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密教福祉研究会編『密教福祉』第2巻 2002年3月 243〜275頁
脳死・臓器移植の現在と現代教学への課題
北 原 裕 全
 

1. はじめに ―移植問題略史―
2. 脳死移植問題の現在 ―町野と森岡の議論―
3. 「脳死は人の死か」という問いについて
4. 現代教学へ持ち返される課題
5. 個人的意見として ―福祉宗教へ―
 
 

はじめに ―移植問題略史―

 平成9年(1997年)10月16日に施行された「臓器の移植に関する法律」(臓器移植法)は施行後三年を目途として見直す附則を付している。附則第二条第一項は、法の運用状況を勘案しながら全般について検討し、必要な措置を講ずる、とするもので、これを法的根拠として改正へ向けた動きが活発化している。これまで十二例ほどの脳死からの移植がこの法のもとに実施されたが、本人の意思表示を必須の要件とする現行法は十五歳未満の子どもの移植を実質上不可能にするもので、移植を必要とする已むに已まれない子どもの患者は海外へ渡航して移植をうける以外になく、これが倫理的にも費用の面でも最大の問題となっている。また、当初から予想されていたドナー不足についてもどう解消すべきかが問題となっている。
 脳死・臓器移植問題は1980年代にはいって我が国でも関心を高めていった。85年には国の脳死判定基準(竹内基準)が決められるなど、80年代後半からは国政レベルで本格的に対処する動きを見せている。88年には日本医師会(生命倫理懇談会 加藤一郎座長)が脳死を人間の死と認める最終報告を出し、自民党では「脳死・生命倫理・臓器移植調査会」を発足させた。同年6月には医師会ならびに自民党は欧米など海外の移植医療の状況を調べるために調査団を派遣している。またその11月には法務、厚生の両省からも国民合意を前提として脳死からの臓器移植立法を支持する公式見解が出された。こうした動きを受けて平成2年(1990年)に各界に委員を委嘱した「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)が総理府に設置され、全国公聴会・アンケート調査などを重視しながら二年間にわたって議論(非公開)を重ねることとなった。脳死臨調は脳死からの移植に関してはおおむねこれを認めながらも、脳死が人の死かどうかの問題をめぐっては最後まで委員の間で意見の一致をみず、最終答申では、賛成を多数意見主流として記す一方で少数ながらも強固な反対意見(哲学者(梅原猛)、弁護士(原秀男))をも併記した、政府の調査会としては異例の答申をとりまとめた(平成4年1月22日答申)。その後も五年半の間、移植のための法制化がなされるまで、医療現場では交通事故などによる脳死者の検視をめぐって警察司法当局と医療側との間で緊張関係がつづくといった問題、また法制化へむけて議論を引き継いだ政策実務者レベルの各党協議会や国会における議論が集約しきれないといった事情、その上当時の政局の混迷も手伝って審議未了のまま廃案を繰り返すといった曲折を経ながら、脳死臨調発足から数えて七年半の議論を経て漸く日本の臓器移植法は成立した。
 法の施行から現在(2001年6月時点)まで運用期間は三年半を経過した。これまで行われた脳死体からの移植は十二例ほどにすぎず(内二名が死亡した)、心臓移植だけでも年間に二千件(1999年)を超える施術がある欧米にくらべ、「ドナーはまだまだ少ない」というのが患者団体をはじめ、政府・国会にも共通した認識である。脳死判定マニュアルの不備や移植コーディネーター制度などにかかる移植医療体制上の問題点もまだまだ指摘される上、ドナーの絶対的不足、そして子どもの移植をどうするかという本質的な問題、他方ではゆきすぎた移植報道のあり方も問われるなど、まだまだ脳死移植に対する社会的な認知度は高いとはいえず、移植医療は日本に定着したと言うにはほど遠い状況にある。
 そんな中、政府サイドでは法改正へ向けた条件整備をすすめてきていた。厚生省は2000年3月に「小児における脳死判定基準に関する研究班」(竹内一夫班長)によって小児の脳死判定基準<注1>が策定され、その五か月後の8月には「臓器移植法の法的事項に関する研究班」の町野朔(上智大学教授、法学)が法的事項に関する研究をおこない、現行法改正のあり方への提言をふくめた成果をまとめた(町野「臓器移植法の法的事項に関する研究」)。町野による改正への提言に対し、森岡正博(大阪府立大教授、生命学)が強硬な反対意見を提出し、かれはその支持者らをも巻き込んで盛んな国民的議論を喚起している。こんにちこの問題をめぐっては論文の類から一方的な意見陳述にいたるまでさまざまな情報が溢れている。そんな中で町野―森岡の議論は移植法改正を見据えた議論の中心にあり、法改正に直接関わりうるもっとも実質的な議論となっている。
 脳死と移植の問題は、決して他人事ではなく常にドナーになりうる我われ自身の問題でもあり、自他の関わり合ういのち・生命の救済のあり方を問うものであるだけに、根元的かつ最終的な価値観が問われることになる。ここでは町野対森岡の議論をてがかりとして現在の脳死移植問題について確認し、合わせて仏教者(実践者)が今後検討すべき現代的課題はないか、これを洗い出す作業を試みるものである。
 
 

脳死移植問題の現在 ―町野と森岡の議論―

 町野が提出した改正案は、現行法の基礎となっている〈書面による本人の提供の意思表示〉という枠組みをはずし、意思が不明な場合には遺族の承諾のみで移植を可能にする条件にゆるめて、子どもの移植とドナーの確保とを図ろうとするものである。この町野案に対して森岡は真っ向から反対する。森岡は、あくまで〈本人の意思表示〉の原則を堅持しつつ、子どもの移植を可能にする道を探るべきだとして、自らも改正案を提示して論争している。
 〈本人の意思表示原則〉は、脳死臨調における議論から国会における法案策定にいたるまで、脳死をめぐって賛否たがいに譲らない論議の結果として編み込まれたもので、提供者による善意の意思を尊重しながら、同時に脳死移植に反対する者の人権をも保護するという目的をもっている。しかし一方では、書面による意思表示にはそれにいたる善意の積極性が求められるだけに、提供者の量的不足を招かざるをえないという憾みがある。さらに子どもに関しては自己決定能力の未成熟さからその意思表示の有効性に制限を設けざるを得ないため、実質子どもの移植を不可能にしてしまうという点で、移植推進派にとっては重い足かせとなるものである。町野案の眼目はこれをはずそうとするもので、これに反対する森岡は、この原則を無視することは脳死または臓器移植に反対する人、あるいは現在迷っていて意思表示しないでいる人に対する〈生命の尊厳〉(後に森岡は「脳死を経て死にゆく者の人間の尊厳」と改めた)ならびに〈死の自己決定権〉への侵害であると主張する。町野は、これは人間観の相違であるとし、反対者の意思表示があればそれは尊重されてしかるべきで、したがって臓器摘出はおこなわないとしながら、諸外国のケース、また旧角腎法(角膜及び腎臓の移植に関する法律)では、遺族の承諾のみであったことを例に引きながら、「問題は日本の法がいかなる人間像を前提にするか」であり、そこで日本の法が前提とすべき人間像は次のようなものであるとして言う、「(日本人は)積極的に臓器提供の意思表示をしていない以上は、死後にも臓器を提供しないで、それを墓の中にまで持っていくつもりなのだとみる」べきものではなく、「およそ人間は、見も知らない他人に対しても善意を示す資質を持っていることを前提にするなら、たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している」という前提に立つべきであると(町野「法的事項に関する研究」)。したがって「我々(人間)は、死後の臓器提供へと自己決定している存在である」とまで断言する。
 法的事項に関する両者の議論の争点は、〈本人の意思表示〉の原則をどうするかという問題、そしてその際に「無言の意思」というものをイエスかノーかで推定する法的根拠はどこにあるのか、といったことにあると言える。
 こうした町野―森岡の議論の根本には、移植の前提となる「脳死」についての見方の違いがある。町野は現行法の脳死の位置づけについて、それが重大な倫理的問題を生じさせたと言う。かれは「移植を目的として法的に脳死判定がなされたときにだけ、脳死が存在するかのような文言を用いる現行法は、臓器移植の目的の存在によって脳死を人の死としてしまった」、そしてそのことによって、法的脳死判定ではない、臨床的脳死判定がなされたときには脳死は存在しないのかといった疑問を湧かせ、臓器を摘出する医師に対しては、「一体これは死体なのか、それとも、自分たちは、本当は生きている人を、このように殺してしまうことが許されているに過ぎないのか」という倫理的ディレンマを感じさせるものとなっていると指摘する。これを「死の相対化」による問題、または「二つの死」の問題と言う。町野は現行法が脳死を一律に人の死とみなさないことに対する疑義を表明したのである。町野にとっては、当初、中山原案もめざしていた「脳死=人の死」を一律に認めることによって、この倫理問題は解消できると考えたのであり、それのみならず、そのことによって本人の意思表示原則をはずす道をとることも可能となり、森岡案のように現行法の枠組みを守りながら子どもの移植については特則を設ける、というような込み入った法律ではなく、包括的な移植法が可能になると考えていることが窺える。これに対して森岡は、脳死を移植にのみ限定した現行法の考え方に賛成し、もし、脳死を認めない人に対してこれを一律に死とみなしてその人から臓器を摘出したならば、生命の尊厳の侵害がおこる、と反論する。町野は「人は判定のあるなしによって死んだり生きたりはしない。死には実体がある。そして、これが死でなければ、この法律は憲法違反だ」と迫った(町野・森岡「イエスかノーか」)。森岡はこの後に、生きているというニュアンスの強い「生命の尊厳」という表現を「脳死を経て死にゆく者の人間の尊厳」と改めた。脳死を、生きているとは言わない(―脳死移植を認める以上、生と言うことはできない―)が、「死」ともスッキリ言い切れないでいる(―死と認めると意思表示のない臓器摘出を反対する理由が弱くなる―)森岡の苦渋が窺われる。見方によっては、この対論を通じて森岡は通常の概念の枠を越えてより実体に近い脳死者の表現へとおちついたのだとも言えよう。実際、森岡はこうした経緯に前後して、ラザロ徴候という脳死者に現れる衝撃的な自発的身体運動(これは無呼吸テストの時に現れるもので、脳死者は腕を上げ、胸元で合わせるようにして祈るような姿勢をとるなどする。時に足を上げることもある)についての医学論文や、アメリカの研究者によって最近調査された、長期間にわたる脳死者の生存記録(最長は十四年五か月)に関する論文を紹介して、「脳死は長引くほど、残る臓器間で連携し身体の統合性を保つという。…これは一言で死と片づけられないものである」との見方を強調している(森岡「日本の移植法は世界の最先端」)。この討論の成敗はにわかには決められない。ただ、こうした両者のやりとりの中に現時点で生死の問題を法的に扱うことの難しさが現れていることは間違いない。言い換えると、従来(現在)の法体系が前提とする生死の考え方、つまり生か死かをある一線において求める考え方のもとではここに一つの限界点があるということである。脳死を一律に死とみなさなければ、合法的な殺人という懸念をのぞけない。逆に、一律に死とみなせば、脳死を認めない人に対する人権侵害の虞が生じる。この綱引き的議論を破ろうとして町野が発言した「死には実体がある」という言葉は、現在の法体系が死に関して暗黙に前提にしている見方を示したものだろう。しかしこの見方は絶対的に正しいと言っていいものだろうか。これについて、ひきつづき次節で宗教的な観点から検討することにしたい。果たしてこの点には異論を差しはさむ余地があろう。これまでも日本では「脳死を人の死」とは見ない立場で脳死からの移植立法をはかる「違法性阻却論」の考え方が法案策定の段階からたいへん根強く存在していたし、最近ではこの法理が、移植大国アメリカやドイツなどにおいても台頭してきた脳死否定論の法的なバックボーンとして正当な議論の俎上にのぼっている(中川「アメリカ・ドイツにおける脳死否定論」)。こんにちの改正論の場でも、尊厳死の要素を組み入れながら社会的に妥当しうる違法性阻却論を試みる案(てるてる案)が出されたり、海外でも、一種タブー視されててきた「死の選択権」を容認する雰囲気が現れたりするなど<注2>、立法当時よりいっそう生死の境界についての議論は法レベルにおいても柔軟なものとなってきているという印象を受ける。
 
 

「脳死は人の死か」という問いについて

 現在の脳死移植問題の核は上にみたものである。そして両者の意見の相異を生み出す大元には、移植問題を考える上で常套的疑問となった「脳死は人の死か」についての見解の相異がある。それは「二つの死」の問題にも根は通じている。そこで「脳死は人の死か」についてあらためて考えてみる必要が感じられる。そして我われはこれを宗教の観点から、とりわけ仏教の視点でみたとき、知見をもたらすことはできるだろうか。
 脳死の問題を最初に本格的に議論した臨調の最終答申では、アンケート調査などによりながら「脳死を人の死と認める社会的合意はほぼえられた」と結論づけた。あたかも脳死は決着したかのような文言がこめられたが、それから八年以上が経過し、法も施行された現在でも、森岡の指摘のように、脳死に反対する意見は社会には常に30%前後の割合で存在していて、海外の調査でもこの数字はほぼ変わらないとされる<注3>。一方、こうした賛否の分かれる議論を重ねて成立をみた移植法そのものも脳死を人の死と認めた格好にはなっているが、これも少し注意してみれば、条件付きの脳死論であることが分かる。法第六条第一項には「死体」について括弧つきで「(脳死した者の身体を含む)」と明記し(中山原案では「脳死体を含む」と表現)、一応、脳死は人の死とする前提の上に立って編まれたものである。しかし、現行法は移植に賛成する本人の意思表示があった場合のみに脳死を制限するものであって、一律に「脳死を人の死」と認めたものではないのである。このことは、つづく第二項で「脳死した者の身体」について規定して、「移植に使用される臓器が摘出されることになる者であって」という限定辞(中山原案にはなかった)を付していることから明らかである。脳死は移植の場合のみに限ったのである。行政側もこの点を正確に認識している<注4>。結果として人の死というものに通常の心臓死と移植の際の脳死とがあることになってしまい、あたかも死のダブル・スタンダードとして存在してしまうこととなった。脳死移植推進派などはこれを「二つの死」の存在といって問題視することは先述した通りである<注5>。脳死問題は、臓器移植法が現在のかたちで成立をみるにいたったものの、根元的にすっきりと解決されたものではなかった。
 そもそも「脳死は人の死か」をめぐっては臨調でも意見は最後まで分かれたままであった。法案を策定する国会の議論においても同じことは繰り返されていた。平成6年(1994年)にはじめて国会に提出された中山原案(旧中山案)では脳死を心臓死とならんで一律に人の死と規定することをめざした。しかし、これが衆院の解散にともない廃案となった後に再提出(平成8年)された際、脳死を人の死と認めない立場からの対案(金田案)と対決することになる。金田案は、死んだとは認めていない人からヴァイタルな臓器を摘出する行為を容認するもので、刑法とのからみで殺人罪の虞をはらむが、正当な医療行為としてみた場合には違法性はないと考える違法性阻却論にもとづいている。このとき中山案はこれを退けて衆院を通過したものの、参議院において再び、脳死を人の死と認めない立場からの対案(猪熊案)が提出されることとなる。反対意見は法案策定の段階でもかくも根強いものがあったのである。こうした中、患者団体からは早期立法の請願がくりかえされ、立法化を急ぐ国会としても妥協点をさぐる必要が生じ、反対派の意見を汲む方向で修正をほどこして、脳死は人の死と認めながらもそれは移植の場合にのみにかぎることとした。限定的脳死論とも言うべき日本の法定脳死論は、こうして政治力学が働いた結果、現行法に組み込まれたのである。問題が原理的に解消しきれない以上は、民主制議会という間主観において意思決定がなされていく場で折衷論をとらざるをえないのは必然のことであろう。
 では、脳死は人の死なのであろうか。問題の糸口はやはりここにある。「脳死は人の死か」を考えるために簡単な図を作成してみた(図1)。この問いについて考えてみると、実はこの問い自体が注意を要する性格のものであることに気付く。というのは、これに答えるために必要な、脳死の医科学的な解明を一層進めていくことのみならず、述語にあたる「人」「死」といった概念の内容が実は明快ではないからである。まず「人」とは何であるかについて考えてみよう。
 問題をシンプルにするためにひとまずは臓器移植と切り離して考えることにしたい<注6>。結論から言うと、宗教的な観点からすると脳死をもって「人の死」と言うことはできない。以下に簡単に論証をおこなってみよう。
 まず、「人」とは知識としても確定された存在ではない。我われ人間は科学や哲学、歴史などさまざまな視点から人を探求し続け、分からないものとして研究対象にしてきている。その結果、多くの学識が蓄積されているが、いまだ知識としては決して一義的には括れないのである。さまざまなパースペクティヴから見たさまざまな「人」像が存在し、実際にはそれらが一個の実在の上に重層的かつ複合相関して存在し、現実に生きる人はその割り切れない全体としてあるものだ。
 人の生は身体的生理的なものであるにとどまらず、社会的文化的な存在でもある。多様な面が重層的にあり、それらが有機的に絡み合いながらある。どの局面においても「人」はそこに生命をもってはたらき、生きていると言うことができる。さらには、身体的生が終息した後も存続する霊魂としての生命(狭義には、根元的な生命としてあるこれを「いのち」と言いたい)が存在し、これが個の生の基底を形成する。霊魂の存在については日本の仏教界でも宗派ごとに意見はあるであろうが、真言宗ではこの存在を認める。これらすべての生が融け合い、しかも周囲の環境世界とさえも相依相関しあって人は生存するのである。ならば究極には「人の死」とはこうしたすべての存在・生が消滅し機能しなくなったときと言わざるをえないのではないか。
 具体的にいうと、植物状態の人は大脳死に分類されるが、人間的な情緒・理性は失われていても、やはり人として生きてきた人に他ならないし、そして生命維持機能(自律性と自己保存性<注7>)を保って生存している。無脳児は身体的・生理的な存在にすぎないと言われるかも知れないが、ヒトの子として生まれ、産後わずかな時間ながらも生きるのである。たとえ脳が脳幹を含む全脳の不可逆的機能喪失にいたっても、身体部分には臓器や組織などは生きていて、妊婦ならば子どもを出産する<注8>。その子は死んだ母親から生まれたと言いきることはできない。社会活動の局面ではどうだろうか。人は身体が現前する、しないにかかわらず、他者に対して生きた影響力を与えることがある。まさに身はたとえ大和の野辺に朽ちるとも、その精神は汲みつがれ、その意味で社会的に生き続けることはあるのである。さらに、宗教的な立場は身体の死後も霊魂は生き続けることを教えるのである。そうなると「人の死」などというものが絶対的にどこだということは全く言えなくなるのである(霊魂が肉体から遊離する時点がどこかを宗教的な「人の死」として問われるのであれば、教義的には明確な答えは出ない。この点で明確な回答を出しているのは大本教である。大本教は、体温がある間霊魂は分離していない、したがって「人の死」ではないとする)。これを時間の経過に沿って置きなおしたのが図2である。


 

 このように人の生が重層的にあるということをみれば、その死というものも本来、局点(ポイント)としてあるのではなく、連合したプロセスとみるべきものであることがわかる。死は実体的にはプロセスであるということは生物学系の学者たちも認めるところである<注9>。
 では、心臓死(三徴候死〔呼吸停止・心拍停止・瞳孔散大〕)は人の死ではないのか、そしてそれは局点ではないか、という反論がおこりうるだろう。しかしその反論は、当事者の死(「一人称の死」)と、これを看取る側が直感的に感じ取る「死」(「二人称の死」)とを混同した結果であることを考慮せねばならない。「死の点」は看取る側の主観が死に行くプロセスにある者の上に投影されたものなのである。実際のところ当事者の死はその重層的生が順次に消失していくプロセスとしてある。とすれば、看取る側の「死」とはあくまで主観的な認定とみるべきである(池田の言葉では「社会的なみなし」)。真実のありようを見極めようとする仏教の批判的精神からみても、これまで世間一般で考えられてきた死の局点的な見方というものは、心臓死にせよ脳死にせよ、総じてそれは実体的プロセスの上に線引きされた世間的「分別」(生の欲望に連動した「思い計らい」。それは無始以来繰り返されて習い性となり、ことばとして現れる)にほかならないと見るであろう。したがって脳死をもって一律に人の死とすることもまた人による分別に他ならないと知るべきで、それは客観的真実としては認められない。それは仏教にいう「実相」(断絶なく融合して転変する事象の真の姿)に対して「分別」をおこす(ことばに従って認識対象を固定的に捉え、世界を分節する)ことなのである。
 これまで心臓停止は、多数の人がそこに「死」を感じ取ってきた、絶対視された死の時点(ポイント)であった。その認識は自然発生的で、しかも大多数の人に共通したものであったがために、あたかも「人の死」がある局点において客観的に成立するかのような無批判な先入見(前提)を無意識に人々に形成してしまったのである。局点的な死はこのような認識論的背景をもつ。それはこれまで問題なく社会的に機能してきた分岐点であったろう。しかしあらためてよく検討してみると起源的にはナイーブなものである。いま脳死問題を根源から考えようとすれば、どうしてもこの無批判な前提を過保護にしておくことはできない。この辺の意識の再検討にこそ脳死問題の新しい地平を開く糸口がある。局点的な死は客観にあるのでなく、主観の側にある。したがって真の意味で綱引き論を乗りこえようとするなら、「死」というものを暗黙にポイントとして実体視し、その前提に立って「人の死」を脳死に移そうとする町野の死観は改められねばならない。
 ところで、実体的にはプロセスだとしても、人間社会としてはどこかの時点をもって「死」と決めておかないと社会生活を営む上ではさまざまな問題が生じる。そこで、死のプロセスの上に「死の時点」を決めておかねばならない。ならば事の問い方は、「生死の分岐点」を取り決める上でそれが問題を生じさせない、社会的に受容できる、妥当な「点」であるかどうか、ということになる。そこで再び問題は脳死が社会的に認知をえられるものかどうかに戻ってくる。
 一方、他人の臓器を移植するということについては宗教的にみて何ら問題はないのだろうか。これに対する真言宗(高野山真言宗)としての公式な見解はまだないが、われらが拠り所とする弘法大師の教えに照らしてみれば、これも否定的にならざるをえない。ある宗学者によると、弘法大師は自然主義的な生命の連携のあり方を理想とされたのであり、これに照らしてみるなら、拒絶反応をまぬかれない移植ということについても反対する、という意見がある(村上「お大師様と臓器移植」)。私たちの宗教的立場が脳死臓器移植に関してこのような回答を用意するとすれば、翻って、現代の脳死臓器移植問題が宗教の側へと投げかける課題はないのだろうか。次節では仏教者が検討すべき三つのことを教学的な課題として提示したい。
 
 

現代教学へ持ち返される課題

 現代の先進文明が持つ原理的な価値基準は、効率性、利便性、そして快適性といったところにあるといえる。これを基盤から支えた科学実証主義というものは、これに信をおく人々から死後の存在を消滅させていき、直接に知覚される身体的生へと自己の存在を制約していった。こうした文明の雰囲気の中で、人々が生命の座として身体にのみ生命を見るようになってきたように思われる。その価値が絶対化していく時代潮流において、ひとえに身体的快楽と延命とを望んで生きることこそが信じられる生き方だとする人生観が肥大化していった、ということが脳死移植問題の背後にはあると思われる。なお、そうした現代文明の価値観に一方ならぬ努力が注がれた結果として、高度に進歩した健康科学・医療医学という恩恵もあるわけだが、皮肉なのは、その非常な発達が他者の生との間で相克を生みだし、これまでなかった新種の人間的葛藤を生み出していることである。かつては病苦死苦などというものは、どうにもならぬこととして諦観し受容することが宗教的な救いであった。ところが、現在それは科学技術によって「どうにかできる」という方向に進んでいく中で、自らの生きる欲望の何たるかを、どの際限でわきまえるかにおいて苦しむのである。そのとき、社会では倫理を問うことによって解決を図るわけであるが、それが肉体にかたよった生命観の上に生じている苦であるからには、「いのち」への深い見方をもつはずの宗教が、既成の価値観に対してバランスをとらせる「いのち」の価値観を提示する、そういう社会的役割を担いうるのではないかと考えられる。これを一つ目の課題として挙げたい。
 次に。高野山真言宗において現在使われている『仏前勤行次第』(壇信徒用)の三信条には「自他のいのちを生かすべし」と謳っている(第三条)。また社会の方でも〈生命の尊厳〉という理念をもっている。「尊厳」とは対価のない絶対的価値を示すものである。自の生命と他の生命との間の価値相対を排除する。近現代の個の生存権はこの原則にもとづいて保障されてきた。そして、そこに発する個人の権利拡大が、今にいたるまでさまざまな反社会的束縛から人間を解放してきたこともまた事実である。ところが時代は新しい領域に入った。科学技術の発達にともなって人智を超えた聖域であった生命でさえも人為操作が可能となった。ヒトの受精胚から医療分野において利用価値の高い〈ヒトES細胞〉を取り出すことが行われだし、脳死状態も出現するなど、人の生死の境界は揺らぎ、そこに多元的な基準をいれうる時代にはいった。いきおい生死の境は自然的で絶対的なものだとは考えられなくなりつつある。そのことの意味が社会の人々に広く認知されたとき、「自分が生き、生活する」とは実は他者の死後にそれをいのちのない単なるモノとして恣に取りあげる、というあり方ではなくて、いわば常に何らかの「他の生をいただくこと、また自らの生を与えること、その不可分なつながりである」との理解が実感をともなって生じてくることになるのではないか。脳死移植の問題が明かした深い「いのち」の意味は、他でもないまさにそのことであろうと私は思うのである。その証拠に、移植推進運動は「命のリレー」をスローガンにするではないか。脳死から臓器の移植を受けるにしてもできるだけ活きのいい臓器が欲しいと思うのが偽らざる本音ではないか。生から生へ、である。何であれ死(無生命)から生へ、はない。気休めに「人の死」の線引きをどこに措くかは別にして、患者側もその意味合いの深さを認めるべきである。古い社会的条件のもとに形成された生存権の概念を盾にとって事後は素知らぬ振りというわけにはいかなくなっている。それほどにこの問題は既成の生存と死去の境界をゆるがし、今こそ抜本的な考え直しを余儀なくしている。するとそこには、単に自己の生を自立的なものとみてナイーブな生命謳歌にひたるというような一方的な安心は見いだされなくなる。「いのち」をスローガンにおく諸宗教もその点を顧慮しなくてはいけない。思い返せば、かつて仏教界がこぞって、移植を受けたいとする者に「頂いたいのちに感謝の念を」と説いたとき、そこに権利意識にもとづいた個の無制限な生命謳歌ではない、いのちを生きる陰で負うべき〈負い目〉というものの意味を認めたのである。出世間にのみ留まるのならともかく、社会に向けて「いのち」を説くとき、そうした〈負い目〉(欲望、罪悪感、感謝、報恩など)<注10>というものの価値を正当に再評価しておく必要があるだろう。罪の意識も、感謝の念も、宗教的情操の源泉にある。念仏者が「お陰さま」を云うのも、世間の智慧が「お互い様」と云わせるのも、価値交換の割り切れないところに積極的意義を見いだしているからだ。これが第二の課題である。
 最後に。脳死問題ならびに臓器移植に対する日本仏教界の反応は概ね否定的なものであった。なかには賛成論(中野東禅師、北塔光昇師など)もなかったわけではないが、真宗大谷派、浄土真宗、天台宗は激しい反対の意見、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗、立正佼成会は提言を含んだ慎重な意見、創価学会のみは肯定的、というものであった。そもそも仏教的な救済は自然な諦念の中にこそ求められるのかもしれない。さりとて、仏縁もなく、気がつけば病に冒されて死を宣告され、「では、」とにわかに諦めの境地に至ることもできない世間の大多数の人々に対して、大乗を謳う仏教は何の方便も示さないものであろうか。大所高所から結論(分別された「智慧」)を振りかざすだけで、慈悲をもってはたらく方便(生きた智慧の実践)なぞ、そもそも仏教にはないものなのか。それともそれは、ただ救済の具体的な方途を文献からは直接見いだしがたいから言いにくいだけだ、ということなのだろうか。宗教の理想は高邁である。それを頭ごなしに振りかざすだけだとしたら、あるいは、「どうこうしようと決定主体の責任」、「因果応報だ」として匙をなげるだけだとしたら、いきおい患者の方々は辛い選択をつきつけられただけのお気の毒な心境であろう。当人の切実な苦しみは測りがたいのである。
 事を直視するために僧職、教師としてはこう考えてみるべきだろう、――移植によってしか助からない病気に自分の子が罹ったと、または、同じ病の子を持つ親から何とか助けたいと苦悶する悩みを相談されたと。そのとき、わが子やその親を前にして一体どう反対論を展開するのか。隣家の子らは親が募金のために街頭に立ち、アメリカ、オーストラリアに連れて行こうと必死なのに、「ぼくは親に愛されているのかな。」と子は思わないだろうか。『大乗涅槃経』には「如来の一切衆生を観ること猶し一子の如し」ということが繰り返し説かれている。こうした大乗本来の精神をどのように汲み取るべきか。時代へ顔を向けた教団の教学がこの問いに真摯な答えを持ちえていないとすれば、今すぐに考えなくてはならないことである。最終的な理想をもちながらも、それを振りかざすことではなく、その途上において示すべき実践の方便についてである。これが三つ目の課題である。
 現代の脳死移植の問題が宗教者の側に提起したと思われる、仏教者が検討すべき課題を三つ挙げてみた。問題はいのちの根幹にかかわるもので、その苦しみは「スピリチュアルな(魂・精神に関わる)痛み」(Spiritual Pain)となる。その解答は書物から導き出して安心を与える性格のものでないとすれば、その他の方途にこそ努力をふり向けて検討すべき現代の教学的な課題として持ち返されることになる。臨床の場において「いのち」をめぐる痛みを治癒する宗教とならねば、困難な問題を抱えた現代において生きる宗教としての社会的生命もまた失われていくのではないか、と素朴な危惧をいだくのである。

 課 題
 一、長生(肉体)のみに偏らない「いのち」の価値観を、社会へ納得できる形で提供する必要性。(肉体主義にかわる価値観)
 一、いのちの尊厳――絶対論と相対論をのりこえる途を。(ナイーブな生命謳歌にとどまらず、〈負い目〉を正当に再評価)
 一、移植問題において露見したように、現代社会において多数意見が規定する社会的分別(一般論)の恩恵からこぼれ落ちてしまう者たちが常にある。そこにこそ生きた宗教は救済のあり方を示すべきである。さしのべる方便のあり方はどのようなものか。(「ともに生きる」という実践のあり方)
 
 

個人的意見として ―福祉宗教へ―

 筆者を含め庶民にとっては普段の生活をしているかぎり、脳死も臓器移植もともに縁遠いものである。ともすると実感の乏しい中で問題をただ論理にしたがってのみ処理しかねない。
 ところが、ひとたびインターネット上に目を転じてみると、病魔の手に掛かった生の声が堰きをきってあふれてくる。推進団体に耳を貸せば、自分の死を前にしてこの瞬間にも苦渋し、反対論に忍従し、生きたいという切実な願いを患者たちは訴えかけてくる。瀕死の境から臓器の提供を受けてともかくも「生還」し、そこに与えられたささやかな生の喜びを感謝している人の絵や文章を目にすると、いかに脳死・臓器移植について調べあれこれ考えた末に否定的な見解が導かれたとしても、純粋に「よかったなあ」と思い、しかしまた他方へ眼を転じて、反対者の意見とか情報、医療不信の根となる事件について知れば、「やはり無理もあるのだな」と思わせられる。いずれの立場に組みしても現実的な利害の緊張をさけられない綱引き的な問題に対しては、普遍妥当する円満な一般論とか、ことばの上でのきれいな線引き(分別)とかはありえない。
 この問題について調べを進め、人と話をする機会をもつと必ず最後には「それでお前の意見はどうなのだ」と聞かれた。ことを自分のケースとして考え、そこまで責任をもった意見にまで深めないと、本当の意味で人は聞く耳を持たないのかも知れない。答えは賛否の間を揺れ動き、他人事のような是非論はできないことを悟った。この問題に対して当事者的経験からは強硬な意見を持つことのないわたしとしては(大多数の人もそうだろうが)、いずれの立場も全く「ごもっとも」だったのである。心情的に反対にも賛成にもなりかねないのだから、収まりが悪い。ただ、賛否の表明というものは自分の意思表示ともなるものだから、御都合主義にはならないよう気を付けた。
 置かれた立場が変われば意見も変わりかねないのがこの問題の特徴でもある。揺るぎない足場を探して「まずは大師の末徒として」と端なくもいろいろ考えてみる。そこで書物、文献などを根拠として教義的学問的にみるなら、総論としては否定的な見解が導かれることにはなろう。「脳死は一律に人の死か」についても上来述べてきたように否定せねばならない(結論としてこれは問いの立て方を変えねばならないことが判明した。事実に則した意味のある正しい問い方は「脳死を自分の死として受け容れるか」である)。自分としてはやはり心臓死が社会一般として妥当なラインだと思う。移植ということも第三者によって脳死を死と割り切って尊厳なく行われるとすれば、自分としては提供もしないし、提供されもしないであろう。しかしそう言いながら、苦しむ人にはやはり気の毒だという気持ちは自然にもつ。反対意見をもつ人の多くがこのディレンマに引き裂かれるのだろう。そのような訳で移植には絶対反対というような立場をとる気には毛頭なれない。医療としての是非はあれ、ともかくも救われたと喜ぶ人がいて、それを資金面でも心の面でもあれだけ支援する人々が世にいる以上(ある患者団体によると、概算だが、海外渡航移植者はこれまで心肺移植で二十六人があり、いずれも三千万円〜一億円の費用を募金などで賄ってきている)、一定の条件を付けながら、社会としてもこのあり方は認めねばなるまい。問題がいずれのいのちにもかかわるものだけに、共存しうる道をさぐることが倫理的考察の課題となる。そこで一定の条件とは、やはり提供者本人の意思を尊重するという原則は堅持することであろう<注11>。これによっていくらドナー不足になろうとも、これもまた議論の結果えられた遵守せねばならない倫理である。町野がどれほど「人は本来的に提供する善意を持った者だ」と人間観のコペルニクス的転回を叫び、それがまた宗教的にいかに魅力的なものであっても、常識的には受け入れがたい。生命体というものは通常、本能レベルでは自分が生きることを最優先にするとみるのが自然だからである。そして、脳死下にあっても身体的生命活動がある程度の統合性をもって存続している状態だと考えるべき論文があることは先に触れた(町野は人の死だと言う)。
 脳死反対意見は少数派である。しかし、これを民主主義における多数決原理によって排斥することはできない。もしこれが少数であるとして無視されることになった場合、現実問題として「他者危害の原則」(Harm-to-others Principle)を犯すことにもなろう。自由主義は原則として個人の生活の自由を認めるが、利害が衝突して他者を危害する場合には、その自由は公権力によってはじめて制限されることになる。そこで事の倫理が問われたときには、多数者決定の原理をもつ自由主義社会でも少数者側に対しては「他者危害の原則」を守ることは堅持しなくてはならない。
 移植推進の動きの中には、ドナー不足の打開を第一義として脳死を一律に人の死とする方向へ法改正する必要を唱える傾向はないだろうか。しかし、こうした態度はつぎのような倫理的な問題を生じさせるだろう。まず、脳死をもって一律に人の死とすること自体が、従来受け入れられてきた心臓死に対して新たな「死」の概念の選択であるということを認めなくてはならない。そうして死の線引きにオプションがはいる時代にはいったとき、選択権の第一は国でも遺族でもなく、死にゆく当人にこそあるはずである。これを無視し、臓器の機械的調達にむかうなら、そこを死と決めていない人への人権侵害となることは免れまい。再三論じたことだが、死は実体的にはあくまでプロセスとみるべきことがらであり、そのプロセスの上に「分岐点的な死」を社会的な分別として線引きするのであるからである。町野は「死の選択権」を個人に対してひとたび認めると、原理的には死の選択肢が無限に増えていくことになる、と極端なことを言う。しかし彼は法学者らしく「カズイスティック」なことを嫌うあまり、原理的なものとか、一元的、包括的な方向ばかりを目指しすぎるきらいがある。そうした両極端にならないような現実に則した中庸を得るために、辛抱強く議論をし、科学的根拠をもった、社会的にも受容されうる必要最低限の数の良識的なオプションを取り決め(「分別」)ておき、そこから国民各自で選択してもらうのである。そして、それは今のところ脳死と心臓死だけであろう。
 もう一つ懸念されるのは、改正論議の陰でドナー不足解消をはかろうとする〈調達目的の原理〉が力をもち、これがすべてのことに先立つ大義として社会的に是認されていく道をたどることにでもなれば、そのために日本の脳死論は現在の「脳幹を含む全脳死」説から、調達の都合によって脳幹死説(イギリス基準)、大脳死説(アメリカの一部の学者)へと人の死の線引きをさかのぼらせていく手形を与えることになりかねないことである。それがひいては、植物状態の人や無脳児など社会的弱者を臓器資源視する価値観を人の心に植えつけていくことにつながらないとも限らない。そうなるとこれは、個々の人間の利害を超えた文明の倫理にかかわる問題となる。実際に、移植法改正の動きが障害者や社会的弱者に対して「次は自分が移植の具にされるのか」という不安をひきおこしている現実をうかがうと、〈個の生命の尊厳〉を土台にして権利拡大を推し進めてきた人間にも、全体(人間社会・自然・宇宙へと連鎖するいのちの全体)に対して越えてはならない一線がやはりあると思わざるをえない。これは文明そのものが問われる大きな問題である。〈人間がどうありたいのか〉の問いともなろう。その一線を越えれば文明が病む。文明が病めば、人間全体が病む。したがって、全体のいのちへの影響を考えない無批判な生命謳歌のような賛成論にも、また、個の病苦を全く顧みない純粋論理による反対論にも、一概に組みすることはできないことを思い知らされる。
 では、移植医療推進の側にある者はどういう一線を設けて取り組んでいくべきであろうか。その点についてはまず最低限、死にゆくプロセスの上に科学的根拠をもった社会的に妥協しうる基準(全脳死、脳幹死、心臓死など)を一定のオプションとして示しつつ、それをさまざまな思いから受け入れようとする意思の上に移植医療をおこなうというこれまでの枠組みは崩すべきではないだろう<注12>。この思いにいたってわたしは森岡の意見に賛成する。したがって移植支援団体の努力は、善意の理解者を増やしていく方向にこそ向けられるべきである。たとえそれによってドナー不足の解消はありえないとしても、である。法というものは言葉による取り決め(分別)なのであって、硬直的である。だからこそ、智慧による融通の利かない取り決めであるのならば、そこには越えてはならない一線を設けるという視点を軽視してはなるまい。
 確かに賛成論も反対論もともに生命の尊厳という原則の上に立っている。この〈絶対〉対〈絶対〉が綱引きする問題には、全体と個のバランスという基準がどうしても手を貸さざるをえない。いずれの行き過ぎをも防ぐためには、良識による一線(これもまた分別である)を決定しなくてはならない。一体それはどこに措くべきか? そのことが倫理的課題として問われ、わたしは上のように考えた。しかしどのような社会的分別がなされても、その恩恵からはこぼれ落ちてしまう者たちが宿命的に生み出される。その者には柔軟な救済の方途がとられねばならない。きっとそれは直接会いに行く実践的なものとなるはずである。病める人に、ことばによる硬直的な一般論を振りかざして説き伏せるのではなく、機に応じてはたらく柔軟な「智慧」をもって、身体の長生に代わるもっと深い「いのち」の価値を教示し、嘉する(加持する。キリスト教ではあなたが神に愛された者であったことを宣言して祝福する。かつて仏教には「臨終行儀」という実践もあった)。平たく言えば、煩悶する者に、身体ではなく深い魂・人格において慈しみ、ともに生きること以外にないのではないか。
 岐阜に拡張型心筋症を患った岡田貴嗣くんという小学生がいた。ある日、小児脳梗塞をおこして右半身の自由もきかなくなった。医師によると心臓移植以外に助かる道はないという。しかしかれは、いつも自分を思いやって助けてくれるクラスの友たちと共に生き、何時とは知れない自分の死を恐れながらも母親にこう言ったそうである、「友だちっていいネ」、「ぼくは自前の心臓でがんばるよ」。いつもひとに助けられている負い目を感ずるかたわら、自分も「ひとの役に立ちたい」と心から願い、病身ながらせめて可能な人形劇を思い立ち、一生懸命練習して障害者施設を慰問した。ウサギの餌に困っている話を聞いては小遣いをはたいてたくさんのウサギの餌を買い自ら与えに行った。短い生を生きた彼の死後、クラスの友たちは皆深い何かを共有し「たかしくんに大切なことを教わった」と口ぐちに言っていた。彼の精神はそこに生きているのである。身体の生のほかに深く長いいのちを見たとき、人は断滅論の恐れと生への執着を乗りこえ、受け容れていく(のではないか)。そして、そこにいて共感し、ともに生きていってくれるのはいったい誰なのか? まさに歴史の上でも、社会的分別の恩恵に与れない領域をこそ実践的に引き受けてきたのが宗教であったはずであるし、そして将来においても宗教の本当の役割ではないかと思うのである。
 

参 考

臓器の移植に関する法律」(現行法) 〔関連部分のみ〕

第六条【臓器の摘出】
〈第一項〉
医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
〈第二項〉
前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。
〈第三項〉
臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。

町野案〔B案〕》

第六条 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が移植術に使用されるための臓器の移植を書面により承諾したときには、移植術に使用される臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

森岡・杉本案》〔第六条に関して〕

(@)15歳以上の者に関しては、現行法と同様とする。
(A)15歳未満の子どもに関しては、以下のA案あるいはB案のいずれかを候補案として提案する。
A案:15歳未満12歳以上の場合は、「本人の意思表示」および「親権者による事前の承諾」がドナーカード等によって確認されている場合であって、親権者が拒まないときに限り、「法的脳死判定」および「脳死状態からの臓器摘出」を可能とする。12歳未満6歳以上の場合は、上記の条件に加えて、子どもが虐待によって脳死になった形跡がないこと、「本人の意思表示」が強制によってではなく自由意思によってなされたものだと考えられること等を、病院内倫理委員会(あるいは裁判所)が審理するという条件を追加する。6歳未満の場合は、「法的脳死判定」および「臓器摘出」を行わない。
B案:15歳未満12歳以上の場合は、「本人の意思表示」および「親権者による事前の承諾」がドナーカード等によって確認されている場合であって、親権者が拒まないときに限り、「法的脳死判定」および「脳死状態からの臓器摘出」を可能とする。12歳未満の場合は、「法的脳死判定」および「臓器摘出」を行わない。
 
 

参考文献 

〔改正案〕

町野朔「研究課題:臓器移植法の法的事項に関する研究―特に「小児臓器移植」に向けての法改正のあり方―」、(森岡HP所収)
森岡正博・杉本健郎「子どもの意思表示を前提とする臓器移植法改正案の提言」、(森岡HP所収)
森岡正博「子どもの意思表示を前提とする臓器移植法改正案(素案)」、(森岡HP所収)
てるてる(西森豊)「脳死否定論に基づく臓器移植法改正案について」、『現代文明学研究』3号(2000)
倉持武「脳死・移植・自己決定−脳死臓器・組織移植に関する倉持私案」、『松本歯科大学紀要』26輯、1997年11月

〔日本仏教界からの意見〕

浄土宗、「脳死・臓器移植問題に対する報告」(1992.9)
立正佼成会、「「臓器の移植に関する法律案」に対する見解書」(1994.6.1)
天台宗、「天台宗の脳死及び」(1995.12.21)
真宗大谷派、「「臓器移植」法案の衆院可決に対する声明」(1997.4.25)、「初めての脳死移植についての見解」(1999.3.16)
浄土真宗本願寺派、「脳死と臓器移植」『共にあゆむ』四二号(1999.2)
曹洞宗、「「脳死と臓器移植」問題に対する答申書」(1999.4.1)

〔論文・シンポジウム・講演〕

臨時脳死及び臓器移植調査会「脳死及び臓器移植に関する重要事項について」(中間意見)、1991年6月14日
町野朔編『脳死と臓器移植〔第二版〕追補』信山社、1998年5月
町野朔「「小児臓器移植」に向けての法改正―二つの方向―」、平成11年度公開シンポジウム(国際研究交流会館・国際会議場)、2000年2月18日
町野朔「現行臓器移植法の問題点―法律家の立場から」、第8回トリオ・ジャパン・セミナー「臓器提供─現状と課題─」特別講演(キャピトル東急ホテル)、2000年7月8日
森岡正博『生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで』ちくま新書、1994年10月
森岡正博「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」、『論座』3・4月号、2000年2月
森岡正博「臓器移植法・「本人の意思表示」原則は堅持せよ」、『世界』2000年10月号
森岡正博「日本の「脳死」法は世界の最先端」、『中央公論』2001年2月号
町野・森岡(対論)「臓器移植法の改正、イエスかノーか」、『論座』2000年8月号
中川研一「アメリカおよびドイツの脳死否定論」、『法律時報』72巻9号、2000年
大塚他「臓器提供─救急医の立場から」、第8回トリオ・ジャパン・セミナー「臓器提供─現状と課題─」パネルディスカッション(キャピトル東急ホテル)、2000年7月8日
ウィリアム・W・ラフレール「日本の脳死・臓器移植論議からアメリカは何を学ぶか」、(Relnet HP所収)
立花隆『脳死』中央公論社、1986年10月
池田清彦『臓器移植 我、せずされず』小学館文庫、2000年4月
多田富雄・河合隼雄編『生と死の様式 脳死時代を迎える日本人の死生観』誠信書房、1991年8月
高野山東京別院落慶記念『密教からみた「いのち」』、1988年7月
密教福祉研究会編『密教福祉―世紀を超えて―』Vol.1、2001年3月
真宗大谷派教学研究所編『教化研究』123号(特集 ひとが死ぬこと、生きること)、2001年5月
加藤尚武『応用倫理学のすすめ』丸善ライブラリー、1994年6月
加藤尚武『技術と人間の倫理』NHKライブラリー、1996年1月
山内志朗『天使の記号学』岩波書店、2001年2月
高橋幸春「脳死肺移植「第一号女性」の日記」、『文芸春秋』2001年4月号
松本文六「10例の脳死・臓器移植が投げかける諸問題」、日本宗教連盟 第2回脳死・臓器移植シンポジウム、2001年1月20日
松本康治「臓器移植法はこのように改悪されようとしている」、『いのちジャーナル』2000年6-7月号、さいろ社
鶴田博之「「臓器移植法見直し」をめぐる危ない状況」、『いのちジャーナル』2000年6-7月号、さいろ社
鶴田博之「歪められた自己決定」、『いのちジャーナル』2000年8-10月号、さいろ社
木暮信一「「(脳死)臓器移植法」の見直しについて」、『東洋哲学研究所紀要』第16号、2000年12月
加来知之「肉食の身を生きる―脳死・臓器移植問題を縁として―」、『教化研究』123号、2001年5月
北塔光昇「臓器移植について―仏教的視点からの考察―」、『印度哲学仏教学』15号、2000年10月
村上保壽「宗教と科学」、『密教文化』180号、1992年10月
村上保壽「お大師様と臓器移植」高野山真言宗布教研究所所報「曼荼羅」第5号 2000年5月
壽山良光「「脳死・臓器移植法」見直しをめぐって」、『六大新報』2001年1月1日
山崎正和「優生学と倫理」、朝日新聞(論壇時評)東京夕刊、1997年12月25日
月刊『住職』「特集 脳死臓器移植法案衆議院可決の是非を問う」、1997年6月
高知新聞(シリーズ)「揺れる「命」」・「「2.21」から一年」・「生命のゆくえ」、高知新聞HP、1999年2月26日〜
厚生省公衆衛生審議会臓器移植専門委員会議事録(第一回〜第二二回)、(厚生労働省HP)
森岡HP「臓器移植法を考える」、http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
フジテレビ「たかしくん、奇跡をありがとう」、『アンビリバボー』2001年1月18日放送、http://www.fujitv.co.jp/jp/unb
 
 

〔注〕

1 小児脳死判定の対象は六歳未満の小児。検査項目は大人と同じ5項目であるが、二度行う判定の間隔を現在の「6時間以上」から「24時間以上」に延ばしている。生後三か月までの新生児については資料が乏しく、判定対象からは除外されることとなった。
2 町野は死の選択権に反対する。本文中に述べたように、町野には町野の死観がある。ところがアメリカなどでは、ニュージャージー州の移植法に限らず「死の選択権」についても法的にもその自由をもっと認めようとする考え方がでてきている(中川「アメリカ・ドイツの脳死否定論」)。
3 欧米などでこうした反対勢があっても移植医療が定着してきたのは、脳死論議が社会において沸騰するより前に医療の側で着実な施術の実績をあげて流れをつくってきたという事実のつみかさねによるところが大きい。直接確認するに及んでいないが、海外の法律では脳死を人の死として規定することも少ないとされる。その背後には、「死の判定」は専門的知識が必要であり医の職能(profession)に委ねるものだという伝統的な意識がはたらいているのだろう。他方、日本では最初の和田移植が社会に対して深い医療不信を引き起こし、「脳死は人の死か」ということが一般社会において議論されるべきだとする素地をつくってしまった。日本に根強く脳死反対論があるのに対し、欧米では脳死臓器移植が受け容れられ実施されていることについては、身体観・人間観の異同などに依りながらさまざまに理由付けされる(西洋の霊肉二元論、人間機械論など。他方、同じ三〇%の存在を根拠として、医療の現状の相異につながるような身体観の相異はないとする逆説的な意見もある。)。しかし、それはやはり脳死に関して「議論をする」ということの延長線上にでたもので、論としてはそれなりに真実の一面を穿ってはいるのだろうが、日本と欧米の現状の相異を招いたのは、法制化していく過程で「脳死は生か死か」の問いを一般に解決する必要があると大衆に強く意識させる事案があったか、なかったかである。実際、近来にいたってようやく移植大国アメリカやドイツでも脳死に否定論が出はじめ、また逆に極端な推進論(大脳死説採用、植物状態の人のドナー利用)もあって、日本における国民的で長く深い議論を参考にしようという意見も聞かれる(W.W.ラフレール「日本の脳死・臓器移植論議からアメリカは何を学ぶか」)。
4 臓器移植法の公布後にひらかれた厚生省の公衆衛生審議会(97/8/29)において貝谷臓器移植対策室長は、臓器移植の適正な実施を図るのがこの法律の目的であり、脳死判定については移植以外のケースで死ということを決めているわけではない、と発言している。
5 有力な患者団体の一つで国際的な組織をもつTRIO Japanは厚生大臣宛に改正への要望書を提出している(平成12年3月1日)が、二つの要望事項の内一つが「二つの死」のない法への改正である。
6 問いを扱う前提として、ひとまずは脳死を移植から切り離して考えねばならない。問題が複雑なだけに、他の価値基準を入れず、一元的なものにする必要がある。脳死は移植とのかかわりで実際的な問題となったものではあるが、これを考えるにあたっては患者の救済という価値基準に引きずられないようにする必要がある。さもないと、絶対平等であるべき生命の価値をめぐって他人の生命との間で相対観が入り込むことを許してしまう。これは推進派にも、反対・慎重派にも共有された前提である(患者団体であっても、脳死を死としない移植には明確に反対する声明を出している。これは「二つの死」の存在を認めない立場に発する)。そもそも〈生命の尊厳〉の原則が保障するのがそれであって、商業的取引に結びつく価値的相対主義をいれない個の絶対性はそこに確保される。なお、生命(life)の価値の相対化はQOL(Quality of Life, 生活の質)を問う場合にはおこりうるが、それは一個体の範囲内での相対であり、正当な見方であることに注意したい。
7 「生きている」ということの基本的条件として通例「自己複製」「自律性」「自己保存」の三つが挙げられる。
8 最近では1997年11月にニューヨークの病院で脳死状態の女性が出産した(帝王切開)。日本では1991年11月に山口大医学部付属病院で脳死35日目に出産(帝王切開)した例がある。松本文六医師の報告によると、1983年2月に新潟大学病院で自然分娩による脳死出産の例があったという。
9 生物学者では本庶佑、池田清彦。また化学専門の中村佳子、解剖学の養老孟司も。多田・河合編『生と死の様式』、池田清彦『臓器移植 我せずされず』を参照せよ。
10 「いのちの尊厳」といった価値原理も絶対であるかのように言われてきたが、こんにち、これを無条件に謳歌することに批判があがりつつある。貪欲や悪、残忍さといったものもいのちには本質的にそなわっているとの認識が生じてきているからである。(森岡『生命観を問い直す』、山内『天使の記号学』参照)
11 判断能力のない小児等の場合、森岡案に準ずる。すなわち、子自身の意思表示ならびに子の利益に立ってこれを考慮する親権者などの判断。子は養育される過程において子自身の発達に親(後見人)の価値観が編み込まれて成長していく存在である。それを欠くと、その子が人間として成長することは困難であることがあるように、脳死をめぐる子の権利についても後見人の判断は、ある程度容れうるものと考える。
12 推進派がときに問題視する「二つの死」など死の複数化・相対化が実質的に問題となるのは刑法などとのからみにおいてであろう。しかし、加藤(『応用倫理学のすすめ』)が指摘するように、安寧な自然死ということがむつかしくなってきている今日、自己の尊厳のために、自己の死に方を選択せねばならない時代にはいってきているのもまた事実である。死観を根本的に問い直さねばならない。皮肉にも、それは医療技術の進歩によって人間自らが生み出したものだ。