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作成:森岡正博 
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論文

鬼頭秀一・福永真弓(編著)『環境倫理学』東京大学出版会 2009年12月 25〜35頁
「自然を守る」とはなにを守ることか
森岡正博

*【数字】の箇所で、印刷頁が変わります。数字はその箇所までの頁数です。

1.1 「人間」と「自然」の二項対立

 環境倫理学とは,どういう理念で自然を守ればよいのかを考えたり,自然が守られていくための社会の仕組みを考えたりして,それを行動につなげていくことだ.だが,そもそも「自然を守る」とは,具体的に何をすることなのだろうか.この章では,この問いをじっくりと考えてみる.それを通じて,環境倫理の基本である「人間と自然の関係」を,新しい目で眺めることができるようになるはずだ.
  たとえば,生い茂った森林を,宅地開発のために切り開いて造成するときのことを考えてみよう.その山に昔から生えていた木々や植物をブルドーザーで取り払い,そこに住んでいた動物たちを追い払って造成地とすることを,許しがたい自然破壊だと感じる人は多いであろう.しかし,その地域を造成地とすることによって,普通の人々のマイホームの夢がかない,幸せな家庭を築いていくこともできるわけだから,あまり無謀な計画ではないかぎり,宅地化はそこに住むであろう人々の利益になるとも考えられる.
  ここに見られるのは,「保護」か「開発」かという対立だ.保護するのは「自然」を守るためであり,開発するのは「人間」に利益をもたらすためである.ここでは「自然」と「人間」が対立しているように見える.このようにして,自然保護の問題は,「大切な自然を守るのか,それとも人間の利益を追求するのか」という二項対立で語られることになるのである.
  この「自然のためなのか,人間のためなのか」という二項対立は,なんと,自然を守ろうとしている人々の内部でも見られるのだ.
  たとえば,奥深い山の木を切って木材として利用するのだが,切ったあとにはきちんと植林をして,持続的な林業が営めるように工夫しようとする人たちがいる.彼らにしてみれば,けっして林業によって自然破壊をしているつもり【25】はない.むしろ逆に,自分たちが山の木々にていねいに手を入れることによって,森林を持続的に管理し,山の自然を守っていると考えているのである.もちろん林業を営むのは,自分たちの利益のためであり,材木を消費する人々の利益のためだから,その第一目的は「人間のため」である.だが,その過程において,森林は持続的に守られていくわけだから,結果的に自然保護が達成されていくというのである.
  ところが,このような考え方をうさん臭く思う人たちもいる.森林を持続的に守っていくと言っても,元にあった多様な自然生態系は植林によって失われるのである.そして,人間にとって都合の良いような木ばかりが植えられていくのだから,これは貴重な自然を,人間の利益になるような自然へと置き換えているだけのことである.これは自然保護とは言えない.その地域に長いあいだ生き続けてきた貴重な生態系を,そのまま手つかずで守っていくことこそが,真に自然を守るということである.このような考え方に立てば,貴重な自然が残っている地域では大規模な林業を行なってはならず,国立公園のようにして「手つかずのまま」に保存すべきであるということになる.
  さて,みなさんは,この二つの考え方をどのように感じただろうか.おそらく多くの読者は,なんとも言えないとまどいを感じたのではないだろうか.まさにこの問題こそ,環境倫理学がここ100年間にわたって悩み続けてきている大問題なのである.
  すなわち,自然を守るのは,それが人間のためになるから守るべきなのか,それとも自然それ自体に価値があるから守るべきなのかという問題だ.「自然を守るのは,そうしたほうが,長い目で見て人間の利益になることに間違いないから守るべきである」という考え方を,「保全」の考え方,あるいは「人間中心主義的」な自然保護の考え方と言う.この考え方は,その後,「持続的な開発・発展(サステイナブル・ディベロップメント)」という思想に結実した.
  これに対して,「自然を守るのは,その地域の自然にとても大切で貴重な価値があるからであり,けっして自然を守ることが人間のためになるからではない」という考え方を,「保存」の考え方,あるいは「人間非中心主義的」「自然中心主義的」な考え方と言う.この考え方は,その後,「ディープエコロジー」という思想に結実した.この二つの考え方の対立には,きわめて根深いものがある.自然保護やエコロジー運動をしている人々のあいだにも,この対【26】立は見られるし,一人の人間の頭の中にもそれはある.(これについては,森岡[1999]で詳しく述べたので参照してほしい).

1.2 二項対立はまぼろしである

 人間のために自然を守るのか,それとも自然のために自然を守るのか,という二項対立にはまってしまうと,なかなかそこから抜け出せなくなる.21世紀の環境倫理においては,人間か自然かという対立を,なんとかして解体しないといけない.では,どういうふうに考えていったらいいのだろうか.
  その前に,生態学の視点から明らかになることについて少しだけ述べておきたい.環境倫理学の領域では,原生林のような,人間の手つかずの貴重な自然をいかにしてそのままの姿で残していくか,ということがよくテーマになってきた.原生林のような場所に人間の手が介入すると,その貴重な自然は汚され,失われていくと思われてきた.ところが,実際には,原生林だと思われる森林であっても,実は先住民たちが長い間その地域で動植物を採取して生活している場合があり,そのようなケースでは,完全な手つかずとは言えない.さらに言えば,もし我々がその原生林に道を付けて,その地域を多少開発したとしても,自然はそこで死に絶えるわけではない.たしかにその原生林の従来の姿はかなり消滅するかもしれないが,そのかわりに,我々の介入に適応するようにして,道のまわりには新しい花が咲き乱れ,以前には見たこともなかったような昆虫や鳥たちが飛び回るようになるだろう.
  すなわち,自然というのは,人間の介入をものともせずに,むしろそれを利用することによって新たな自然の姿をみずから創造していくのである.生態学の視点から見れば,自然はつねに人間からの介入に対して敏感に反応して,そのつどみずからを作り変えていく.自然と人間は,その意味で,お互いがお互いを必要とするようなダイナミックな関係にあると言える.もちろん,人間からの介入によって,ある生態系が消滅したり,そこに生息していたいくつかの生物種が絶滅するということはある.そのおかげで,その地域の生物多様性が減少することもあるだろう.だが,それにもかかわらず,自然それ自体は,そういう激変をも利用しながら,新しい自然を次々とダイナミックに生み出していくのである.人間はそのような自然のパワーをけっして押さえ込【27】むことができない.
  人間と自然は,実はそれほど分離されているものではなく,むしろお互いに依存し合っている面が大きいのではないかと思われるのだ.人間か,自然か,という対立にこだわっていた環境倫理学は,実はこのようなダイナミックな人間と自然のかかわりあいの姿というものを,きちんと視野に入れてなかったと言える.このことを背景知識として押さえたうえで,私はまた異なったやり方で,人間と自然の二項対立が「まぼろし」であることを示していきたいと思う.
  まず,「自然のために自然を守る」のがほんとうの自然保護であるとする「保存」の思想について検討してみよう.彼らは,手つかずで守られてきたヨセミテの国立公園の原生林や,ナイヤガラの滝のようなワイルドな景観や,何千年も生い茂ってきた屋久島の杉などは,それ自体として他に替えがたい貴重な価値(内在的価値)があると主張する.であるから,それらを守ることが人間のためになろうがなるまいが,それとは無関係に,それら自身の尊さのためにそれらの姿を守らなければならないと言うのである.
  だが,よく考えてみれば分かることだが,彼らは地球上に綿々と続いてきた数多くの大自然の中から,上記の地域を意図的に選択している.たとえば,何千年もそのまま手つかずで放置されてきた,中央アジアの砂埃しか生まない土の砂漠や,中東の砂漠の底に何万年以上も眠る油田の油塊や,人が歩くだけで頭上からヒルがバラバラと降り注いでくる熱帯の密林などを,他に替えがたい貴重な価値をもつ自然として選択していない.彼らが,ヨセミテやナイヤガラや屋久島を例に出すとき,そこには,ある独特の判断が働いているとしか思えないのである.それは生態系の豊かさというようなものではないだろう.砂漠には砂漠なりの豊かな生態系がある.ヒルやゲジゲジがいっぱい生息している熱帯林なんて,すばらしく豊かな生態系である.
  ひとことで言えば,そこには,彼ら自身による「美的な価値判断」が忍び込んでいるのである.そしてその価値判断は,彼らが生まれ育った気候や社会や文化やマスメディアによって育まれてきたものであろう.すなわち,彼らは「自然のために自然を守る」と言いながら,実のところは,自分たちが生まれ育った気候や社会や文化やマスメディアによって形成された価値判断によって,「何が守られるべき自然か」についての恣意的な線引きをしてしまって【28】いるのだ.すなわち,人間の美的な価値判断を抜きにした,それ自体として尊い自然などというものはどこにもないのである.いかなる自然であれ,自然はつねに人間の価値観の手垢にまみれているのである.
  では次に,「人間のために自然を守る」のがほんとうの自然保護であるとする「保全」の思想について検討してみよう.彼らは,人間の長期的な利益に役立つように,自然をかしこく持続的に管理することが,自然保護のほんとうの意味であると言う.すなわち,必要なのは,人間にとっての長期的な利益を的確に判断し,その判断にもとづいて具体的に自然をコントロールしていくことである.
  彼らも人間と自然を対立させて考えているが,そもそも,自然環境とのかかわりにおいて人間にもたらされる「利益」とは,いったいどのようなものなのだろうか.まず,森林を伐採することで得られる木材は,我々の生活を豊かにする.農業によって得られる作物や,漁業によって得られる魚や,畜産によって得られる肉は,我々の胃袋を満たす.さらには,水のせせらぎや,木々を渡る風や,緑の草原や,鳥の鳴き声などは,我々に癒しの感覚を与えてくれる.まずはこれらの「利益」について考えてみよう.
  どうして我々は,これらを「利益」として感じるのだろうか.それは我々が「身体」を持っているからである.人間は,理性だけで生きているのではない.人間は,「身体」に縛られて生きている.人間は自分の身体を,暑さや寒さから守らなければならない.衣服や住居はどうしても必要だし,木材もそのために利用される.腹が減ったらご飯を食べないといけない.動物や植物を手に入れて,空腹を満たさなければならない.水のせせらぎや,木々を渡る風などに心地よさを感じるのも,我々が身体を持っているからであるし,我々の身体はそれらの刺激を心地よく感じるように作り上げられている.
  すなわち,人間は,「身体」なしには生きていけない.そしてその「身体」は,自然から「恵み」を受け取ることではじめて生き続けていくことができる.この意味で,人間は,自然の奴隷なのである.たとえば,睡眠について考えてみよう.人間は睡眠なしには生きていけない.もし眠らなければ,人間は死んでしまう.人間の理性は睡眠の奴隷なのである.ではなぜ睡眠があるのだろうか.それは脳を休息させて再生させるためだと言われている.睡眠のリズムはだいたい24時間だ.つまり,地球の自転のリズムに合わせられている.それ【29】はすなわち,昼と夜とが交代するリズムであり,海の潮が満ち引きするリズムであり,人間のはるかな祖先がまだ海の中で生活していたころに「身体」に刻み込まれたリズムである.今日の人間のすべての生活様式や,社会システムは,人間が24時間の睡眠リズムに支配されているという事実を前提にして作られている.
  人間の内部に体内時計のかたちで組み込まれた睡眠リズムは,人間を取り巻く大海原や,大地や,日月の満ち欠けなどの大自然のリズムと共鳴している.人間の身体の内部にある「内なる自然」は,人間を取り囲む「外なる自然」と,分かちがたく共鳴しており,この共鳴関係は人間の祖先となる生物種が海から地上に這い上がってきたころからすでに体内に組み込まれていたと考えられるのだ.人体の塩分濃度が,海のそれと同じであることや,女性が卵巣から腹腔内に,月に一度,ちょうど魚のような形の排卵をすることなどを考えても,人間がみずからの内部に大自然の破片を組み込んでいることは容易に分かるであろう.
  住居が緑の木々に包まれているとか,きれいな川のせせらぎに囲まれているなどの快適さのことを「アメニティ」と呼ぶが,人間がなぜアメニティを求めるのかと言えば,ほかならぬ人間の「身体」の内部にある「内なる自然」が,それらの「外なる自然」を欲するからであると考えられる.海の中で進化したのち,森林や草原で進化し,海の生物や陸上の生物を食料としてたえず内側に取り込んで生きている人間の身体には,外側の自然と同じものが,物質として,あるいは機能として,あるいは反応パターンとして根深く組み込まれていると言えるのである.
  そして,人間は,自分自身の「身体」に組み込まれた「内なる自然」の声をけっして無視することができないばかりではなく,それら「内なる自然」の声によって逆にみずからの行動を束縛され,みずからの嗜好を決定させられ,何を「快適」と思うかを決定させられ,何がみずからの「利益」となるのかを決定させられていくのである.このことは,身体の内側から湧いてくる睡眠欲や,食欲や,性欲や,快適さを求める気持ちなどによって,人間がどのくらい振り回されるかを考えてみれば明らかであろう.
 話を元に戻せば,「人間のために自然を守る」とは,人間の長期的な利益に役立つように,自然をかしこく持続的に管理することであった.しかしなが【30】ら,ここで言う人間の長期的な「利益」については,実は,人間の身体に刻み込まれた「内なる自然」の呼び声によってそのかなりの部分が決定されているのであるから,内なる自然と外なる自然を共鳴するものと考えれば,人間の「利益」なるものは最初から「自然」によって枠づけられていると言えるのである.すなわち,人間が「身体」を持って存在している以上,人間の「利益」は,自然によってすでに大枠が決められているのである.「自然とは無関係に決められる人間の利益」などというものは,そもそも最初から存在しないのだ.
  以上の考察で分かったことは,「自然のために自然を守る」のか,それとも「人間のために自然を守るのか」という二項対立は,実は大いなるまぼろしであったということだ.自然それ自体を守ろうとしても,そこにはどうしても人間の手垢がまとわりついてしまうし,人間の利益を追求しようとしても,人間の利益それ自体がすでに自然によって枠づけられてしまっているということなのだ.自然保護に関する「人間」対「自然」の二項対立が,根拠のないまぼろしであるということが,こうやって明らかになった.

1.3 「外なる自然」と「内なる自然」

 ここから分かるのは,自然の価値それ自体を守ることの中には,人間の思いを守ることがかならず含まれているということであり,また,人間のために自然を守ることの中には,人間の利益に還元できない自然の価値を守ることがかならず含まれているということだ.
  まず前者であるが,ヨセミテの大自然や,屋久島の杉を,それ自体の尊い価値のために守るということは,同時に,それらを「尊いものとして大切にしたい」という人間の側の気持ちを大切に守ることでもある.自然保護とは,自然を大切にしたいという人間の「感情の保護」でもあるのだ.
  次に後者であるが,地域の緑や水辺を,そこに住む人間のアメニティのために守るということは,同時に,植物の活発な繁茂や,風の吹きすぎていく流れや,流水の水面の変化などのような,人間による人工的なコントロールをほとんど受け付けない自然のふるまいを守ることでもある.なぜかと言えば,もし,植物の成長や,風や水の流れなどが大幅に人間のコントロール下に置かれたとしたら,人間はもはやそれらのものに対して「自然」の面影をほとんど感【31】じなくなるであろうからである.人間があらかじめ計算して決めたとおりに風向きや強弱を変える風のことを,我々は「自然の風」とは認知しないであろう.屋内のショッピングモールに植えられた清潔な数本の竹を,我々はさほど自然として感受しないだろう.人間のコントロールを超える可能性のある自然とは,人間の利益に反するように動いてしまう危険性のある自然でもある.すなわち,「人間のために自然を守る」ということは,「人間の利益にかならずしも還元できない可能性のある自然のふるまいを守る」ということをも意味するのだ.
  また,「内なる自然」と「外なる自然」が共鳴しているとするならば,人間のために自然を守るということは,「内なる自然」のために,「外なる自然」を守るということになる.すなわちそれは,人間の身体の「内なる自然」のリズムに呼応するような,「外なる自然」のリズムを守るということである.それは,日の出日の入り,潮の干満,季節のめぐりなどの反響を豊かに含んだ「外なる自然」を守るということにつながるわけであり,それはもはや「自然それ自体の価値のために自然を守る」ことと区別が付けられなくなるはずだ.
  では,最初の問いに戻って,そもそも「自然を守るとは何を守ることか」について考えてみたい.まずそれは,「自然それ自体の尊い価値のために自然を守る」ことでもなければ,「単に人間の利益のために自然を守る」ことでもない.人間と自然を,明瞭に分離することはできない.自然保護の場面では,人間と自然はいわばひとつながりに連続しているのである.自然環境は,つねに人間の美的価値観や,自然に対する思いによって彩られたものとして,人間の目には映る.また人間は身体を持っているから,身体の内側に「内なる自然」の呼び声というものが根深く入り込んでいる.だから,ここにあるのは,「人間―自然連続体」とでも呼ぶべき,ひとつながりの何ものかなのである.
  私が砂浜に立って,打ち寄せる波の音を聞きながら,足もとの砂を踏みしめ,潮風を身体全体で感じるとき,ここには,私の身体の内部から始まって,遠く沖合の水平線にまで伸びるような,ひとつの「人間―自然連続体」が立ち現われているのである.その連続体の広がりの上で,私の身体の内部の「内なる自然」と,外側に広がる「外なる自然」が共鳴し合っているのである.私は,この砂浜が,ヘドロと重油によって汚染されてほしくない.そうならないようにこの砂浜を守りたいという気持ちがある.なぜなら,浜に打ち寄せる波がすべ【32】てヘドロによって汚染され,あたり一面が重油の臭いで満たされているというような状況になったとしたら,浜に立つ私の「内なる自然」と「外なる自然」が豊かに共鳴するということにはけっしてならないだろうからである.
  すなわち,自然を守るとは何を守ることかと言えば,それは,自然環境に対峙する私の「内なる自然」と,私を取り巻く「外なる自然」が,豊かに共鳴することができるような,人間と自然の関係を守るということなのである.これが,冒頭の問いに対する,私からの答えである.そして,そのような関係性が現在あるのなら,それが目の前から逃げ去っていかないように気を配ることが自然保護と呼ばれる(自然保守).もしそのような関係性はもはや失われているのならば,そのような関係性をふたたび取り戻すことが自然保護と呼ばれることになる(自然再生).もしそのような関係性がこれまでいちどもなかったのだとしたら,これから新たにそれを作り出すことが自然保護と呼ばれることになる(環境創造).豊かな関係性が過去にあったにちがいないという信念で自然再生が行なわれるとき,それは環境創造とほぼ同じものとなるだろう.
  「内なる自然」と「外なる自然」が豊かに共鳴するという状態を認識できるためには,まずみずからの「内なる自然」の呼び声を敏感に察知できるような身体になっておかなくてはならない.環境教育や「いのち」論で,「身体の声に耳を澄ます」ということが言われるが,それはこのことを指しているのではないかと私は思う.と同時に,フィールドに出たときに,「外なる自然」のありさまや動きなどを敏感に察知できるような感覚を養っておかなくてはならない.これはディープエコロジーなどが強調するところの,自然と一体となるような感覚を体感するということだろうと私は思う.
  すなわち,自然を守るとは,「内なる自然」と「外なる自然」の双方の呼び声に対して敏感になるような身体や感覚を開発していくことでもある.その二つが豊かに共鳴するとは,「内なる自然」と「外なる自然」がひとつながりのものとして自分の身体を貫通するということである.その,ひとつながりのものとして貫通している自然とは,太古の昔から滔々と流れてきて,生物たちや人間たちを次々と生み出して,さらに未来に向かって流れていく大河のような自然の流れとでも呼ぶべき何ものかであろう.その大河のような流れは,それを技術によって操作しようとする人間それ自体をもみずからの一部として呑み込んで,未来に向けて突き進んでいく巨大なうねりのようなものである.【33】

1.4 問題の再設定

 以上のように,「内なる自然」と「外なる自然」が豊かに共鳴することができるような,人間と自然の関係を守るということが,自然を守るということである.しかしこのことが明瞭に言えるのは,ひとりの人間が,その人を取り巻く自然環境と対峙しているときである.ある地域の自然環境の保護が課題となるとき,そこには,きわめて多数の人間たちがかかわってくる.そしてその場合,「人間―自然連続体」がどのような状況のときに「内なる自然」と「外なる自然」がもっともよく共鳴するかについては,その自然環境に向き合う個人ごとに答えが異なるはずだ.答えが異なれば,何をもって自然保護とするかについての意見の対立が生じ,ふたたび,自然保護をめぐる混乱がはじまることであろう.
  このときに押さえておきたいのは,次のことだ.すなわち,意見の対立は,「人間を守るか」それとも「自然を守るか」という境界線で起きているのではないということである.そうではなくて,意見の対立は,「何をもって<内なる自然>と<外なる自然>の豊かな共鳴とみなすか」という点をめぐって起きているということである.ある者は,森を切り開いたあとの宅地にできた空調の効いた邸宅に住みながら,ときおり散歩に出かけるときに聞く街路樹の枝のざわめきに「内なる自然」と「外なる自然」の豊かな共鳴を見いだすのであり,またある者は,宅地開発を阻止したあとの暗い木々の根元にひっそりと咲く名もない雑草の花弁に触れたときに,「内なる自然」と「外なる自然」の豊かな共鳴を見いだすのである.そしてこれらの価値観の差異は,彼らが生まれ育った場所の自然環境や,気候や,自然の中で遊んだ体験や,家族の自然観や,地域の文化や,歴史や,マスメディアなど,様々なファクターによって彼らの内面に形成される.
  であるから,自然保護をめぐる具体的な対立状況が起きたときには,それに関係する人々が,それぞれ何をもって「内なる自然」と「外なる自然」の豊かな共鳴だと考えているのかを,ゆっくりと言葉にしてもらって,それらを突き合わせていく作業をしてみるのが効果的かもしれない.利益の対立をめぐる議論で消耗するのではなく,豊かさの内実についての議論で妥協点を図っていくことのほうが有益である.具体的な解決を探っていく環境プラグマティズム【34】の実践にとっても,本章で述べたような「人間―自然連続体」論は使い勝手が良いように私は思う.
  と同時に,理念的な問題としては,次のような点をさらに解明しなくてはならない.まず,本章で述べた私の考え方を,「自然を守るとは,要するに,人間にとって快適で心地よい環境を守ることだ」と理解してもよいのかという点である.もし仮に,「内なる自然」と「外なる自然」の豊かな共鳴が,「人間にとって快適で心地よい状態」に等しければ,そのような理解でもかまわないことになるが,実のところ私はそうは考えていない.
  だとすると,「内なる自然」と「外なる自然」が共鳴するとは,そもそもいったい何を意味しているのかについて,正面から考えてみないといけないことになる.「内なる自然」と「外なる自然」の関係が,非常に良い状態になるとはどういうことなのか.それは,単に快適で心地よいというだけの状態を超えることが,そこで起きることを意味すると私は思う.それはおそらく,その共鳴の世界において,私という人間が,私を生み出した大きな流れというものに目を見開かされる経験をすることであり,そして同時に,その経験を小さなステップとして,これからの生を肯定的に生きていこうという示唆を与えられることである.それが何を意味するのかを考えていくことこそが,今後の自然の哲学と生命の哲学の大きなテーマとなるはずである.
  人間と自然の二項対立という話題から始まって,かなり規模の大きい課題にまでたどり着いてしまった.本章の議論だけで,人間と自然の二項対立の問題が解決できるわけではないが,これまでの環境倫理学ではさほど強調されてこなかった新たな視点を,この分野に導入することができたように私は感じている.環境倫理学の諸問題に対して,オリジナルな仕方で迫っていくことが大事である.読者がみずからそのような試みに着手することを願って,本章をひとまず終えることとしたい.

[文献]

森岡正博(1999)「自然を保護することと人間を保護すること」,鬼頭秀一編『環境の豊かさをもとめて』,昭和堂:30-53.【35】