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作成:森岡正博 
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フェミニズムについて−私論

牧野(博田)雅子

 フェミニズムは、「個人的なことは政治的である」と言いました。例えば、女性
が性犯罪の被害に遭ったとします。体験自体は、個人的なものですよね。でもそれ
は、男性による女性の抑圧の結果(男性/女性の権力関係による差別の結果)であ
ると言えないでしょうか。個人的な体験にすら、男性の価値観による社会構造が書
き込まれてしまっているわけです。また、主婦という選択をするとします。個人が
どれだけ考えたことであっても、結果として男性の価値観に沿ったものとならざる
を得ない。主婦を選択せざるを得ないのも、男性の価値観による社会が「選択とい
う名の強制」を迫るからであり、性犯罪はもとより夫婦間の性行為に至るまで、男
性優位の構造が浸透している。個人の選択や個々の関係性全てに亘って、性差別構
造が書き込まれている。フェミニズムのテーゼはこういうことです。
 結論から言ってしまえば、フェミニズムのこのテーゼは、直感的に捉えられ、さ
ほど吟味もされずに、理論や運動の根拠として捉えられているように思います。そ
のテーゼを前提として、「男性/女性」の権力関係に力点を置き理論を構築し、運
動を開始する。自分の価値判断がまずあって、それを主張するために、調査をした
り論文を書いたり運動をしている人が、案外多いのではないでしょうか。主婦の問
題にしろ、姓の商品化の問題にしろ、男女別姓の問題にしろ、実際のところ、本当
に「個人的なことは政治的である」のかどうか、徹底的な分析や議論はまだ出来て
いないように思うのです。なのにそれがまるで真実であるかのようにみなされてい
る。価値判断を支えるための理論や運動、問いを立てるべき対象に理論の根拠を置
くというフェミニズムの転倒ぶりは、やはり批判されてしかるべきでしょう。たと
え、フェミニズムが女性解放の理念に基づいているといっても、理論の中に前提と
して取り込むのは、批判精神に欠けると思います。
 私は、男女差別について論じることの意義は、非常に大きいと思っています。た
だ、フェミニズムはテーゼを前提とすることによって、逆に、手つかずの分野を多
く残してしまった。フェミニズムは(特にラディカルフェミニズムは)、私的分野
から公的分野に至るまで、全て男性の価値観によっているのだと断言してしまった
ので、個々の事例に関しての議論が不用になるのです。今更分析する必要はなくな
るのです。その結果、一方的な紋切り型の発話しか出て来ない。
 ちなみに、私は「個人的なことは政治的である」というテーゼを、分析や理論構
築にあたっての「仮説」に相当するものだと捉え直しています。私も、個人的なこ
とは政治的である(かもしれない)と感じていますが、無条件に前提として取り入
れることは出来ないと考えます。テーゼそのものを徹底的に問う作業を、フェミニ
ズムはしてこなかったからです。テーゼそのものに問いを立て、反省的に考察を進
めていくことが、フェミニズムには必要です。本当に「個人的なことは政治的であ
る」のかどうかを、考えていかなければならない。様々な分野に亘って、テーゼを
問う作業(テーゼを実証する作業)を行わなければならない。    
 フェミニズムが「選択という名の強制」を主張するとき、そこにはもっともらし
い響きがあります。確かに、女性の意識をある一定の方向に向けざるを得ないよう
な社会に、私たちは生きているといえます。しかし、全てが全て「選択という名の
強制」であれば、女性は個人として思考し選択する領域を失い、主体性の存在を否
定せざるを得なくなるでしょう。どんなに女性が個人として考えて出した選択であ
っても、社会によって強制されて選択をしていることが、フェミニズムによって明
らかになったのですから。ここに、思考や選択に際しての個人的領域を全く認めな
い、女性を一括りにしたフェミニズム理論の硬直性が見えてきます。
 私は、意識に抑圧構造が書き込まれていても、それが即「選択という名の強制」
に繋がるとは思っていません。選択肢として提示されさえすれば、いくら社会的圧
力がかかっていようとも、選択することは可能なのですから。それ以外の選択が不
可能だったわけではありません。困難だっただけです。困難さを生み出す社会構造
については問題にすべきだし、困難さを解消していく方向性を探るべきだとも思い
ますが、かといって女性が選択の責任を負わなくてもいいとは思えない。選択の責
任を放棄してしまうと、困難に立ち向かい自分の選択を貫き人生を生きようとする
女性の存在を、抹消してしまうことになるからです。

 
先輩フェミニストから見れば、フェミニズムの堕落ともいうべき結論に至った私も
、実はかなり長い間「バリバリのフェミニスト」でした。その経過を、少し書いて
おきましょうか。私がフェミニズムに惹かれたのは、なんといってもその渾然一体
性でした。私の目を見開かせてくれた上に、日々の行動をも方向付けてくれ、あま
つさえ学問としても有効性を持つという。これは魅力でした。私が生きにくかった
のは、私のせいではなかったのね。社会の仕組みが悪かったのよ。ええい、男社会
を告発してやる!そこで、作戦開始と相成りました。
 教師に「女子は小学校の先生あたりに進むのがいい」と進路指導されると、「母
性をもって女性を一括りするのは止めていただきたい。女性にも個性を認めよ。性
的ステレオタイプを助長するような発言は慎め」と抗議し、「女性らしさをいかし
て云々」と上司が言えば、即「そもそも女性らしさとは…」と食らい付き、「女は
仕事の時もスカートをはけ」と言われれば、間髪おかず「足を見せると言うことは
女性を商品化していることになるのではないか」と反論し、といった具合。相手を
してくれた男性はさぞかし大変だったことでしょうが、フェミニズムで養った目を
もって、フェミニズムが与えてくれた旗を持って社会を歩き回りブルドーザーよろ
しく掘り返せば、もう向かうところ敵なし!って感じだったんです。なんせ、学問
的な裏付けもあるわけでしょう。うるさい女が何かわめいているぞ、なんて言わせ
ないわけです。まさしく世に言う「フェミニスト」の典型ですよね。
 
そういう日々がかなり長く続いた後、ハタと困ってしまったんです。ある壁にぶち
当たって、その解決法が分からない。今までならフェミニズムの中に、何かしらの
方向性が示されていたのに。そう思った時に初めて、私は今まで自分では何も考え
てこなかったということに気づいたんですね。フェミニズムの教科書に何でも当て
はめて、教科書に書いてあることは無条件に信じてしまっていた。判断を全てフェ
ミニズムに委ねていた。それまでにも、フェミニズムに違和感を感じることはあっ
たんですよ。女性らしさをどう考えればいいのかとか、性の商品化についてだとか
。でもその時は、違和感を感じる自分がまだ男性の価値観から抜け切れていないせ
いだと思っていました。思い込もうとしていました。本当はその違和感をこそ、突
き詰めて自分で考えるべきなのに。男性の価値観から抜け出すために、もう一つの
価値観に寄りかかって甘えていたことに、気づいたわけです。周りを見渡すと、や
はり「寄りかかっている」女性が多くいました。フェミニズムはインパクトのある
思想だけに、どっぷり浸かってしまうと、なかなか抜け出せない。それほど吸引力
があったということですが、それ故に、フェミニズムも予期し得なかったであろう
抑圧構造が、フェミニズムの中にも生じてしまっているのです。
 フェミニズムが望んだのは、個人の意識に書き込まれている抑圧構造を解体する
ことであったはずです。女性の自由な思考や選択を取り戻すことを望んだはずです
。その為には、意識に巣食う抑圧構造を徹底的に相対化し、思考材料の一つとして
、選択肢の一つとして位置づける作業が必要だったはずです。意識という個人の自
由領域を確保するための試みに、新たなフェミニズム的価値判断を持ち込んで、こ
れを書き込もうとすることは、当初フェミニズムが望んだ解放とは違うと思うので
す。抑圧構造を解体することなしに(構造の分析作業は中途半端なままに)、「女
性は抑圧されている」と声高らかに宣言し、男性の価値観に対抗する価値観を提示
するだけでは、女性は「男性の価値観かフェミニズムか」の選択しかできません。
結果として、自分にとってどちらが得かという判断基準で選択することとなり、現
状維持に留まってしまう可能性がある。「女性らしさ」に関する議論がそれですね

 男性中心の価値観を解体することと、女性中心の価値観を作り出すことは決して
、イコールではありません。フェミニストで「男性は今まで女性を抑圧してきた。
これから男性も少しは苦しむべきだ」などと言う人は、男性中心の価値観を解体す
ることよりも、女性中心の価値観を作り上げることに使命感を燃やしているのでは
ないでしょうか。そこには女性個人の「自由な」思考や選択はありません。あるの
はフェミニズム的価値判断だけです。こうなるとフェミニズムもまた、女性を抑圧
し、自分で考えることを女性から奪ってしまうと思うのです。
 また、フェミニズムは女性解放を目指しているだけに、女性を一括りにしてしま
う危険性があります。女性にも多様性がある。女性の多様性を認めさせることも、
フェミニズムの運動であったはずなのに、いつしかフェミニズムはそれを忘れてし
まっているように思います。女性の多様性を認めるためには、個人の思考や選択と
いう「個人的な領域」に、フェミニズムそのものも介入してはならないのではない
でしょうか。あくまでも、選択肢の一つとして、思考材料の一つとして存在するに
とどめておかなければ、結果として、フェミニズムが女性を縛ることになると思う
のです。

 
フェミニズムという言葉を使うときに気をつけなければならないのは、「フェミニ
ズム」が、ある一つのことを指しているわけではないということなんです。女性解
放という理念を根底に持っているものの、理論一つとっても内部対立が激しくて、
フェミニズム=○○という図式を描くことができない。なのにフェミニストたちは
、理論の方向性は違っても、実践的課題については連帯できると言います。最近の
例が、男女別姓問題でしょう。別姓を主張し実践することは、フェミニストなら当
然である、と捉えられているようです。また、別姓を主張する人はフェミニストで
ある、とも。でも、主張の根拠や目指す方向は、それぞれに違っていたりするので
す。
 別姓論者には、そもそも戸籍制度に反対する人がいます。戸籍制度こそが家制度
を支え、強化している、と。弁護士などの法律関係者に多いようです。確かにそう
いう面もあるでしょう。ただ、戸籍制度を廃止しても、フェミニストが求める問題
の解決にはならないんです。戸籍制度はない。名前も自由。結婚して夫の姓にしよ
うが妻の姓にしようが、はたまた別姓のままでいようが、自由に選択できる。これ
は一見「自由」に思えます。しかし、そうでしょうか。良い例が見つかりました。
アメリカ大統領夫人、ヒラリー・クリントンです。彼女は自分の姓を夫の姓に合わ
せることで、アメリカが求める幸せな家庭を演出し、夫の選挙を有利なものにした
といわれています。いくら戸籍がなくなり、「自由に」選べるといっても、社会構
造が変わらない限り、フェミニストの言う「選択という名の強制」にすぎなくなる
可能性があるのです。現行の戸籍制度がそうでしょう。法的には、男女どちらの姓
を名乗ってもいいことになっています。にもかかわらず、圧倒的に夫の姓を名乗る
女性が多い。問題は制度そのものよりも、女性が自分の姓を捨てなければならない
社会構造にあるはずです。
 主婦が「奥さん」や「お嫁さん」ではなく、個人としての自己を取り戻すために
、別姓が必要なのだという主張もあります。なるほど、経済的にも夫に依存し、家
事労働を一手に引き受ける主婦は、社会の中で個人を確立するのは難しいと思われ
ます。公的領域と私的領域とが分離された近代以降の社会では、私的領域での活動
の評価は、公的領域では全くなされませんから。そこで、「○○さんの奥さん」で
はなく、「□□さん」と個人として名を呼ばれたくなるのは分かります。でも、別
姓を名乗ったからといって、「○○さんの奥さん」から脱皮出来るのだとする考え
は、あまりにも短絡的でしょう。周りの人が「○○さんの奥さん」と呼ぶのは、名
前がないからではなく、社会的な位置づけが「奥さん」だからです。「□□」と名
乗ったところで、「□□さんって誰?ああ、○○さんの奥さんのことね」と言われ
るのがオチではないでしょうか。
 改姓手続きの煩わしさから、別姓を主張する人もいます。金融機関や役所に届け
出をしたり、知人に連絡をしたり、名刺を作り直したりすることは、確かに煩わし
いものです。しかし、だからといって別姓を求める必要もないはずです。手続きを
煩わしくないようにすればいいだけのことですから。戸籍を証明する必要がある場
合の他は、通称名を使用できるようにすればいいのです。手続きの煩わしさを根拠
に別姓を主張する人は、議論の矛先を、通称名使用に向けるべきではないでしょう
か。また、煩わしさから解放された、結婚後の生活の長い人に対しては、この主張
はあまり意味をなしません。
 別姓を主張する最大の理由は、結婚によってほとんど全ての女性の姓が変わるこ
とによって、女性の人生が分断されてしまうことにあるといえるでしょう。産まれ
てからずっと呼ばれてきた、いわばアイデンティティとしての姓が変わることは、
たとえ戸籍上の問題だとはいえ、どこかしら割り切れないものが残るのです。その
解決手段として、別姓を望むわけですね。ただし、ここにも問題があるのです。現
在女性が持っている姓は、ほとんどの場合、父親の姓です。母親の姓は結婚によっ
て、父親の(母親にとっては夫の)姓に変わっています。女性が旧姓を名乗り続け
るということは、父親の姓を名乗り続けるということであり、結果として、前の世
代(親の世代)の家父長制を強化することになってしまうのです。
 今度は子供のことを考えてみましょう。夫婦はお互いに別姓を選んだとしても、
子供にはどちらかの姓を名乗らせなければなりません。父親の姓を名乗らせるとし
ましょうか。すると、先ほどと同じく、家父長制を強化する結果になりかねないの
です。では、母親の姓ではどうでしょうか。ここには、母性主義という問題が出て
きます。家父長制にしろ母性主義にしろ、フェミニズムはどちらも問題にしていま
すよね。では、出生時に仮にどちらかの姓をつけておいて、成人となった時に本人
に選ばせるというのはどうでしょう。これなら、子供の自主性を尊重しているよう
にも思えます。しかし、ここにも問題があります。まず、親の名前を選ぶという残
酷な行為を、子供にさせるべきかどうかということ。そして、別姓問題はそもそも
、生まれた時から呼ばれてきた名前を変えたくないという主張から生まれたことを
、無視しているということです。
 少し長く男女別姓問題についての問題点を述べてきましたが、上記からも分かる
通り、同じ別姓論者でも主張が全く違っています。問題点も数多くあります。それ
ぞれについての議論も不十分です。にもかかわらず、主張や目指すものが違ってい
るのに、当面の目標として同じ男女別姓運動に賛同し、フェミニストは連帯してし
まう。理念が同じだからと言って、理論的欠陥を放置しておいてよいのでしょうか
。ここに、フェミニズムが孕む、価値判断と理論の渾然一体性という問題を見るこ
とが出来ると思います。主張が違うにも関わらず、理念の下に集結し、当面の目標
にのみに照準して運動を進めると、それぞれの主張についての議論が甘くなり、手
段と目的の取り違えが起こる危険性があります。
 個人的には私も、別姓の制度が早く施行されてほしいと思っています。私も姓の
問題では、相当「苦労」してきたクチだからです。だからといって、制度の施行を
急ぐあまりに議論が疎かになるのはいただけません。別姓問題についても、論じて
おくべき事柄が沢山あります。議論の厚みがないところに制度をもってきても、女
性は選べない事態に陥ると思うのです。選択に際しての資料が少ないと、つまり思
考材料が少ないと、自分の選択に対して自信がもてなくなる。安心できる価値観に
寄りかかりたくなる。結果、責任のとれないような選択をしてしまうんですね。

 フェミニズムには、男女平等とか、女性解放といった理念が根底にありますよね
。では、どういう社会が平等な社会なのか、女性が解放されるとはどういうことな
のかというと、フェミニズムの中でも、それぞれ考え方が違っていたりする。明治
の時代から現代に至るまで、同じような議論がなされている割には、結論って出て
ないんですよ。
 フェミニズムの理論的な分野で論争が起こっている間にも、つまり方向性が定ま
らず平等という言葉だけがふわふわ浮いている間にも、実践面ではどんどん進行し
ている。すると、理論と実践との乖離が起こってしまうんですね。確かに、フェミ
ニズム運動によって、多くの女性が目を覚まし行動に移っていったのは事実だし、
社会変動を起こした面もあったと思いますが、方向性を失った運動が一人歩きして
、「フェミニズム」を人々に印象づけてしまった面もあるでしょう。それは決して
、プラスにのみ作用したわけではありません。
 フェミニズムに傾倒していた時期(というよりフェミニズムの運動に、革命戦士
の如き使命感と快感を感じていた時期、かな)を経て今の私は、マックス・ウエー
バーの言う価値自由という態度を、フェミニズムも採るべきだと思うようになって
います。背後にある価値判断と学問的分析を、一緒にしないということですね。た
とえ自分の主観や思い入れから出発したとしても、理論は別物として考えるべきで
ある、と。フェミニズムの渾然一体性を解体すること。たとえそれが魅力的であっ
たとしてもです。さもないと、「〜すべきである」という主義主張を述べるに止ま
ってしまう危険性がある。それは究極的には教義となり、宗教に近くなるように思
います。
 フェミニズムは多くの場合、男性によるフェミニズムを認めていません。女性に
よる女性解放の理念が根底にあるからです。でも、最近私は思うのです。フェミニ
ズムが男性を閉め出し、女性だけで集まって何かをするということは、結局のとこ
ろ、同じ傷をもつもの同士傷を舐めあっているにすぎないと言えるのではないか、
と。男性のフェミニストを認めず、「男らしさ」を解体しようとする男性が門を叩
いても決して入れようとはしない。ジェンダー論とフェミニズムの差を強調し、フ
ェミニズムの意義を守ろうとする。これは、実践面のみならず、理論研究にも言え
ます。この頑なさは一体何なんでしょう。まさか、アカデミズムの大部分が男性に
よって占められているから、せめてフェミニズムは女性の受け入れ口として確保し
ておきましょうなんて魂胆じゃないでしょうね。

 よくもまあ好き勝手なことを書いてくれたものよと、お怒りのフェミニストの顔
が見えるようです。私自身の不勉強による理解不足については、批判を甘んじて受
けます。ただ、最後にこれだけは言っておきたい。私自身フェミニズムの功績に多
くを負ってきたし、フェミニズムの意義を評価しています。かといって、フェミニ
ズムに留まり続けることが最良だとは思わない。私たちはフェミニズムを評価しつ
つも、フェミニズムを批判することでより高みを目指すべきだと思うのです。それ
は、フェミニズムが変わっていくことかもしれないし、フェミニズムからの離脱を
意味するかもしれない。いずれにせよ、フェミニズムの中に風は吹いた方がいいと
思うんです。淀んだ空気は身体に悪いですから。