生命学ホームページ 
ホーム > エッセイ・論文 > このページ
作成:森岡正博 
掲示板プロフィール著書エッセイ・論文
English Pages | kinokopress.com

エッセイ

『朝日新聞』大阪・近畿・四国・中国版 2004年3月13日夕刊
「自傷」と「自己欺瞞」の時代
ー映画『ドッグヴィル』を観る
森岡正博

 

 映画「ドッグヴィル」の特異性はまずそのセットにある。ラース・フォン・トリアー監督は、木の床にチョークで線を引いただけのセットで、全編を撮り きっている。家々には壁も屋根もなく、すべての家の内部が外から丸見えという状態で、演技は進行していく。これは、いわば主人公の男の脳髄の内部で、チェ スの駒のようにあやつられる人間たちの暗黒世界を描いた、超自傷的な映画なのだ。
 まず表面上のストーリーを紹介しておこう。ドッグヴィルという米国の山奥の集落に、グレースという若い美女が逃げ込んでくる。ギャングに追われていると いうので、主人公のトムは、彼女を村にかくまうように住民たちを説得する。それが成功して、グレースは温かく迎え入れられるのだが、やがて村人たちはグ レースを村の使用人としてこき使うようになる。
 グレースは、村の男によってレイプされ、女たちによって精神的に痛めつけられ、揚げ句の果てには、首に重い拘束具を付けられて集落に監禁される。動けな くなったグレースは、集落の男たち全員にレイプされる。トムはひとりだけプラトニックにやさしく接していたが、最後には、グレースを裏切る。
 後半、追っていたギャングたちが村に入ってきてからが、息もつかせない。これから見る人のために、あえて言わないが、ふつうではあり得ないエンディングが待っているのである。
 前半は、トムが、自分の夢想する自己欺瞞(ぎ・まん)的な欲望を、次々とかなえていくストーリーだと私は思った。まずこの集落は、すべてトムの頭の内部に構築された世界である。だから、家には壁がなく、人々のすべての行為はトムの目からお見通しなのである。
 そこへいきなり若い美女が逃げ込んでくる。トムは、彼女のことを気遣い、プラトニックに恋をし、最後まで彼女を支えようとする。しかしながら、この美女 をみずからの欲望の餌食としたいというトムのもうひとつの願望は、ちょうど蛸(たこ)の触手のように、他の男たちの身体に入り込み、彼らを使って、グレー スを次々と無残にレイプしていくのである。
 村に逃げ込んできたグレースが、服を着替え、使用人として働かされるというのも示唆的である。要するに、トムは、グレースを「メイド」にしたのである。 偶然手のひらに落ちてきた美女を「メイド」にして、一方ではやさしい私を演じて彼女を愛(め)でながら、他方では残酷にレイプしたいというこの映画のモ チーフは、まさに日本のエロ系おたく漫画そのものである。だがこれは、良識的なふるまいを演じている多くの男たちの内部に潜む、暗黒の欲望であろう。
 ナレーションに「トムはグレースが汚されるのを見ていて苦しんだ」という言葉があるが、この言葉の欺瞞は並ではない。なぜなら、見ていて苦しんでいるイノセントなトムがいるのと同時に、グレースを次々とレイプしているのもまたトム自身の隠された欲望だからである。
 自分だけに都合のよい世界を作り上げておいて、その内部で、ねじ曲がった欲望を爆発させ、揚げ句の果てには自分自身までをも人間の暗い欲望の被害者であ るかのように信じこませてしまうという、究極の自己欺瞞を、フォン・トリアーはこの作品で描き切った。それはまさに、「被害者」である超大国が、最貧国を 先制攻撃するという、現在の世界情勢にも通じるものであろう。
 後半はこれまたイノセントな存在であったグレースが反撃するわけで、痛快と言えなくもない。ただ、この映画、性的虐待を受けた経験のある方は見ないほう がいいと思う。あと、カップルでの鑑賞も避けたほうがいい。フォン・トリアーの放つ毒は強すぎて、それは人のトラウマを掘り起こし、古傷から血をたくさん 流させるだろうからである。
 この映画の狙いは、観客をも巻き込んだ自傷行為に、人々を招き入れることにある。最後で無残に叩(たた)き割るために、繊細なガラス細工をひとつひとつ ていねいに積み上げるという共同作業を、観客は強いられる。いまや時代精神は「自己欺瞞」と「自傷」であり、その結末はこの映画で示されたとおりの「空 虚」にほかならない。解決への道は無残にも断たれており、その閉塞(へい・そく)を直視する知性のみが、唯一の希望として提示されているのである。