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作成:森岡正博 
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論文

 

『現代思想』総特集・分析哲学2017年11月号(180-185)
「人生の意味」の哲学


森岡正博

 

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私はいったい何のために生きているのか。これは多くの人々を捉える哲学の根本問題である。まさに哲学への正面入り口と言ってもいい。西洋哲学においては、大陸のニーチェ、サルトル、フランクルらがこの問題を掘り下げて考えた。それに比べて、英語圏の分析哲学は「人生の意味meaning of life」(「生きる意味」「いのちの意味」)の問題を哲学の中心課題としては扱ってこなかった。もちろん分析哲学の源流のひとつであるヴィトゲンシュタインの哲学の底流に「人生の意味」の問いが激しく渦巻いていることを見逃してはならないし、その後の分析哲学者たちによる一連の重要な研究があるが、しかしながら「人生の意味」の哲学が二十世紀の分析哲学を牽引してきたわけではないことは明らかである。分析哲学の傍流的位置にとどまってきたと言ってよい。そのかわり、このテーマは心理学において盛んに論じられた。

二十一世紀に入って、その流れが変わろうとしている。「人生の意味」の哲学を扱った著作や論文集が次々と刊行され、注目を浴びるようになってきたのである。なかでも着目すべきはサディアス・メッツ(Thaddeus Metz)による『人生の意味Meaning in Life』(オックスフォード大学出版局)の刊行であろう。二〇一三年に出版されたこの百科事典的書物によって、英語圏における「人生の意味」の哲学的議論の構図をクリアーに見通すことができるようになった。二〇一五年には、私が編集長を務める学術誌Journal of Philosophy of Lifeにてこの本の特集が組まれ、一四本の批評論文が刊行された。二〇一七年三月には北海道大学を中心とする研究グループがメッツを招聘し、「人生の意味」をめぐる研究会が行なわれた。メッツは米国出身で、現在は南アフリカのヨハネスブルグ大学で教えている。彼はその地でアフリカの哲学【180】に開眼し、ブータンの国民総幸福量(GNH)の研究に参加し、さらには中国の儒教に強い関心を寄せている。西洋哲学の枠を相対化することのできる新世代の分析哲学者のひとりである。

彼は「人生の意味」についての哲学的立場を図1のように分類する。

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図1

 

まず「超自然主義」とは、人生の意味を神のような超越的な存在者との関係において捉えようとする立場である。この場合、人生の意味は、その超越者から与えられることになる。これに対して、そのような超越的な存在を設定しない立場を「自然主義」と呼ぶ。「自然主義」のうち、人生の意味は個々人の主観によって決められるとする立場を「主観主義」と呼ぶ。自分の人生に意味があるかどうかを最終的に決めるのは自分自身であり、自分以外の者によってそれを決められてはならないとする。これに対して、人生の意味は多かれ少なかれ客観的に決まるとする立場を「客観主義」と呼ぶ。たとえば、メッツの出している例を使えば、マンデラ大統領やマザー・テレサの人生には客観的な意味があるのであり、それは日々利己的でつまらないことに精を出している人物の人生の意味よりも確実に大きいのである。

メッツによれば、現代の英語圏の人生の意味の分析哲学においては、客観主義がメインストリームになっている。メッツは超自然主義を擁護できないものとして退ける。そのうえで、主観主義を取ったとすると、たとえばヒトラーのような極悪人の人生にも意味があるとする考え方を許してしまうことになるから、主観主義も退けられるべきとする。残るは客観主義だけであるが、もし人生における行動の帰結によって人生の意味を評価するのであれば、いくらマンデラやマザー・テレサのような人生を生きようとしても、その結果が伴わないかぎり人生に意味がないことになってしまう。そこでメッツは、結果ではなく、人がマンデラやマザー・テレサのような利他的行動を行なおうと試みているかどうかという意図に着目するのである。

メッツは自らの立場を「基盤主義理論fundamentality theory」と呼ぶ。すなわち、人間の生には、それを成り立たせている基盤的諸条件がある。それは、自由・平等・健康などの「善」、知的・科学的な意味での「真」、アートや文学に見られる「美」である。そして、人の人生は、その人がみずからの理性を、地球上の人々のこれら三つの基盤的条件の改善や進展に向かわせようとすればするほど、意味深いものになるとメッツは言うのである。そしてこの意味深さは、客観的に比較することができるとする。

私はメッツのこの考え方に賛同することができない。まず、マンデラやマザー・テレサの人生のほうが、人々の真・善・美の【181】向上のために行動しない人の人生よりも客観的に意味深いというセオリーを私は受け入れることができない。なぜなら、そのようなことを言いたいのなら、マンデラやマザー・テレサの人生のほうがより人類のためを目指して行動している「高貴な人生」であると言えば済む。それを「意味」の文脈に持ち込む必要はない。むしろ「人生の意味」という概念は、たとえ一見何の役に立っていない人であっても、実は他の角度から見ればその人の人生にも大きな「意味」があったのである、というような文脈でこそ光り輝く概念であると考えられる。誰が見ても人々の役に立つことを目指して生きている高貴な人物の人生について「それは意味のある人生だ」と主張するスタンスに対しては、オッカムの剃刀を発動すべきだ。

メッツに賛同できないもうひとつの理由は、メッツが、人生の意味は客観的に比較することができると考えているからである。メッツに限らず、客観主義の人生の意味論は、人々のあいだで人生の意味は比較可能であるとする。これに対して、主観主義の人生の意味論は、人々のあいだで人生の意味は比較不可能であるとする。すなわち、A氏の人生の意味はA氏のみに開かれるのであり、それをB氏の人生の意味と比較して、どちらがより有意味だとかより無意味だとか言うことはできないとする。しかしながら、そうすると先述のヒトラー問題が起きてくる。つまり、ヒトラーが自分の人生に大きな意味があると信じていたら、それは大きな意味があることになり、我々はそれを認めなければならないことになるが、それでも良いのかという問題である。これは主観主義をひるませるに足る議論であろう。

私自身は人生の意味は比較できないと考えているから客観主義の立場を取らないが、かといって主観主義を取るわけでもない。私は、人生の意味には「人生の意味の中核部分the heart of meaning in life」という層(レイヤー)があると考えている。それは「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」と私が自分に問いかけたときに、その問いが発出してくる層のことを言う。この場合、ここでこの問いを発出しており、またその問いに答えるべく存在しているのは、「独在的存在者」である。「独在的存在者」とは、独我的な「私」とは何かについての議論において案出されてきた概念である。詳しくは拙論「独在今在此在的存在者」(『現代生命哲学研究』第6号、2017年)を参照していただきたいが、「独在的存在者」とは、この宇宙の中でただ一人だけ特殊な形で存在する者を指し示す言葉である。途中の議論を省略して結論を言えば、「独在的存在者」はこの文章をいま読んでいる「あなた」であるとして確定指示される。その方式によっていま確定指示されている者が「独在的存在者」である。「独在的存在者」を固有名詞で名指すことはできない。「独在的存在者」は二人称で呼びかけられることによってのみ確定指示される。

この「独在的存在者」こそが、先に述べた「人生の意味の中核部分」の層から発出する問いを問うことのできる者であ【182】り、その問いに答えることのできる者である。「独在的存在者」以外の者はそれを問うたり答えたりすることができない。そのような「人生の意味」の層が存在するというのが、「人生の意味の中核部分」の理論なのである。

ここでふたたび主観主義に戻ろう。主観主義においては、ヒトラーの人生に意味があるかどうかを問うことができる。もしそれが有意味であるという可能性を認めるならば、ヒトラー問題が生じてしまう。主観主義はここで立ち止まる。しかしながら、「人生の意味の中核部分」の理論ではそうはならない。なぜなら、「人生の意味の中核部分」においては、そもそも「ヒトラーの人生の意味」についての問いは成立しないからである。なぜなら、「人生の意味の中核部分」の問いは、「独在的存在者」によってしか発することができないからだ。しかるに、いまここにおいて「独在的存在者」はヒトラーであるとは言えない。(私が「独在的存在者」であるのと同様にヒトラーもまた「独在的存在者」であろう、などとは言えない。なぜなら、この文章では「独在的存在者」という言葉が正しい文法で使用されていないからだ。この点については先述拙論参照)。したがって、「人生の意味の中核部分」についての問いは、ヒトラーにおいてはけっして成立し得ない。よって、「人生の意味の中核部分」の問いにおいては、ヒトラー問題それ自体が生起しない。

このようなアプローチを「独在主義」と呼ぶことにしよう。メッツの分類を借用すれば、「自然主義」には、「主観主義」「客観主義」「独在主義」の三つがあることになる。「人生の意味」の哲学における「独在主義」は、おそらくこれまで主張されたことはなかった。(詳細は、Masahiro Morioka (ed.). Reconsidering Meaning in Life. Journal of Philosophy of Life. 2015.)独在主義は、人生の意味を問いかつ答えるべき人はいったい誰かについての新しいアプローチである。形而上学における独在論は、日本では永井均が「〈私〉」という概念を用いて長らく議論をしており、入不二基義と私もその議論に加わってきている(『現代思想』本号の入不二論文は独在論と現実性にかかわる重要論考である)。ところで、独在主義的発想を人生の意味論の文脈で明確に指摘したのは、実はフランクルであると私は考えている。

フランクルは『夜と霧』で、私が人生に向かって意味を問うのではなく、人生のほうから私に向かって意味の問いが投げかけられているのであるという「コペルニクス的転回」について語っている。その箇所で彼は、意味の問いを人生から投げかけられているのは誰かについて、次のように述べている。「とにかく具体的な運命が人間にひとつの苦しみを課すかぎり、人間はその苦しみの中にすらひとつの責務を、すなわちひとつの完全に一回的な責務を、見なければならないだろう。人間はたとえ苦しみに直面したときですら、次のような意識へとみずから到達しなければならない。すなわち、そのような苦しみに満ちた運命とともにありながら、いわば全宇宙に一度かぎりそして比類なき仕方でもって立っているの【183】だという意識へと人間は到達しなければならないのである」(拙論「フランクル『夜と霧』における人生の意味のコペルニクス的転回について」『The Review of Life Studies』Vol.7, 2016, p.9)。ここで言われている「全宇宙に一度かぎりそして比類なき仕方でもって im ganzen Kosmos einmalig und einzigartig」立っている者こそが、人生の意味における「独在的存在者」であると私は考えている。

以上の理由によって、ヒトラー問題は、独在主義には当てはまらない。「人生の意味の中核部分」を問うて答えるところの主体が誰かという点、およびそれが他と比較可能かどうかに対しては、独在主義はクリアーな答えを与えることができる。メッツの分類に、独在主義を付加すべきである。

では、そもそも「人生の意味」とは何なのだろうか。これについてはこれまで様々な見解が提案されており、ここでそれを整理することはできない。そこで、現時点で私が考えていることを少しだけ述べることにする。「人生の意味」を表わす英語表記として「meaning of life」と「meaning in life」がある。メッツは後者の表記を採用している。後者では、人生における意味、すなわち人生において何をすることが有意味なのかという問いが思索される。これに対して、後者から前者を見たときには、それは人間存在の意味、すなわち宇宙に人間が存在することの意味あるいはその目的を問うものと見える。

私はこの二つを、まずは関係性の視点から次のように押さえてみればどうかと考えている。第一に「meaning of life」は「人生全体の意味」である。それはすなわち、私の人生の全体が、私の外部にあるものへとどう肯定的に位置づけられるかということに関わっている。詳しく言うと、私が肯定的に評価する私の外部のものへと、これまでの私の人生の全体が、かけがえのないひとつのピースとして肯定的に組み込まれることが、意味のある人生の内実であるということになる。このような考え方の背景としては、自分自身のみによって自分の人生の全体の意味を決定することはできないという直観がある。私の人生の全体に意味があるとすれば、それは私と、私の外部にあるものとの関係に基礎づけられる必要があるというわけである。この場合、外部にあるものとしては、私以外の他人や、コミュニティや、国家や、人類や、大自然や、超越者などがあり得るであろう。メッツの言う超自然主義の考え方は外部として超越者が想定されており、客観主義や主観主義では主に人類社会が想定されていると考えられる。

私のこの考え方は、人生の意味をある種の「肯定」として理解するものとなる。その場合、人生の意味とは「肯定すること」なのか「肯定されること」なのかという問題が立ち上がってくることになるだろう。この点は、他者からの承認、全体主義、自由からの逃走などの問題系に接続される。また、関係性の視点から見たときに、自分の人生の全体の意味は自分自身のみによって与えることができるとする立場をどう考えればいいかという問題が生じる。たとえば、自分が設定し【184】たある目標を自分自身で達成することが人生の全体の意味であるとする立場などである。しかし自分がその目標を設定するときに自分の外部との関係や外部の価値観が忍び込んでいないかどうかは精査しなければならないであろう。

次に「meaning in life」は、「人生における出来事の意味」である。それはすなわち、人生に起きたある出来事が、私の人生の全体の中に、そのかけがえのないひとつのピースとして肯定的に組み込まれることが、その人生において意味のある出来事であるということになる。ここで「肯定的に組み込まれる」とは、人生においてその出来事が起きてよかったというふうに振り返ることができるということだ。ということは、人生において肯定的には組み込まれない出来事もあることになる。たとえば、家族が惨殺されたなどの出来事は、そのような形では人生に組み込まれにくいであろう。しかしながら、長い年月が経過したあとで、その出来事があったからいまの自分の肯定的な生があるというふうにして出来事の位置づけが変わることはあり得る。このように考えると、「人生における出来事の意味」は、その後、人生を振り返るたびごとに異なったものとして現われ得るのである。これは、人生の全体が一種のゲシュタルトとして、絵画のようなものとして、ナラティブとして、value-ladenなものとして、一種のembodimentとして成立していることを示している。この問題はすでに人生の意味の哲学において論じられてきた。私も拙論「誕生肯定とは何か」(『人間科学:大阪府立大学紀要』6号、2011年)に始まる一連の論文おいて論じた。人生の意味の哲学における根本的な問いのひとつである。

以上のように、「人生の意味」の問いを、「人生を肯定すること」の問いとして捉えてみたいと私は考えている。このような視点から見ると、人生の全体は否定されなければならないとするショーペンハウアーやデイヴィッド・ベネターらの反出生主義anti-natalismは、人生の意味がどこにあるかを探そうとする哲学を全否定する試みだということになるだろう。それに対して、私はかねてよりその逆方向にむかって、すなわち「誕生肯定の哲学」の方向へと哲学的思索を進めてきた。私は反出生主義が出てくるその動機には大きな共感を持つのであるが、哲学はそれとは逆方向の可能性を探らなくてはならないと考えている。人生の意味をめぐる分析哲学は、この試みを進める豊穣な領野としてこれから開けていくはずである。この潮流に日本から貢献できることはたくさんある。【185】

(終わり)