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作成:森岡正博 
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エッセイ

 

『Transview』6号 2003年8月 1〜2頁
ジャンルを超えた挑発 『無痛文明論』予告編
森岡正博

 『無痛文明論』が、とうとう今年一〇月にトランスビュー社から刊行される。雑誌の連載をはじめたのが一九九八年だったから、もう五年間も書き続けてきたことになる。私がいままで書いた本のなかで、これが最高だと思う。期待と不安感で胸がいっぱいだ。
 人々の寿命が延び、ものが溢れる社会になったのに、どうして人々は顔を輝かせて生きていないのか。その背景には、物質的な豊かさとひきかえに、われわれから「よろこび」をシステマティックに奪っていく文明の仕組みがあるのではないか。
  私は、子どもの暴力や、新宗教に惹かれる人間の心理などを例にとって、「無痛文明」へと呑み込まれてゆく現代人の姿に迫った。その迫り方が、あまりにも常軌を逸していたために、雑誌連載時から大きな反響を呼び、インターネットを巻き込んだ賛否両論の嵐となった。自分でも、ここまで書いていいのだろうかと何度も思い悩むことがあった。連載を終えてから、全体を二度書き直し、長大な二つの章を、さらに書き下ろした。
  私は、この本によって、現代思想の可能性を一歩進めることができたと思う。『無痛文明論』は、日本よりも、海外での反響のほうが大きいかもしれない。思索とは、文体をも含めた一個の実験であるということを、この本を書きながら実感した。
 「無痛文明」とは、苦しみとつらさのない文明のことである。たとえ苦しみやつらさがあったとしても、そこからどこまでも目をそらしてゆく仕組みが、社会のすみずみにまで張りめぐらされている文明のことである。われわれは、そこで快適さや快楽を得るが、それとひきかえに、「よろこび」を奪われ、自分を内側から破って自己変容する可能性を閉ざされてゆく。その先にあるものは、何か。それは、快楽と眠りに満ちた、生きながらの死の世界だ。すべての人々が表面上はにこにこ笑いながらも、心の奥底では絶望して、かつその絶望からも用意周到に目をそらし続けていくような世界だ。
 『無痛文明論』は、この悪夢のような世界をどこまでも描き込んだ。自傷行為にはしる子どもたち、空虚な快楽ゲームにはまる大人たち、管理化される自然環境などの向こう側に、われわれは「無痛文明」の姿を感じ取ることができる。
   「無痛化」を引き起こす原動力は、われわれ自身の内部にひそむ「身体の欲望」だ。苦しみよりも快楽のほうがほしい、手に入れたものは手放したくない、隙あらば拡張したい、他人を少々犠牲にしてもかまわない、人生と自然をコントロールしたいという「身体の欲望」が、現代社会を次々と無痛化する。「欲望」が「よろこび」を奪うというのが、現代文明の本質なのである。
   無痛化する現代社会のなかで、悔いのない人生を生き切るためには、どうしてもこの「無痛文明」と戦わなくてはならない。しかしながら、「無痛文明」とは、それと戦おうとする者の力を吸い取りながら、ますます強大になってゆく文明なのである。
 この地獄のような敵を前にして、われわれにはいったい何が可能なのか。私はこういう本を、もう二度と書くことはできない。エッセイでも、論文でも、文学でもなく、かつそれらすべてであるというこの本は、ジャンルを超えて読者を挑発することだろう。