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作成:森岡正博 
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エッセイ・論文など



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生命学と生命の哲学 - 無痛文明論 - 引き裂かれた生命 - 哲学者としての私 - 脳死と臓器移植 - セックス・ジェンダー・テクノロジー - エコロジー思想 - 生命倫理 - メディア論 - 映画評 - その他のジャンル

 



一覧

生命学と生命の哲学

生命学とは何か
「生命学」の2007年時点での全体像を書き下ろした論文。途中経過ではあるが、まずはこれをお読みください。渾身の論文です。2007年。

生命の哲学
『応用哲学を学ぶ人のために』という共著の入門書に、いま提唱中の「生命の哲学」についての概説を書いた。短いのですぐに生命の哲学の意図するところが分かるはず。2011年。

生命の哲学の構築に向けて(1): 基本概念、ベルクソン、ヨーナス
生命学とともに試みている「生命の哲学」プロジェクトの連載第1回論文。居永正宏、吉本陵との共著。今後の展開にぜひご注目ください。2008年。

将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)
「生命の哲学」連載第2回。将来世代への責任論の前に、そもそも我々には将来世代を産出する義務があるのか? 前半はヨーナスの検討。後半はこの問題にひとつの結論を出す。吉本陵との共著。2009年。

誕生肯定とは何か:生命の哲学の構築に向けて(3)
「生命の哲学」連載第3回。 「生命の哲学」の根本概念として「誕生肯定」=「生まれてきて本当によかった」を提唱した。今後展開していく「誕生肯定の哲学」の基礎付けとなる重要論文。ぜひ読んでほしい。2011年。

幸福感の操作と人間の尊厳:生命の哲学の構築に向けて(4)
「生命の哲学」連載第4回。薬や機械によって人工的に脳の中に幸福感を作り出せるようになったら、それは人間の尊厳を奪うことになるのではないか。そのことを二つの思考実験によって示した問題作。2012年。

「生まれてこなければよかった」の意味:生命の哲学の構築に向けて(5)
「生命の哲学」連載第5回。誕生肯定の否定である「生まれてこなければよかった」とは、いったい何を意味しているのかを徹底的に分析した論文。連載第3回での議論がさらに深められて、森岡哲学の輪郭が浮かび上がる。2013年。

「産み」の概念についての哲学的考察生命の哲学の構築に向けて(6)
「生命の哲学」連載第6回。これまでの男性主導の哲学において「産み」の概念は軽視されてきた。この論文では「産み」の概念についてあらゆる角度からオリジナルな分析を行なう。2014年。

「人生の意味」は客観的か−T・メッツの所説をめぐって: 生命の哲学の構築に向けて(7)
「生命の哲学」連載第7回。英語圏での「人生の意味」の哲学を概観したメッツの2013年の書物『Meaning in Life』でのメッツの「人生の意味の客観主義」を批判した論文。「人生の意味」と「生命の哲学」の接合を図ります。2015年。

「誕生肯定」と人生の「破断」を再考する生命の哲学の構築に向けて(8)
人生の「破断」を体験した者がいかにして「誕生肯定」を得るのか、そして被害者だけでなく加害者もまた「誕生肯定」をし得るのか。極限の問いを考察した。2016年

独在今在此在的存在者: 生命の哲学の構築に向けて(9)
永井均の「現実性」論を吟味しつつ、森岡の独在論をさらに展開した論文。細部は荒いが、大きな見取り図を描き取った。5万字。2017年。

人称的世界はどのような構造をしているのか: 生命の哲学の構築に向けて(10)
人称的世界の構造を9象限によって説明するオリジナルな論考。指示対象の軸と主体の軸の交差によって「私」「あなた」「あの人」を位置づける。2018年。

リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について: 生命の哲学の構築に向けて(11)
ワインバーグが提唱した、親が子どもを産むときに課せられる二つの原理(出産許容性原理)について検討する。2020年。

デイヴィッド・ベネターの誕生害悪論はどこで間違えたか:生命の哲学の構築に向けて(12)
ベネターの誕生害悪論(快苦の非対称性論:例の4象限図)がどこで間違ったのかを、彼の本の第2章をパラグラフごとに読み解きながら突き止め、批判する論文。ベネターの議論が分からなかった人はこれではじめて分かるようになるだろう。2021年。

生物進化の哲学と無痛文明 : 生命の哲学の構築に向けて(13)(2022年)
ハンス・ヨーナスの生物進化の哲学に刺激を受けて、無痛文明と身体の欲望の成立を生物進化の歴史に位置づけてみた問題作。

人生の意味の哲学はどのような議論をしているのか(2023年)
人生の意味の哲学の概観を与えた論文。『人生の意味の哲学入門』の第2章(pp.33-52)。

人生にイエスと言うのは誰なのか?―人生の意味への肯定型アプローチ(2023年)
誕生肯定と独在論の視点から人生の意味に迫った論文。『人生の意味の哲学入門』の第11章(pp.267-290)。

反出生主義とは何か:その定義とカテゴリー
反出生主義の全体を概観し、その定義とカテゴリー分類を提案した。反出生主義を知りたい人はまずこれを読んでほしい。『生まれてこないほうが良かったのか?』刊行後の考察と情報をまとめた。2021年。

「人生の意味」の哲学
世界的に少しずつ注目を集め始めている「人生の意味の哲学」についての概説と、私自身の誕生肯定の哲学をまとめたもの。『現代思想』誌。2017年。

人生の意味における部分と全体の予備的考察
人生の意味における「部分」と「全体」の問題を哲学的に捉えたらどうなるかという試論。まだ予備的なもので、結論は出ていません。2019年。

「人間のいのちの尊厳」についての予備的考察
人間のいのちの尊厳を、「人生の尊厳」「身体の尊厳」「生命のつながりの尊厳」の3つからなるものとして再構成し、[生命の哲学」の基礎づけとした大論文。いずれ本になりますが、それまでのあいだこの論文でお読みください。2014年。

「他我はこの私である」ということの意味:テレイグジスタンスを手がかりにして
フッサール、ヴィトゲンシュタインが死闘した「他我問題」に新たな解釈を提唱する意欲作。常識を逸脱した世界観をきみは受け止めることができるか? 森岡生命哲学の画期となる作品。2013年。

連載「生命の哲学へ!」 雑誌『ちくま』での連載
第1回「世界哲学史から「生命」を考える」2014年3月号、20-23頁
第2回「おまえは生きなければならない!」2014年4月号、18-21頁
第3回「生まれてこなければよかった」2014年5月号、26-29頁
第4回「生命否定の分析哲学」2014年6月号、26-29頁
第5回「ショーペンハウアーと「生への意志」」2014年7月号、26-29頁
第6回「世界全体を否定する哲学」2014年8月号、28-31頁
第7回「「生への意志」をめぐる不断の闘争」2014年9月号、38-41頁
第8回「死によっても壊れえないもの」2014年10月号、40-43頁

第9回「ショーペンハウアーの遺産」2014年11月号、44-47頁
第10回「「脳死」と息の思想・1」2014年12月号、48-51頁
第11回「「脳死」と息の思想・2」2015年1月号、48-51頁
第12回「流出によって生まれ出る人間の生命」2015年2月号、48-51頁
第13回「輪廻転生するアートマン」2015年3月、48-51頁
第14回「熟睡によって到達する本来の自己」2015年4月号、50-53頁
第15回「異なるのでも同じでもないアートマン」2015年5月号、48-51頁(最終回)

フランクル『夜と霧』における人生の意味のコペルニクス的転回について
フランクルの名言「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」について考察した。2016年。

「生まれてくること」は望ましいのか: デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について
哲学者ベネターの著書『生まれてこなければよかった』の核心部分を紹介し、その議論が誤っていることを示した論文。2013年。

私と生命学:これまでの経過と今後の議論のために
「生命学とは何か」の付録部分を文体を変えて独立させたもの。PDF。2012年

生まれることをどう哲学するか−アーレント・プロティノス・レヴィナス
『Arendt Platz』No.6, pp.35-39. 日本アーレント研究会の定例会シンポジウムでのコメントを論文化したもの。反出生主義に関わる義論。2021年。

仲井によって提唱された被産性の概念について
被産性の概念についてのコメント。2023年。

無痛文明論

無痛文明論(1)-(6)
2003年秋に書籍となって刊行されました。特設ページに飛びます。1998年−2000年。

姥捨山問題
拙著『生命学への招待』第10章がデジタル化されました。無痛文明論の原点、というか「生命学」の原点、森岡の原点であります。「生命学」ってこの論文からはじまったんだもんなあ。HPに公開できて、とても感慨深いです。久保文彦さん入力ありがとう。1988年。

たのしい不便(インタビュー記事)
『毎日新聞・九州版』の文化欄に、上下2回に分けて掲載されたロングインタビュー。内容は、もろ「無痛文明論」。はじめての方は、まず、この記事から読んでみるといいのかも。対談相手は福岡賢正さんという記者の方で、元気な人でした。1999年。

いま身体をどう考えるか
「身体の欲望」についての簡単なエッセイ。高校教師向け。2001年

無痛文明論の提唱
東大の大学院のゼミで話をしたら、コラムをかけというので、そこではしゃべらなかった無痛文明論について書いてしまった。無痛文明論の概説としては使えるのではないでしょうか。2002年。

ジャンルを超えた挑発:『無痛文明論』予告篇
『無痛文明論』を書き終えたときに、勢いで書いた予告篇。トランスビュー社の小冊子に載りました。

「無痛文明」の時代
読売新聞に書いたエッセイ。2004年1月。

無痛文明という病
「myb」に書いたエッセイ。2006年11月。

連載「引き裂かれた生命」
    引き裂かれた生命(1)-(11)完結しました
    雑誌『仏教』に連載されていたものが全文公開されます。現時点での生命学の全貌(の一端(^^;))が明らかにされる。1995−1998年。

    人間の本性と現代文明
    上の連載の元になった原稿。連載を読むのがしんどい方は、これで概要はつかめる。が、連載のときに細部はかなり変更されたので注意。1995年。

哲学

    現代において哲学するとはどのようなことなのか
    日本哲学会という学会から、1999年5月の総会の「時代の危機と精神的価値」というシンポジウムで発表するように依頼があった。その原稿を書けとのこと。というわけで、白日のもとに日本哲学会批判を書いてしまったのだった! 上の「三つの症候群」論文を引用しつつ、限りなく過激に挑発しまくっておる。すでに、公刊直後からかなりの反響が・・・。でも、この論文、学会誌の冒頭に載せた(載せざるを得なかった!?)日本哲学会の度量には感謝しておこう。日本哲学会員でないみなさん、このHPで読んでください。

    この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味
    いまや現代日本哲学が生み出した最高の達成である永井均の<私>論だが、それとがっぷり4つに組んで、その意義をクリアーにして、かつ永井が語らなかった方向へと一歩を踏み出した論文。1994年。いま読み返してみると間違いもあるが、歴史的資料として。*拙論を批判しつつ永井論に迫る文章が中原紀生さんのHPにあります。 

    私が応用哲学だ!
    『これが応用哲学だ!』(大隅書店)というエッセイ集に書いたもの。私がいままでやってきたことが、実は応用哲学の実践そのものだったという話。面白く読めると思います。とりあえず本をリンク。2012年。106-113頁

    ある哲学者の内面構造 
    1995年に書いた私の自叙伝。あのオウム事件以前に書いたもので、『宗教なき時代を生きるために』のひとつの触媒となったエッセイです。私の知られざる一面が・・・・・・(ちとおおげさか)。このホームページを訪れてくれた方々にはわりと人気のあるエッセイのようです。

    現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について 未発表
    最初期作品。1986年ころか。当時、大学院生だった私が、大学院の学問のおかしさを告発するために書いたもの。友人たちに見せただけだったが。これをいま読むと、人間の思想的態度というのは、もう20代で決まってしまうということがよく分かる。『宗教なき時代を生きるために』の私が、すでにここにいるではないか。

    私にとって哲学とは何か
    哲学研究者の卵の大学院生たちが合宿する哲学若手研究者フォーラムというところでした話をもとに、文章化したもの。若いからといって、自由な思考ができているわけではない、むしろその逆なのではと挑発した。若者一般には期待しない私。

    デレク・パーフィットと死の予感 全集
    1988年発表。初期作品。パーフィットという知る人ぞ知る哲学者についてのエッセイ。この人は、脳を分割したら私はどちら側に行くかなどの思考実験をしたが、私はそのなかに死のにおいを見いだしたのだった。文章は硬いが、奇妙な味があって、自分でも好きな作品です。

    人称的世界の数学:他者問題の構造変革
    1987年に発表した、分析哲学的な他者問題の哲学。全編オリジナルな哲学的分析となっている。いまとなってはどのくらい正しいのか再検討必要と思うが、若き哲学者の意気込みが見える論考でしょう。元になったのは修士論文。まだ〈私〉的なものを的確に捉えていない。

    対談:未来の大森哲学(山口尚と)
    『現代思想』2021年12月号の大森荘蔵特集8-22頁。2021年。

    翻訳:ピエール・ボネールス「大森荘蔵の時間概念とマンガ」
    『現代思想』2021年12月号の大森荘蔵特集175-182頁。2021年。

    人称の存在しない世界−「主客未分」再考
    1989年発表。このころ、「人称的世界の哲学」というものを構想していて、何本か論文を書き、原稿も書きためていた。そのうちの1本。「私」も「他者」もエポケーしちゃったらどうなるかという問い。関連論文も、そのうちまとめてアップします。これは生命学の哲学のテーマなのだ。今後も考えます。

    見立ての論理学  未発表 
    芸術表現に見られる、何かを何かに見立てるということをエッセイふうに考えた。後半は、もっと展開できると思う。あるところに人質に出されてる文章だが、もう数年はなしのつぶて。どうなってんの?スズキさん。 1992年ころ執筆か。 

脳死と臓器移植

    生命の哲学から見た脳死概念の一考察大統領レポートと「息」の復権
    2008年に米国の大統領生命倫理評議会が第2次レポートを刊行し、長期脳死などの事実を受け止めてそれまでの脳死概念を撤回し、新たに「呼吸への駆動」という概念を導入して「脳死=人間の死」を再定義したが、皮肉にもその論理を正しく適用すると長期脳死の子どもは死んでいるとは言えなくなるということを論じた論文。2014年。

    まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利:脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」
    『生命倫理のフロンティア』(丸善)という論文集に書いたものだが、ほぼ読まれてないので、ここで全文読んでください。脳死の子どもの身体は外部からの侵襲なしにまるごと守られなければならないから、臓器摘出は禁止すべきという、いわゆる「まるごと論」が展開されます。2011年の英語論文の日本語版。2013年。

    まるごと成長し、まるごと死んでいく「自然の権利」
    :参議院スピーチandNHK教育テレビ「視点論点」スピーチ

    2009年臓器移植法改正に際して、参議院およびNHKにて発言した記録。「迷う自由」「まるどと成長し、まるごと死んでいく自然の権利」「成長する脳死の子ども」など多大な反響があった。

    日本の「脳死」法は世界の最先端
    2001年1月発表。これを読まずして、脳死と臓器移植は語れない! 脳死状態のまま14年以上心臓が動き続けた例、脳死なのに両手を持ち上げて祈るような動作をする「ラザロ徴候」、アメリカで盛り上がる「死の定義の選択」論。あなたのもっていた「脳死」観が音を立てて崩れる一本です。どんどんリンクしてください。若干修正して、『生命学に何ができるか』に採録。最新版はこの書籍をご覧ください

    子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を
    2000年2月、とうとう臓器移植法改正案が表明された。親の承諾があれば脳死の子どもからの移植を認めるというものであるが、これは「子どもの権利条約」の精神に反しているのではないか。私はこの改正案に反対する。その理論的根拠を示したもの。みなさんはどう思うか?2000年2月
     『増補決定版・脳死の人』に転載。

    臓器移植法・「本人の意思表示」原則は堅持せよ
    2000年9月発表。脳死と身体死の選択を認め、子どもの意思表明がある場合に限り子どもからの臓器摘出を合法化するという具体的な対案を発表した。上記論文の続編である。年齢設定など、まだ詰め切れてない部分も残るが、日本の臓器移植法は、本人の意思原則に関しては世界でいちばん進んでいることを実証した。

    臓器移植法A案可決 先進米国にみる荒涼
    2009年6月27日『朝日新聞』に発表。臓器不足解消に突っ走る米国は、生きている人を死なせて臓器を摘出する手法(controlled DCD)が拡大している
    。先進国の荒涼を直視せよ。

    臓器移植法改正について思うこと
    日本生命倫理学会のニューズレターに書いたもの。2009年。

    脳死移植、「匿名」貫け
    2006年10月、宇和島で生体腎移植の臓器売買が発覚した。そのときに「朝日新聞」に書いたもの。改正案の親族優先条項にも影響するので、徹底論議が必要。

    移植前夜、循環器病センターでの講演
    1997年11月、脳死からの心臓移植開始を前に緊張する国立循環器病センター20周年記念にて、なんと記念講演を行なった、その記録。移植医を前によくぞここまで言った!。過激です。リンクしてくださった方ありがとう(^^)
    『増補決定版・脳死の人』に転載。

    脳死との出会い(旧版)
    1997年発表。脳死になって死んでしまった藤原好さんと私の出会いと別れ。私の人生でこういうことがおきるとは思っていなかった。ご両親の手記を読むと、好さんの心臓が止まるまでは、娘さんが死んでいるとは感じ取っていない。このような人たちのリアリティを尊重し、守ることからしか医療は良い方向には向かわない。お母様には「未来潮流」にも出演していただいた。思い入れの強い文章です。 若干修正して、『生命学に何ができるか』に採録。
    最新版は、この書籍をご覧ください

    脳の人工臓器化と脳蘇生術の発展に伴う脳死概念の変容
    脳死になりそうな脳に、将来、人工臓器技術やマイクロマシンなどをがんがんぶちこんでいけば、かなりすごいことがおきそうだと思って、専門書を勉強して書いた論文。『生命倫理』誌に1994年に発表されたが、その内容の異様さのせいか、完全に黙殺されております。英語になおしたとしても、やっぱ黙殺だろうな。50年後にはたして再発見されるのか? 99年のアメリカの生命倫理専門誌「ヘイスティングス・センター・リポート」に、脳にチップが埋め込まれる時代の倫理を考えておくべきだという巻頭論文が載っている。わしの、この論文なんか、読まずに書いてんだよねー。(当たり前か、やつら、日本語読まないから)。

    大切な「本人の意思」原則
    「毎日新聞」に2000年9月に書いた町野改正案批判。臓器移植法改正について、簡潔に分かりやすく書いたので、まずはこれを読んでみてください。

    臓器移植法改正案:ドナーカード普及が先だ
    自民党改正案(河野案)を批判するために、「読売新聞」に2004年3月に書いた。

    脳死移植に考える
    99年の脳死からの臓器移植再開のときに京都新聞に書いたエッセイ。「臨床的脳死」ってことば、やっぱり変だと思う。

    脳死移植を考える
    同じく東京新聞に書いたエッセイ。日本の脳死論議は世界でいちばん進んでいるのだ。アメリカの人たちもようやく気づきはじめたのだ。アメリカ崇拝って、もうやめようね、見苦しいから。でも、その裏返しの欧米叩きも吐き気がしそう。戦争に負けたこと、そこまで根に持つなよ。

    いのちを考える ― 無宗教の立場から生命を見つめて
    2001年に名古屋の浄土真宗のお寺で講演したときの記録。生命と宗教の話から、脳死論に移ってます。
     

セックス・ジェンダー・テクノロジー

    「草食系男子」の現象学的考察
    ソウル大学の研究誌『日本批評』に寄稿したエッセイ。日本における「草食系男子」現象について概観したものである。私はこの言葉が流行語になる過程に当事者として巻き込まれた。その内部からの観察にもとづいた資料にもなっている。2011年刊行。

    膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理
    射精の倫理学という新地平を切り開く論考。男性による膣内射精は潜在的な暴力であり、それは「強制妊娠を導いた膣内射精」として事後的に構築され得る暴力である。男性がこの縛りから抜け出すことはできるのか?2008年刊行。

    男性のセクシュアリティとポルノグラフィー:支配・自傷・フェティシズム(旧版)
    2002年に日本女性学会というところに呼ばれて、男性とポルノについて話をした。それを文章化したもの。かなり赤裸々ではあるが、男のセクシュアリティをちゃんと考えるためには、こういう作業から入らないといけないのではないか。この次の作業として、男の中の多様性を考えていくべき。自傷行為としてのポルノ耽溺、男性の不感症について論じてます。2003年発行。全面的に書き改めて、『感じない男』に採録。最新版は、この書籍をご覧ください

    ウーマン・リブと生命倫理(旧版)
    日本の現代フェミニズムの出発点である「ウーマン・リブ」が、中絶に対してどのような思索をしてきたのかを思想史的に位置づけた力作であります(^^)。70年代の優生保護法改悪反対運動を中心に、優生思想との対決まで、生命倫理の視点を加味しながら検討したおそらく日本最初の本格的論文だよん。日本の生命倫理は、最初からフェミニスト生命倫理として開始されたということがよくわかる。加藤秀一さんなどによってすでに言及されている元論文を、約2倍に拡大した決定版。1998年。しぶいところに発表されたので、このページで見る人のほうが多いと思う。全面的に書き改めて、『生命学に何ができるか』に採録。最新版は、この書籍をご覧ください

    男性から見た避妊(旧版)
    1997年のエッセイ。避妊について書いてくれといわれて、妊娠におびえたり無頓着になったりする男性の性意識について書いてみた。しかし、同じ雑誌の沼崎一郎さんの論文を読んで、きちんと展開しようと思ってしまったのだった。ネット上で頻繁に引用されてる。こんな男と寝たくないとまで言われちゃった。あはは〜。全面的に書き改めて、『生命学に何ができるか』に採録。最新版は、この書籍をご覧ください

    暴力としての中絶(旧版)
    1997年の中絶論。マイナーな雑誌に発表されたが、賛否両論を巻き起こしてしまった。中絶が暴力であるという、フェミニズムが聞いたら「なんでいまさら?」と言いたくなるような主張をした。このあとに続くべき男性論を書かないといけない。論文末尾にある男性への呼びかけに呼応して、97年夏に大阪で開かれたメンズフェスティバルで「中絶をさせてしまった男についてのコンシャスネス・レイジング」を行なった。女性には遠慮してもらって開かれたこのセッションは、おそらくこのテーマで男性たちが率直に語り合った日本で最初のイベントだったかもしれない。全面的に書き改めて、『生命学に何ができるか』に採録。最新版は、この書籍をご覧くださいぜんぜん違ったものになりました。

    書かれなかったジェンダー論のための前書き未発表
    1997年頃に上記のエッセイなんかを書いて、ジェンダーとセクシュアリティ論で本を書くぞ!と思い立って、その本のために書いた前書き。ところが、本を書く前に、自分自身のセクシュアリティその他が変容してある種の決着が着いてしまったので、当初の計画の本は空中解体。。内容はこれでよい。肯定。ただ、私にとって過去のものとなっただけ。

    女性学からの問いかけを男性はどう受け止めるべきなのか
    1999年10月の日本倫理学会で、ジェンダーとセクシュアリティという分科会が開かれ、そこで江原由美子さんと私がパネリストになって討議をした。そのときに出した私の報告要旨。シンポジウムはといえば、マスターベーションとかレイプとかが公然のもとに話し合われたという、お堅い倫理学会としては初の出来事となったのであった。でも、金井淑子さんから、エロ話に収斂させるんじゃなくて、戦争とか暴力装置とかの議論へと結びつけなさい!という指導をされてしまったのであったm(_ _)m。ちなみに江原さんのタイトルは「ジェンダーと「性支配」・・・実践と構造の観点から」でした。

    生殖技術と近代家族
    日本家族社会学会の2001年の大会で発表したものを論文化。生殖技術の進展は、近代家族という装置を崩壊させるのか、補強するのか。この両方の要素を分析してみた。最近の情報をもとに、全体像をとらえるのに便利かも。もっとつっこんで書かないといけないなあと反省してたりします。2002年。

    週刊読書人「読書日録」
    1994年に、「読書人」にリブ、フェミニズム、南北問題についての超短いコラムを3回書いたが、意外に好評だった。リブについて触れる男性は、まだ珍しかったのだろうな。「Looking for Kumiko」の監督の栗原さんがこれを見て手紙をくれて、ただで試写会に行けたのだった。

    書評『親指Pの修業時代』
    松浦理英子『親指Pの修業時代』の書評。話題になった本だが、セクシュアリティ論から読むと、こういう感じになるんじゃないのかな。けっこう好きな書評です。同世代の小説家にこういう人がいるのはうれしい。1994年。

    レイプと買春について
    男性のレイプと買春についてのどうってことのないコラム。でも、この方向で考えていきたい。1996年。

    生命倫理・ジェンダー・優生思想
    京都橘女子大学のインターネット・ニューズレターに書いたもの。フレームから第4回のところに飛ぶべし。2000年。兵庫県ネタあり。

    生命と優生思想(旧版)
    1998年、優生思想と生命倫理について書いたもの。障害を持った子どもを選択的に廃棄してゆくことをサポートするテクノロジーが急激に進んでいるが、それをどう考えればいいのか。障害者たちからの批判をどう受け止めればいいのか。締め切りに追われながらとにかく書きなぐったもの。ああ、書き直さないといけない。でも、いまのところ、このテーマで書いたものとしてはこれしかないのだが。でも、不満たらたらだし、誤りも多そうなので、書き直します。批判してください。
    全面的に書き改めて、『生命学に何ができるか』に採録。最新版は、この書籍をご覧ください。分量も4倍近く膨れ上がった。

    生殖技術とフェミニズム
    1995年頃に書いたものだと思うが、いろんな事情から未発表のまま。前半は、既発表論文「ウーマン・リブと生命倫理」山下悦子編『女と男の時空・現代編』藤原書店(1996年 37−67頁)のレジュメ。後半は上の論文「生命と優生思想」を補完するものだが、甘い。なので、書き直すことを前提に、参考程度に見ておいてください。それにしても、このテーマでけっこう書いているなあ。ほとんど人目には触れていないが。実は、まだあるのです・・・・・・。2000年にやっと刊行されました。

     

エコロジー思想

    サステイナビリティ学において何がサステイナブルであるべきなのか持続可能性概念の批判的考察序説
    日本のサステイナビリティ学のテキストを素材に、現状のサステイナビリティ学を批判し、文理融合的な「サステイナビリティ」の再定義をした論文。かなり挑発的なものになっています。2014年。

    「自然を守る」とはなにを守ることか
    書籍『環境倫理学』(東京大学出版)に書いたもの。人間を守るのか、自然を守るのかという二項対立そのものを乗り越え、人間とそれを取り巻く環境との関係性のあり方の豊かさという視点から統合的に考える方法を提唱した。2009年。

    ディープエコロジーの環境哲学
    ディープエコロジー思想について、その歴史と思想を概観し、限界と可能性をていねいに書いたもの。たぶん、ディープエコロジー思想についてバランスとれてここまで書いた日本語のものはないのではないか。(井上有一さんがそのうち書くと思います)。これで、だいたいはつかめるはず。1996年。

    自然を保護することと人間を保護すること
    環境倫理学の大難問である「保全」と「保存」の対立について分析したもの。その対立を、さらに「自然への介入」「非介入」という観点から検討して、4つのマトリックスとした。俗に言う(笑)4象限理論である。自然保護思想への入門としても使える(はず)。1999年。

    エコロジーと女性
    エコフェミニズム思想の概説を、エコロジー翻訳論文集に書いた。おもにアメリカの動向だが、いまとなってはもうデータが古くなっているはず。概観を見るときに使ってください。1995年。

    ディープ・エコロジーと自然観の変革
    ディープ・エコロジー思想の概説を上記の翻訳論文集に書いたもの。ネスの73年論文のくわしい翻訳みたいなものをつけたのが特徴かな。これまた概観用。1995年。

    書評:『ディープ・エコロジー』
    2001年発表の書評です。

    自然保護を都会人のエゴイズムにしないために
    余暇開発センターというところのシンポジウムでの発言記録。余暇批判と創造的不況の可能性とか、挑発しまくり。高石ともやという方とご一緒でした。1997年。

    環境問題と企業の思想
    リバーフロント整備センターという旧建設省系の外郭団体の雑誌に、「不況の克服」と「環境問題の解決」はそう簡単に両立しないってことを書いた。これが、連載の第1号エッセイだったのだが・・・。その後、どうなったかというと・・・。編集者さん、ごめんなさい。下記参照。2000年。

    市民意識と河川事業
    連載第2回を書くときのこと、吉野川可動堰の住民投票があったにもかかわらず、建設大臣はそれを堂々と無視する発言をしたのであった。これに怒ったわたしは、建設省お墨付き雑誌の連載第2号に、建設大臣批判を書いたのであった。そしたら、掲載直前に圧力がかかり、内容修正を求められる。それをはねつけたら、掲載中止となった。あいだに挟まれた良心的な編集者が、もっとマイナーで市民よりの雑誌(10分の1くらいしか金がかかってないのでは)を紹介してくださったので、そっちに掲載した。この一件により、連載そのものも私の意向で中止した。いまはじめて話せる内部事情。なんで森岡の連載企画が1回で終わっちゃったんだろうと思っていたみなさん、こういうわけでした。2000年

いわゆる生命倫理 メディア論
    パソコン会議室の議論
    1996年7月発表。拙著『宗教なき時代を生きるために』(1996年)を出版してから、すぐに、ニフティサーブのホームパーティーという、一種の掲示板システムのなかで、見知らぬ読者たちから意見をつのり、議論した。半年間続いたのだが、その様子の途中報告。その当時はまだインターネットを使えなかったので、ニフティという「濃い」世界での意識交流となったのだった。でも、いま思い出しても、つかれたねー。そのときの参加者の人、見てたりする?

    著書のインターネット全文公開は暴挙か?
    インターネットマガジンAcademic Resources Guideから依頼されて、このHPでの著書全文公開の顛末を書いたもの。反応はいろいろあり。でも、ほんとうのところ、みんなはどう思ってるんだろう? 謎である。2000年。

    著者自身による電子出版の可能性
    kinokopress.comで森岡正博全集などを始めたいきさつを、上記インターネットマガジンAcademic Resources Guideに書いてしまった。はしゃぎすぎの感もあり。今後、どうなるんでしょう? 時代の記録としても価値アリ?2001年。

    ネットで個人全集の試み
    同じく、kinokopress.comネタ。変な文章だね。2001年。

    インターネットにおける意識交流のダイナミズム
    2000年10月に千葉大学情報倫理研究会(FINE)にてしゃべったときの記録。みなさんのご記憶に新しい「荒らし」の経緯や、ネット上の自己同一性などについて語りまくったのでした。

    携帯時代が深める孤独感覚
    京都新聞の電子メディア特集への寄稿。携帯と孤独。ほかの寄稿者は、斎藤環、鷲田清一、大澤真幸など。2001年。 

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