案は有効意思表示年齢に関する規定をガイドラインから「臓器の移植に関する法律」本文に移し、第6条第1項を、現行法に傍点部分を加えるかたちの、「医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合(当該意思の表示が十二歳に達した日後においてなされた場合に限る)であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。」に改定することを提案する [] 。斉藤案は臓器提供および脳死判定に関する本人意思表示原則を堅持したうえで、有効意思表示年齢の引き下げと有効意思表示年齢規定の移植法本文への書き換えを主張しているのである。

親族への優先提供の意思表示は、第6条第2項として「移植術に使用されるための臓器を死亡した後に提供する意思を書面により表示している者又は表示しようとする者(十二歳に達した日後において当該意思を表示した者又は表示しようとする者に限る。)は、その意思に併せて、親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思を書面により表示することができる。」を新設するというかたちで提案されている。なお、移植医療に関する教育の充実および啓発等については第17条第2項で規定される。

V 中山案

   斉藤案と同様「親族への優先提供の意思表示」および「移植医療に関する教育の充実、啓発等」の規定の新設を提案する中山案にも第162回国会第38号議案からの変更点はない。

中山案に関して重要な点は、中山案には第162回国会第38号議案のたたき台となった「河野私案」(以下河野案とする) [] とは重要な違いがあるように見える、ということである。200312月に公表された「河野案」と2005年の第162回国会第38号議案および中山案を比較すると、「河野案」では明確に「脳死は一律に人の死」とされていたのに対して、第38号議案および中山案ではこの点が修正されているように見えるのである。法案の実質的な作成者である河野氏もご自身の2005523日付メールマガジン『ごまめのはぎしり』で、第38号議案となった「河野・福島案」について、「そう単純に脳死は人の死ではない」というタイトルの下に、「現行法では、法的脳死判定が行われても、臓器提供をする者は死んでいて、そうでない者は死んでいないという同じ状態でも生きている場合と死んでいる場合がある [10] 」という現行法に対する解釈を加えつつ、「検討会のたたき台となったもとの河野案は「脳死は人の死」という案である。脳死判定は医者の医療行為であるから、医者が必要だと思えば法的脳死判定を行うことができ、そこで脳死と判定されれば死亡届が提出されるという案である。検討会ではここを大幅に修正した・・・脳死状態であっても、「法的脳死判定」が行われない以上、脳死にはならない。だから、脳死を人の死と考えない人は「脳死」にはならないことになる」と説明しているのである [11]

しかしながら、当の代表法案提出者である中山氏は、ご自身の第164回国会への第14号議案提出日である2006331日付ホームページで、中山案は「現行法とは異なり、脳死を一律に人の死とします」と明記しておられる [12] 。また、中山案に反対の立場をとる元脳死臨調参与の光石忠教弁護士も中山案は脳死を一律に人の死としていると受け取っておられる [13]

  中山氏がホームページでこのような説明をされている根拠はわからない。光石氏のお考えの理由を個人的にいただいたメールから推測すれば、光石氏は、「中山案は「脳死した者の身体」の定義として、現行法の「その身体から・・・者であって」を削除して、臓器摘出の場面に限定している現行法を、単に「脳幹を含む・・・」と定義し直し、死体に含まれると規定している」、つまり中山案は第6条第2項の改定を通して、脳死を、臓器摘出の場面への限定を解除するという仕方で一般化している、そして、中山案第6条第2項は「脳死の定義」であり、一方、同条第3項は「意思表示の問題」であるから、両者は明確に区別されなければならない、と考えておられるようである。中山案は、@第6条第1項に、第二号「死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき」を付け加え、さらに、A現行法第6条第2項「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう」を、「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」を削除し、「もの」を「者」に変えたかたち、「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう」に変更し、B第6条第3項に、第二号「当該者が第1項第一号に規定する意思(筆者注:死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思)を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき」を付け加えている。光石氏は、第2項と第3項は別問題と捉えられたうえで、Aを重視して、中山案は「脳死は一律に人の死」としていると考えておられるようなのである。

  中山案は「脳死は一律に人の死」としているのだろうか、それとも中山案においても、死亡判定としての法的脳死判定が行われるのは、提供意思表示主体はともかくとして、現行法どおり、臓器提供が前提される場合だけなのだろうか。つまり、中山案が成立すれば臓器提供とは関係ない法的脳死判定が医師の裁量権の範囲内のものとして行われるようになり、そこで脳死と判定されれば、一切の治療が打ち切られ、直ちに死亡診断書が書かれるようになるのだろうか、それとも、中山案は、ただ臓器提供およびそのための脳死判定に関して本人意思表示原則を否定して、遺族の意思だけで臓器提供もそしてそのための脳死判定も可能とする家族・遺族意思表示原則を主張しているだけなのだろうか。さらに言い換えれば、中山案は、「臨床的脳死判断」(「ガイドライン」第41「主治医等が、臨床的に脳死と判断した場合」)と「法的脳死判定」(「ガイドライン」第71「法に規定する脳死判定」)の区別を消し去り、さらに、「臓器の移植に関する法律」の目的規定である第1条「この法律は、臓器の移植についての基本的理念を定めるとともに、臓器の機能に障害がある者に対し臓器の機能の回復又は付与を目的として行われる臓器の移植術(以下単に「移植術」という。)に使用されるための臓器を死体から摘出すること、臓器売買を禁止すること等につき必要な事項を規定することにより、移植医療の適正な実施に資することを目的とする」、および「ガイドライン」第5臓器移植にかかわらない一般の脳死判定に関する事項「法は、臓器移植の適正な実施に関して必要な事項を定めているものであり、臓器移植にかかわらない一般の脳死判定について定めているものではないこと。このため、治療方針の決定等のために行われる一般の脳死判定については、従来どおりの取扱いで差し支えないこと」という、「臓器の移植に関する法律」の目的と枠組みに関する説明を無視して、「法的脳死判定」と実質的に同一な、無呼吸テストを含む脳死判定一般を、臓器提供の有無にはかかわりなく、医師の裁量権の範囲内のものとし、この脳死判定に対して三徴候死死亡判定と同一の権能を与えるものなのだろうか、それとも、死亡判定としての脳死判定を、現行法通り、臓器が提供される場合に限って認めるものなのだろうか。

この点に関する理解は重要である。中山案は、脳死を「一律に」人の死としているのか、それとも臓器提供およびそのための脳死判定に関して本人意思表示原則を否定し、家族・遺族意思表示原則を提案しているだけ、つまり意思表示原則を守ったうえで意思表示主体の拡大を提案しているだけであるのか、この点に関する理解いかんは国会での審議に大きく影響するところである。中山案を精確に理解するために、中山案および第162回国会第38号議案と、そのたたき台となった通称河野案つまり「臓器移植法改正河野私案要綱」および「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案新旧対照表」との比較を試みてみよう。

W 河野案200312月公表「臓器移植法改正河野私案要綱」および「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案新旧対照表」)

  これまでの記述から理解できるように、河野案はそのままのかたちで国会に法案として提出されたことはない。2003年に公表された河野案は、検討会 [14] における議論を経て河野・福島両氏によって修正され、この修正を受けた法案が第162回国会に第38号議案として提出されたのである。河野案は第38号議案、そして中山案のたたき台であった。

  河野案においても、中山案や斉藤案と同様に、親族への優先提供および普及啓発等の規定が新設されている。また河野案は、中山案と同様に、@第6条第1項第二号として「死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき」を新設している。ここでは、本人の提供意思のないことの表示は「書面による」ものには限られていないこと、そして@だけを見る限り、@は臓器提供に関する本人意思表示原則を否定して、遺族意思表示原則を提案しているだけであるかのように見えるということを、とりあえず確認しておきたい。しかし、河野案は、現行法はもちろん中山案とも異なって、A現行法(および中山案)第6条第1項における「死体(脳死した者の身体を含む)」を「死体(脳死体を含む)」に変更し、B現行法第6条第2項「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう」を、Aの変更に対応させて、「脳死した者の身体」を「脳死体」、「判定されたものの身体」を「判定された死体」に変え、さらに中山案と同様に傍点をつけた部分を削除して、「第1項に規定する「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう」に変更している(なお、中山案第6条第2項は「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう」である)。

  しかし、河野案に関して最も注目を要するのは、C河野案には法的脳死判定、つまり臓器提供のための脳死判定、死亡判定としての脳死判定を行うための要件に関する規定が一切欠けている、という点である。河野案からは、現行法第6条第3項「臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第1項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。」の規定、中山案第6条第3項「臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。一 当該者が第1項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思のないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないとき。二 当該者が第1項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき。」の規定、つまり、臓器提供のための脳死判定、すなわち法的脳死判定、死亡判定としての脳死判定を行う要件に関する規定が完全に削除されているのである。

  現行法の下で死亡判定としての脳死判定、つまり臓器提供のための脳死判定、法的脳死判定を行うための要件は、本人の臓器提供意思表示およびそのための脳死判定に従う意思表示、家族の当該脳死判定に対する不拒否であり、現行法は法的脳死判定に関して本人意思表示原則を採っているといってよい。中山案が成立すれば、臓器提供およびそのための脳死判定に関する本人の意思がまったく表示されていない場合においても、臓器提供およびそのための脳死判定に対する家族の書面による承諾さえあれば、死亡判定としての脳死判定、つまり臓器提供のための脳死判定、法的脳死判定を行うことができるようになる。したがって中山案は法的脳死判定に関して家族意思表示原則を採っているといってよいだろう(この点については後でさらに詳しく検討する)。これに対して河野案の下では、法的脳死判定を行う要件に関する規定がまったく存在しないのであるから、臓器提供のための特別の脳死判定というものは存在しないことになる。法的脳死判定と臓器提供にかかわらない一般的脳死判定を区別する法的な根拠が失われることになるのである。つまり、現在の「法的脳死判定」と同一の、無呼吸テストを含めた脳死判定は、臓器提供の有無にかかわらず、医師の裁量権の範囲内のものとして行われることになるし、また臨床的脳死判断と法的脳死判定を区別する法的な根拠も失われるから、どちらの脳死診断を行うかの選択もまた医師の裁量に任されることになる。一言でいえば、河野案は「脳死は一律に人の死」としているのである。

X 脳死は一律に人の死

   河野案の下においては「脳死は一律に人の死」となる。医師が患者は脳死になっているのではと考えれば、臓器提供の有無にかかわりなく医師の裁量権の範囲内にあるものとして、現行の法的脳死判定と同一の脳死判定が行われ、そこで脳死と判定されれば、その患者には死亡診断書が書かれる、ということになるのである。「脳死は一律に人の死」ということは、脳死判定が三徴候死死亡判定と同一の権能を持つことになるということを意味するのであるから、さまざまな問題が生じてくるだろう。

まず「臓器の移植に関する法律」附則第11条「健康保険法(大正11年法律第70号)、国民健康保険法(昭和33年法律第192号)その他政令で定める法律(以下「医療給付関係各法」という.)の規定に基づく医療(医療に要する費用の支給に係る当該医療を含む。以下同じ。)の給付(医療給付関係各法に基づく命令の規定に基づくものを含む。以下同じ.)に継続して、第6条第2項の脳死した者の身体への処置がされた場合には、当分の間、当該処置は当該医療給付関係各法の規定に基づく医療の給付としてされたものと見なす」の検討が必要になるだろう。「第6条第2項の脳死した者の身体への処置」という文言を含むこの規定は、現行法の下では、死亡と判定されたドナーに対する、まったく本人の治療のためではなく、もっぱらレシピエントのために行われる処置に要する費用を、ドナーの生前の治療費に対して給付されていた給付の継続という仕方で、ドナーに負担させるという、奇妙な規定になっている。「脳死は一律に人の死」ということになれば、「第6条第2項の脳死した者の身体への処置」はおそらく「臓器を提供することとなる脳死体への処置」に変更されることになるのだろうが、この規定の奇妙さがこの変更によって解消されることはないからである。

「脳死を人の死」とは認めない人たちへの対応も問題になる。各種世論調査によれば、現在でも40%弱くらいの人たちは脳死を人の死と認めていないようである。この人たちに対して脳死判定に対する拒否権を認めるか否かという問題が生じてくる [15]

脳死判定を拒否しない家族への対応も問題になる。三徴候死説に基づく死亡判定であるならば、この三徴候は通常患者の生理的条件に基づいて生起し、かつ、三徴候の生起の前後では患者の相貌が一変し、この変化は誰にでもわかるもの、一目瞭然のものなので、死亡判定を行うかどうかを医師が患者の家族に相談し、家族の同意を得てから判定に及ぶというようことはないし、またその必要もない。しかし、脳死の場合はまったく事情が異なってくる。脳死は、もちろん医学的には患者の生理的条件が根底になっていることに変わりはない。しかし、当該患者が脳死になっているか否かは、患者の外見からはまったくわからず、規定された手続きに基づく、複数の専門家と6時間以上を要する脳死判定を行ってみなければわからない。脳死の場合、脳死判定の前後で患者の顔貌を含めて身体に外見上の変化がないので、患者が脳死しているのか否かは当該脳死判定にかかわる専門家にしかわからないのである。死亡判定が我々患者家族の手から離れて、専門家の独占事項に変わってしまう。誰にでもわかるものから、専門家にしかわからないものへと変わってしまうのである。脳死判定を行うにあたっては、少なくとも患者の家族への十分な説明とその説明に対する患者家族の十分な理解と同意、つまり、インフォームド・コンセントが、現在以上に、必要不可欠になると考える。

ところで、河野案も臓器移植法改正案の一つであるが、現行の「臓器の移植に関する法律」は「臓器移植の適正な実施に関して必要な事項を定めているものであり、臓器移植にかかわらない一般の脳死判定について定めているものではない [16] 」。「臓器移植にかかわらない一般の脳死判定」で脳死と判定された患者をもことごとく「脳死体」とする河野案は、「臓器の移植に関する法律」の「臓器移植の適正な実施に関して必要な事項」の定めという枠組みを、その改定を通じて、一般的な死亡判定法の変更という点にまで超え出て行こうとするものである。もし、中山案も「脳死は一律に人の死」とするものであるのならば、河野案と同断である。法律に関してはまったく素人である筆者には、これは、村の条例を変えておいて、だから憲法も変わったのだと主張するのと同じことのように思えるのだが、この点の妥当性に関して法律の専門家のご意見をぜひともお聞きしたいと思う。

Y 河野案と中山案

   河野案が「脳死は一律に人の死」とする根拠に関して三通りの解釈が可能である。@河野案は、死亡判定としての脳死判定を行う要件を規定しないことによって、「脳死は一律に人の死」としている、A河野案は、河野案第6条第2項「第1項に規定する「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう」によって、「脳死を一律に人の死」としている、あるいは、B河野案は、第6条第2項と死亡判定としての脳死判定を行う要件規定の削除との組み合わせによって、「脳死を一律に人の死」としている、という解釈である。なお、いずれの解釈を採ろうとも、河野案の下では「法的脳死判定」および「移植のための脳死判定」という特別な脳死判定は存在しなくなり、無呼吸テストを含む脳死判定はすべて「死亡判定としての脳死判定」になる、という点に関する違いは生じない。

   中山案第6条第2項は「第1項に規定する「脳死したものの身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう」となっており、「脳死したものの身体」を「脳死体」とする河野案第6条第2項とは表現が異なっている。さらに、中山案には第6条第3項の規定がある。たしかに中山案第6条第3項第二号は「当該者が第1項第一号に規定する意思(筆者注:死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思)を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合 [17] 以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき」となっており、臓器提供およびそのための脳死判定に従う旨の本人の意思表示がまったく存在しない場合であっても、それらに対する家族の書面による承諾さえあれば臓器提供のための脳死判定を行うことができるようになっている。しかしこの規定はあくまでも「臓器の摘出に係る」脳死判定を行うための要件の規定であり、「臓器の摘出に係る」脳死判定を、@本人が脳死判定拒否意思を表示しているか、A本人もしくは家族が臓器摘出を拒否しているか、あるいはBとして、@・A以外の場合であっても、少なくとも家族の書面による承諾なしに、随意に行うことを禁止する規定なのである。

   中山案には、第6条第3項を重視するか、同条第2項を重視するかに応じて解釈が二つに分かれ、しかも両者ともに否定しきれないという可能性があることを認めなければならないのかもしれない。つまり、中山案は、@第3項を重視した解釈、中山案は「脳死は一律に人の死」とするものではない。中山案は、移植のための脳死判定だけを規定しており、一般的脳死判定に対しては何の効力も及ばすことがなく、移植にかかわらない脳死判定に関しては従来どおりの扱いとするものであり、「移植のための脳死判定」あるいは「法的脳死判定」という特別な脳死判定が残ることになる、という解釈、そしてA第2項を重視した解釈、中山案は、「脳死したものの身体」を臓器提供の有無にかかわらず「死体に含まれる」と規定し直しており、「脳死は一律に人の死」とするものである。中山案は、移植のための脳死判定のみならず、移植にかかわらない一般的脳死判定をも規定するものであるから、「移植のための脳死判定」あるいは「法的脳死判定」という特別な脳死判定は存在しなくなり、脳死判定はすべて「死亡判定としての脳死判定」になるという解釈が、ともに否定しきれないという鵺のような法案であるのかもしれないのである。

河野案の場合は、「河野案は「脳死は一律に人の死」とするものである」という結論が、根拠に関する見解の相違によって変わってしまうという事態は生じない。中山案の場合は、事情がまったく異なってくる。河野案に対して@の解釈を採る者は、中山案に対しても@の解釈を採り、「中山案は「脳死は一律に人の死」とするものではない」と結論づけることだろう。そして河野案に対してAの解釈を採る者は、中山案に対してもAの解釈を採り、「中山案は「脳死は一律に人の死」とするものである」と結論づけることだろう。しかし、特定条文の重視は主観的な視点からのものとならざるを得ないことが多く、法律の正確な理解を妨げてしまう可能性のほうが大きい。河野案に対するBの解釈を中山案に適用したときに中山案がどのような姿で立ち現れるか、これの検討を欠いては中山案を精確に把握することはできないだろう。

   中山案第6条第2項は「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう」となっており、現行法にある「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」という限定規定が削除されている。つまり、死体として扱われる「脳死した者の身体」の定義の妥当範囲が、現行法の「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者」だけではなく、臓器提供にかかわらない一般的な無呼吸テストを含む脳死判定によって脳死と判定された者にまで拡大されているのである。中山案の「脳死した者の身体」の定義は、「脳死は一律に人の死」としているのである。しかし、中山案第6条第3項第二号「当該者が第1項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき」における「当該判定」を、素直に、「臓器の摘出に係る前項の判定」と読む限り、ある人が「前項に規定する「脳死した者の身体」」となるのは、@中山案第6条第3項の規定によって、本人あるいはその家族が書面によって臓器提供を承諾しており、かつ、そのための脳死判定を行うことを本人あるいは家族が書面によって承諾している場合に、Aその者が「法的」脳死判定で「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された」場合だけであって、あくまでも臓器提供が前提されている場合だけなのである。言い換えれば、中山案は、第2項において「脳死したものの身体」の定義を変更することで、臓器提供を前提としない「脳死した者の身体」にまで「脳死したものの身体」の定義の妥当範囲を一旦は拡大するのであるが、第3項において、この定義の法的妥当範囲を再び、現行法と同様に、臓器提供が前提されている場合だけに限定するという構造になっているのである。したがって、中山案は、「脳死したものの身体」であるか否かを判定する「法に規定する脳死判定」、すなわち死亡判定としての「法的脳死判定」を行うにあたっては、少なくともドナー家族の臓器提供およびそのための脳死判定に従う旨の書面による承諾を求めるものであるのだから、「脳死は一律に人の死」とするものではない、といわざるを得ないのである。

Z 結論

中山案と斉藤案の最大の対立点は、家族・遺族意思表示原則を採るか、それとも本人意思表示原則を堅持するか、本人の意思を中心にすえていえば、コントラクト・アウトか、それともコントラクト・インか、ということであって、「脳死は一律に人の死」とするか否かではない。

[ 補論

 1.中山案第6条第3項第二号における「当該判定」は「脳死判定」と読める、あるいは、第2項と第3項は切り離して捉えるべきだ、と考える場合

  上に示した結論が河野案に対してBの解釈を採る場合の、中山案に対する率直な解釈というものだろうと思う。しかし、中山案第6条第3項第二号「当該者が第1項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき」における「当該判定」が、「脳死判定」と読むこともできる、あるいは、第2項と第3項は切り離して考えるべきだ、ということであれば、事情はまったく異なってくる。「当該判定」が「臓器の摘出に係る前項の判定」であるならば、死亡判定としての脳死判定を行うには、前提として少なくとも家族の臓器提供およびそのための脳死判定に従う旨の書面による承諾が必要になる。しかし、「当該判定」が「脳死判定」ということである、あるいは第2項と第3項は切り離すことができるということであるならば、中山案における「脳死の定義」に対する臓器提供の本人意思表示もしくは家族の書面による承諾という縛りが断ち切られてしまうので、脳死判定を行うにあたって家族の臓器提供の承諾は必要でなくなるし、治療方針を確立するための無呼吸テストを含む脳死判定というものは存在し得なくなるのである。

  つまり、医師が患者は脳死に陥ったのではないかと考えれば、少なくとも患者家族のインフォームド・コンセントは必要だと思うのだが、脳死判定を行うことができるようになるのである。この脳死判定は、家族からの書面による承諾を必要とする無呼吸テストを含む脳死判定であることもあるだろうし、無呼吸テスト含まないものであることもあるだろう。無呼吸テストを含まない場合、その判定は患者が脳死判定基準の前提条件を満たしているか否かを示すだけであるから、それは治療方針の確立のために行われ、その後、無呼吸テストを含む脳死判定に進むこともあるだろうし、そのまま治療を続けて様子を見ようということになることもあるだろう。

  無呼吸テストを含む脳死判定である場合、中山案第6条第2項「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう」では、現行法の「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」という限定規定が削除されているのであるから、この限定規定の削除つまり「脳死した者の身体」の定義変更が効力を発揮して、この判定によって脳死と判定された者は、臓器提供の承諾が何ら存在しない場合であっても、臓器提供を承諾している者と同じく、脳死判定終了時点で死亡診断書が書かれることになる。そして、たとえそれがあらかじめ臓器提供が前提されていない脳死判定であったとしても、本人の臓器提供拒否の意思表示がない場合には、中山案第6条第1項第二号「死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき」の規定が働いて、脳死判定終了後においても臓器摘出に対する遺族の承諾を得ることが可能になり、たとえ臓器提供の話をもちかけられるまでは本人はもちろんのこと家族さえも移植医療のことなど夢にも思わなかったという場合であっても、遺族の書面による承諾が得られたならば、その「脳死した者の身体」から臓器を摘出することができるようになるのである。

2.「脳死は一律に人の死」

 1)定義としての「脳死は一律に人の死」

 無呼吸テストを含む脳死判定において脳死と判定された者を河野案は「脳死体」と呼び、中山案は「脳死した者の身体」と呼ぶという呼称上の違いはあるが、両案は、その解釈のいかんにかかわらず、臓器提供の有無にかかわらず無呼吸テストを含む脳死判定において脳死と判定された「脳死は一律に人の死」と定義している。

 2)定義「脳死は一律に人の死」の妥当範囲

 河野案および「当該判定」が、「脳死判定」と読むこともできる、あるいは、第6条第2項と第3項は切り離して考えるべきだとする前提に基づいて解釈された中山案においては、この定義は「臓器提供の有無にかかわらず、無呼吸テストを含む脳死判定で脳死と判定された者」すべてに対して妥当する。第6条第3項は第2項の定義が内含する「臓器提供の有無にかかわらず無呼吸テストを含む脳死判定で脳死と判定された者」を「臓器提供の承諾を前提する脳死判定で脳死と判定された者」に限定する効力を持つ規定であると解釈された中山案においては、この定義は「臓器提供が前提された無呼吸テストを含む脳死判定で脳死と判定された者」にのみ妥当する。

  3)「臓器提供の有無にかかわらず、無呼吸テストを含む脳死判定で判定された脳死は人の死」としての「脳死は一律に人の死」:妥当範囲の限定を受けない定義としての「脳死は人の死」

脳死判定終了後においても臓器摘出に対する遺族の承諾を得ることが可能になり、遺族の書面による承諾が得られたならば、その「脳死した者の身体」から臓器を摘出することができるようになるということは、中山案の下では臓器摘出に至る道の出発点が臓器提供の本人意思表示 [18] あるいは遺族の承諾 [19] から、脳死判定に対する家族の承諾に変わってしまう、ということを意味する [20] 。臓器移植が臓器提供の話から始まるのではなく、脳死判定の話から始まる話へと変わってしまうのである。「当該判定」を「臓器の摘出に係る前項の判定」と読む場合、つまり第6条第3項は第2項の定義が内含する「臓器提供の有無にかかわらず無呼吸テストを含む脳死判定で脳死と判定された者」を「臓器提供の承諾を前提する脳死判定で脳死と判定された者」に限定する効力を持つ規定であると解釈した場合でさえ、中山案の下では、移植医療についても脳死についてもまったく考えたこともない人からの臓器提供も、遺族の書面による承諾さえ得ることができれば、可能になる [21] 。中山案第6条第3項第二号における「当該判定」が「脳死判定」と読めるということであるならば、あるいは、第6条第2項と第3項は切り離して考えるべきだとするならば、さらに一歩進んで、たとえそこでは「脳死体」という表現ではなく、「脳死したものの身体」という表現が採られているとしても、中山案は、臓器摘出に至る道の出発点を変えてしまうことで、「臓器提供の有無にかかわらず、無呼吸テストを含む脳死判定で脳死と判定された人は一律に人の死」とする法案に化けるのである。中山案と河野案は、河野氏が「法的脳死判定」と呼んでいる、無呼吸テストを含む脳死判定を経た脳死を「一律に」人の死とするという点では同一ということなり、両案の違いは、無呼吸テストを含む脳死判定を行うための要件が、河野案では医師の裁量権、中山案では家族の書面による承諾という点だけになる。

  4)「医師の裁量権の下に行われる無呼吸テストを含む脳死判定において判定された脳死は人の死」としての「脳死は一律に人の死」

   (1)脳死判定を行うための要件規定が削除されている「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案新旧対照表」における河野案および「脳死は一律に人の死」と解された中山案

医療倫理の原則に鑑みれば、誰が見ても一目瞭然である三徴候死死亡判定を除いて、たとえ医師の裁量権の範囲内のものであっても、インフォームド・コンセントは不要ということにはならない。それゆえ、脳死判定を行うための要件規定が削除されている「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案新旧対照表」で示されている河野案の下においても、「法的脳死判定」を行うにあたっては少なくとも患者家族からの口頭による同意は必要とされることになるであろう。それゆえ、河野案と中山案の違いは、結局、患者家族から得ることが必要な承諾が、口頭によるものでもよしとされるかそれとも書面によるものでなければならないか、ということだけになる。承諾が「口頭」か「書面によるもの」かの違いを重視すれば、河野案は「脳死は一律に人の死」とするが中山案はそうではない、という結論になり、この違いは単に形式的なものであって、実質的な相違を生み出すものではないと考えれば、河野案と中山案は実質的には同一という結論になるだろう。

   承諾が「口頭」でもよしとされる河野案と「書面」によるものでなければならないとする中山案とで実質的な違いが生じてくるか否か、これをノン・ドナー・カード等によって本人から臓器提供の拒否意思が表示されている場合に即して考えてみよう。中山案の下でも河野案の下でも、本人の臓器提供拒否意思が表示されている場合には、たとえその者が脳死と判定された場合にも、臓器の摘出は禁じられる [22] 。ところで、今「たとえその者が脳死と判定された場合にも」と記したが、問題は、臓器の摘出が禁じられている場合にも死亡判定としての無呼吸テストを含む脳死判定が行われるようなことがあり得るのか、ということである。

河野案の下では、あからさまな仕方で脳死判定のイニシアチブが医師の手に委ねられることになるから、臓器摘出が禁じられている場合においても、医師から家族に脳死判定を提案し、家族が口頭ででも同意しさえすれば、死亡判定としての脳死判定を行うことができるようになる。

中山案の下においても、事態は基本的に同じであると思う。確かに中山案はあからさまな仕方で脳死判定のイニシアチブを医師の手に委ねているわけではない。しかし、先に指摘しておいたように、中山案の下においては、話の出発点が臓器提供の意思表示から脳死判定の諾否に変わってしまう。そして、この出発点の変更が「臓器摘出は禁じられているけれど、とりあえず脳死判定だけはしてみませんか」と医師が家族に脳死判定をもちかける余地を創出するのである。それゆえ、中山案の下においても、臓器摘出が禁じられている場合における医師からの脳死判定の提案が禁止されることになるわけではないので、提案を受けた家族が書面によって承諾しさえすれば、臓器摘出の禁止を前提とした死亡判定としての脳死判定を行うことができるのである。

したがって、河野案だけでなく中山案の下においても、死亡判定としての脳死判定を拒否するには、@脳死判定を拒否する意思を家族にしっかりと伝え、家族にそれを受け入れておいてもらうか、A現在の厚労省・(社)日本臓器移植ネットワーク発行の「臓器提供意思表示カード」では脳死判定拒否の意思を表示することができないので、「臓器提供意思表示カード」を改訂して、脳死判定拒否意思を表示することができるようにするか、あるいは、B臓器提供拒否意思表示カードだけでなく、別途、脳死判定拒否意思表示カードを所持し、この脳死判定拒否意思表示カードの有効性の社会的承認を、法的な効力をもつものとして、あらかじめ確立しておくか、することが必要になるのである [23]

口頭による承諾か書面による承諾かという承諾方法の違いは、死亡判定としての脳死判定に関して実質的な違いを生み出すものではない。中山案第6条第3項第二号における「当該判定」が「脳死判定」と読めるならば、あるいは、第6条第2項と第3項は切り離して考えるべきだとするならば、河野案と中山案はともに、「脳死は一律に人の死」が「臓器提供の有無にかかわらず、無呼吸テストを含む脳死判定で判定された脳死は人の死」という意味だと理解される場合はまったく同様に、また「医師の裁量権の下に行われる無呼吸テストを含む脳死判定において判定された脳死は人の死」という意味だと理解される場合は、河野案では直接に、中山案では迂回路を通して、「脳死は一律に人の死」とする案であるという結論になる。この場合、中山案は河野案に対する実質的な修正を受けたものではなく、その「大幅な修正」はあくまでも表面的なお化粧といったものであるにすぎないことになるのである [24]

(2)臓器移植法改正河野私案要綱第1条第2項「脳死判定に関して、本人の書面による意思表示
      及び遺族の承諾を必要としないものとすること」について

筆者は、この河野私案要綱第2項は脳死判定を行う要件を規定する条項を法文から削除するということだけを意味する、という解釈の上に立ってこれまで論述を進めてきた。つまり、ここで書かれている「遺族の承諾を必要としない」(脳死判定以前のことであるから「家族の承諾」が正しいと思う)は、脳死判定に関するインフォームド・コンセントつまり「家族の口頭による承諾」をも積極的に排除するものだ、という解釈ではなく、医療倫理の原則に鑑みて、また三徴候死死亡判定と脳死判定との極端な違いを勘案して、河野案の下においても脳死判定に関しては少なくとも家族のインフォームド・コンセントを必要とする、との解釈に基づいてきたのである。しかし、河野私案要綱第1条第2項が、脳死判定に関するインフォームド・コンセントをも積極的に排除すると言う意味で、脳死判定と三徴候死死亡判定とを同一に扱うということであるならば、話はまったく変わってしまう。河野案の姿ががらりと変わり、河野案と中山案は性格をまったく異にするものとなり、少なくとも補論3の2)以後の議論は成り立たなくなってしまうし、河野案と中山案の比較全体が大きな影響を受けることになるだろう。

河野私案要綱第1条第2項は脳死判定に関するインフォームド・コンセントをも排除する規定であるということであるならば、それは、医師が脳死を疑えば、家族の手の届かない密室で、家族がまったく知らない間に、専門家だけで随意に死亡判定が行われることになる、ということを意味することになる。

また、たとえ本人が脳死判定は拒否するが、臓器提供はしたいとの意思を表示している場合にも、本人の脳死判定拒否の意思表示は無視して、脳死判定が行われ、脳死と判定されれば脳死状態からの臓器摘出が行われることになり、脳死移植と三徴候死移植の区別が消滅することになる。現在、角膜および腎臓は三徴候死からの移植も行われているが、この場合は死亡判定に際して家族や友人が立ち会うことができる。河野私案要綱第1条第2項が脳死判定に関するインフォームド・コンセントをも排除するということであるなら、脳死判定は厳重な電磁シールドが施された密室でなければ行うことができないので、この立会いも許されないことになる。

この場合には、脳死判定を拒否したいと思えば、脳死判定拒否意思表示に対する社会的承認を新たに確立し、当該意思表示を可能にする具体的な措置を講じるということ以外に道がなくなる、ということはあらためて論じるまでもないだろう。


[] 「臓器の移植に関する法律」の全文は以下のwebページで読むことができる。

http://www.ron.gr.jp/law/law/zouki.htm

[] 衆第14号議案の全文は以下のwebページで読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16401014.htm

[] 衆第15号議案本文は以下のwebページで読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16401015.htm

[] 衆第38号議案の全文は以下のwebページで読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16201038.htm

[] 衆第39号議案の全文は以下のwebページで読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16201039.htm

[] http://www.taro.org/ml/mailmagazine/index.php?mode=day&log=200505&date=23

[] 「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン)の全文は以下のwebページで読むことができる。

http://www.jaam.jp/html/report/report-zoki990517.htm

[] 2007314日付毎日新聞で、有効意思表示年齢を12歳以上の者へではなく、6歳以上の者へ引き下げる法案(森岡正博・杉本健郎「子どもの意思表示を前提とする臓器移植法改正案の提言」のA案が原案とでもいったらよいのだろうか?)が提出されるとの報道があったが、筆者はその法案そのものは未見である。なお伝聞ではあるが、この6歳以上の者へ引き下げる修正案は、早川忠孝氏や阿部俊子氏が斉藤案を中山案に対するより強力な対案とする目的で斎藤氏に提案したもので、早川、阿部両氏はこれを斉藤修正案として提出したいと考えているのだが、肝心の斉藤氏はまだこれに同意していないとの情報がある。この斉藤修正案の外に組織移植に関する規定を盛り込んだ阿部知子・金田誠一案も提出準備中なのであるが、両案共に提出議員・賛同議員共に規定数に達していないようである。なお、森岡・杉本案についてはhttp://www.lifestudies.org/jp/moriokasugimoto-an.htm参照。

[] 200312月に公表された「河野私案」つまり「臓器移植法改正河野私案要綱」および「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案新旧対照表」は以下のwebページで読むことができる。

河野私案要綱

http://www.taro.org/activities/opinion/organ.html

新旧対照表

http://www.taro.org/activities/opinion/organ_2.html

[10] 現行法施行後8例目、20006月藤田保健衛生大学で行われた「法的脳死判定」で脳死と判定された患者は、「医学的理由」により臓器提供には至らなかった。

[11] http://www.taro.org/ml/mailmagazine/index.php?mode=day&log=200505&date=23

[12] http://www.taro-nakayama.com/activity/060329.html

[13] http://www.abetomoko.jp/taidan/25.html

  200610月掲載対談発言)

[14] この検討会の委細については筆者には不明である。

[15] 脳死・臓器移植法研究会 http://strafrecht.exblog.jp/1852811

[16] 「ガイドライン」第5

[17] 現行の厚労省・(社)日本臓器移植ネットワーク発行の「臓器提供意思表示カード」の形式では、中山案第6条第3項第二号に定める、この本人の脳死判定拒否の意思を表示することができない。中山案が成立した場合、直ちに、本人の脳死判定拒否の意思を表示するための措置が講じられなければならない。

[18] 現行法および斎藤案の場合

[19] 筆者の中山案解釈、つまり「当該判定」を「臓器の摘出に係る前項の判定」と読む場合

[20] もちろん、「当該判定」を「臓器の摘出に係る前項の判定」と読む場合、つまり、中山案第6条第3項は、第2項の定義が内含する「臓器提供の有無にかかわらず無呼吸テストを含む脳死判定で脳死と判定された者」を「臓器提供の承諾を前提する脳死判定で脳死と判定された者」に限定する効力を持つ規定であるとする解釈を採るならば、このような話の出発点の変更という話はでてこない。

[21] いかなる解釈を施そうとも、中山案の下では、臓器提供についても、そのための脳死判定についても本人から何ら意思表示がなされていない人からも、家族の書面による承諾が得られたならば、臓器の摘出が可能になる。この何ら意思表示をしていない人たちの中には、それまで移植医療についても、脳死ということについてもまったく考えたこともなかったという人が含まれることになるのである。

[22] 河野案第6条第1項第二号、中山案第6条第1項第二号

[23] xviiで指摘した措置はすでに法文上で認められている事態に対応するための措置であって、「脳死判定に対する拒否意思表示」はその社会的承認がすでに法文上確立されているのである。しかし、ここで指摘した「社会的承認」は新たに確立されなければならないものである。

[24] ただし、その化粧技術は素晴らしいと言わざるを得ないだろう。化粧顔から素顔の様子が完全に消し去られているほどのものなのであるから。

 

参考

1.河野太郎「なぜ臓器移植法の改正が必要なのか」200510

  http://www.taro.org/activities/documents/whyorgan2.ppt