LIFESTUDIES.ORG/JP 
ホーム > 論文・エッセイ > このページ
作成:森岡正博 
掲示板プロフィール著書エッセイ・論文
English Pages | kinokopress.com

論文

 

『人間科学:大阪府立大学紀要』6 2011年2月 173〜212頁
誕生肯定とは何か

生命の哲学の構築に向けて(3)
森岡正博

 

 *印刷バージョンと同一のものをPDFでダウンロードできます。引用するときにはかならずPDF版をご参照ください。 → PDFダウンロード


1 はじめに

 本論文は、「誕生肯定」の概念について哲学的に考察するものである。「誕生肯定」とは、私が2007年の論文「生命学とは何か」において導入した概念である。発表から4年が経過したが、その間の思索において、この概念が「生命の哲学」の根幹をなし得ることが明瞭になってきたので、ここでその全体像を記しておくことにする。全体の見取り図を与えることを優先するので、細部においては未消化の議論が多くあるが、それらの点については次回の課題にしたいと考えている。私はいま、「誕生肯定」の概念を土台として、その上に「生命の哲学」を構築することを目指している。読者はその一端を垣間見ることができるであろう。
  まず最初に、2007年論文においてどのような議論がなされたのかを簡潔に振り返っておく。

2 「誕生肯定」という概念の導入

 上記論文において、私は、「生命学」という知の営みを、「限りある人生を悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営み」として捉えた(1)。そのうえで、この命題を構成する各部分について考察を加えた。そのうち、「悔いなく生き切る」とはどういうことかについて、三つの解釈を提示した。すなわち、

◆人生まるごとの肯定
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、限られた人生を自分がこのように生きてきたということ全体についてはこれでよかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」

◆誕生肯定
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「生まれてきて本当によかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」

◆欲望でもなく絶望でもなく
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これ以上生き続けていてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」と、心の底から思えるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」(2)

 このように、「悔いなく生き切ること」の第2定式として、「誕生肯定」の概念が登場したわけである。それは、死に面したときに、「生まれてきて本当によかった」と深く心から自己肯定できることとして導入された。すなわち、私は何を目指して生きればいいのかという根本問題に対して、「生まれてきて本当によかった」と深く心から自己肯定できるようになることを目指して生きればいいのだ、という方向性を与えたのである。それは「私がこの世に生まれてきたこと」を肯定することでもあるから、それに「誕生肯定」という名前を与えたのであった。
 そのうえで、いくつかの問題が吟味される。
 まずは、愛する家族を殺人者によって殺されたり、空爆によって殺されたりした人間が、自分のことを「生まれてきて本当によかった」と深く心から自己肯定できるようになるなどということがあるのか、という問題がある。これは、決定的な「破断」を含んだ人生を、人は全面肯定できるかという問いでもある。これに対しては、「破断」と、「破断が起きた自分の人生」をくっきりと区別することによって、たとえ「絶望と苦しみと後悔を生み出す人生の破断」があったとしても、それでもなお、そのような破断を含んだ人生全体を「これでよかった」として肯定できる可能性はつねに論理的に開かれている、と私は答えようとした。
 また、誕生肯定の否定、すなわち、「自分は生まれてこなければよかった」というところにまで他人を追い詰めていくことが、典型的な「悪」として捉えられた。それは、自分の自己否定に人々をどんどん巻き込んでいく「自虐的自己否定」にまで成長する(3)。
 さらに、世の中には苦しんでいる人、自己肯定できない人がたくさんいるのに、どうして自分だけが「誕生肯定」できるのかという問いについても考察した。それに対しては、たとえそれら苦しむ人々がいたとしても、私は「生まれてきて本当によかった」と心の底から思うことができるし、またそう思ってよいのであり、そこに人間の「自由」があるのだとした。と同時に、その「自由」の行使には、人々の絶望や、苦しみや、悲惨な死などと絶えず共にあろうとする「責務」が伴うのであるとした。それらの「自由」と「責務」を人間はともに担うのである。そして、「世界に悲惨と苦しみがあるから私は〈生まれてきて本当によかった〉と思うことができない」という束縛から私が「解放」され得るというところに、「自由」の第一義的な意味があると考えた(4)。
 以上が、誕生肯定に関する限りにおいての、2007年論文の概要である。次節以降では、2007年論文での議論を一部修正しながら、さらに考察を深めていくことにしたい。

3 ハイデッガーとアーレントにおける「誕生」


 そもそも「誕生」とは何であろうか。私がここで扱おうとしているのは、「私の誕生」のことである。生物の誕生や、他人の誕生のことではない。いまここに生きている私自身が、この世に誕生したことについて考察しようとしているのである。この世に誕生した私は、一度限りの人生を生き、やがて死んでいく、というふうに私は理解しつついまを生きている。このとき、私がこのような人生へと生まれてきたことを「本当によかった」と思えるかどうか、ということが私にとっての大きな課題となって浮かび上がる。本論文で問題としているのは、このような人生を実際に内側から生きている私にとっての、私の誕生の意味である。ここで目指されているのは「内在的誕生論」である。
 内在的誕生論とは、誕生した本人が、自分自身の誕生を本人の視点から振り返って、本人の誕生の本質を考察することである。これに対して、外在的誕生論とは、本人の視点からは切り離された外在的な視点から、誕生した者の誕生について考察することである。外在的誕生論においては、対象となる者が誕生する前と誕生した後をともに観察して比較することができる。この点で、その考察はある種の客観性や科学性を持つことができる。これに対して、内在的誕生論においては、外在的誕生論のように、誕生の前後をともに観察し比較するような視点を持つことができない。誕生した本人は、自分自身が誕生する前のことについて経験的にアクセスすることができないからである。ここに内在的誕生論の特異性があると考えられる。
 たとえば、外在的誕生論においては、私の現在の肉体へと成長したところの受精卵にかつて原初的な神経系の活動が観察された時点の前後で、私の内的意識は誕生した、ということが言われるかもしれない。しかしながら、内在的誕生論においてはそのようなことは言えない。なぜなら私の記憶をいくらさかのぼっていっても、私の記憶の出現時点を明瞭に確定することはできず、たとえ外部からその記憶の出現の時点はここであると指摘されたとしても、その外部からの指摘と自分の内部からの記憶が一致するのかどうかを私は内部から検証することはできないからである。この点についてはまた後ほど考察することにしたい。ひとまずここでは、生命倫理学におけるパーソン(人格)の誕生や、意識の誕生とはまったく別次元のことが本論文では問題とされている、ということを確認しておいてほしい(5)。
 さて、内在的誕生論を考察するときにどうしても触れておかなくてはならない先行研究に、ハイデッガーとアーレントの思索がある。まずハイデッガーであるが、彼は人間の存在を「世界内存在」として把握した。すなわち私という存在は世界へと「投げられている」のである。そのことを彼は「被投性Geworfenheit」と呼んだ。「現存在の被投性とは、実存のなかへ投げられていることなのである」(6)。この被投性を時間の観点から眺めてみれば、それは、すでに存在してしまっているという「既往性Gewesenheit」として捉えられる。これは現在完了としての存在様態である。それは、「いま存在しているこのおのれがすでに存在してきたということ、すなわちどこまでも既往的に存在している者であるということ」を指すのである(7)。
 ハイデッガーは、私という存在が、すでにこの世界内へと投げられて存在してしまっているという内在的存在論を展開する。ハイデッガーの言う被投性とは、この世へ投げられることであるから、いわば一種の誕生のことである。しかしながら彼はこの世への私の誕生について哲学的に思索を深めることをせず、そのかわりに、この世にて生を終えること、すなわち死についての先駆的な覚悟・決意について『存在と時間』で大いに語った。ハイデッガーは、内在的存在論の立場に立っているにもかかわらず、その存在の「始まり」についてはさほど語らず、その「終わり」について思索を集中したのである。
 森一郎は『死と誕生』の中で、この点に注目し、ハイデッガーの存在論が理論的に内包していたはずの誕生論を、ハイデッガーの枠組みに沿う形で独自に展開している。すなわち、ハイデッガーの哲学を正面から受け止めるとするならば、死に向かう存在という実存のあり方と同じくらいの迫力でもって、誕生へと向かう存在という実存のあり方についても語られるべきではないかというのである。森によれば、その枠組みからは、かつて私が実際に生まれたという意味での「第一の誕生」と、それを引き受けていままさに誕生しつつ生きるという「第二の誕生」という、二つの誕生概念が出てくるはずだと言う。

(T)現実として与えられた「第一の始まり(der erste Anfang)」としての誕生。この「限界」のほうから私はこの世界にやってきたのだが、それについて私は、それがはるか以前に起こったということしか知らない。(U)生まれたという事実を引き受けて今まさに生きているという意味での、「始まりへの存在(das Sein zum Anfang)」。これは、「死への存在」がそうであるのと同様、私が世界のうちに存在するかぎり、たえず働いている。(8)

 すなわち、内在的存在論から見た場合には、「死への存在」に匹敵する本来的な存在様態として、「始まりへの存在」というものが構想可能であり、その「始まりへの存在」は、「第一の始まり」と、いまここでのあらたな始まりであるところの「第二の誕生」との接合によって成立するというのである(9)。森のこのような考察はたいへん示唆に富む。ハイデッガー的な存在論において「内在的誕生論」が展開可能であったということは、本論文を進めていくうえで大きな力になるものである。
 ところで、森のこのような考察は、ハイデッガーの弟子であったアーレントの思索から大きな示唆を得ている。というのも、アーレントこそ、「誕生」というキーワードでもって人間について正面から考察をしようとした類例のない哲学者だからである(10)。
 アーレントは、人間がこの世に新しく生まれ出てきたこと(第一の誕生、出生性)と、その誕生の事実へと思いを新たにし、それをいまここで引き受けつつ複数性のもとで活動へと漕ぎ出すという新たな始まり(第二の誕生(11))について、著作の中で何度も繰り返し語っている。第一の誕生とは、人間が実際にこの世へと生まれ出ることであり、第二の誕生とは第一の誕生を引き受けることによっていまここで何か新しいことを始めることである。後者をアーレントは「活動」と呼ぶ。これはアーレントがハイデッガーを批判しつつ展開した独自の哲学的発想である。
 アーレントは誕生についていろいろな角度から語ろうとしている。『人間の条件』では次のように書く。「[参入への]衝動は、私たちが生まれたときに世界の中へと持ち込まれた「始まり」から生じているのである。この「始まり」にたいして、私たちは自ら進んでなにか新しいことを始めることによって応答するのである」。「人間は、その誕生によって、創始initium、新参者、新しく始める者となるがゆえに、創始を引き受けtake initiative、活動へと促される」(12)。それぞれの引用の前半が第一の誕生のことであり、後半が第二の誕生のことであるが、この二つがどのように連関しているのかがポイントとなる。第二の誕生が、第一の誕生への応答あるいは引き受けとみなされているところが重要である。
 アーレントは『アウグスティヌスの愛の概念・英訳草稿』(13)において、次のように書く。「人間はその「始まり」あるいは起源を知ることができ、意識することができ、想起することができるがゆえに、人間は始める者として活動することができるのであるし、人類の物語をつむぐことができるのである」(14)。ここにおいては、第一の誕生を知り、意識し、想起することによって、いまここで新たな始まりとなって活動する第二の誕生が可能となる、という筋道が述べられている。さらに次のようにも言う。「(第一部第一章で見たように、)記憶というものは、過去を想起させそれを精神へと再現前化させるはたらきをもつ。この再現前化のプロセスによって、過去は、現在の他のもろもろの出来事と並ぶ位置を占めるようになり、また未来の可能性へと変貌するのである」(15)。ここにおいても、第一の誕生を想起することを通して、人間は現在を生き、未来の可能性へと至ることが述べられている。第二の誕生は、現在という新たな始まりを活動することであり、未来に向けて自分を開いていくことである。そしてこの活動は、ひとり孤独になされるのではなく、複数の人々のあいだの関わり合いによってなされ、それは何度も反復されていくのである。アーレントの思索は決して分析的にはなされていないので、読者による補いを要求する。森川輝一の次のような読み方も大いに参考になるであろう。

人間存在は、死という終わりに向かうものとしてこの世界に投げ込まれているのではなく、複数の人々の間で生の時間を始めるべく、この世界に導かれたのである。我々は、我々一人ひとりがユニークな存在者として世界へと導かれたことを「想起」し、我々を世界へと導き入れ、我々を互いに出会わせてくれた何ものかに、「感謝」する。かかる想起と感謝によって、我々は、我々一人ひとりがユニークな始まりであるという事実を捉え返し、己が生の過程において何度でも、その都度新たに、始まりを反復することができる」。(16)

 アーレントは、「そもそもいのちが与えられたことに対する感謝」によって、「想起」が発動すると述べている(17)。この「そもそもいのちが与えられたことに対する感謝」こそ、私が本論文で後に考察しようとしている誕生肯定、すなわち「生まれてきて本当によかった」に対応するものであるということを、ここで指摘しておきたい。

4 「誕生」とは何か

 アーレントの誕生論は非常に示唆に富み、拡張性の高いものであり、誕生について考えるときの必読文献であるが、しかしながら分析的な掘り下げが十分に行なわれているとは言えず、その点については不満が残る。哲学的に見てもっとも不満が残る点のひとつは、内在的誕生論の視点から見たときに「誕生」というものがどのような姿を現わすのかについての考察が不足していることである。また「第一の誕生」と「第二の誕生」の関わり合いについてもあいまいさが残る。本論文では、以下、この点を突破口としながら、アーレントの誕生論を超えて独自の考察を試みていきたい。
 森一郎は、アーレントの誕生論について、次のような解釈を行なっている。すなわち、人間は第一の誕生という「起点」へと「遡行」し、第一の始まりを反復しつつ、いまここで第二の誕生へと乗り出してゆくというのである(18)。アーレントの誕生論の解釈としてはこの内容に誤りはないと思われるが、しかし「起点」「遡行」という言葉に脚を取られると、「第一の誕生の客観的時刻が過去時に設定され、現在時からその過去時へと遡行的に想起を行なうことによって、いまここでの第二の誕生が引き起こされる」というような読みを読者に与える可能性がある(19)。だが、そのような読み方を内在的誕生論は取ることができない、ということをまず最初に考察することにしたい。
 内在的に誕生をとらえるならば、私は自分が誕生した時刻を、現在より過去のどの時刻にも同定することができない。私が確実に言えることは、「私はすでに誕生している」ということのみである。私が自分の誕生の時点について考えをめぐらせたそのときに、「私はすでに誕生していた」ということが明らかになる。だがそれ以上のことは私にはけっして明らかにならない。誕生は、つねに「現在完了形」の様式で私に現われる。「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形が、誕生の基本時制であり、それ以外の時制を誕生は取ることができないのである。誕生とは、常に現在完了形の時制を持ってあらわれる何ものかである。
 このことをさらに詳しく見てみよう。
 まず内在的な視点から、私はいまから50年前に誕生したと言えるであろうか(20)。もちろん記憶をさかのぼっていけば、50年前の記憶が最古の記憶であったということはあり得る。しかし50年前の記憶が、本当に50年前のものであるかどうかを確証することはできない。たとえ過去の映像や証言などの状況証拠があったとしても、私が想起する50年前の記憶が、本当に50年前に私が誕生していたことの確実な証拠となり得る保証はどこにもない。その記憶は、後に作られたものかもしれないからである。
 では、私は現在よりも以前のどこかの時点で誕生していたと言えるであろうか。残念ながら、そのように言うこともできない。現在よりも1時間前に私は誕生していた、と断言することもまた不可能なのである。これに関しては、いわゆるラッセルの「世界5分前仮説」が役に立つ。ラッセルは、もし仮に世界全体がいまから5分前に一気に創造されたと想定しても、なんの不都合も起きないはずだと考えた。すなわち我々の過去の記憶や、地上の歴史的建造物や、地層に眠る生物化石などを含む全宇宙が、我々の現在知るような形で5分前に一気に誕生したと仮定してみても、我々はそこに何の論理的矛盾も発見できないだろうと言うのである。ラッセルの仮説は検証も反証もできない。ということは、私はいまから6分前にこの世界がすでに誕生していたということを断言できないことになる。なぜなら全宇宙はいまから5分前に誕生したのかもしれないからだ。この場合の「5分前」という時間設定は、「1分前」でもよいし、「1秒前」でもよい。過去の時刻ならば何でも代入することができる。この論理は、内在的な意味での私の誕生に対しても、同じように当てはまる。私という存在は、その全記憶とともに5分前に誕生したのかもしれず、そうだとすれば、5分前以前には私は誕生していなかったことになるのである。(ラッセルの世界5分前仮説は、宇宙全体の誕生についての内在的誕生論の枠組みを取っているのである)。したがって、私は現在よりも以前のどこかの時点で誕生していた、と言うこともできない。
 では、私はいまこの瞬間に誕生したというふうに言えるのだろうか。実は、その言い方も不可能である。私は、「私はいままさに誕生した!」と言いながら誕生することはできない。それは「私はいままさに目覚めた!」と言いながら眠りから目覚めることができないのと似ている。なぜなら「いままさに誕生した!」と言えるためには、私は誕生の瞬間に、誕生以前の時間経験がないことを確かめないといけないのだが、それを確かめるためには「そのことを確認する時間」が必要であり、そのあいだに私は誕生の時点から遠ざかってしまうからである。
 以上の理由によって、私は過去のある時点に誕生したと断言することもできないし、過去のある時点に誕生していたと断言することもできないし、いまこの瞬間に誕生したと断言することもできないのである。私が断言できるのは、ただひとつ、「気がついたら私は誕生していた」ということのみなのである。
そしてそのような誕生への気づきも、またすぐに時間とともに流れ去っていくから、私はふたたび「気がついたら私は誕生していた」と言わなければならない。したがって、「私の誕生」は、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきをたえず反芻し続けていくことによってしか把握されない、ということになるはずだ。これは私たちの常識的時間理解を超えるものである。私はそのような形によってしか、私の誕生というものに出会えない。この点にこそ、内在的誕生論の謎と豊饒が隠されている(21)。
 以上のことを念頭に置きながら、ふたたびアーレントの誕生論を検討してみよう。内在的誕生論においては、私の誕生の起点を過去のある時刻に同定することはできないし、過去のある時点で生じた私の誕生へと想起を遡及させることもできない。そのような誕生論は、内在的誕生論の視点から見れば誤りであることになる。アーレントの言う「第一の誕生」は、気がついたら私は誕生していたという、いまここでの現在完了形での気づき以外の形では私に到来し得ない。そして、第一の誕生への想起と感謝に基づいたいまここから始まる「第二の誕生」としての活動は、まさにいまここで生じることである。したがって、第一の誕生と第二の誕生のあいだの時間的関係は、「現在完了形」と「現在形」との関係であることになり、そのあいだに計測可能な時間差は存在しないことになるのである。
 すなわち、第一の誕生はいかなる「起点」としても存在しないし、第一の誕生への想起の「遡行」もまたあり得ない。誕生において起きる出来事というのは、いまここでの現在完了形の第一の誕生への気づきが、いまここからの新たな始まりの活動という第二の誕生へと、そのまま時間差なしに接続されるということ以上でも以下でもない。これはアーレントの誕生論の解釈の枠を超えた結論であると言えるだろう。しかし少なくとも内在的誕生論の視点からすれば、アーレントの言うところの二つの誕生は、このようにしか理解され得ない。
 さて、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきが得られるときに、私がこれまでに経験してきたことが一気に見通される。そのように現在完了形で一気に見通された経験の集積のことを、私は「人生」と呼びたい。人生とは、誕生の時点から始まって死の時点で終了する線分のことではない。人生とは、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきによって、そのつど呼び起こされ、一気に見通される、私の経験の集積のことである。そしてその経験の集積としての人生の先端において、私の人生は未来へと開かれている。人生とは、このようにして一気に見通されたものが、そのまま未来に向かって開かれる運動である。このように解釈された人生は、アーレントの言う第一の誕生と第二の誕生がいまここにおいて重ね合わされたものと酷似しているとも言える。
 「人生」についていくつかの考察を加えておきたい。まず、内在的誕生論においてもっとも基盤的な実体は何かといえば、それはこの「人生」である。外部世界でも、物自体でも、自我でもない。「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきによって、私の前に立ち現われてくる経験の集積としての人生こそ、内在的誕生論にとってもっとも基盤的な実体である。そしてその「人生」という土俵の上に、はるか過去から始まっていま現在にまで届いてきているところの人類と宇宙の「歴史」というものが展開されていくのである。ここにおいては素朴実在論における外的世界と内的世界の関係が逆転する。内的世界の確実性の上に、外的世界のリアリティが降臨するのである。
 人生とは、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきによって一気に見通されるものであった。ということは、昨日見通されたときに現われた人生と、今日見通されたときに現われた人生は、異なった姿をもって現われることになる。すなわち、今日見通されたときに現われた人生は、昨日見通されたときに現われた人生に加えて、昨日から今日までの人生を付加したもの、というふうにはならないのである。たとえば、1年以上過去に起きた出来事について、昨日見通されたときに見えていた風景と、今日見通されたときに見えていた風景がまったく異なるということがあり得る。その出来事について昨日見えていたはずのものが今日は見えないこともあり得るし、昨日は見えなかったものが今日は見えることもあり得るし、またその出来事の意味が、昨日と今日では根本から変わってしまうこともあり得る。
 すなわち、人生とは、公共的に観察可能な客観的な物体のようなものではない。人生とは、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形のそのつどの振り返りに応じて、そのつど異なった相貌をもって現われる変幻自在の基盤的実体である。現在完了形で振り返るそのたびごとに、新たな内容の人生の全体が、一気に見通されて立ち現われてくるのである。このような変幻自在の基盤的実体を哲学の基礎に置くことによって、哲学を新たに再構築することができるのではないかと私は考えている。
 ところで、「気がついたら私は誕生していた」というときの「誕生」には、二種類の側面があると考えられる。ひとつは、「気がついたら私はもうすでに誕生していた」というふうに、誕生の現在完了性に焦点を当てて誕生が理解されるような側面である。ここおいては、誕生はつねに現在完了形において現われる何ものかであるということが強調されることになる。もうひとつは、「私は誕生していなくてもよかったのに、気がついたら私は誕生していた」というふうに、非誕生ではなく誕生のほうが選ばれていたという点に焦点を当てて誕生が理解されるような側面である。ここにおいては、非誕生でもよかったのになぜか誕生のほうが選択されてしまっているということが強調されることになる。これは、ハイデッガーが形而上学の根本問題と呼んだ「なぜ無ではなく存在者があるのか」という問いの、誕生論バージョンと言ってもよいだろう(22)。
 このとき、形而上学的な意味での誕生については、誕生は一回限りしか起きないということが言えるように思われる。私の誕生が生起したあとの人生のどこかでさらにもう一度私が形而上学的な意味において誕生することはあり得ないし、あるいはまた私が誕生し消滅したあとでふたたび私が誕生したとしても、私はその二回目の誕生を「これが二回目である」と理解することは理論的に不可能だからである(23)。形而上学的な意味での誕生は一回しかおきない。このことを私たちは「人生は一度限りである」と言い習わしてきたのである(24)。
 ところがこれに対して、現在完了形の意味での誕生については、すでに述べたように、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形で振り返られるたびごとに、そのつど異なった人生が現われるのであった。つまりこの意味では、私の誕生が振り返られるたびごとに、そのつど新たな人生が誕生すると言ってもかまわないように思われるのである。すなわち、形而上学的な意味では一回限りしか起きないにもかかわらず、現在完了形の意味では振り返られるたびごとに新たな人生の誕生が起きるという二重性である。アーレントは活動へと乗り出すときにそのつどの誕生が起きると考えるが、私の見るところ、活動への乗り出し以前の段階、すなわち振り返りの段階でそのつどの誕生が起きているということになるのである。すなわち、同じひとつの誕生に対して、形而上学的な側面に焦点を当てればそれは「一回限りの誕生」ということになり、現在完了形の側面に焦点を当てればそれは「そのつどの誕生」ということになるのである。そしてこの二つのあいだには論理矛盾はない(25)。
 ところで、「気がついたら私は誕生していた」というとき、私はいったいどこから誕生したのであろうか。私が存在を始めるようになったときより以前のことを、私は経験的に知ることはできない。したがって、私がそもそもこの世に生まれ出たこと、すなわち形而上学的な意味での誕生を、私はまさに「何か分からないところからの出現」として理解するほかはない。もし私が、自分が生まれる前と、自分が生まれた後を等距離に眺めて吟味することができるのならば、私は「かくかくしかじかの状態から生まれて、いまに至っている」と発言することができるであろうが、そのような吟味をすることは原理的に不可能である。私は河岸のこちら側しか見えないのであるから、私に言えることは、「何か分からないところから私は生まれていまに至っている」ということのみである。何か分からないところからの私の誕生という、一回限りの、後戻りのできない、決定的な出来事が起きたあとの世界に私は住んでいる。内在的誕生論の視点から迫るときに、もうそれ以上さかのぼることのできないある思考の限界線がここに引かれている。ただし思考はその出来事の向こう側にはさかのぼることはできないが、「何か分からないところから私は生まれた」ということの意味を考察することは大きな課題として残されているという点に注意しておきたい。
 さらに追加して言えば、私はいまから生まれようと自分で意志してから生まれてきたのではない。私は「いまから生まれるぞ!」と自己決定して、あるいは自己決定しながら生まれることはけっしてできない。私は気がついたら現在完了形で生まれてきているのであり、生まれてきたことそれ自体に関して、私は受動的な位置取りしかすることができない。自分の誕生について私は徹底的に受動的な位置取りしかできないということが、誕生というものの大きな特徴である。
 すなわち、私の誕生という出来事の全体が、大きな受動性によってこの世界に持ち込まれたのである。それは、形而上学的な意味での誕生についても言えるし、現在完了形の意味での誕生についても言える。内在的誕生論においては、「私は誰によって誕生させられたか」という問いは思考の限界線の向こう側に置かれるが、私の誕生の受動性あるいは超越性とは何かという問いは、いずれ正面から問われることになるはずだ(26)。
 「誕生」についての内在的考察はさらに深められる必要があるが、本論文ではとりあえずここで考察を終え、次節以降では、「誕生肯定」について考えていきたい。

5 「誕生肯定」とは何か

 「誕生肯定」とは、私がこの世に生まれてきたことを、「これでよかった」と心の底から肯定することである。「生まれてきて本当によかった」と深く心から自己肯定することである。この概念については先述した拙論「生命学とは何か」で詳述したので、概略に関してはそちらを参照していただきたいのだが、本論文の前節での考察によって、拙論「生命学とは何か」における議論を一部修正しなければならないことが分かってきたので、まず最初にそれについて述べておくことにする。
 上記論文において、「誕生肯定」は次のように定義されていた(再掲する)

◆誕生肯定
「悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「生まれてきて本当によかった」と、深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。」

 ここに明らかなように、上記論文では、生まれてきたことに対する深い自己肯定が起きるのは、私が死に面したときであるとされている。そして、死に面したときに自己肯定できるようにいまここを生き尽くすことが誕生肯定であるとされている。誕生についての肯定を「死に面したとき」に起きるものとみなすこのような考え方は誤っていると私は考える。もし誕生についての肯定が起きるのならば、それは死に面したときではなく、「気がついたら誕生していた」という気づきが起きるいまここでなくてはならないはずだと、私は思うのである。なぜなら、「誕生」とはそもそも「気がついたら誕生していた」という形での気づきでとらえられることしかできないわけであるが、そのような気づきは死に面したときにだけ特権的に起きるわけではなく、いついかなるときであってもそのような気づきは起き得るからである。そしてそれらの気づきによって、「誕生」というものはいついかなるときであっても平等にとらえられるはずだからである。したがって、「誕生肯定」もまた、「誕生」への現在完了形の気づきが起きるたびごとに、平等な可能性として開かれていなければならないはずだからである。「誕生肯定」は、死に面するとか面しないとかに関係なく、あらゆる時点において平等な可能性として開かれた、誕生の肯定の行為なのである。
 したがって、誕生肯定は以下のように定義し直さなければならない。

◆「誕生肯定」とは、「生まれてきて本当によかった」といまここで深く心から肯定することである。

 誕生肯定とは、生まれてきたことを深く心から肯定するという行為であり、それはいまここでなされる。ところで、誕生には、形而上学的な意味での誕生と、現在完了形の意味での誕生があるのだった。上に述べた誕生肯定の定義は、形而上学的な意味での誕生に対する肯定の定義であると言える。なぜなら、「私が誕生しなかったのではなく、私が誕生したこと」に対する肯定がそこで述べられていると考えられるからである。だとすれば、現在完了形の意味での誕生に対する肯定は、どのようなものとなるのだろうか。現在完了形の意味での誕生とは、「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきによってとらえられるものであり、その気づきにともなって私の人生が一気に見通されて現われてくるのであった。そのような意味での誕生を肯定するとは、いまここからの振り返りによって一気に見通される私の人生の全体に対して、そのような人生を生きてきて本当によかったと深く心から肯定することになるはずだ。これは、冒頭に紹介した拙論「生命学とは何か」の引用部分で述べた「人生まるごとの肯定」に対応するものである。細部に修正を加えたうえで、再度その定式を書いておきたい。

◆「人生まるごとの肯定」とは、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、そのような人生を私がいままで生き抜いてきたことそれ自体については、生きてきて本当によかった」と、いまここで深く心から肯定することである。

 だとすると、「誕生肯定」と「人生まるごとの肯定」の関係はどのようになっているのだろうか。「誕生肯定」とは、生まれてきて本当によかったと肯定することであるが、それだけを取り出してきても、私はいったい具体的に何を手がかりとして誕生を肯定すればよいのかさっぱり分からない。これまで良い人生を送ってきたから生まれてきて本当によかったと思えるというのは分かりやすいし、その逆に、致命的な失敗ばかりを送ってきたから生まれてきて本当によかったとは思えないというのも理解できる。そのような具体的な人生の中身が分かってはじめて、誕生肯定をすることができるのである。すなわち、具体的な中身のある人生を生きてきたことを肯定する「人生まるごとの肯定」が得られてはじめて、私は「誕生肯定」にまで至ることができるという関係になっていると考えられる。「誕生肯定」は「人生まるごとの肯定」を前提とするのである。したがって、この二つの肯定はつながっているのであり、そのことを考慮すれば、「誕生肯定」は次のように新たに書き直されることになる。

◆「誕生肯定」とは、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、そのような人生を私がいままで生き抜いてきたことそれ自体については、生きてきて本当によかった」と深く心から肯定することを通して、「生まれてきて本当によかった」といまここで深く心から肯定することである。

 ここでは、現在完了形の意味での誕生を肯定することを通して、形而上学的な意味での誕生を肯定することが、「誕生肯定」と呼ばれている。簡潔に言い直せば、これまで生きてきた人生をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することが、「誕生肯定」なのである(27)。

◆「誕生肯定」とは、これまで生きてきた人生をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することである。

 この意味での「誕生肯定」を哲学の基盤に据えることによって、「生命の哲学」が本格的に開始されると私はいま考えている。
そして、生命学で課題になっていた「悔いなく生き切る」とは、そのような肯定をいつの日か得ることを目指していまここの生を生き尽くすことである。その暫定的な定式は以下のものである。

◆「悔いなく生き切る」とは、「誕生肯定」をいつの日か得ることを目指して、いまここの生を生き尽くすことである。(28)

6 「自己肯定」・「存在肯定」・「生の肯定」・「誕生肯定」

 以上において「誕生肯定」の概念が定まったので、ここからはそれに関するいくつかの重要な論点について考察していくことにする。
  まず、そもそもどうして「誕生肯定」が哲学のテーマとして取り上げられるのであろうか。この世に私が生まれてきたことを、すでに肯定できている人はたくさんいるはずだ。胸を張って「肯定している」とは言わなくても、生まれてきたことを間違いだとはとくに思っていない人はかなり多いのではないだろうか。そのような人にとっては、誕生肯定の哲学は無用の長物だと言えるかもしれない。しかしながら、順風満帆に進んでいた人生であっても、突如として悲劇に見舞われることがある。あるいは少しずつ生きる気力が失われていき、「こんなことなら生まれてこなければよかった」と後悔するところまで追い詰められることもあるだろう。どんな人であっても、そのような状況と無縁ではあり得ない。そのような状況に落ち込んだときに、もしそれでもなお「誕生肯定」を目指す生き方があり得るのだとすれば、それは人が生きていくうえでの大きな希望となるはずだ。誕生肯定の哲学とは、人がどうしようもなく苦しい状況に落ち込んでしまったときに、それでもそこに希望を探そうとする哲学の営みなのである。
  「誕生肯定」は、その反対概念である「誕生否定」を念頭に置くことで理解しやすくなる。「誕生否定」とは、「こんなことなら生まれてこなければよかった」というふうに私の誕生を否定することである。誕生肯定とは、そのような否定に飲み込まれながらも、そこからおそるおそる立ち上がり、「やっぱり生まれてきて本当によかった」と自分の誕生を肯定することである。誕生肯定とは、私を押しつぶそうとしてくる誕生否定の力に逆らって、そこから脱出し、立ち上がり、前に向かって進もうとすることを意味している。誕生肯定とは、まず第一に、否定に対する抵抗の営みなのである。
  ところで、このような文脈においてよく使用される概念として、「自己肯定」「存在肯定」「生の肯定」がある。この3つの概念の意味を検討し、それらの比較を通して、「誕生肯定」をより明瞭に把握していきたい。
  まず「自己肯定」であるが、これは、自分の人生を無理に背伸びせずに生きていっていいのだと肯定することを意味する。この概念についても、反対概念である「自己否定」を念頭に置くことでクリアーに内容をとらえることができる。「自己否定」とは、こんな私なんかぜんぜんダメだというふうにして、自分の全体を否定することである。自分には能力がない、性格が悪い、失敗ばかりする、魅力がない、他人に不快感ばかりを与える、価値のある仕事ができない、だから自分はダメなんだというふうにして自分を痛めつけることである。その果てに、自分の価値を高めようと無理に背伸びをして、かえって現実の自分の姿に苦しむ結果となることもある。「自己肯定」はこの逆である。たしかに自分にはさほど能力はないし、性格も良くないかもしれないし、失敗ばかりするかもしれないけれども、それでもなお私はこれまで生きてきた自分自身の人生を引き継ぐ形でこれからも無理に背伸びせずに生きていっていいのだ、自分を責めたり痛めつけたりしなくてもいいのだと心から思えることであり、他人からの承認に依存することによってではなく自分自身の力によってその肯定が成し遂げられることである。そして心からそのように思えるようになれば、そこから無理のないやり方で、自分をよりよい方向へと変えていくことができるようになることがある。「自己否定」に関しては、周りの人々や社会からの圧力によって自己否定させられているケースがあることに注意を払う必要がある。このような場合は、真に否定されるべきは自分自身なのではなくて、自分をそのように思わせている周囲や社会のほうなのだ、という気づきを得ることによって自己肯定への突破口が開けることがある(29)。
  このような「自己否定」がさらに進行すると、それは「存在否定」に行き着くことになる。「存在否定」とは、自分なんか消えてしまえばいい、ここからいなくなればいい、死んでしまえばいいというふうに自分の存在を否定することである。存在否定は他人に対して行使されるときもある。教室のいじめにおいて、お前なんか消えてしまえばいい、死んでしまえばいいと言うのも、存在否定の行為である。このような存在否定は、障害者差別やホロコーストにおいて見られるように、社会規模で行使されることもある。そのような強力な力でもって存在否定された当事者たちは、その圧力に負けてしまって、自分なんか誰からも迎え入れられていないのだから、この社会から消えてしまったほうがいいのだ、死んでしまったほうがいいのだというふうに、自分の存在否定に至ることがある。「存在肯定」はこの逆である。たとえ私がどんな人間であったとしても、私はこの世に生きていていいのだし、これからも生き続けていいのだし、この場所から消えてしまわなくてもいいのだ、というふうに自分に対して思えることである。そしてそれと同じことを、他人に対しても確信をもって言えることである。たしかに人は、誰かから嫌われたり、気に入られなかったりするかもしれないけれども、その人の存在だけは誰によっても否定されてはならないと確信をもって言えることである。たとえどのような人であっても存在していてよいし、消えてしまわなくてもよいと確信をもって言えることである。
  さらに「生の肯定」という概念がある。これを、生きることの肯定というふうに解釈するならば、それは「存在肯定」と同じことになる。「生の肯定」に独自の意味を与えたのはニーチェである。このニーチェの考え方は、その後の思想家たちに大きな影響を与えた。ニーチェは、この世での生こそが第一義的な重要性を持っており、それこそが肯定されるべき生であると考えた。
  ニーチェはキリスト教を批判したが、それはキリスト教がこの世での生を否定的に捉え、この世の彼方にある彼岸こそが真実であるとみなしたからである。これは「生の否定」の思想であると言える。ニーチェはそのようなキリスト教的道徳や世界観を批判し、私たちがいま生きているこの世での生そのものが肯定されるべきであるとした。そして、この世での生を、そのもっともすばらしい時ももっとも悲惨な時もひっくるめて全体として肯定し、その生に対してイエスと言う思想を説いた。そしてこのような生の肯定は、これと同じ人生がもう一度、いや何度繰り返されたとしてもまったくかまわない、いやむしろこれと同じ人生が永遠に繰り返されることを私は欲する(同一者の永遠回帰)というところまで高まっていく。『ツァラトゥストラ』から引用しておこう。

そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか? おお、わたしたちの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは一切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。・・・・(中略)・・・・かつてそなたたちが、「おまえはわたしの気に入る。幸福よ! 刹那よ! 瞬間よ!」と語ったとすれば、そなたたちは一切が帰って来ることを欲したことになるのだ!(30)

  ニーチェの思想には、人生の全体を肯定しようとする発想が色濃くあり、それは本論文で述べてきた「人生まるごとの肯定」の考え方の祖型と言うことができる。神なき時代において「生の肯定」を説くニーチェこそ、私がこの論文で切り開こうとしている「誕生肯定の哲学」の先駆者であることは間違いない。その点に関しては充分な尊敬の念を払いつつも、彼の「永遠回帰」の考え方に関しては慎重に距離を取っていきたいと思う。同一者の永遠回帰をどのくらいの強さで解釈するかによって、それが誕生肯定とはかけ離れたものになってしまう危険性があるからである(後述)。
  まとめると、「自己肯定」とは、私はこれまで生きてきた自分自身の人生を引き継ぐ形でこれからも無理に背伸びせずに生きていっていいのだ、自分を責めたり痛めつけたりしなくてもいいのだと心から思えることであり、他人からの承認に依存することによってではなく自分自身の力によってその肯定が成し遂げられることである。「存在肯定」とは、たとえどのような人であっても存在していてよいし、消えてしまわなくてもよいと確信をもって言えることである。「生の肯定」とは、この世の生こそが肯定されるべき生であると考え、その生の全体に対してイエスと言うことである。
  この3つの概念を、「誕生肯定」の概念と比較対照してみたい。「誕生肯定」とは、「こんなことなら生まれてこなければよかった」というような誕生の否定から脱出し、「やっぱり生まれてきて本当によかった」と自分の誕生を肯定することであった。
  まず「誕生肯定」と「自己肯定」を比べてみよう。共通しているのは、自分自身の生の肯定が問題となっている点である。しかしながら、自分自身の生というときに、その生のどこに光が当てられているのかが異なっている。「誕生肯定」においては、〈私がこの世に生まれてきたこと〉が肯定されるのであるが、「自己肯定」においては、〈私のこれまでの人生を引き継ぐ形でこれからも無理せずに生きていくこと〉が肯定される。もちろん、当然、「誕生肯定」に引き続いて、この意味での「自己肯定」が生成することは大いにあり得る。実際問題としてこの二つはつながっていると言える。「自己肯定」のもうひとつの特徴であるところの、他人からの承認に依存するのではなく自分自身の力によって肯定がなされるという点について言えば、それは必ずしも「誕生肯定」の特徴だとは言えない。他からの承認に依存する形で誕生肯定が起きることはあるかもしれないからである(31)。
  では「誕生肯定」と「存在肯定」ではどうだろうか。「存在肯定」のポイントは、どんな人であれ存在していてもよい、生き続けていてもよいと強調することによって、人がみずからの存在を消滅させてしまおうとする動きや、人が誰かの存在を消滅させてしまおうとする動きを、全力をもって阻止しようとするところにある。問題関心は存在の消滅のフェーズに当てられている(32)。これに対して「誕生肯定」における問題関心は、私がこの世に生まれてくること、すなわち私の生成のフェーズに当てられている。この両概念は、生きることに対して肯定的な判断を下す点では似ているが、一方はこの世に生まれてくる動きに焦点を当てるのに対し、他方はこの世から存在を消そうとする動きに焦点を当てるのである。それぞれの否定概念である「誕生否定」と「存在否定」の関係については、後に詳しく検討する。
  最後に「誕生肯定」と「生の肯定」ではどうだろうか。この両概念は、この世での生こそが肯定されるべきものであるとする点、そして人生まるごとが肯定されるべきであるとする点で共通している。そのうえで言えば、ニーチェの場合は、「誕生」というところに強い照明が当てられないので、「生の肯定」が「誕生肯定」へと結びついていく道筋が見えない。誕生肯定の哲学からするニーチェ批判は、この点に鋭く光を当てるべきであろう。また、「生まれてきた」という誕生の受動性の肯定やそれへの感謝というモチーフが希薄である。これはニーチェがキリスト教批判をしていたことと無関係ではないだろう。アウグスティヌスに沈潜するかたちで思索していたアーレントが誕生への感謝を口にするのとは対照的である。
 
7 人生の「破断」と「誕生肯定」

 誕生肯定とは、現在完了形の意味での誕生を肯定することを通して、形而上学的な意味での誕生を肯定すること、すなわち、これまで生きてきた人生をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することであった。
  その前半の「人生まるごとの肯定」については、2007年論文においても立ち入って考察したが、そのときに問題となったのが、「人生まるごとを肯定する」とはいったいどういうことかという点であった。これまでの人生を振り返ってみても、肯定できないことはたくさんあるし、後悔することもたくさんある。しかしながら、肯定できないことや、後悔することが個々にはたくさんあったとしても、それでもなおそのような失敗や後悔を含んだところの私のこれまでの人生を私が生き抜いてきたことそれ自体については「生きてきてよかった」「後悔はない」と深く心から思えることが、人生まるごとの肯定なのだと私は考えたのである。
  この点について、さらに考察してみたい。第4節で述べたように、「現在完了形の意味での誕生」によって一気に見通された人生には、ある特徴があるのだった。それは、現在完了形で振り返るそのたびごとに、新たな内容の人生の全体が、一気に見通されて立ち現われてくるという特徴である。そして、振り返るたびごとに、人生がまるごと一気に見通されて立ち現われるのだから、そのたびごとに人生全体が異なった意味や価値をもって立ち現われることがあっても不思議ではない、という特徴である。すなわち、現在完了形で振り返ったときにまるごと肯定することのできなかった人生が、そのあとでふたたび現在完了形で振り返ったときに、今度はまるごと肯定できるものとして立ち現われることがあったとしても、まったく問題ないというわけなのである。
  この性質は、私の死の直前まで続く。これまでの人生にはまったく意味もないし、価値もないと思っていたとしても、次の瞬間には、それが全面的にひっくり返されて、人生をまるごと肯定するという姿勢になってしまう可能性はつねに開いている。それまでは暗い人生でしかなかったものが、あるときあなたに出会ったことによって、まったく異なった意味を持ちはじめ、そこから振り返ることによって立ち現われてきた自分の人生の全体が、大きな肯定的な価値をもって迫ってくるというようなことは実際にあり得る。(と同時に、「人生まるごとの肯定」を得ていた私が、なにかの出来事をきっかけに、人生をまるごと肯定できなくなって苦しむということは大いに起こり得る。「人生まるごとの肯定」や「誕生肯定」は、つねに失われる危険性をはらんでいる。肯定がそのままずっと継続する保証はどこにもないのである。)
  さらに言えば、「人生まるごとの肯定」や「誕生肯定」は、客観的な人生というものに対して、私があとから主観的に「付与」する価値ではないということだ。そうではなくて、「人生まるごとの肯定」や「誕生肯定」は、現在完了形での振り返りによってそのつど立ち現われてくる人生の全体に内属した属性として、人生の全体とともに向こう側から生成してくるものなのである。すなわち、人生や誕生についての肯定は、こちら側から付与するものではなく、向こう側から人生や誕生とともに生成してくるものなのである。以上の論点は、非常に重要なものである(33)。
  さて、これを前提としてさらに考えを進めていこう。
  「人生まるごとの肯定」を考えていくときに、目の前に立ちはだかるのが、「破断」を含んだ人生を私は本当に心から肯定できるかという難問であった。「破断」とは、愛する家族を無残に殺されたり、あるいは自分がレイプや戦争被害を受けたりといった悲惨な体験をしたときに、自分の人生がその時点で暴力的に断ち切られたような状態になり、未来へと前向きに生きていこうとする力が奪われてしまうことである。破断を経験した人間は、「自分の時間の流れは、あそこで止まっている」と表現することがある。まさに、人生がそこで破られ、断ち切られているのである。
  決定的な破断を体験した人は、「人生まるごとの肯定」を得ることができるのだろうか。それについて、私は2007年論文で次のように考えた。まずは、「破断それ自体」と「破断が起きた自分の人生そのもの」をくっきりと区別する。そうすることによって、破断それ自体は受け入れがたくても、破断が起きた自分の人生そのものは尊い、と心の底から思えるようになる可能性は残されている。愛する人を失ったことは受け入れがたくても、愛する人を失った自分の人生そのものを愛し続けることは可能であるということだ。(34)
  すなわち、「破断」それ自体を肯定することはけっしてできないとしても、「破断」が起きた自分の人生を私がここまで生き抜いてきたことそれ自体に関しては、「生きてきてよかった」と深く心から肯定することが可能であるはずだ、と私は考えた。そして、そのような肯定の可能性が論理的に開かれているところにこそ「人間の尊厳」があるのだと私は考えた。
 このように、「破断」という出来事と、「破断」をくぐり抜けて私がここまで生き抜いてきたことをくっきりと区別し、前者を肯定することはできなくても、後者を肯定することはできるはずだとする道筋は、けっして間違ってはいないと私はいまも考えている。もちろん、実際問題として、これは達成するのが非常に困難な営みであることは言うまでもない。
 「破断」の問題を詳しく考えるために、それを次の3つの場合に分けてみる。
 第一は、「破断」についてはけっして肯定できず、「破断はなかったほうがよかった」と思っているが、その「破断」をくぐり抜けて私がここまで生き抜いてきたことについては、「生きてきてよかった」と深く心から肯定しているような場合である。これは2007年論文で述べた解決である。これについては、以下のような疑問が生じる。すなわち、個々の「破断」については「なかったほうがよかった」としながらも、それらの「破断」を生き抜いてきたことについては「生きてきてよかった」と思える、ということが本当にあるのかということである。たとえば、ある人のことを全体としては深く心から好きなのだけれど、その人の個々の目や鼻などのパーツについては「そうじゃないほうがよかった」と思っている、などということがあるだろうか。もし、あるのだとしたら、そこには何か大きな欺瞞が存在しているのではないだろうか。これは、個々の「破断」への否定と、生き抜いてきたことへの肯定のあいだにある矛盾を、人は本当に安定的に引き受けられるのかという疑問である。だがもちろん、この第一の解決の有効性そのものを私が疑っているわけではない。そこに伏在する矛盾は見過ごされるべきではないかもしれない、ということを指摘しておきたいのである。
 第二は、次のような場合である。「破断」についてはけっして肯定できないが、その「破断」をくぐり抜けて私がここまで生き抜いてきたことについては、「生きてきてよかった」と深く心から肯定している。ところが、ここまで生き抜いてきたという地点から人生を振り返ってみれば、まさにそれらの「破断」の経験があったおかげで、いまの私へと続いてきた人生があったわけであり、いまの私の肯定があるのだから、この肯定を準備してくれたという意味において、それらの「破断」もまた「あってよかった」と思えるようになる、という場合である。すなわち、個々の「破断」を単独に取り出してみればそれらをけっして肯定することはできないけれども、肯定を得たいまの地点から人生の全体を振り返ってみれば、私の人生の不可欠のピースとして組み込まれた破断は「あってよかった」ということになるのである。すなわち、この場合においては、生き抜いてきたことについても「生きてきてよかった」ことになり、人生に組み込まれた「破断」についても「あってよかった」ことになるから、そこに大きな矛盾は生じない。
 しかしながら、実際問題として、これはどういうことになるのだろうか。たとえば家族が殺人者に無残に殺されて、その衝撃で人生を切り裂かれた人のことを考えてみよう。その苦難の中からその人が長い時間をかけて立ち上がり、自分が生き抜いてきたことを「生きてきてよかった」と深く心から肯定する、ということはあるかもしれない。しかし、いまの肯定された人生の不可欠なピースのひとつであるから、その殺害という「破断」が「あってよかった」というふうに心底思えるになることが、ほんとうにあり得るのだろうか(35)。
 破断が「あってよかった」ということの意味を、さらにくわしく考えてみよう。それは、「破断」が起きたことを諸手をあげて喜ぶようになるという意味ではない。そうではなくて、「破断」が起きたことはいまから振り返ってもつらいけれど、破断が「ないほうがよかった」とはけっして思わない、という意味である。したがって、私が生き抜いてきたことを肯定する地点から、そのような意味で破断が「あってよかった」と肯定されていくことは実際にあり得るように思われる。たとえ愛する家族が無残に殺されたとしても、人がこのような境地に立てることはあり得ると私は考える。そしてそのとき、その人は、このような肯定に立ちつつ、「あのような出来事はもう二度と繰り返されてはならない」と確信をもって、かつ矛盾なく、言うことができるのである。破断を導いた出来事は「あってよかった、だが繰り返されてはならない」のである。ここに第二の立場の核心部分がある。
 第三は、先に述べたニーチェの「永遠回帰」の思想による解決である。ニーチェの「永遠回帰」をどのように解釈するかによって話は変わってくるが、ここでは、それをもっとも額面通りに受け取って、まったく同一内容の人生が永遠に繰り返し回帰してもかまわないというふうに人生を肯定する思想だと解釈しておこう。それは、人生の中で起きたもっともすばらしい瞬間のみならず、もっとも悲惨な「破断」もまたまったく同じように永遠に回帰することを私は欲する、ということになる。すなわち、私は「破断」が何度も何度も繰り返し訪れてくることを欲するというわけである。普通に考えて、ニーチェのこの要求は、人間にはきつすぎるものである。だからニーチェはその思想の担い手として超人を構想した。永井均は次のように明快に言う。「これは驚くべき考え方である。それが驚くべきであることは、社会的に翻訳してみればすぐに分かる。社会的に見れば、それはどんな悪人も悪事も肯定するということに直結する。ナチスもオウムも、ホロコーストもサリンも、何もかも、すべてそのまま、また起こることを、大きな歓喜とともに受け入れる、ということである」(36)。ニーチェの「永遠回帰」と、上記の第二の解決は、この点においてまったく異なる。第二の解決では「破断はあってよかった」ということになるが、けっして「破断をもう一度欲する」というふうにはならないし、その「永遠回帰」を望むこともあり得ない。破断を導いた出来事は「あってよかった、だが繰り返されてはならない」からである。ここに、第二と第三の決定的な違いがある。
 以上の考察をふまえて、これまでの議論を微修正することにしたい。これまでは、「人生まるごとの肯定」を、後悔も失敗もある人生を生き抜いてきたことの肯定と同一視してきた。しかしながら、さきほどの議論によって、人生を生き抜いてきたことの肯定と、その人生の全体を肯定することのあいだの重大な差異が明確になった。前者においては個々の後悔や破断は肯定されていないが、後者においては個々の後悔や破断は「あってよかった」として肯定される。いままで使用してきた「人生まるごとの肯定」という言葉は、後者をあらわす概念として用いるのが適当であると考えられる。それにともなって、前者のような肯定の形式を、生き抜いてきたことの肯定という意味で「サバイバルの肯定」と呼ぶことにしたい。
 したがって、「誕生肯定」へと至る道筋は、次のようなものとなる。まず、後悔や破断のあった人生を私がいままで生き抜いてきたことそれ自体について、「生きてきてほんとうによかった」と深く心から肯定する(「サバイバルの肯定」)。そしてその地点からこれまでの人生を振り返ることによって、「破断」が起きたことはいまから振り返ってもつらいけれど、破断が「ないほうがよかった」とはけっして思わないという境地になり、それらは「あってよかった、だが繰り返されてはならない」という肯定に至る(「人生まるごとの肯定」)。そのような肯定を通して、「生まれてきて本当によかった」と深く心から肯定することができるようになる(「誕生肯定」)。直観的に表現すれば、「生き抜いてきてよかった」→「このような内容の人生を生きてきてよかった」→「生まれてきて本当によかった」ということになるだろう。あるいは、「生き抜いてきてよかった」→「生まれてきて本当によかった」という道筋もあるかもしれない。

◆「誕生肯定」とは、私がこれまでの人生を生き抜いてきたことを肯定し、これまで生きてきた人生の内容をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することである。

  もちろん、そもそもなぜ「破断」を経験した人が、「人生まるごとの肯定」へと進むことを目標としなければならないのか、という問いかけも必要である。肯定へと進むべきであるという考え方こそが、実際に「破断」を経験した人をもっともきびしく追い詰めることになるかもしれないからである。本論文では哲学的な理論研究として考察を進めているが、実際のサバイバー研究や、援助の実践においてどのような知見が蓄積されているのかについて研究を進め、ここでの議論とすりあわせる必要がある。
 その手がかりとして、近親姦や戦争の被害のトラウマ研究のマイルストーンであるジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』において、回復過程がどのように捉えられているかを見てみよう。サバイバーの回復のプロセスが進むにつれて、「トラウマがもはや人生の中心の座を占めなくなる時」が来る(37)。そして人格との再統合が進めば、トラウマは「サバイバーの遺産the survivor’s legacy」となって、次代へと受け継いでいくことができるものとなる(38)。人々との共世界へと参入することによって、「自分の苦悩は〈大海の一滴の雨粒のようなものas a drop of rain in the sea〉」であるという感じを得るようになる。そして「彼女の回復は完成され、あとに残るものといえば、彼女の人生her lifeのみとなる」のである(39)。同書におけるトラウマの長く重苦しい記述を経てここに至ると、かすかな希望を見出す思いがする。近親姦のサバイバーが主な対象であるから、一般化するのは危険だが、回復によって人生を自分に取り戻したサバイバーは、「破断」をくぐり抜けてこれまで生き抜いてきたことに対して、否定的な視線を注いではいない。そして、トラウマは否定の対象というよりも、人生の中心を占めなくなるという形で脇役に追いやられる。それは大海の一粒ともなり、サバイバーの遺産ともなる。もちろんサバイバーが直線的にそこに向かって進むわけではなく、何度も揺り戻され、混乱を経るのである。そのうえで、このような終着点をハーマンは提示している。
 このようなハーマンの「回復」の解釈は、「破断」を経たうえでの「人生まるごとの肯定」に近しいように私は感じる。だがこの点は、さらに広いサバイバー研究を渉猟してから再検討すべきものである。現時点では私の感想にとどめておき、将来に期したいと思う。

8 「誕生否定」と「悪」

 「誕生肯定」とは、生まれてきて本当によかったと深く心から肯定することである。その反対概念は「誕生否定」だ。「誕生否定」とは、生まれてこなければよかったと深く心から後悔することである。
 「誕生否定」の言葉が実際に使われた例として、「不法出生訴訟wrongful birth action」と「不法生命訴訟wrongful life action」がある。前者は、医師が胎児の障害についての情報を妊婦に伝えなかったために、望まない子どもを産んでしまったとして、親が医師を訴える訴訟のことである。後者は、障害を持って生まれてきた子ども自身が原告になって、もし適切な情報が親に与えられていたならば、自分は中絶されており、こんな姿で生まれてこなくてもよかったはずだとして、医師を訴える訴訟のことである。
 すなわち、前者は、障害児に対して「お前など生まれてこなければよかった」と宣言することと等しく、後者は、障害者自身が「私など生まれてこなければよかった」と宣言することと等しい。ともに、「生まれてこなければよかった」という深い後悔の念が表出されており、これは「誕生否定」そのものであると言えるだろう。私は『生命学に何ができるか』(2001年)において、この二つの訴訟を取り上げ、それらが「根源的な安心感」、すなわち「生まれてこなかったほうがよかったのに」とか「いなくなっちゃえばいいのに」という視線で見られることはないという安心感を、根底から浸食しようとするものだとして批判した(40)。そして2007年論文においても、「生まれてきて本当によかった」という誕生肯定を根底から覆すものとして、それらの訴訟を批判した(41)。
 加藤秀一は、『〈個〉からはじめる生命論』(2007年)において、この「不法生命訴訟」について詳細に論じている。そしてこの訴訟の根底にある「私は生まれてこなければよかった」という希求が、「私は死んでしまいたい」という自殺への希求よりもさらに深刻な否定性であることに注意をうながしている。重要な箇所なので、引用する。

そうであるからこそ、そのような否定性をあえて請い求めること、自己の生に対するそれほどに否定的な態度は、生ける者にとってしばしば自殺以上におぞましく感じられるのである。第二章でくわしくみた「自分は生まれない方がよかった」という思想とは、自らを「望ましからぬ者や生きる資格のない者」であるとみなし、「あたかもそんなものは嘗て存在したことがなかったかのように地表から抹殺してしまう」ことへの希求に等しい。それはいわば、歴史上に微少な「忘却の穴」をつくりだそうとすることなのである。そのようにとらえれば、ロングフル・ライフ訴訟が欲望する絶望の深さ[は]よりいっそう私たちの身に迫ってこよう。(42)

  加藤は、自殺のように「単に自分がいなくなる」ことへの希求と、不法生命訴訟の思想のように「私がはじめからいなかったことになる」ことへの希求を比べたときに、私がこの世に存在したことの痕跡をすべて消してしまいたいと望む後者のほうが、はるかに絶望が深いと指摘する。本論文での言葉を用いれば、「存在否定」よりも「誕生否定」のほうが、より絶望が深いというのである。
  加藤は重要な論点をえぐり出すことに成功している。しかし同書ではこれより先に論を進めることをしていない。とくに、なぜその絶望が「より深い」と言えるのかについての充分な考察がなされていないように思われる。私も加藤のこの指摘には深く賛同するがゆえに、この点をもう少し先にまで進めて考えてみたい(43)。
  加藤が言うように、「存在否定」への希求とは私の存在をこの世から消し去ってしまいたいと願うことであるが、「誕生否定」への希求とは私の存在をこの世から消し去ってしまうことに加えて、私が出生してからこの世に残したすべての痕跡を消し去ってしまいたいとまで願うことである。私につながる一切のことを消し去りたいという「誕生否定」の徹底性に、加藤は絶望の深さを見る。私はこれに加えて、さらに次のことを指摘しておきたい。
  「存在否定」への希求は、実際に実現することが可能である。自殺をすれば、私は私の存在をこの世から消し去ってしまうことができる。これに対して「誕生否定」への希求は、実際に実現することができない。なぜなら、たとえ自殺をして私の存在をこの世から消し去ったとしても、(私の死によって全世界もまた同時に消滅すると信じないかぎり)私がこの世に残した痕跡をすべて消し去ることはできないからである。たとえ自殺をしたとしても、「生まれてこなければよかった」という「誕生否定」への希求を実際に実現することはできないというところに、「誕生否定」の残酷さがあるように私は思う。「存在否定」ならば、死んでしまえば決着がつく。しかし「誕生否定」の場合は、死んでしまってもなんら決着がつかず、否定されてほしいものは依然として否定されたことにはならないのである。この「誕生否定」の完遂不可能性にこそ、「誕生否定」の絶望の深さがもっとも色濃くあらわれていると私は考える。
  「破断」に関しても同じことが言えるだろう。「たとえ自殺をしても、あのときに私の人生に破断が起きたという出来事は、けっしてなかったことにはならない」というリアリティをもって生きている人にとっては、自殺によって「誕生否定」を完遂することは不可能である。「誕生否定」がなぜ「存在否定」よりも深刻な否定性を内包しているのかと言えば、「誕生否定」が、自殺によってすら解決に至らないような否定性を私に突きつけるからであり、自殺によって解決しようとする道をあらかじめ封じてしまうからであり、完遂できないことの完遂を私に要求するからである。
  この袋小路を脱出する道がまったくないのかと言えば、そうではない。そこから脱出する道はひとつだけ開いている。それは、「生まれてこなければよかった」という深い後悔の念を、「やっぱり生まれてきて本当によかった」という肯定へと変えていくことを目指して、否定に満ちたいまの生をしぶとく生き抜き、その生き抜いてきたことに対してイエスと言えるような私が新たに生成してくるのを待つことである。そしてその先にある「人生まるごとの肯定」へと道を開いていくのである。私の存在を否定することによってではなく、いまの生を生き抜くことによって解決を目指すという道のみが、脱出口として開けているのである。それを実行するのはたやすいことではないけれども、論理的にはそのような道は確実に開いている。自殺によっては解決できないが、いまを生き抜くことによって解決できる可能性は存在する。自殺ではなく、私がいまを生き抜かなければならない理由があるとすれば、それはここにあるのではないか。
  2007年論文では、他人を「誕生否定」へと追い詰めていくこと、すなわち、「自分は生まれてこなければよかった」というところにまで追い詰めていくことを「悪」の典型例として考えた。もちろん、他人を自殺にまで追い込むのも「悪」であることに間違いはない。だが、上記の議論を適用すれば、そのような「存在否定」へと追い詰める悪よりも、「誕生否定」へと追い詰める悪のほうが、よりいっそう深刻な悪だということになるはずだ。なぜなら、「存在否定」へと追い詰められた場合には自殺という最終手段が残されているのに対し、「誕生否定」へと追い詰められた場合には自殺すら最終手段にはならないからである。「存在否定」は可能性を強制されることであるが、「誕生否定」は不可能性を強制されることだからである。言い方を変えれば、他人に向かって、「お前なんか死んでしまえばいいのに」と言って追い詰めるよりも、「お前なんか生まれてこなければよかったのに」と言って追い詰めるほうが、よりいっそう深刻な悪の行為だということである。そしてこの後者のような追い詰め方こそが、内在的誕生論の視点から見えてくる根源的な悪の形だということになるだろう。

9 私はなぜ生まれてきたのか?

 さて、「誕生肯定」とは、次のようなものであった。

◆「誕生肯定」とは、私がこれまでの人生を生き抜いてきたことを肯定し、これまで生きてきた人生の内容をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することである。

 すなわち、「人生まるごとの肯定」という地点に立ち止まるのではなく、そこを超えて、「生まれてきたこと」そのものを肯定する地点にまで至ることが、「誕生肯定」なのであった。「人生まるごとの肯定」とは、これまで生きてきた人生のまるごとに対してイエスと言うことであり、「誕生肯定」とは、私が生まれてきたことに対してイエスと言うことであるから、この二つが内容的に異なるのは明らかである。このときに、二つの疑問が生じる。ひとつは、「人生まるごとの肯定」から「誕生肯定」へと至るときに、いったい何が起きているのかという問題である。どのような出来事やきっかけによって、私は「人生まるごとの肯定」から「誕生肯定」へとジャンプするのかということである。もうひとつは、「人生まるごとの肯定」の段階にとどまるのではなく、「誕生肯定」の段階にまで至ることによって、いったい何か達成されるのかという問題である。「誕生肯定」には、「人生まるごとの肯定」によっては得られないどのようなメリットがあるのかということである(44)。
  この二つの疑問に対して、私はまだ満足のいく答えを見出していないが、いまの時点での考えを記しておきたい。まず「人生まるごとの肯定」から「誕生肯定」へと至るときに何が起きているのかという点であるが、それは、「人生まるごとの肯定」をすることができた私が、そのうえに立って、ある問いに答えようという姿勢を取るときに、「誕生肯定」の段階へと引き上げられるのだと私は考えている。ではその問いとは何かということだが、それは「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いである。「人生まるごとの肯定」をすることのできた私が、「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いに答えようとして立ち上がるときに、私は新たな段階へと引き上げられる。そして、「私はなぜ生まれてきたのか? それは私が誕生肯定を得るためである」と答えることができるようになるのである。
  もうひとつの疑問に対しても、まったく同じようにして答えることができる。「人生まるごとの肯定」からさらにその上へとジャンプするのはなぜかと言えば、それは「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いに答えるためである。そしてその答えは、「私はなぜ生まれてきたのか? それは私が誕生肯定を得るためである」というものである。「誕生肯定」の段階にまで至ることによって、「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いに対する答えを獲得することができるのである。
  だが、「誕生肯定を得るために私は生まれてきた」というのは不思議な文章である。「肯定を得るために生まれてきた」というのは論点先取であるように見える。これは厳密にはどういう意味であろうか。すでに議論したように、「気がついたら私は誕生していた」というのが「誕生」の基本形であった。ということは、「誕生肯定を得るため」という目的が先にあって、しかるのちに私がその目的を達成するためにこの世に誕生した、というわけではないことになる。したがって「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いは、私が生まれる前から存在していたところの「生まれる目的」を問うているわけではない。ではそれはどのような問いなのかと言えば、それは「誕生」ということが現に私に起きたことへの意味づけ、すなわち形而上学的な意味での「誕生」と、いまを生きるこの私の生とを統合的に融合させることのできるための「神話」を求める問いなのである。問われているのは、私がこの世へと産み落とされたことの意味を私自身に納得させることのできる「神話」とは何かということである。
  ここまで考えれば、さきほどの「私はなぜ生まれてきたのか? それは私が誕生肯定を得るためである」というやりとりは、まだ不充分なものであることが分かる。私は次のように答えを深めたい。「私はなぜ生まれてきたのか? それはこの私にしか達成できない誕生肯定の仕方をこの世に生み出すためである」、と。私がこの世に生まれてきたのは、他のどのような人生によっても置き換えることのできない、まさにこのような個別性をもった私によってしか達成することのできない、ある独特のかけがえのない誕生肯定の仕方を、この世の中で実現するためなのである。他人の人生との比較によって誕生肯定の価値が決まるのではない。誕生肯定の価値は比較を絶している。たとえ、どうしようもない、情けない仕方における人生と誕生の肯定であったとしても、それが私固有の人生でなされた肯定であったとすれば、それは私にしか達成できないかけがえのない誕生肯定の仕方であると断言できる。私しか生きることのできないこの私自身の人生を生き抜くことによって、私にしか達成できない誕生肯定の仕方をこの世に生み出すこと、それが「私が生まれてきた理由」である。すなわち、私はなぜ生まれてきたのかと言えば、私の人生というこの世に一個しかない人生によって達成可能なこの世に一個しかない誕生肯定の形をこの世で達成するために生まれてきた、ということなのである(45)。
  これを宇宙の側から見てみれば、さらに別の光を当てることができるだろう。もしこのことを宇宙の側から見たとすれば、宇宙がこの世に無数の生命を生み出し続けているのは、それら無数の生命たちに、それぞれ他によってはけっして置き換えることのできない、独特のかけがえのない誕生肯定の仕方をこの世で次から次へと達成させるために、それらの生命を生み出し続けているのであるという「神話」になるはずだ。「生まれてきて本当によかった」という「誕生肯定」の無限のバリエーションを、無数の生命たちにそれぞれ異なった形で実現させるために、宇宙は生命を生み出し続ける。生まれた側からすれば、この私によってしか達成できない仕方の「誕生肯定」を、この世で達成するために私は生まれてきたのであり、私はこの生でそれを引き受けるから、他の人間や生命たちはそれぞれの固有の生においてそれぞれ独自の「誕生肯定」を引き受けて生きていってほしい、ということになるだろう(46)。
  私は完全に受動的な形で誕生した。そのことに対して、どういう決着を付ければいいのかという問いに襲われたときに、この「神話」はひとつの解答を与えることになるはずだ。これまで、人々は、以下のような問いを発し続けてきた。すなわち、「死ななければならないのに、なぜ生まれてきたのか?」「いずれ死んでしまうのに、なぜ生きなければならないのか?」「死ななければならない人生をどう生きればいいのか?」「生きる意味は何なのか?」「生きる目的は何なのか?」などである。これらの問いは、「神話」によってのみ正面から答えられるようになっていると考えられる。その意味では、これらの問いは必ずしも哲学の問いではないと思われるかもしれない。しかしながら、哲学というものを広義に捉えれば、これらの問いに対する答えを産出するのもまた哲学のひとつの役割であると考えることもできる。ちょうどプラトンが「エルの物語」を対話篇の最後で語ったように、生命の哲学はこのような「神話」とどこかで接続せざるを得ない運命を背負っているのだとも考えられるのである。この論文では、まず誕生肯定の問いがあって、その考察の結果として「なぜ生まれてきたのか」という問いが浮上した。だがこの地点まで来れば、話は実は逆であって、「なぜ生まれてきたのか」という問いが初発にあり、それへの答えとして誕生肯定が提言されるというのが自然な流れであることが分かる。この初発点をもって私の「生命の哲学」の出発点としたいと考えている。
 
10 おわりに
 
  「誕生肯定」について駆け足で考察してきた。さらに考えなければならない点はまだ多数残されているが、本論文では全体の概略が与えられたことをもってよしとし、ここから派生的・展開的に出てくる諸問題については他の機会に再検討することにしたい。そのうえで、語り残したことを少しだけ付記しておく。
  まず、「誕生肯定」を得るための具体的なプログラムが考えられるか、という点である。直観的には、そのようなものはないであろうと思われる。人生の「破断」を生き抜いていくための具体的なプログラムさえ、いまだ現場では様々に模索されている途中であるのに、「人生まるごとの肯定」を達成するためのプログラムなどをここで構想するのはとうてい不可能である。いまの段階では、「誕生肯定」を得るための「理路」を明らかにすることで満足するしかないように思われる。
  それに関連して思うのは、「このようにすれば誕生肯定が得られます」というようなハウツーがあってはならないということである。なぜなら、それは、それぞれの人がそれぞれ独自でかけがえのない「誕生肯定」を模索することが目指されるべきだという考え方に、反することになるからである。「誕生肯定」は、それぞれの人がそれぞれの人生を個別に生きていくなかで、他の人々の力を借りながら、彼らとの関係性のなかで、その人独自のやり方で発明的に創出されていくしかないように思われる。それをハウツーにしてしまうのは、一般化された偽の「誕生肯定」を人々に押しつけることになることだろう。「誕生肯定の無痛化」という危惧も生じる。と同時に、その一方で、「誕生肯定」を得ることをサポートするような環境作りは可能であるように思われる。私がかねてより提唱してきた「根源的な安心感」を社会に満たしていくことは、おそらく「誕生肯定」をサポートすることにつながるはずである(47)。また、私が『無痛文明論』で述べたように、人が悔いなく生き切ることを阻害するシステムとしての「無痛文明」の仕組みについて考察し、そこから脱出する方策を探ることもこれに関連するはずである(48)。本論文のように、内在的な視座に立ちつつ「誕生肯定」を考察するような試みに対しては、ある種の人々に「誕生肯定」をさせないように仕組まれたこの社会の制度やダイナミズムから目をそらそうとする癒し系の研究にすぎないとする批判が寄せられることがある。その批判の意味するところは私も充分に理解しているので、本研究はやがてその側面への研究へと広がっていく予定であるということをここに記しておきたい。
  また、「誕生肯定」という用語法への疑義も出されるであろう。「誕生」という言葉は、どうしても「出産」をイメージするから、「誕生肯定」と言われるとまるで「出産を肯定しなくてはならない」と言われているような不快感を感じるという声が寄せられることがある。もちろん冒頭で述べたように、本論文における「誕生」という概念は、この世への私の出現という意味でしかなく、母親からの出生という出来事とはまったく無関係であることは言うまでもない。それは「出産」よりも、むしろ「宇宙の誕生」というときの「誕生」の意味に近い。しかしながらこのような回答でその不快感が消えるわけではないだろうから、そのような批判を受けたときにはそれを甘受しなければならないのかもしれない。これに類した批判としては、「誕生」を考えるときに、具体的に孕んで出産する女性の存在を意図的に捨象した議論を男性哲学者がまたしても行なっている、というものがあり得るだろう。これに対しては、本論文で私が議論しようとしている水準の問題までをも、そのような批判によって切ろうとするその営みに対して、私は根本的な疑義があるとだけ述べておきたい(49)。しかしもちろん、必要不可欠なジェンダー的視点は取り込んでいかなければならないし、それは今後のこの研究にとって重要な点であることに間違いはない。
  本文中でも何度か触れたが、「誕生肯定」の哲学的考察は、性被害や犯罪被害のサバイバーの経験をもとにしたサバイバー研究から多くを学んでいかねばならないと私は考えている。とくに「破断」の議論は、サバイバーの経験に照らし合わせることなくしては机上の空論となってしまうだろうし、本論文で考察した多くのことがすでにそこで別の角度から議論されていることだろう。私が「生き抜く」というとき、それはまさに「破断」をサバイブしていくことを意味しているからである。と同時に、本論文では、みずからの人生に大きな後悔や「破断」がおきた場合にそれをどのようにして肯定するかという問題設定で考察したが、それ以外の場合については考察できなかった。それ以外の場合とは、自分のような性格や生い立ちを持って生まれ出たことそれ自体がそもそも受け入れられない場合や、自分が加害者となって他人を苦しめたり殺したり自殺させたりしたことが自分自身の「破断」になっているような場合である。これらの検討についても今後の課題としたい。
  本論文で示唆した「誕生肯定の哲学」は、私がかねてより提唱してきた「生命の哲学」というジャンルにおける、具体的な哲学の営みとなるであろう。今後もこの連載で引き続き展開していく予定である。
 
 
参考文献

Arendt, Hannah 1958 The Human Condition. The University of Chicago Press. (ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年)
Arendt, Hannah 1996 Love and Saint Augustine. The University of Chicago Press.
Heidegger, Martin 1953 Einf?hrung in die Metaphysik. Max Niemeyer Verlag. (マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』平凡社、1994年)
Heidegger, Martin 2006 Sein und Zeit. Max Niemeyer Verlag. (マルティン・ハイデッガー『存在と時間』(上・下)ちくま学芸文庫、1994年)
Herman, Judith Lewis 1992, 1997 Trauma and Recovery. Basic Books. (ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』みすず書房、1996年)
加藤秀一 2007 『〈個〉からはじめる生命論』NHKブックス
加藤秀一 2010 「〈生む自由/生まれる自由〉のためのノート」加藤秀一編『生―生存・生き方・生命』岩波書店 87-115
森一郎 2008 『死と誕生:ハイデガー・九鬼周造・アーレント』東京大学出版会
森川輝一 2010 『〈始まり〉のアーレント』岩波書店
森岡正博 2001 『生命学に何ができるか』勁草書房
森岡正博 2003 『無痛文明論』トランスビュー
森岡正博 2007 「生命学とは何か」『現代文明学研究』8:447-486
永井均 1998 『これがニーチェだ』講談社現代新書
Nietzsche, Friedrich 1953 Also Sprach Zarathustra. Alfred Kr?ner Verlag. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』(上・下)ちくま学芸文庫、1993年)


1 正確には、「生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げすることなく探求しながら生きていく営みのことである」(森岡正博、2007年、457頁)。「生命学」については本論文では詳述する余裕がないので、この2007年論文を参照していただきたい。
2 森岡正博、2007年、465〜466頁。
3 森岡正博、2007年、471頁。
4 森岡正博、2007年、475〜476頁。
5 加藤秀一は、このことを映画「ブレードランナー」を素材にして別の角度から説明している。加藤秀一、2010年、109頁以降。
6 Heidegger, 2006, S.276. 邦訳(下)、113頁。
7 Heidegger, 2006, S.328. 邦訳(下)、217頁。
8 森一郎、2008年、81頁。
9 しかし実際にはハイデッガーはこのような立論をしていない。森によれば、「少なくともはっきりしているのは、ハイデガーにおいてこうした問いは立てられていないという点である」(傍点は森)。現存在の歴史性についての息の長い議論に比べれば「誕生という問題事象は通りすがりに言及されているにすぎず、いわばダシのような扱いしか受けていない」(森一郎、2008年、82〜83頁)。以上が森の見解である。私も彼に賛同すると同時に、後期の存在哲学において、たとえば性起や存在の奥義などの概念を用いて、誕生肯定のようなものが議論されていると解釈することもできる、という点には注意を払っておきたい。この点についての議論は、他の機会に譲ることにしたい。
10 森もこの点に注意をうながしている。(森一郎、2008年、209頁)
11 「第二の誕生a second birth」という言葉は、『人間の条件』に見られる。Arendt, 1958, p.176. 邦訳、288頁。
12 Arendt, 1958, p.177. 邦訳、288頁。翻訳は改めた。
13 Arendt, 1996. 英訳草稿はアーレント自身がドイツ語版に加筆修正しつつ英訳したテキストであり、ドイツ語版にない重要な文章が収められている。
14 Arendt, 1996, p.55.
15 Arendt, 1966, p.55.
16 森川輝一、2010年、324頁。
17 Arendt, 1966, p.52.
18 森一郎、2008年、288〜296頁。「誕生という起点」という言葉は289頁に、「遡行」という言葉は288頁の図11に見られる。
19 森自身は、このような読みは行なっていない。
20 素朴実在論的な語り方をするならば、「私の意識はいまから50年前に誕生したと言えるであろうか」というふうになる。しかしこのような語り方は、「私の意識」を離れて外界が実在するという前提に立ってはじめて成立するものである。内在的誕生論においては、「意識」という言葉は使う必要がないし、使わない方が厳密に語ることができる。この点についての考察も他の機会にきちんと行なうことにしたい。
21 と同時に、内在的誕生論に立てば、世界はいま生成しているということになる。ということは、世界はつねにいま生成しつつ、私はつねに現在完了形で立ち現われることになる。生成の現在形と誕生の現在完了形との関係について考察する必要がある。またアーレントの言うような新たな始まり、つまり活動への乗り出しの時制については、私はそれを現在形としてとらえたが、それについても吟味すべきである。
22 Heidegger, 1953.
23 もし周囲の人が二回目の誕生であると証言したとしても、私は一回目の人生を内在的・直接的に知ることはできないのでその証言が正しいかどうかを検証することはできないし、もし私が内在的に一回目の人生を想起することができたとしても、その想起された人生といまの人生は私の中でつながっているわけだから、私はひとつながりの一回の人生を生きているということになるだろうからである。
24 論点を「人生の一回性」というところに移すならば、以下のようなことが言えるだろう。人生はその全体において一回限りであると同時に、人生のプロセスにおいて私が経験するすべての出来事もまた、二度と取り返しがきかない一回限りの出来事である。人生の全体が一回限りであるとは、私がいま経験している人生がもし終わったとしたら、私の人生というものはもう二度とこの宇宙にふたたび存在することはない、ということである。人生に起きるすべての出来事もまた一回限りであるというのは、私がいま経験していることは、もう二度とこの宇宙で繰り返されることはなく、永久に消滅してしまうということである。このような「人生の一回性」と、本文で述べた「誕生の一回性」とがどのように関連しているかについては、今後の考察にゆだねたいと思う。
25 ここまで考察を進めてくれば、アーレントの言う「第二の誕生」という言葉はあまり良くない用語法だということが分かってくる。アーレント自身は「第二の誕生」という言葉よりも、「新たな始まり」というような言葉のほうを実際には多く用いているが、やはり後者の言葉のほうが望ましい。「第一」と「第二」を時間軸上で截然と分けることはできないからである。
26 この点についても別論文で考察することとしたい。たとえば、レヴィナスの言う「他者の到来」のひとつの形式が「私の誕生」である可能性がある。
27 本文でも述べたが、アーレントの言う「そもそもいのちが与えられたことに対する感謝」が、ここでの「誕生肯定」に対応するものであると考えられる。この二つは同じではない(アーレントは感謝という受動性に焦点を当てているのに対し、誕生肯定は肯定する行為に焦点を当てている)が、おそらく同じものを違う方向から言い当てようとしていたように私には思われる。
28 「生命学とは何か」で述べた、第3の定式である「欲望でもなく、絶望でもなく」もまた、「悔いなく生き切る」ことの目標となるはずである。しかし本論文ではそれについて考察する余裕がなかったので、今後の課題としたい。ひとつの見通しとしては、「誕生肯定」が生まれてきたことの肯定、「人生まるごとの肯定」が人生行路の肯定、「欲望でもなく、絶望でもなく」が生を終えることについての肯定となり、3つ合わせて生死全体の肯定となるという道筋が考えられる。
29 この点については、拙著『生命学に何ができるか』(2001年)で詳細な議論をした。
30 Nietzsche, 1953, 4:10. (邦訳、343頁)
31 宗教的な文脈において、超越的なものからの呼びかけによって誕生肯定が起きるというケースなどが考えられる。
32 「存在肯定」は、私のタームで言えば「根源的な安心感」と深い結びつきを持っている。拙著『生命学に何ができるか』、2001年、参照。
33 これがさらにどのようなインプリケーションを持っているのかについては、今後の課題として追求していきたい。これは誕生というものを媒介として存在と価値が接合する、ということなのかもしれない。
34 森岡正博、2007年、469頁。
35 さらにこの考えを進めてみれば、私がこれまでの人生をまるごと肯定するとすれば、私の人生を構成してきたあらゆる「破断」や「苦しみ」が、「あってよかった」というふうにして肯定されていくことになるだろう。私自身が苦しんできたことだけではなく、私の人生にとってもっとも大切な人たちが、私の目の前で苦しめられ、蹂躙され、深く傷つけられ、殺されたことを、いま私が生き抜いてきたこの肯定の地点から振り返って、「それらはあってよかった」と肯定されていくことになるだろう。さらには、先の戦争があって親たちが出会ったがゆえに私の身体は生まれてきたのだから(私の母親は満州からの引き揚げ者であり、戦後に父親と出会った)、私がこの身体をもってこれまで生きてきたことを肯定することは、この私の身体を生み出す不可欠の契機となった先の戦争というもの、そしてそこで起きた大量の殺害を「あってよかった」と肯定することにつながるように思われる。それが最大に広がれば、私へとつながる宇宙開闢以来のすべての出来事の全肯定にまで至ることになるだろう。ここまで行ってはじめて、「人生まるごとの肯定」というものが整合的に成立するように思われる。ここまで広げて考えたときにどうなるかについては、きちんと再考しなければならない。
36 永井均、1998年、173頁。永井は、しかしこの驚くべき主張にこそニーチェの真骨頂があるのだとする。その解釈は非常に興味深いものがある。
37 Herman, 1997, p.195. 邦訳、307頁。
38 Herman, 1997, p.207. 邦訳、327頁。
39 Herman, 1997, p.236. 邦訳、378〜379頁。
40 森岡正博、2001年、344頁、364〜366頁。
41 森岡正博、2007年、462頁。
42 加藤秀一、2007年、169〜170頁。誤植と思われる箇所を訂正した。引用文中の「忘却の穴」とは、アーレントが『全体主義の起原』において、一人の人間がかつてこの世に生きていたことがなかったかのように生者の世界から抹殺されることを指して使った言葉であると加藤は指摘する(167〜169頁)。
43 ただし加藤自身は、私のように「生命論」の枠組みで思索をする営みに対して、強烈な批判の視線を向けている。加藤のこの批判的視線に対しては、私は大いに違和感をもつ。加藤は同書で、アーレントの言う「新しい人の誕生」という発想にもとづいた、「誕生」の哲学への方向性を語っており、それは「「生命の論理」から〈誰か〉の倫理へと問いを変更するための第一歩」となると述べている(214〜215頁)。「誕生」の哲学をいま目指すべきであるという点においては、加藤と私は同じ方向を向いていると考えられる。だが、加藤は「誰か」と「生命」のあいだに大きな断絶を見ようとしており、その点において私とは考え方を異にするように思われる。この点については私もそのように考えたことがあり(『生命学への招待』における「生命の原理」と「他者の原理」)、今後さらに検討していかなければならないと考えている。ただし加藤の2010年論文を読むと、「おのれの生の全体を肯定する可能性」への言及があるので、加藤もまた私と同じような「人生まるごとの肯定」と「誕生」を結びつけようとする視座を有しているらしいことが分かる(加藤秀一、2010年、108頁)。
44 本文でもすでに触れたが、ニーチェが、生の全体の肯定から、なぜ誕生の肯定にジャンプしないのか、という点が研究されるべきである。ニーチェが「人生まるごとの肯定」の位置にとどまったように見える理由は何なのか、あるいは何かの形で「誕生肯定」をも語っているのか、それが問われなければならない。
45 これが、俗に言う「人生の主催者は私である」という言葉の真の意味であると私は思う。そしてまたこれは、毀誉褒貶著しい「世界に一つだけの花」という歌がひそかに指し示す核心部分のメッセージであるとも考えられよう。
46 と同時に、「誕生肯定」を得られなかった人生が失敗の人生だというわけではない、ということにも注意を払う必要がある(森岡正博、2007年、466頁参照)。
47 森岡正博、2001年、344頁、など。
48 森岡正博、2003年。
49 女性学から見た性と生殖の問題については、森岡正博(2001年)で詳細に議論した。