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『週間読書人』2050−52号 1994年9月  1面



読書日録(上) 森岡正博

 いまの日本社会を考えようと思ったら、けっしてフェミニズムから目をそらすわけにはいかない。女性たちが、日本社会でどのような位置におかれてきたか。彼女たちは、なににこだわって運動と学問を続けてきたのか。そして女性たちはなにを発見し、どのような未来社会を提唱しているのか。
 ここ二〇年の日本の女性運動・女性学の成果を無視した社会学や哲学は、いまや、ほとんど意味をなさないはずだ。
 最近、『資料・日本ウーマン・リブ史T、U』(ウイメンズブックストア松香堂)を、たんねんに読んだ。これは、最近の私の読書体験の中でも、最高のものであった。
 「ウーマン・リブ」というと、なんだか昔のかっこわるい時代の女性運動というイメージがあった。「フェミニズム」という、ちょっとイカした名前に改名する前の、ダサイ感じがあった。しかし、この資料集を読み進むにつれて、そういうイメージは崩壊していった。
 そして、私はえも言われぬ感動の嵐に包まれてしまったのである。その資料集には、七〇年代初頭の、リブのビラやミニコミなどが年代別に収められている。そこから立ちのぼってくるのは、いままでことばを奪われていた女性たちが、自分自身の存在と境遇について、初めて自前のことばで語り、表現をするときの、熱気に満ちた興奮と怒りと喜びの奔流なのである。
 そこには、八〇年代フェミニズムがとうに失ってしまった「批判と解体と実践」への熱い思いが渦巻いている。七〇年代リブが到達した思想的深みは、八〇年代フェミニズムのそれをはるかに凌駕している、そういう印象を強くもってしまった。
 五八年生まれの私としては、リブはすでに「歴史」である。マッカーサーや安保闘争をお勉強するように、私は七〇年代リブをお勉強する。こういう男性が登場するような時代になったのである。




読書日録(中) 森岡正博

 前回、七〇年代ウーマン・リブについて書いた。そして、七〇年代リブは、八〇年代フェミニズムよりも深かったと述べた。しかし、当然のことだが、これは八〇年代フェミニズムが貧しいということを意味しはしない。
 深みと情熱においては七〇年代リブの方が勝っているように思えるが、しかしその問題意識の広がりと多様性においては、八〇年代フェミニズムの方が圧倒的にすごい。
 八〇年代フェミニズムのおかげで、我々男性は女性学のことを知り、それを学びたいと思ったりするのである。上野千鶴子や青木やよひの著書を読んだり、アグネス論争、エコフェミ論争に興味をもつことによって、我々男性は女性学へと導かれてゆくのである。
 ただ、こういっては失礼だが、いわゆる団塊の世代のフェミニストたちの説くエロス論には、どうしようもない違和感を覚え続けてきた。七〇年代リブは、「抱く―抱かれる」の支配関係から、「抱く―抱く」の対等関係へとエロスを変革しようと言っていた。でも、これはもうひとつピンとこない。
 私と同年代の女性表現者たち、たとえば松浦理英子などは、リブのエロス論とはまたひと味ちがった観点から、この問題に接近しようとしている。彼女の話題作『親指Pの修行時代』(河出書房新社)や『ポケット・フェティッシュ』(白水社)は、たんに「ベッドの中の支配構造を解体しよう!」というような脳天気な宣言なんかとは無縁の地点から、現代のエロス状況をたんねんに解剖しようとしている重要作品である。
 それは、複雑に錯綜しているエロス的人間関係の網の目をひとつひとつときほぐし、そこに露出している欲望や、支配や、痛みや、共犯関係や、快楽や、やすらぎなどを、徹底的に多様な観点から定位しようという試みなのだ。
 松浦のようなエロス論には、私はほとんど違和感はない。これらは小説やエッセイの形をしてはいるけれども、れっきとしたフェミニズムの収穫であると私は思う。




読書日録(下) 森岡正博

 前々回に触れた七〇年代リブには、抑圧され続けてきた者の、怒涛のような怒りと恨みと正義への訴えがあった。その熱い情熱に私は打たれたのであった。
 今日、虐げられ、抑圧された者の声なき声が渦巻いている領域のひとつに、南北問題がある。先進国の人々がいい暮らしをして、快楽をむさぼっているあいだにも、低開発国の人々の中には、飢えによって死に、災害によって住居を奪われ、伝染病にいのちを落とす人間たちが後をたたない。
 こういう南北格差は、どうして生じたのか。先進国に住んでいる人々は、自分たちが早い時点で「文明」の段階にたどりつき、彼らはまだその段階にまで至っていないのだから、その結果として南北格差が生じたのだというふうに思いこまされている。
 しかし、実は、南北格差は先進国によって意図的に「作られ」そして「維持され」ようとしているのだ。そのことは、気鋭の環境学者・戸田清の近著『環境的公正を求めて』(新曜社)を読めばよく分かる。
 戸田によれば、環境問題は、「豊かな者が破壊し、貧しい者が被害をこうむる」という性質をもっている。そしてそこには、「強者が問題をつくり、特をし、リーダーシップをとり、弱者が損をし、責任を押しつけられ、またそうした状況を正当化するイデオロギーを流されている」という構造がある。
  戸田は、この構造のことを「エリート主義」と呼んでいる。そして、エリート主義によって国際社会が運営されてしまう現在のような状況を、どうすれば改革できるのかを考えてゆくのだ。
 戸田が立ち向かおうとしている課題は、とてつもなく大きく、重い。同じような課題に正面から突入し、そして空中分解してしまったように見える七〇年代ウーマン・リブの教訓を、はたして環境問題において生かせるであろうか。私も自分の問題として注目してゆきたい。



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