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国歌斉唱のときに座り続けること(未発表)2001年4月24日
森岡正博
 

 忘れないうちに、書いておこうと思う。
 もう五年以上も前のことになるが、子どもが小学校に入学したときのことだ。桜咲くなか、入学式に出席した。集まってきた子どもたちはみんなそわそわしていて、きれいな服を着た両親たちも、どことなく落ち着かない様子だった。体育館に集合して入学式が始まる。子どもたちは前列に座って、親たちは後ろのほうの椅子に座った。会が始まった直後、「国歌斉唱。ご起立願います」という声が響き渡った。スピーカーから君が代の前奏が流れてきた。
 うかつにも、入学式には国歌斉唱があるということを、私は忘れていたのだ。とっさに頭の中が真っ白になって、凍り付いてしまった。まわりの親たちは、ぞろぞろと起立し始める。私は、あせった。まわりを見渡した。起立した大人たちが壁のように立っている。
 私は国歌を歌わない。私は第二次世界大戦を体験したことはないけれど、国歌の歌詞に疑問をもつ。それに、強制されたり、お願いされて歌を歌うことはぜったいにしたくない。なぜなら、歌を歌うということは、その人の内面を吐露するということに近いからだ。これは憲法に規定されている「思想信条の自由」に密接に関わることなのだ。だから私は国歌を歌わない。君が代が国歌であると最近法律で決まったようだが、それは、国歌を歌わせることを強制する内容とはなっていない。だから、国歌を歌うかどうかは法律上も個人の自由である。
 では、起立せよと言われたときにどうするかだ。起立するというのは、やはり個人の自由にゆだねられるべきことだと思う。「立つか座るか」というのは、個人の内面の自由と強く結びついているからだ。私は、立てと命令されて立つことは拒否する。立つか立たないかは、個人の自由権に属することだ。だから、私は、国歌斉唱と言われたときに、立たない。と同時に、それに従って立って斉唱する人々を制止したり、座らせたりしようとも思わない。彼らには彼らの自由がある。あとは、彼らがみずからの選択をどのように意味づけるのかという問題が残るだけだ。
 君が代が流れ始めた。私は依然として座ったままだ。まわりの大人たちは、低い声で、君が代の歌詞を歌い始めた。私と同い年くらいの人が多いが、もっと若い人たちもいる。私はまわりを見渡した。人の壁のあいだから様子をうかがう。親たちの中で、座ったままの人が、私以外に二人いる。一〇〇名を超えるであろう出席者の中で、三名以外はすべて立っている。大木のように立ちつくす人々の壁の中で、それも荘厳な君が代を歌う人々の中で、最後まで椅子に座り続けること。正直言って、早く終わってほしかった。額からは冷や汗が流れてきた。孤独だった。集団の中の孤独とは、こういうことだろう。下半身がしびれるような感じだった。そのときに、よく分かった。この国で自分の意見を通すということは、こういうことなのだと。
 私は、ふと思った。かつて学生運動をして、日帝粉砕を叫んでいた全共闘世代の親たちは、こんなときどうするのだろうかと。天皇制反対を貫いて、入学式でも起立を拒み続けたのだろうか。それとも、あっさりと転向して、君が代を斉唱したのだろうか。あなた達の世代の闘いは、いったい何だったのか。われわれの世代の親たちのほとんどすべては、起立して君が代を歌っている。あのときのあなたたちの思想は、この国のどこへ消えていってしまったのか。
 入学式が終わって、ある人に、この話をした。その人は、ちょっと考えてから、こういった。「起立した人の中には、君が代に反対している人もたくさんいたと思う。だけど、もしみんなが起立する中で、ひとりだけ座り続けていたら、目立ってしまうでしょう。そしたら、自分の子どもが、入学早々いじめられるんじゃないかと心配になる。子どもがいじめられるのはいやだから、みんなと歩調をあわせて、起立したんだと思うな」。その考え方を聞いて、私は何ともいえない気分になった。だとしたら、私の子どもは、私の着席行動が原因で、学校の中でいじめられるかもしれないということじゃないか。どうして、親の思想行動が原因で、その子どもがいじめられないといけないんだ。おかしいじゃないか。たしかに、私のしたことが原因で子どもがいじめられるとしたら、とても子どもに対して「済まない気持ち」になる。私はなんて馬鹿なことをしてしまったのだろうと、苦しくなる。だが、なんで私がそんなふうに思わないといけないのか。「親が起立しなかったからという理由で、その子どもをいじめようとするガキどものほうがおかしいんじゃないか!」あるいは、ガキどもにそのことを吹き込もうとする親たちが、差別者なのではないか。
 さらに思う。自分の子どもがいじめられるのがいやだから、思想信条に反して起立した親たちよ。その行為によって、きみたちの子どもはいじめから逃れられたかもしれない。しかし、きみたちは、思想信条に反して起立することによって、「着席を貫いた親の子どもがいじめられることに加担したことになるのだ」ということを自覚しているか。きみたちは、学校でのいじめの、加害者側に知らず知らずのうちに立ってしまっているということを、気づいているのか。
 これが、入学式の一件によって私が学んだことだったのだ。
 

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