生命学ホームページ 
ホーム > 脳死移植 > このページ

作成:森岡正博 
掲示板プロフィール著書エッセイ・論文

English Pages | kinokopress.com

資料

 

「小児臓器移植」に向けての法改正――二つの方向――
町野  朔

平成11年度公開シンポジゥム(国際研究交流会館・国際会議場)2000.2.18.



*以下は、本年2月18日に行われた臓器移植法に関する公開シンポジゥムでの私の報告
の基となった原稿である。私は「厚生科学研究 免疫・アレルギー等研究事業(臓器
移植部門)」の「臓器移植の法的事項」を担当する分担研究者であり、その報告は
1999年度の中間報告的なものであった。研究協力者との討論を経ていないものである
ので、まだ私見にとどまっている。当然、研究班全体の考えではないし、厚生省の見
解でもない。
 当日のシンポジゥムは、私の報告とともに新聞等で報道されたようであるが、その趣旨、
内容について若干の誤解が生じたようである。森岡正博氏のご好意により、その全文
を掲載させていただくことになったことは、この点できわめて有り難いことである。
  2000.3.20.                      町野朔


目次
T 小児心臓移植について
 1) 法の検討を要する諸点
 2) 小児心臓移植問題の背景
 3) 法改正の二つの方法
U 臓器提供者が年少者であるときについての特則
 1) 親権者(であった者)の承諾
 2) 親権者(であった者)の権利
 3) 便宜主義的法改正
V 死者の自己決定権
 1) 本人のopt-in (contract-in)から遺族のopt-in (contract-in)へ
 2) 医療不信について
 3) 意思表示カードの普及について
 4) 死者の自己決定権について
W 臓器移植と日本人
 1) 臓器の法的性格
 2) 日本人の遺体観
  3) 日本人の国民性

T 小児心臓移植について

 1) 法の検討を要する諸点
 1997(平成9 )年7 月16日に公布された「臓器の移植に関する法律」の附則2 条1
項は、「この法律による臓器の移植については、この法律の施行後三年を目途として、
この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づ
いて必要な措置が講ぜられるべきものとする」としている。本法が施行されたのは
「公布の日から起算して三月を経過した日から」(附則1 条)であるから、本年(平
成11)年10月16日がその「目途」の日ということになる。
 現在の臓器移植法に検討を要する重大な点はかなりある。
 a @現行法は、死体からの臓器の摘出・移植だけを規定し、生体からの臓器の移
植、例えば腎臓、肝臓、肺などの「生体移植」については規定していない。これを現
在のように「社会通念」の範囲内で、医学的判断と当事者の意思に任せるという慣行
はそのままでいいのか、例えばドイツ法のように、生体からの臓器提供について要件
と手続を法律で厳格に規定する必要はないのか。
 A 現行法はさらに、「心臓、肺、肝臓、腎臓、厚生省令で定める内臓[膵臓及び
小腸とされている。規則1 条]及び眼球」だけを法が規定する「臓器」としている
(5 条)。このようなカズイスティックなやりかたでいいのか。臓器一般、さらには
組織まで含めた立法にすべきではないか。臓器と組織とを区別せずに規定するのが、
国際的には一般的であるといってよいだろう。
 b 以上の様に包括的な臓器移植法にするならば、次に考えなければならないこと
が生じる。
 @ 第一は、公平・公正な移植が以上の様な多様な臓器・組織についても可能とな
るためには、現行のネットワーク・システムで十分か、臓器あっせん業務に関する新
たな法整備が必要ではないか、である。これには、多様な臓器・組織の移植を行える
医療的態勢が整うという、移植医療の足腰が強くなることが、まず先決問題なのであ
ろう。
 A 第二は、臓器売買禁止のあり方である。現在は法・省令の規定する「臓器」だ
けが対象とされているが、臓器一般、組織にまで対象を包括的にするとなると、全体
について売買を禁止することになるであろう。しかし、アメリカを中心とした臓器・
組織の商品化は一つの潮流となりつつある様にも見える。現行法は、摘出、保存、移
送などの「通常必要と認められるもの」以外は「対価」であるとしてその授受を禁止
しているが、すべての臓器・組織についてもそれでいいのか、あっせんの営利性をす
べて否定すべきかは、あるいは今一度問題にされることになるのかも知れない。
 c 現行法における「脳死」の位置づけも再検討を必要としていることは疑いない。
 現行法は、移植用臓器摘出のときだけに限って脳死を人の死であることを認めるよ
うな文言を用い、本人が脳死判定に承諾し「家族」がそれを拒まないときにだけ脳死
判定をなしうるとしている(6 条2 項・3 項)。さらに、「脳死した者の身体以外か
ら」眼球・腎臓を摘出するときには、当分の間遺族の承諾だけで足りるとしている
(附則4 条1 項)。このように、日本の臓器移植法は「脳死・臓器移植法」である。
 脳死を他の死(心臓死)に対してこれほどまで相対化したことは、法的レトリック
を超えた重大な倫理的問題を生じさせたしたことは疑いない。臓器移植が法的に許さ
れるときには脳死が人の死となりえ、法の手続に従った脳死判定がなされたときだけ、
いわゆる「法的脳死判定」がなされたときだけ脳死が存在するかのような現行法は、
臓器移植の目的の存在によって脳死を人の死としてしまったのである。医療の現場で
は、「法的脳死判定」でない「臨床的脳死判定」がなされたときには脳死が存在しな
いのか、移植の許されるとき、移植を目的としないときには脳死判定してはいけない
のか、法的脳死判定の要件を満たさないときには脳死はないのか、などという疑問が
噴出しているのである。

 2) 小児心臓移植問題の背景
 以上の問題も、重要な法の見直しについての重要な論点である。しかし、本日は、
本人の生前の書面による意思表示がなければ臓器の摘出を許さないという現行法6 条
1 項の態度に由来する、小児の臓器移植、特に小児心臓移植の事実上の非合法化に関
する問題を取り扱う。
  最初に、この問題の法的バックラウンドを見てみる。
 a 1994(平成6 )年に国会に提出された臓器移植法の「旧中山案」では、見直し
までの時間は5年であった。しかし、臓器提供の意思が生前に書面によって表示され
ること、すなわち本人のopt-in (contract-in)を移植用臓器摘出の必須の要件とした
1996(平成8 )年に衆議院の厚生委員会に提出された修正案は、これを3年とし、そ
れが現在の法に受け継がれているのである。同時に、この修正案は、本人のopt-inを
臓器摘出の要件とすることにより、腎臓、眼球については「角膜及び腎臓の移植に関
する法律」(角腎法。昭和54年)より厳しくなることを慮って、これらについては、
暫くの間、角腎法の原則に基本的に従うという経過規定を置くことも提案している。
  臓器移植法の成立によって廃止された角腎法は、本人の臓器提供の意思表示がない
ときには、遺族が書面により承諾すれば(遺族のopt-in (contract-in)があれば)、
腎臓、眼球を提供しうるとし、旧中山案も基本的にはそれに従っていた。その態度を
変更して、諸外国の臓器移植法にも例のないような方法で「死者の自己決定」を重視
した法を作るならば、臓器の提供が困難になるであろうことは当然予測されていたこ
とであった。また、このような法の下では、小児の心臓移植手術は不可能となるであ
ろうことも、当然予測されていたことであった。すなわち、本人の承諾意思の表示を
臓器提供の必須の要件とする以上、有効な意思表示をなしうる能力の欠如している小
児が死後にドナーとなることは不可能である。しかし、移植に用いられる心臓は、移
植を受ける小児に適合した小さなサイズでなければならず、提供者も小児に限られる
のである。上記の修正提案を受けた臓器移植法は、腎臓、眼球の摘出に関しては「当
分の間」遺族の承諾だけで摘出しうるとし、これは、基本的に現行法に受け継がれて
いるが(附則4 条)、これは角腎法のときよりも摘出要件が厳しくなってはならない
と考えたためであり、当然、心臓はこの経過措置の対象外であった。また、心臓死の
下では移植可能な心臓を摘出することが不可能なのであるから、附則に心臓を追加し
たとしても問題の解決にはならない。
 以上の事情からも、見直しを5年から3年に前倒しにした立案者は、移植用臓器摘
出要件としての本人の「書面による承諾」の問題、心臓移植を中心とした小児臓器移
植の問題を早期に再検討すべきであると考えたからであることが分かる。
 b その後、「死体」に「脳死体を含む」とし、本人の書面による承諾を臓器摘出
の要件とした新・中山案(平成9 年)は、衆議院において、脳死を人の死としないで
脳死体からの移植用臓器の摘出を認める、いわゆる違法阻却論に立脚する「金田案」
を制して衆議院を通過したが、参議院において「関根案」により重大な修正を加えら
れた後、現在の姿における臓器移植法が成立することになる。それは、前述の様に、
移植用臓器の摘出のときだけに限って脳死を人の死とするかのような文言を採用し、
本人が生前に脳死判定に承諾しかつ遺族もそれを拒まないときのみ脳死判定をなしう
るとしたもので あった。これによって、脳死問題は新たな、そして倫理的にも重大
な検討課題となったことは否定できない。しかし、臓器の摘出について本人の書面に
よる承諾を要件として臓器提供の可能性を大きく狭めてしまった以上、さらに脳死判
定に本人の承諾を要件としたとしても、実質的にはもうどうでもよかったことといえ
るかもしれない。

 3) 法改正の二つの方法
 もし小児の心臓移植を実施しようとするなら、法律改正が必要である。
 臓器移植法も、同法の施行規則(省令)も、臓器提供に関して有効な意思表示をな
し、脳死判定に有効に承諾しうる年齢については何も述べてはいない。「ガイドライ
ン」(平成9 年の保健医療局長通知)は、「臓器提供に係る意思表示の有効性につい
て、年齢等により画一的に判断することは難しいと考えるが、民法上の遺言可能年齢
等を参考として、法の運用に当たっては、十五歳以上の者の意思表示を有効なものと
して取り扱うこと」としている。ガイドラインは、脳死判定への承諾意思の有効性に
ついても同じことが妥当すると考えているようである。
 ガイドラインは厚生省の行政指導に過ぎず、法的な拘束力があるわけではない。
「十五歳」が低過ぎるのではないかという議論も、逆に高過ぎるのではないかという
議論もありうる。しかし、いずれにせよ、子どもが心臓のドナーとはなりえないこと、
小児心臓移植が現行法のもとでは不可能であることは確たる事実である。子どもたち
の心臓移植手術は、現在では「渡航移植」によらざるをえないことになる。このよう
な事態を打開し、小児の心臓移植に道を開くことを考えるならば法改正が必要となる。
ガイドラインを変えれば済むという問題ではない。
 現在、小児の心臓移植を可能にするために、二つの法改正の方向が考えられている。
一つは、小児・年少者からの臓器の摘出を可能にするために、誰かが彼(彼女)に代
わって臓器提供を承諾する意思を表示することを認める特則を設けるという方法であ
る(A案)。いま一つは、死者本人の臓器提供に承諾する意思表示がなければ許され
ないとする現行法の立場を修正することによって、子どもにも大人にも平等に移植医
療を可能とする方向をとることである(B案)。以下では、そもそも法改正をすべき
であるかも含めて、いずれの方向が妥当かを考えてみたいと思う。

U 臓器提供者が年少者であるときについての特則

 1) 親権者(であった者)の承諾
 A案の場合、小児に代わって臓器の提供に同意する人としては、その親権者が考え
られることになる。これにも、a)小児の生前に、その親権者が、彼のために書面に
よって死後の臓器提供の意思表示をすることを認める、b)小児の死後に、その親権者
であった者が、書面によって彼の臓器提供の意思表示を行うことを認める、c)その両
者とも認める、という法改正が考えられる。いずれも、現行法6 条1 項の後に特則と
して2 項を加えるというものである。
┌────────────────────────────────────┐
│A−a)案                                  │
│第6 条A  当該者が死亡したときに十五歳に満たなかった場合において、その者|
│の生存中にその親権者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示していた│
│場合においても、前項と同様である。                    |
│                                     │
│A−b)案                                 │
│第6 条A  医師は、死亡した者が十五歳に満たなかった場合において、その者の│
│親権者であった者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示したときに │
│は、移植術に使用されるための臓器を死体から摘出することができる。     │
│                                     │
│A−c)案                                 │
│第6 条A  医師は、死亡した者が十五歳に満たなかった場合において、その者の│
│生存中にその親権者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示していた場│
│合、又はその者の親権者であった者が当該者の臓器を提供する意思を書面により│
│表示した場合には、移植術に使用されるための臓器を死体から摘出することがで│
│きる。                                  │
└────────────────────────────────────┘
 これは、現行法の枠組を大きく動かすことなく、年少者の死体から臓器摘出を可
能にすることであり、法改正としては実現性が高いと考える向きもあろう。また、こ
れまで厚生省と移植医療の人々は、本人のopt-inを要件とする厳格な現行法の態度を
前提にしつつ、移植医療を推進するために意思表示カードの普及に努めてきた。以上
のような特則を設ける法改正は、このような努力との整合性を維持する方策であると
も考えられるのである。

 2) 親権者(であった者)の権利
 しかし、このような法律は妥当でないように思われる。
 @ 本人が死後にその臓器を提供する意思を表示していないときには臓器の提供を
認めないという現行法の基本原則に固執する以上、A−a)案、あるいはA−c)案前段
のいう親権者の承諾はその子の意思そのものであり、子の意思決定の代行であるとい
うことにならざるをえない。しかし、年少者である子が現実にそのような意思決定を
していない以上、これは擬制に過ぎない。本来、自己決定権は本人に一身専属的に帰
属するものだからである。そして、もしこのような擬制を認めるなら、親権者とその
子に関してばかりでなく、(改正民法843 条における)成年後見と成年被後見人に関
しても認めなければならないであろう。
 A 親権者に、その子の意思決定の代行としてではなく、子が生きているときに、
その死後にその臓器を移植のために提供する意思表示を行う固有の権限を認めること
も、困難である。それは、民法(820 条)の認める「子の監護及び教育」という親権
者の権利・義務には含まれない。それでも以上のような法律を作るということになる
と、民法の基本原則を修正することを覚悟しなければならない。
 B A−b)案、あるいはA−c)案後段のように、子の死後に親が臓器の提供に承諾
することを認めることには、さらに困難が伴う。親権は子が存在する限り存在するが、
子が死亡したときには存在しない。「親権者であった者」は親権者ではない。彼は、
子の遺族としての権限を有するのみである。そうすると、子の死後にその親権者で
あった者が臓器の提供を承諾しうるとすることは、本人の明示の反対がない場合には
遺族の承諾によって臓器を提供しるとする、旧中山案、後に述べるB案と同じ考えだ
ということになろう。しかし、A−b)案、A−c)案後段は、遺族が承諾できるのは、
年少者が死亡したときの親権者であったときに限ろうとするものであるということに
なるが、これが合理的かは疑問がある。どうして他の場合には遺族は臓器の提供に承
諾できないのだろうか。
 C 実際問題として、自分の子どもが生きているときに、その死後に臓器を提供す
るという文書を作る親が多いとは思われない。A−a)案、A−c)案前段は、非現実的
であるといわざるをえない。

 3) 便宜主義的法改正
 以上のように、臓器提供者が年少者であるときについて特則を設けるという法改正
は、理論的にも、実際的にも大きな問題を含むものである。それにもかかわらすこの
ような法改正を行うとするなら、それはかなりその場しのぎ的な、便宜的な法律を作
るということである。これは、脳死・臓器移植ができるようになるなら妥協も止むを
得ないとした現行法と同じことをすることである。
 臓器移植法によって現に脳死臓器移植が行われ、それによって生命を長らえた方々
もおられるのだから、確かにこのようなおかしな法律ならない方が良かったとはいい
づらいところである。しかし、もう少し考えた方が良かったことも事実である。新た
な法改正も安易な妥協に走らず、public acceptance のある、重みのあるものであっ
た方がいいことは確かである。

V 死者の自己決定権

 1) 本人のopt-in (contract-in)から遺族のopt-in (contract-in)へ
 第二の法改正の方向は、本人の書面による承諾を要件とする現行法を修正して、本
人が反対の意思を表示していないときには遺族の書面による承諾によって臓器の提供
を受けうるとすることである。これは例えば以下のように現在の6 条1 項を変えるこ
とである。
┌────────────────────────────────────┐
│B案                                    │
│第6 条@  医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供│
│する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が│
│当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が│
│当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が臓器を移植│
│術に使用されるために提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使│
│用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ。)から摘出することが│
│できる。                                 │
└────────────────────────────────────┘
 もともと旧中山案は、本人が生前の意思表示によって臓器摘出に反対していたので
ないときには、遺族の承諾によって臓器の摘出が可能であるとしていた。それが1995
年6 月24日に議院厚生委員会に提出された修正提案以来、生前の本人の書面による承
諾がなければ臓器を摘出しえないとすべきであるとされたことは既に触れた。この子
どもの心臓移植を事実上不可能とする修正案は、移植を待っている心臓病の子どもの
家族を落胆させたのである。B案は、この点では旧中山案に戻るべきだとするもので
ある。
 我々はB案の方向で法改正がなされるべきだと思っている。その理由については既
に昨年度の報告書で「臓器移植の法的事項に関する研究−現行法の3年目の見直しに
向けての提言−」として述べたところである。以下では、これを補足するかたちで、
若干述べさせていただくことにする。

 2) 医療不信について
 世界に例を見ない厳格な、本人の書面による承諾がなければ死後にその臓器を摘出
しえないとする日本の臓器移植法の背後には、脳死に対する懐疑的な世論、自己の身
体を提供することに対する消極的な人々の存在、そして、脳死判定を行い、臓器を摘
出し、臓器移植を実行する医師の権限行使に対する不信感があることは否定できない
ように思われる。これらの問題はさらに議論を必要とするであろう。特に医療不信は、
脳死・臓器移植問題の「通奏低音」のように人々の心の中に流れているかのようであ
る。
 しかし、このような懸念があるから、このような法律の要件を維持すべきであると
いうことにはならない。脳死が人の死であるといえないのなら、むしろ心臓移植は行
うべきではないのである。脳死判定の基準・手続に問題があるのなら、それは変えな
ければならない。医師が権限を濫用するというのなら、それを防ぐために適切な事前
措置をとるべきである。医療不信があるならその原因を除く、あるいは何が不当な行
為であるかを明らかにして、医師が不当な行為を行ったなら断固処罰するというのが
筋道である。医師が、移植用臓器の摘出のために、ドナーの救命に十分な努力を尽く
さなかったなら、そのことを非難すべきである。以上のことをせずに、なるべく臓器
移植をさせないようにする、というのは筋違いであるように思われる。

 3) 意思表示カードの普及について
 法律が本人のopt-inを必要としないとしたとしても、意思表示カード普及の努力は
続けられなければならない。後でも述べるようにB案のような法においても、それが
死者の意思に合致していると思われるから、臓器の提供が受けられるのである。本人
のopt-out がないときには遺族のopt-inで移植のために臓器を摘出しうるとしても、
遺族は本人の意思もそのようなものであると思って承諾を与えるのである。人々に実
際に意思表示の機会を提供しておくことは、やはり望ましいことなのである。
 意思表示カードを普及させることは、臓器移植に関する人々の関心と理解を深める
ものでもある。意思表示カードを手にしてopt-in/opt-outを考えるときは、単に臓器
移植シンポジゥムのポスターをながめるときとは明らかに違っている。意思表示カー
ドを普及させてきた関係者は、さらに一層の努力を続けなければならないと思われる。
 B案のようなのが諸外国の法律であるが、そこでも登録への呼びかけ、意思表示
カード普及の努力が続けられているのは、以上のような事情があるからである。

 4) 死者の自己決定権について
 やはり、B案の最大の思想的問題は、死者の自己決定権との関係である。
 自分が承諾していないのに、死後に臓器を摘出されるのは嫌だという認識を持つ人
はいるであろう。既に見たように、新・中山案は、そのような感情に配慮して、本人
がイエスといっていなければ臓器の摘出を認めないことにしたのである。それには、
善意の贈り物を無駄にすることは許されない、その範囲では臓器移植を是認していい
という考え方もあったろう。諸外国では、本人の承諾がない場合に、遺族の意思に従
うなどしてその臓器を摘出しても、死者本人の自己決定権の侵害であるとは考えられ
ていないのに対して、日本の国会はそうなると考えたということである。日本の臓器
移植法は日本人の国民性に合致したものであり、この建前を変更することは絶対に許
されるべきでない、という人もいる。
 しかし、はたしてそうなのだろうか。生前に積極的に臓器提供の意思を表示してい
ない以上は死後にも臓器を提供しないという意思があったとみるべきなのが日本人で
あって、提供しないことを表明していない以上は死後の臓器提供は本人の意向に沿う
ものであるとみるべきなのが外国人である、というものなのだろうか。もし日本人は
このような人種で、法律もそれを前提にしなければならないというのなら、遺族の承
諾を得て眼球・角膜を心臓死体から摘出することを認める、前述の経過規定も不当で
あって、廃止しなければならないということになろう。
 問題は法がいかなる人間像を前提にするかである。日本の臓器移植法は、本人が生
前に死後に自分の臓器を提供することを申し出ていない以上、彼はそれを提供せず墓
の中に持っていくつもりなのだ、と考えていることになろう。そうであるからこそ、
本人が何もいっていないのに臓器を摘出するのは彼(死者)の自己決定権に反するの
だ、と考えるのである。しかし我々が、およそ人間は連帯的存在であることを前提に
するなら、次のようにいうことになろう。――たとえ死後に臓器を提供する意思を現
実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。
いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。
もちろん、反対の意思を表示することによって、自分はそのようなものではないこと
を示していたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそうでない以
上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。
 多くの国が、本人の明示の承諾がなくても摘出できるとしているのは、このような
人間観に立っているからであろう。これらの国が、死者の自己決定権を軽視していて、
日本の現在の臓器移植法だけがこれを重視している、というのではないと思われる。

W 臓器移植と日本人

 臓器移植全体についてのネガティヴな態度が、日本の臓器移植法の死者の自己決定
権に関する規定の背後にあるとも考えられる。医療不信が第一の「通奏低音」だとす
ると、これは第二のそれだということになる。

 1) 臓器の法的性格
 第一にそれは、臓器の法的性格に関するものとして現れてくる。それは、およそ、
個人の身体、臓器は公共のものではない、きわめて個人的な人格権の対象なのであり、
心臓も腎臓も、例えていえば、愛用していた眼鏡、万年筆、ステッキ、あるいは初恋
の人の思い出と同じように棺の中に持っていくのがむしろ通常なのである、そのこと
を認めることと、人間の連帯性、博愛主義とは何の関係もない、自分の人格がしみ込
んだものでも人に贈りたいという人の存在は否定できないが、それは例外に過ぎない、
というものである。そしてこれは、本人の積極的な承諾がないときにも臓器提供を一
般的に認めることは、臓器を物と同じに見ることである、公用徴収を認めることであ
る、という臓器移植に対する漠然とした反発に至る。
 たしかに、個人の身体、臓器は単なる財産権の対象ではない。それは売買を禁止さ
れた倫理的意味を持った人格権の対象と考えなければならない。しかし、そうだから
といって、自分の死後にも同胞のために用いることが一般的に予定されているもので
はない、ということではない。むしろ、自分が苦労して手に入れ、心から愛してきた
「棟方志功の絵」であるからこそ、死後にはほかの人々の心に返したいと思うのが通
例で、棺桶の中に入れて自分の死体と一緒に焼いてもらいたい、誰の目にも触れさせ
たくないと思うのは異例なのではないだろうか。それは、臓器を通常の財産と見るの
とは正反対の心情である。そして、日本人は、臓器に関してアメリカや韓国の人とは
違う見方をしているとは思われない。

 2) 日本人の遺体観
 第二は、日本人の遺体観に関する。日本人は遺体を大切にする、だから日本人には
臓器移植はなじまないのだ、という古くからの考えである。しかし、外国人が遺体を
大切にしないわけではない。外国人は遺体を土葬にし、火葬にする日本人のやり方に
なじまないものを感じるという。しかし、その物理的存続よりも、愛する人の臓器が
人の役に立つことを優先させることが遺体を大切にすることだと思うが故に、臓器移
植により積極的である。問題は大切にする仕方であるということであろう。そして、
この点においても、日本人が臓器について外国人とそれほど違う考え方をしていると
も思われない。

   3) 日本人の国民性
 現在の臓器移植法は日本人の国民性に合致した素晴らしい法律であるから、改正な
ど到底許されない、という人もいる。しかし、以上に見たようにそのようなことはな
い。我々は、脳死と臓器移植は生と死に関する重大な問題であるからこそ、冷静に考
えなければならないのである。日本文化固有論、日本人の国民性の議論が、貪欲な怪
獣のように、一時は皆が必死に考えて議論してきたところを一気に飲み込み、後は何
事もなかったようになるということは、耐えがたいことである。
 本人のopt-inを要件とする現行法の態度は、見直され、検討されなければならない。
議論の結果、あるいは法改正はされないという結論になるかもしれない。しかしこの
点については検討すらしない、議論することさえ許されないとすることは、法律の成
立に当たって、患者とその家族が見直しに期待していたことを裏切るものであるとい
わなければならないだろう。

(了)