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作成:森岡正博 
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映画評

『朝日新聞』2004年8月20日 大阪版 文化面
子どもを追い込む「大人の悪」 − 映画「誰も知らない」が放つ矢

森岡正博

 いい映画は、私たちがいままで人生の中で経験してきたいろいろな感情や、胸のときめきや、つらかった出来事などをありありと思い出させ、そればかりではなく、私たちが経験してこなかったような体験までをも、私たちの内部から引き上げて「思い出させ」てくれる。その映画を観ることで、私たちは、いまここで生きているというこの奇跡のような出来事を、ふたたび静かに噛みしめることができる。
  是枝裕和監督の「誰も知らない」も、そのような映画だ。東京の古びたマンションの一室に、父親から捨てられ、母親からも捨てられた4人の子どもたちが住んでいる。電気もガスも止められ、頼るべき人もおらず、学校にも行けず、彼らは公園で水をくみ、肩を寄せ合ってぎりぎりの生活をする。母親が彼らを見捨てて、新しい男のもとに走ったからこうなってしまったのだが、是枝監督は母親を悪者にすることでこの物語を安易に回収しようとはしない。
  やがて子どもたちの閉ざされた生活は破綻し、いちばん弱い者に悲劇が訪れる。ここへと収斂していく物語を見続けるのは、とてもつらい。しかしこのつらさを、映画を観ている私たち一人ひとりが背負わなくてはならないのだ。それがこの映画のメッセージである。私たちが自己中心的な生を生き、その事実から目をそらそうとするとき、そのしわ寄せは、いちばん力を持たない者へと押し出されていき、弱き者はそれを一身に背負って無言で死んでゆく。そのすべてのプロセスを、私たち大人は見届けなくてはならない。映画を観る大人のひとりひとりが、子どもたちをこのような生に追い込んだ主犯なのであり、主犯たる私たちはこの結末を最後まで目を見開いて見届けなくてはならないのだ。この子たちをこのようにしたのは、けっして母親ではなく、映画を観ている私たちひとりひとりなのだ、という声が響き渡ってくる。
  映画のドラマの中では、カタルシスは起きない。カタルシスは、観終わったあと、劇場から外へと出たあとの、私たち自身の生において、私たちが戻っていく家庭において、あるいは私たちが作り上げてきた人間関係の現場において起きるはずだ。この映画で意図的に描かれなかったもの、それは子どもをここまで追いつめた大人の姿であり、それはまさに観客席にこそ存在するのである。そう、子を捨てた不在の父親こそが、私たち自身の姿なのだ。
  その「大人の悪」とは自身無縁ではなかったであろう是枝監督から放たれた矢は、この映画を観た私たちの良心へと不可逆的に突き刺さり、その矢はもう二度と抜けることはないであろう。私たちがそこから目をそらそうとしても、この映画のほうが、いつまでも追ってくるであろう。映画の中の少年少女たちのせっぱ詰まったまなざしでもって。
  描かれているもうひとつのテーマは、「東京」という都市である。子どもの目線の高さから捉えられたこの巨大都市は、かぎりなく美しい。コンビニ、モノレールといった都市の日常に、制作者がどのくらいの愛をこめているかが、切々と伝わってくる。コンビニ、公園、階段、水路、それらの人工物が、追いつめられて都市で生きる人間たちにどのようなやさしさを開くのかを、映像は雄弁に物語っている。「タンポポ」「新幹線大爆破」などの傑作へのオマージュをちりばめながら、それ自体生物として人間を包み込む都市の美しさを見事に描ききった。子どもたちが夜のモノレールを見上げる幻想的なシーンがその集大成であり、大人たちのエゴイズムの対極にある宝石の世界である。
  主演の柳楽優弥だけではなく、すべての子どもたちの言葉や動きがすばらしい。この映画を観て泣くな、という声が銀幕から聞こえてくる。泣くと、他人事になってしまうから。私はそう感じた。