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『産経新聞』2000年6月14日 夕刊
マネーゲームと健康幻想の危険性
森岡正博
 

 「遺伝子」が時代のキーワードであることは、まちがいない。遺伝子の研究が現代医学に与える影響は、とてつもなく大きいものであることが分かってきた。
 人間の細胞の中にある遺伝子の総体のことを「ゲノム」と呼ぶ。人間の身体の特徴のかなりの部分が、ゲノムによって支配されていると考えられている。正確に言えば、人間の細胞の中にあるゲノムと、人間が置かれている環境との相互作用によって、人間の身体の生物的な機能が発現するのである。

遺伝子にねむる病因
 たとえば、従来は原因不明と言われてきたアルツハイマー病が、実は人間のゲノムと深い関係にあることが分かってきた。ゲノムが配置されている物理的な実体である染色体のある部分に、アルツハイマー病の素因となる引き金が眠っているらしいのである。その素因を持った人間が、ある年齢に達したり、ある環境のもとに置かれたりすると、アルツハイマー病の発症が加速されると考えられている。
 いままでは遺伝病だとか、成人病だと言われていた数々の病気が、実は人間の細胞の中にある遺伝子に関連した病気である可能性が出てきたのだ。
 だとすると、細胞の中にある遺伝子をぜんぶ調べたら、その人間が将来どういう病気を発症する可能性があるのかが分かるのではないか。そして、その人の治療にも役立てることができるのではないか。そういう発想が出てきた。それに加えて、これは科学研究としても、非常におもしろいテーマだ。人間の細胞がどういうメカニズムで働いているのかを解明することにつながる。

オーダーメイド医療
 というわけで、人間のゲノムをコンピュータによってすべて解読し、そこに隠された遺伝子のはたらきを解明してしまおうというプロジェクトが始まったのである。これが「ヒトゲノム・プロジェクト」である。アメリカ・日本・ヨーロッパなどの国際協力研究として開始されたが、その後、アメリカの民間会社が独自の超高速解読に成功し、現在、ヒトゲノムの九九%が解読されたと言われている。もっとも、解読されたのは物理的な地図だけであり、遺伝子の機能の解明はこれからの作業だ。
 ヒトゲノム・プロジェクトが進み、遺伝子のはたらきが解明されていくと、医療は大きく変貌する。たとえば、個々人の体質に合った「オーダーメイド医療」が可能になる。つまり、病気になったら薬を飲むわけだが、同じ薬を飲んでも、よく効く人と効かない人がいる。これは、薬に対する感受性が人によって異なるためである。だから、医療は人間の個性には勝てないとされてきた。
 ところが、実は、この薬に対する感受性が、われわれの遺伝子によって決定されている可能性が高いのである。だとすれば、遺伝子の地図を参考にしながら、個々人のゲノムを詳しく調べ、その人の薬への感受性をあらかじめ把握しておけば、その人にもっとも適した医療が施せることになる。これがオーダーメイド医療である。
 現在、DNAチップという技術が開発されている。これは、体液などの細胞のなかに、ある特定の遺伝子が存在するのかどうかを簡単に調べることのできるものだ。このような技術が超スピードで開発されている。

人間選別とビジネス
 問題は、ここからだ。オーダーメイド医療は、たしかに副作用の少ない新たな治療方法をわれわれにもたらすことであろう。だが、ヒトゲノムの機能が解明されるということは、同時に、それが人間の選別にいくらでも転用できるということを意味している。
 たとえば、体外受精で得られた受精卵にクローン技術(およびES細胞技術)を応用すれば、受精卵と同じゲノムをもった細胞を、たくさん作り出すことができる。それらの細胞の遺伝子を、ヒトゲノムの地図を参考にしながら、DNAチップなどで調べ尽くすことができる。将来アルツハイマー病にかかることはないか、肥満遺伝子をもっていないか、アルコール依存症にならないかなどを、受精卵の段階で検査することができるのだ。
 そして、それらの検査をパスした受精卵のみを、母親の子宮に戻して出産することができる。これは「優生学」に似ている。しかし、国家がそれを強制しているのではない。親が自発的に我が子の選別をするのである。そして、その技術に特許が与えられ、一大産業となって社会に浸透し、成功したベンチャー企業は巨額の富を手に入れる。アメリカでそれが先行し、遅れてはならぬと日本も後追いする。最近、日本政府も、ゲノムに関する特許への積極的な姿勢を表明した。国益という名の大義名分がそこにはある。これが、ヒトゲノム計画の裏面に見えてくる医療の近未来像である。ヒトゲノム計画は、国際的マネーゲームと、我々の健康幻想の餌食となる危険性をはらんだまま、進行しているのである。



『信濃毎日新聞』2000年7月27日
かき立てられる「健康幻想」
森岡正博

 人間の遺伝子をすべて解読して、生命の秘密に迫ろうとする「ヒトゲノム計画」が、急ピッチで進められている。
 人間の細胞の中には、その人の遺伝子がすべて収められたDNAの固まりがある。それを「ゲノム」と呼ぶ。そのDNAに書き込まれた情報の物理的配置を決定するのが、ヒトゲノム計画の最初の目標であった。それがほぼ達成されたと言われている。
 しかし、DNAに書き込まれた情報のうち、人間の遺伝子として働くのは、わずかな部分でしかない。次の課題は、それら遺伝子の具体的な機能を解明し、細胞の中での遺伝子のふるまいを把握することである。
 それを解明するためには、いままで以上の時間と資金と技術力をつぎ込む必要があるだろう。そしてバイオとITを合体させた「情報生命科学」という新しい学問を打ち立てることが要請される。
 ヒトゲノム計画は、欧米と日本が協力して押し進めてきた、国家的規模のプロジェクトである。途中から強力なアメリカ民間企業が参入してきて、国家プロジェクトとのあいだで熾烈な競争を行なった。なぜ民間企業が参入するかと言えば、ヒトゲノムの情報に市場価値があるからである。情報を他の企業に売ったり、遺伝子解明技術の特許を取ったりして利潤をあげられるからだ。
 ヒトゲノム計画は、当初は、基礎科学としての重要性が謳われていた。アポロ計画に匹敵する人類の偉大な科学的冒険だということも言われた。人間の生命の秘密に科学が迫るのだと。そして、遺伝子に原因のある病気への新治療を開発することができるとされてきた。
 しかしながら、ヒトゲノムの物理的配置の解明にひとくぎりが着きかけた現在、その計画はまったく異なった様相をもって、われわれの目前に現われはじめている。それらは、次のような特徴である。
 まず、ヒトゲノム計画は「国益」と密接に結びついているということだ。アメリカ合衆国がこの計画を強力に推進して、他を圧倒した成果をあげているが、それはアメリカ合衆国の国益にかなうことになると認識されている。ヒトゲノム情報それ自体に特許を認めるかどうかという点については、議論が分かれるが、ヒトゲノム情報の解明技術や、それを利用した薬品生産にかかわる技術の特許については、誰も否定しない。つまり、いちはやくヒトゲノムに関連する産業を興した国が、世界に先駆けて多数の特許群を獲得できるのである。
 このことは、日本でもあからさまに語られている。医科研などを中核とした東京湾構想などが発表されているが、これもまた、ヒトゲノムを推進しないと日本の国益が損なわれるという危機感から発せられたものであると考えられる。二一世紀の医療や製薬の基礎技術をすべてアメリカに押さえられるのはたいへんだという危機意識がある。
 次に、ヒトゲノム計画は「商業主義」と結びついたということである。ヒトゲノム関連への巨額の投資が行なわれ、数々のベンチャー企業がこの分野に参入している。それは、この産業が将来急成長すると見込まれているからである。「ヒトゲノムは金になる」。遺伝子の機能解明については、いままで以上に、民間企業による研究が独走することであろう。そして「国益」と緊張関係をはらみながら、開発競争が繰り広げられるであろう。
 最後に、ヒトゲノム計画は、われわれの「健康幻想」をさらにいっそうかき立てることになるだろう。遺伝子レベルにおける「健康」が追求され、赤ちゃんの遺伝子を操作することすら試みるかもしれない。「赤ちゃんの遺伝子をデザインする」医療の可能性が、すでに語られているのである。その先にあるものは、こころ空虚な「健康人」の群なのかもしれない。ヒトゲノム計画は、その光の部分だけによって語られてはならない。


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