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『法律時報』72巻9号p.54-59,2000年
アメリカおよびドイツの脳死否定論 
外国における脳死論議の新しい動向            
中山研一                 


入力ボランティア:宮崎真由
*【数字】の箇所で、印刷頁が変わります。数字はその箇所までの頁数です。

 

一、はしがき

 本紙[入力者註:『法律時報』]の1999年10月号に、ドイツの刑法学者シュライバー教授の論稿の翻訳が掲載されているが、その「訳者前書」には、シュライバー教授の日本の移植法への評価として、それが相容れない二つの見解の間での不可能な妥協物であって、明らかに破綻したものであり、立法の過誤ではないかとされたという指摘がなされている。そこには、明らかに日本法の施行三年後の見直し(2000年10月)に、一つの根拠を与えようとする意図が存在するように思われる(註1)。
 しかし、その反面、最近のドイツの臓器移植立法の過程では、「同盟90・緑の党」から脳死を人の死としない立場から、本人の提供意思のある場合に限る「狭い同意方式」の提案もなされ、少数で否決されたものの、ドイツでも無視しえない別の「選択肢」のありうることが顕在化するに至ったことも事実である。
 そこで、本稿では、すでに「脳死説」が定着したとされ、その前提の下で脳死移植が広く実施されている欧米の諸国においても、「脳死論議」は必ずしも決着したものとはいえず、とくに最近になって否定論が台頭するという皮肉な現象があることにも注目し、そのいくつかを紹介することによって、上述のシュライバー説との比較から、わが国における冷静な論議の必要性を指摘したいと思う(註2)。

二、アメリカの脳死否定論

 これは、アメリカのハーバード大学医学部の麻酔および小児科の準教授、ならびにボストンの小児病院の総合集中治療施設の長である、ロバート・トウルオグの「脳死を放棄すべき時か」と題する論文で、アメリカの生命倫理に関する有力な雑誌に出た最近の論文である(Robert D. Truog, Is it Time to Abandon  Brain  Death? Hasting Center Report, January-February,27,no.1,1997)。
 その内容は紹介ずみなので、ここではその要旨の中心的な部分を簡単に要約しておく。
 《全体の趣旨》 一般的な受容にもかかわらず、「脳死」の概念は理論的な一貫性を欠き、実務的にも混乱がある。この概念が奉仕した唯一の目的は移植可能な臓器の確保にあったが、臓器確保のための別の基準を採用すれば、この概念を放棄することができる。この概念は基本的な欠陥を有し、単に「表面的で崩れやすい合意」を得ているにすぎず、最良の解決は、その諸矛盾の淵源を探り、脳死概念を全面的に放棄することにある。
 《脳死の定式化への疑問》 第一に、テスト=基準の関係については、脳死のテストをすべて満たした多くの者が「全脳の機能の永続的停止」に至っていない証拠がある。とくに、これら多くの者は、脳幹および中脳のレベルにおける脳機能を明確に保持している(神経ホルモン、電気的活動)。脳死患者からの臓器摘出の際に、脈拍および血圧の著しい上昇が見られる。「全脳」死の基準は、ひとつの「近似値」にすぎない。患者のある部分が一定期間内に心停止に至るであろうことの証明は、彼が「死につつある」ことを示すのみで、「死んだ」ことを何ら示すものではない。第二に、脳死説は脳が身体の最重要な臓器であり、「統合的な」【54】臓器の機能は他のいかなる臓器や人工的な手段によっても代替しえないという直感的な考えに依拠しているが、脳幹の機能は近代的な技術によって完全に代替可能となっている。しかも、医療専門家でさえ、意識の永続的喪失を死の基準と誤解したり、臓器提供を決心しない者の多くは、脳死を人の死とすることに不安感を抱いている。
 《全脳死公式に対する代替案》 脳死説に対する代替案の第一は、意識の永続的停止を死の基準とする「大脳死説」であるが、永続的な植物状態や無脳児の診断の困難性を別としても、呼吸している患者を死んだものとすることはできないという批判に遭遇する。第二の代替案は、伝統的な心肺基準に復帰することであるが、そこにどのような障害があるかを検討する必要がある。ハーバード委員会は、脳死の診断を生命維持装置の取り外しのための条件として明確に認めたが、この決定は、今や患者の事前の希望および患者の最良の利益に関する判断によって行われ、死の定義との直接的な関連はなくなった。そこで、最終的に残るのは、臓器移植の要件との関連である。
 《臓器移植》 脳死説は、臓器移植の必要に対応するものであったが、アメリカではプラスよりマイナスに転化しつつある。限られた臓器のプールを拡大するために、ピッツバーグ大学のプロトコールでは、脳死基準を満たしていない場合でも生命維持装置を外した直後に臓器の摘出を認めているが、それは死の過程と定義に操作を加えるという点で不自然で異様な感じを与える。むしろ、臓器移植の前にドナーの死を要求することを放棄し、その代わりに同意(consent)と不侵害(nonmaleficience)の原則を用いるべきである。臓器の摘出は、むしろ正当化された殺人という形で正当化されるべきであり、安楽死に対する増大する支持によっても示されているように、一般的には必ずしも異端ではなく、正当化された殺人として法的に解釈され得る今ひとつの事例である。
 《死の診断》 この観点からすれば、脳死の概念はもはや古いものとなるであろう。また、伝統的なアプローチに帰ることの今ひとつの利点は、実際にすべての文化的・宗教的な伝統がこの伝統的な死の定義を共有しているという点である。
 以上が、最近アメリカに現れた新たな脳死否定論の要旨である(註3)。

三、ドイツの脳死否定論

 ここでは、最近現れた二つの論稿をとりあげる。一つは、刑法学者のトレンドレの論文であり(Herbert Trondle, Der Hirntod, seine rechtliche und das neue Transplantationsgesetz,Festschruft fur H.H.Hirsch,1999)、他の一つは、前司法大臣のヨルツイヒの講演を収録した小冊子である(Edzard Schmidt-Jortzig,Wan ist der Mensch tot?, Beck'sche Verlagsbuchhandlung, Munchen 1999)。[入力者註:下線部分はウムラウト]
 以下に、この二つの論稿の要旨を簡潔に要約紹介する。

1 トレンドレの所説

 臓器提供にとって重要な意味をもつのは、脳の死が人の全体死と認められうるのか、つまり臓器摘出が死体から行われるのか、それとも脳死が死の過程の不可逆性を示すに過ぎず、なお生体からの摘出を意味するのかという問題であり、それが同意方式に影響する。
 ドイツの新臓器移植法は、脳死説から出発し、臓器摘出の要件としては「広い同意方式」をとったが、次のような強い法的な疑問がある。第一に、医学的になお争われている問題を法律的に決定することは、立法者の権限と資格を越えるものであり、第二に、潜在的なドナーの本人の同意なくして臓器を摘出することは、その人の基本権的な地位を侵害する。
 脳死反対論者にとっても争われないのは、全脳の臓器死の到来が不可逆であって、それが「不帰の点」であるということのみである。しかるに、立法者は、死の過程の不可逆性を「死」の中に組み入れてしまった。このことは、立法者がこの学問的な問題を、反対論を無視してまで、あたかもその適切な解明が立法者の意思に依存するかのごとく、権威的に決定したことを意味する。もちろん、脳死説の擁護者も数多く存在するが、法律家は脳死批判者の論議が立法過程で単純に無視されるべきではなかったことを確認すべきであり、その主張の証明責任は脳死肯定論者にある。学問的に争われている問題を、ひとつの目的志向的な議会多数派の決定に優先させてはならない。
 立法者は、「広い同意方式」を採用したが、それは本人の同意を要件とすれば臓器提供者の出現が広範に抑制されてしまうという懸念によるものであったことは明らかである。しかし立法者は、臓器摘出のために常に本人の同意を要求することによって、潜在的なドナーの法的地位を決定的に改善しうるのであり、この自己決定権の解明を免れるために反対論を無視したことは、結局は臓器提供行為にも生産的には働かないであろう。【55】
 脳死を人の全体死と同一視することには疑義がつきまとっている。脳死者は外見上死の通常の徴候を欠いているだけでなく、臓器摘出の際にも、血圧が急激に上昇することがあり、突然の運動を考慮することは麻酔医にとって必要である。脳死状態の妊婦が健康な子を生むことも知られている。人間を身体と精神の統一体と見る場合には、脳死を全体死と同一視することはできない。
 脳死者からの同意のある臓器摘出を殺人罪に問うことは実体に反する。ドナーは、殺人に同意するのではなく、ただ自らが不可逆な死の過程にあり、その生命が人工的に維持されること、そして臓器の摘出によって他人の生命が救われるであろうことに同意するに過ぎない。各人は、自己の死の方式について自己決定することができる。人が不帰の点に達し、不可逆な死に近づき、生存時に意思表示をしたならば、利他的な動機からその臓器を処分することを妨げられない。それは、殺人の意味ではなく、ただ不可逆の死の過程の延長という意味に限定される。シュライバーは、生命の質を区別できないというが、不帰の点を越えて死が不可逆となった場合に、その生命の保護を「完全な生命」に方向づけることなく、生存時に表明された提供者の意思を考慮することは、生命の保護を相対化するものではない。
 不可逆な死の段階にある人に自己決定権を認めず、臓器の摘出は殺人になるとする論議の背景には、臓器の不足に対処するために、全く同様な事態を「死体」に対する侵襲であると説明することによって、反対論を否定する人為的なトリックが隠されている。また、脳死者からの同意にもとづく臓器の摘出を許せば、積極的安楽死に門を開くというシュライバーの懸念にも理由がない。不可逆的な死の過程の引き延ばしは、殺人の真摯な嘱託と比較することはできないからである。
 臓器提供の不足は、脳死論議の根本的な側面を矮小化してしまう。長い目で見れば、親族を突然の悲しみの中で他人の利益を考慮するという深い当惑状態に直面させるよりは、本人の提供意思を条件とし、その自己決定権を保障し尊重する方が、より効果があり、見込みもあるというべきである。

2 ヨルツイヒの所説

 近代医学の発展は、生と死の限界に関する新しい問題を提起することになったが、それは、確実な死の基準は何か、脳死の後にも身体機能を維持しなければならないか、そして、臓器の摘出はいつ許されるか、という三つの問題である。
 この問題の解決のために、新しい死の基準が作られ、解決策として「脳死説」が提案され、それがドイツでも学説、判例、そして最近の立法によっても承認された。私は、連邦司法大臣として、多数の意見が法的に維持可能であり、憲法にも違反しないと述べたが、個人的には脳死と人の死との同一視という考え方には疑問があり、実際にもその必要がないと考えている。
 人の死に関する問題に対する妥当な解答は、法学にも医学にも与えられない。この実存的な問題に対する最終的な解答は、その採決不可能性と一身専属性の故に、立法者にも属さない。法律家はただ限界を画しうるに過ぎず、医家は不可逆的な機能停止の事実を提示しうるに過ぎない。
 脳死説は、人間の脳の二つの重要な機能として、有機体に対する統制および統合機能、および人間の意識と精神性に対する変更不可能性を援用する。しかし、脳が精神的なすべてに対する必須で代替不可能な身体的基礎であるという論議には、すでに前提において欠陥がある。脳死の後にも意識が存在することを誰が否定しうるのか。また、人間の生命が意識なくしては存在しないとすれば、無脳児や不可逆的に無意識の患者は死者ということになる。そこで、脳死説は人の生命が脳の統制および統合機能に依存するという論議に移行する。しかし、この根拠づけも、エアランゲン妊婦の事例で疑問にさらされた。この事例は、脳死説が各種の臓器システム、脊髄運動、およびホルモンの相互作用を見誤っていることを示した。ここでは、単なる反射または脊髄運動ではなく、脳死にもかかわらず複雑でなお機能する身体的な全システムが問題になっていることは明らかである。
 結論として、脳死の概念は完結的で説得的な論議ではなく、一連の証明されていない前提であり、承認することも否認することも可能である。私見では疑問の方が大きい。この疑いがある限り、脳死概念によって短縮された生命の定義は妥当とはいえない。
 では、脳死概念からの訣別がいかなる帰結を生み出すのか。私見によれば、人間の生においても死においても多面性と全体性を認めなければならない。脳の死は人の死ではなく、死の確実で不可逆な始まり(不帰の点)として現れる。それは、死者ではなく、死に行く人、生から死への不可逆な移行過程にある人である。
 脳死概念が近代医療にもたらした上述【56】の三つの問題の解決は、脳死を人の全体死と認めなければできないわけではない。第一に、現在のドイツでも死亡者のごく一部においてのみ連邦医師会の準則による脳死判定が行われているにすぎない。しかし、この領域においても、不可逆的な心肺循環停止の医学的判定によって、脳死基準に代替することに問題はない。次に第二として、脳死概念が死に行く患者の治療の限界を画するという機能も、事実上失われており、脳死者においては、死の過程が始まっている限り、医師の治療義務の停止という個々の場合の決断が可能である。
 最後に第三として、脳死概念が生きた臓器の摘出を許容するという命題が問題である。脳死説の論者は、移植医療の存続にとって脳死概念が必要であり、さもないと臓器の摘出は可罰的な嘱託殺人にあたり、それは許容されない積極的な死の援助に匹敵するというのであるが、しかしそれは明白に誤っている。脳機能の不可逆的な消滅と脳死との間の段階を消え行く生命と見た場合にも、臓器の摘出は基本権的な保護法益へのひとつの攻撃であろう。それはしかし、たとえ機能している臓器の摘出によって心臓死が到来したとしても、なお必ずしも許されない殺人とはいえないであろう。
 なぜなら、脳死とともに心肺循環機能をそれ以上維持する医師の義務は終了するので、臓器移植が不可能な場合には、その措置を中止し、または臓器摘出が可能ならば、積極的な同意の下に、その措置を維持し、かつ摘出後直ちにすべての措置を停止することができる。したがって、患者の同意の下に脳死の到来後に行われる臓器摘出は、嘱託殺人でも積極的な死の援助にも当たらない。前者では、医学的な介入がなく延長された生命が失われるのに対して、後者では臓器移植の目的でのみ人工的に延長された生命が、その本人自身によって決定された目的を果たすのであって、可罰的な殺人は全く問題にならない。
 総括的にいえば、私の観点からは、脳死と全体死との同一視は説得的な根拠もなく、実務の必要にも資するものではない。さらに、脳死概念はすでに短期間に、医学的な発展および世論の意識の変化によって、時代遅れのものとなるであろう。人間の全体的な観点への再考慮が生じ、生においても死においても、人間の誕生、存在および消滅の多面性が万物の霊長に対する尊重をもって見直されるであろう。
 以上が最近のドイツにおける脳死否定論の代表的な主張である(註4)。

四、 若干のコメント

 以上で、最近のアメリカとドイツにおける脳死否定論の趣旨と内容を要約的に紹介したので、残された紙数の範囲内で、シュライバーの肯定説との比較を含めて、いくつかの論点を抽出し、私見による評価を加えておきたい。
  まず注目すべきは、「脳死説」がすでに長年にわたって学説上も実務上も定着し、なんら問題はないとされてきたアメリカやドイツにも、その根本的な前提において明白な反対論が存在すること、しかもそれが最近になって台頭の兆しを見せているという点である。従来わが国の脳死説の論者は、日本の反対論や慎重論が国際的に通用しない孤立した見解であると批判してきたのであるが、今では脳死論議が国際的にも共通のものであることを認めざるをえなくなってきている。それでも、論者は、これらの否定説がなおきわめて少数であって、依然として肯定説が「圧倒的な通説」であることを強調するのである。しかし、むしろ逆に、ドイツの連邦議会で、脳死を前提としない案に202票もの賛成があった(反対は424票)という事実は、率直に驚きであるというほかはない。また、日本のように、本人の書面による意思表示に限るとする案にも133票もの賛成があったことも特筆すべきである。これを否決された少数説として軽視することはフェアな態度ではないであろう。
  本稿で紹介したアメリカとドイツの脳死否定論については、その間に存する共通点を前提としたうえでも、アメリカとドイツの否定論の間に決定的な相違があることを、まず指摘しておく必要がある。それは、ドイツの二つの否定論が、脳死を人の死と認めないとしつつも、脳死は「不帰の点」として、その厳格な判定が脳死移植の際の必須の要件であると明言しているのに対して、アメリカのトウルオグの所説では、「脳死」を臓器移植の要件からも解放して、脳死状態に達しない段階にまでドナーの範囲を拡大するという実際的な効果が目指されているという点に現れている。その場合のドナーの対象は、持続的な植物状態患者または無脳児にまで広がることが予定されているのであって、これは結果的に「大脳死説」からの結論と実質的に符合する。これは全脳死説からの帰結をも越えるものであって、とうてい許容することはできないというべきである。
  さて、最大の問題は、これらの三つの論稿が主張する脳死否定説の論拠と【57】脳死否定説からの脳死移植肯定の論理についてである。ここには、シュライバー説との間に全面的な対抗関係が存在するが、必ずしも論議がかみあっていないうらみがある。
第一は、全脳死説に対する批判であるが、この点については、上記の三説に基本的な共通点があり、それはこれまでわが国をも含めて、脳死説に対する理論的・実際的な批判として展開されてきたものと基本的に対応し符合するものであるといってよいであろう。三者とも、脳死は「不帰の点」であるとしても、脳死患者は「死者」ではなく「死に行く人」であるという点において一致しているが、トウルオグが脳死後の人工呼吸器による「脳幹の代替」機能を指摘し、トレンドレが学問的に争われている問題に法律が権威的に決着をつけることに疑問を提起し、ヨルツィヒが脳の代替不可能な精神性(意識)に基礎を置くことを批判している点のほかに、とくに後の二者は、脳死説が「広い同意方式」に基礎を与えるという政策との関連性を指摘しているのが注目をひくところである。
 第二は、脳死否定説から脳死移植をいかに根拠づけるべきかという点であるが、この点については、アメリカのトウルオグが単に「同意」と「不侵害」をあげ、代理人の同意も認めるとしている点できわめて不十分かつ不徹底といわざるをえないのに対して、ドイツのトレンドレとヨルツィヒは、これを自己による「死の方式」についての自己決定権の行使、あるいは生命の人工的な延長とその過程における臓器摘出による他人の救命、およびその後の維持装置の停止の同意という形で構成し、それは殺人にも自殺援助にも当たらないとしているのが注目される。その構成方法は、必ずしも明らかとはいえないが、一種の「尊厳死」に類するものとして位置づけられているものと思われ、わが国の学説にも同様の趣旨のものが存在する(酒井安行・法セミ453号44頁、1992年)。しかし、シュライバーの批判にあるように、臓器摘出は明らかに「作為」による心臓死の惹起であって、同意によっても違法性を阻却することはできず、他人の救命を理由とすることは「生命の質」を相対化することになるという批判には、正面から答えるものとはなっていない点で、なお不十分さを免れない。自己決定権を強調すれば、「安楽死論」に傾くという懸念も払拭できないであろう。
  では、シュライバーの脳死説とそれにもとづく「広い同意方式」の適用という見解には問題はないであろうか。この方は、上記の脳死否定説の場合とは逆に、脳死を人の死と認める前提に立つ限り、「死体」からの臓器摘出は近親者の同意によって合法化されるという論理によって、殺人や自殺援助の違法性阻却といった困難な問題を最初から回避できる点に最大のメリットがある。しかし、問題は、その前提となる「脳死説」自体の妥当性が、医学、法学、哲学、倫理学、人間学、宗教学等の広い分野でなお争われ、さらに一般世論の意識にも明確に定着したものとはなっていないという点にある。
 シュライバーの所説は、伝統的な心臓死説が不安定で「脳死説」がはるかに明確に「不帰の点」を確定しうるとするが、しかしそれだけではこれを「死体」として扱うという論証にはならない。全脳死説に対しては、「外観」からする素朴な疑問以上に、脳という器官の本質的重要性を論証しようとするとき、その精神作用を根拠にすれば容易であるが、それは大脳死説に至る可能性があり、これを回避しようとすれば「有機体としての身体各器官の統合」という弱い論拠に依拠せざるをえないというジレンマが存在するという正鵠な指摘がなされていることに注目すべきである(井田「脳死説の再検討」西原古稀3巻53頁、1998年)。シュライバーの所説には、脳死説に内在する困難な問題性の指摘は全く見られず、脳死の「社会的合意」にも、他の分野への波及効や少数の反対者に対する配慮にも全く言及がない点にも問題がある。
  最後に、以上の論争を前提として、わが国の新しい臓器移植法について一言しておくと、それが臓器移植の場合でドナーが提供の意思を表示した場合にのみ「脳死した身体」を「死体」として臓器摘出を認めるとするものである限り、それは二つの死を認めることになり論理的にも矛盾した妥協案であるという批判が提起された。しかし、ドナーの自己決定によって脳死の選択を認めるという考え方は、すでにかつての日本医師会生命倫理懇談会の中間報告(1987年)および最終報告(1988年)にも部分的に現れており、日本のみならずアメリカのヴィーチなどの見解にも見られたところであって、決して新奇なものではない(中山・脳死・臓器移植と法、41頁以下、51頁以下、130頁以下、1989年)。人の「死」がその人の自己決定に依存することを正面から認めることは背理であるとしても、「脳死を一般化しない」という最低限の合意の枠内で、部分的に「脳死」を認めようとすれ【58】ば、本法のような自己決定を基準とする解決に至るのもやむをえない帰結であったというほかはないであろう。
 一方、これに対しては、逆に、脳死説の立場から本法を再構成し、それが脳「死体」からの臓器摘出を認めていることを理由に、ドナーの意思のほか遺族の意思も含む「広い同意方式」で足りるとすべきだという提案もなされており(町野ほか「脳死移植の法的事項に関する研究―現行法の三年後の見直しに向けての提言」)、ドイツの臓器移植法もその意味から援用されるのであるが、この提案はかつての中山修正案以前の「各党協議会案」(平成6年4月国会提出)にまで遡ることを意味するものであって、未決着の脳死論議を再燃させるおそれが大きいといわなければならない。
  結論的にいえば、ここで紹介したアメリカとドイツの脳死否定論は、すでに両国において圧倒的な多数説となっている「全脳死説」に対して、公然と根本的な批判を提起したものとして注目に値する。とくに、全脳死説に対する批判の部分には十分な説得性があり、積極的に評価しうるところが多い。しかし、脳死否定論の立場からの脳死移植の根拠づけについては、シュライバ?説などからの批判に十分に答えたものとはなっていないうらみがある。この点の論争は、すでにわが国でも展開されているが、ここでも、最近、脳死移植が従来からの尊厳死論による生命保護の相対化に「一歩」踏み出すものかという形での問題提起がなされていることに注目しなければならない(井田「臓器移植法と死の概念」法学研究70巻12号204-5頁、1997年)。しかし、問題解決の困難性を理由に、脳死説に帰るというのでは、論争の意味がなくなってしまうであろう。むしろ、ドイツの臓器移植法のような多数決による決着が、とくに反対者の保護や、移植以外の救急医療、人体の解剖や実験などの他の分野にどのような波及効を及ぼすのか、といった点を批判的に見定めなければならない(註5)。
 

(1)私の気のついただけでも、シュライバー教授のこの問題についての所説については、すでに1994年段階から、日本での講演の内容が雑誌に紹介され(専修法学63号)、1997年にも論文の翻訳が雑誌に掲載されているので(日本法学63巻3 号)、今回はすでに同一の問題についての三回目の紹介に当たる点でも、やや異常な繰り返しの感じをおおいえないものがある。
(2)アメリカの脳死否定論(トウルオグ)についてはすでに雑誌に紹介ずみであるが(北陸法学5巻3号、1997年)、ドイツの脳死否定論(トレンドレ、ヨルツィヒ)についても、その内容を近刊の同雑誌に紹介した(北陸法学7巻2号、3号、1999年)。
(3)なお、この論文には、全脳死基準に対するその他の選択肢として、アメリカ・ニュージャージー州の「脳死の拒否権」を認めた立法(これについては、中山・脳死移植立法のあり方、成文堂、1995年、70頁以下、参照)のほか、伝統的な心臓死基準を最低基準とした上で、「高次脳基準」を死の定義として選択する余地を残すというエマヌエル(Linda Emanuel)の提案も紹介されている。
(4)以上のアメリカとドイツにおける脳死否定論には、後述するように、若干の異同が見られるが、基本的な観点において相互に共通性が見られるのであり、トレンドレはトウルオグを、ヨルツィヒはトレンドレの所説を引用している。なお、ドイツでは、それ以前からもすでに脳死否定論は展開されていたが、それらについては、むしろ日本の脳死説の論者が取り上げて批判的な紹介を試みている(斉藤誠二・医事刑法の基礎理論、98頁以下、1997年、同「ドイツの臓器移植」西原古稀論集3巻71頁以下、1998年)。
(5)本稿に関連する問題を検討した最近の拙稿として、以下のものがある。中山「脳死と安楽死―自己決定権との関連をめぐって」北陸法学7巻1号21頁以下、1999年―中山・安楽死と尊厳死、208頁以下、2000年、所収、同「二つの『生』と二つの『死』―脳死の位置づけをめぐって」ホセヨンパルト教授古稀論集、337頁以下、2000年、所収。

(なかやま・けんいち 京都大学名誉教授)【59】

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