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『中央公論』1995年5月号 76−84頁
人間の本性と現代文明       森岡正博


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 「保全」の思想と「保存」の思想の対立

 いまの文明の姿をくっきりと見て取るためには、とりあえず「生命」や「自然」にこだわってみるといい。というのも、現代文明の中で、人間が宿命的にかかえこんでいるいくつかの矛盾が、そこにクリアーに噴出しているからだ。
 たとえばエコロジーや地球環境問題をめぐって、我々がどのようなジレンマに陥っているか。あるいは脳死・臓器移植などの生命倫理、高齢者への社会福祉などの現場で、どのような矛盾や混乱がおきているか。
 現代の生命と自然の問題群は、現代文明と人間が陥っている袋小路を映す、とても性能のいい鏡である。その鏡から目をそらすことなく、じっと見つめ続けていると、人間の内部にひそんでいる欲望や本性の姿が浮かび上がってくる。
  昨年、『仏教』(二七号)という雑誌に「生命の二つの本性―環境倫理と生命倫理を結ぶもの」という小論を書いて、けっこう反響があった。その後、多くの人と議論しているうちに、その奥にもっと深い問題がひそんでいることに気付いた。ここでは、人間の生命の本性という窓から、現代文明の姿がどのように見えてくるのかについて、そのアウトラインを示してみたい。
 まず、人間と自然の関係について考えてみる。
 現代の産業文明は、自然環境を猛烈に破壊してきた。だから、失われゆく自然を保護してゆかなければ人類に未来はな【76】い。こういう言説が、近年のエコロジーブームにのって世間に溢れている。
 失われゆく自然を保護しなければならないというとき、その背後には、まったく異なる二つの思想が潜んでいる。環境倫理学は、この二つの思想のことを、「保全」の思想と「保存」の思想というふうに呼んできた。
 この二つの思想の違いは、「自然環境を守らなければいけないと言うが、ではそもそもどうして自然環境を守らなければならないのですか? その理由は何ですか?」と問いつめることで明らかになる。
 まず「保全」の思想は、その問いかけに対して次のように答える。自然環境をこのまま破壊してゆくと、ゆくゆくは人類がたいへんな危機に遭遇することになる。自然環境を破壊から守らないと、将来世代の人間たちがとんでもない悪環境で生活しなければならなくなるし、ひょっとしたら人類は滅亡するかもしれない。だから、自然環境を保護しなければならないのだ。
 保全派のこの答えは、要するに、人間が危機に陥らないようにするために自然環境を守るのだという考え方である。つまり人間を守るために、自然環境を保護するというわけである。人間のために自然保護をする。つきつめれば、人間中心主義の自然保護だと言える。
 これに対して、「保存」の思想は別の答え方をする。自然環境を保護するのは、なにもそれが人間のためになるからではない。何千年もかけて作り上げられてきた原生林や、生態系の豊かな生命のネットワークは、それ自体たいへん貴重な価値をもっている。人間は、それらの尊く豊かな自然を、自分たちの生活のための道具として処分してはならない。我々は、豊かな自然環境のもつすばらしさを尊重し、それになるべく手を付けない形で保護してゆかなければならない。
 保存派のこの答えは、要するに、自然環境はそれ自体尊く貴重な価値をもっているから、それを保護しなければならないという考え方である。つまり人間にメリットがあるかどうかということと切り離して、自然環境を保護しなければならないと考えるのである。自然のために自然保護をする。つきつめれば、人間非中心主義をめざした自然保護だと言える。
 この二つの思想は、ふつうは我々の内部に共存しているので、どちらの考え方も論理としては理解可能である。人に自然保護の大切さを説くときでも、この二つのレトリックを行ったり来たりしながらしゃべったりする。
 しかし、この二つの思想は、その根底では、お互いに全く対立する本質をもっているのだ。だから、たとえば貴重な原【77】生林をどのように保護してゆけばよいかをめぐって、対立をはじめる。保全の思想は、原生林に林道をつけて、間伐材を回収し、原生林の景観を管理しきってゆくことこそが自然保護だと考える。これに対して保存の思想は、原生林の生態系を手つかずでそのままサンクチュアリにして残すことこそが、自然保護だと考える。この対立は、たいへん根深い。それは、後述するような、人間の本性レベルの対立を背負っているからである。

「情けは人のためならず」か「惻隠の情」か

 さて、これとよく似た対立図式が、社会福祉の場面でも現われてくる。
 この対立は、いま紹介した対立とはまた別種のものである。しかしその矛盾のあらわれ方はよく似ている。
 日本社会は、これから超高齢社会へと突入してゆく。二〇二五年には、国民の四人にひとりが六五歳以上の高齢者となる。
 日本社会が二一世紀も円滑に機能してゆくためには、老いや障害や病気をもった弱い人々の生と暮らしを、健康で余力のある人間たちが充分にサポートしてゆけるような福祉社会システムを作り上げなければならない。
 そういう助け合い、ささえあいの社会が理想であることに異議を唱える人は少ないだろう。しかし、人間はきわめて利己的な動物である。そんな利他的なシステムがほんとうに組めるのか。そういう疑いがすぐにわいてくる。そこを突き詰めてゆくと、次の問いがでてくる。「そもそもどうして人は他人を助けたり、ささえたりしようとするのか? その動機は何か?」そして、この問いに対する答えの中にもまた、相対立する二種類の思想が混在しているのである。
 まず、利己主義の援助思想がある。人が困っている他人を助けるのは、いまその他人を助けておくと、今度自分が困ったときにその他人に助けてもらえるのではないかと計算するからだ。これがもう少し洗練されると、次のようになる。困っている他人を助けるのは、なにもその人からの見返りを直接に期待するからではない。そうではなくて、困った他人を助けるという慣習やルールを社会の中に作り上げておけば、将来自分が困ったときに、誰か別の他人によって助けられるからである。老人福祉がなぜ必要かを説明するときに、このレトリックが使われることがある。「老人が幸せに暮らせる社会をいまから苦労して作っておかないと、あなたが将来老人になったときに悲惨な目にあいますよ」という論法である。いわば「情けは人のためならず」というわけだ。
 ところが、これとは逆の思想がある。それは利他主義の援助思想である。困ったり苦しんだりして、助けを求めている他人がいたときに、それを見た我々はその他人の苦しみを少しでもやわらげてあげたいと思って援助行動を行なうことがある。今回の阪神大震災でも、若者を中心とした数多くのボランティアが集結したが、その動機は「いま手助けして【78】おけば、将来自分が災害にあったときに助けてもらえる」というものではなく、悲惨な環境下で困っている人々を見て、いてもたってもいられなくなって援助行動に走ったのにちがいない。道端で小さな子どもがしゃがみ込んで苦しんでいるときに、思わず声をかけて心配してしまうのも、我々の中に利他主義の援助思想が潜んでいるからであろう。いわば孟子の言う「惻隠の情」の援助思想なのだ。
  この二つの援助思想は、ふつう我々の内部に共存している。だから、社会福祉ということを考えるときに、どちらのルートで考えることもできる。しかし、この二つの思想が実は根本的に異なった原理で動いているという点は、注意しておくべきである。「自分が老いたときにのたれ死にしないために、保険や福祉の充実した社会を作りましょう」という思想と、今回の震災のように「目の前で苦しんでいる人々を助けてあげたくて援助をする」思想とは、根本的に異なるはずである。

 人間の生命の三つの本性

 人間と自然のあいだで生じる思想の対立と、人間社会の内部で生じる思想の対立を見てきた。もちろん、これは理念型なので、図式的になりすぎたかもしれない。現場での問題設定は、もっと複雑で微妙であることはよく承知している。しかしながら、私がここで抽出した思想の対立は、やはり現代文明と人間の関係を見ていく上で、重要な洞察を提供してくれると思うのである。
 ここに浮かび上がるのは、引き裂かれた人間の生命の姿である。
 人間は、対自然と、対人間の二つの場面において、同型の構造で二重に引き裂かれている。すなわち、対自然では、「人間のために自然を守るのか、それとも自然のために自然を守るのか」という形で引き裂かれ、対人間では、「自分のために他人を助けるのか、それとも他人のために他人を助けるのか」という形で引き裂かれているのだ。そしてそこから見えてくるのは、現代文明の中でもだえている人間の生命の本性と、欲望と、愛の姿である。
 残された枚数を、人間の生命の本性についての思索に当てたい。
 生命と自然にかんする思想がこのような対立・矛盾を抱え込んでしまうのは、ほかならぬ人間の生命に内在しているいくつかの「生命の本性」が、人間存在のもっとも根底的な場所で対立・矛盾しているからだというふうに私は考えている。
 拙著『生命観を問いなおす』(ちくま新書)の最後の部分で簡単に予告しておいたが、私は人間の生命の本性として、「連なりの本性」「自己利益の本性」「ささえの本性」の三つを考えてきた。それらは、人間のもっとも深いところに内在していて、我々はそこから逃れきることはできない。そして、「自己利益の本性」と「連なりの本性」の対立が思想【79】レベルにまで浮上したときに、それは「保全」の思想と「保存」の思想の対立となって表面化する。さらに「自己利益の本性」と「ささえの本性」の対立が思想レベルにまで浮上したときに、それは利己主義の援助思想と利他主義の援助思想の対立となって表面化する。これらの対立は、学問レベルで理論的に調停しようとしても、不可能である。なぜなら、それは人間がこの地球上で生命体として集団生活を行なってきた歴史が、我々のもっとも奥深い場所に刻印したものだからである。これを調停する手段は、政治的妥協か、宗教的融和しかない。

 (1)「連なりの本性」−−海や森と一体化したい

 では、「連なりの本性」から説明しよう。
  約四〇億年前に地球上に誕生した原初の生命の母体から、すべての生物体は分化してきた。そして、それらの生物はお互いに共生と殺戮のネットワークを形成しながら進化し、海から陸上に進出した。その果てに、人間も生み出された。
 つまりいま存在している生物は、すべて、太古の海に出現した古代生物のネットワークから進化してきたものである。海の中で、お互いに影響を与えあい、遺伝子を交換しあい、競争したり、殺戮したり、共生したりしながら、現在の生物群が作り上げられてきたのだ。人間もまたそういう生命のネットワークの一員としてしか生きてゆけない。人間は複雑な食物連鎖の網の目に組み込まれ、他の生物を殺して食べることではじめて生きてゆける。植物との酸素と二酸化炭素の交換という共生関係がないと、人間は生存できない。人間の身体の血液中の塩分濃度と、海水の塩分濃度はほとんど同じである。人間の生理のリズムは、海の満ち引きのリズムと一致する。人間の身体は、太古の海の生命の母体のリズムを内在している。我々は、外なる自然と同じものを、身体の中におさめているのだ。そして人間は、この生命のネットワークにささえられて成長し、この生命のネットワークのなかへと死んでゆくのである。
 人間は生命の母体から分化して生まれた。その意味で、生命の母体と連続している。と同時に、生命の母体から分化して生まれた他の生物体とも連続している。それは食物連鎖や共生関係によって明らかである。
 この事実は人間に「連なりの本性」を植え付けた。
 連なりの本性とは、自分を生み出してくれた「生命の母体」へと回帰し、それと一体となることを願う本性である。それと一体となることを通して自己の生の意味を見いだそうとする本性である。
 現代の人間が太古の「生命の母体」を実感できる場所、それは「海」と「森」である。海と森の豊かな生命のネットワークに触れるとき、人間はその奥に自分たちが生まれ落ちてきたところの生命の母体を透かし見ることができる。そこで【80】人間は、自らの身体の内なる自然と、海や森に息づく外なる自然を交流させ、交わらせることができる。
 <森や海などの自然それ自体に人間が触れるべきではない尊い価値がある>という「保存」の思想を生み出すのも、我々に内在するこの「連なりの本性」である。我々が海や森に透かし見るのは、我々を生み出したところの生命の母体の姿であり、それは人間などというちっぽけな存在をはるかに凌駕した神聖なものなのだ。それが反転すると、自然への畏敬の念になる。「生きとし生けるものはすべて平等だ」という生命の平等思想もまた、この「連なりの本性」から出てくる。地球上の生命体は、すべてひとつの生命の母体から分化してきたのだから、その意味では、すべての生命は等しいわけである。

 (2)「自己利益の本性」−−他の生物を犠牲にしてもいい

 ところで、人間は地球上で生き延びてゆくために、他の生物をとらえ、殺して食べてきた。そのために植物が根絶やしにされようとも、動物が苦しみの叫びをあげようとも、人間は彼らを犠牲にして今日まで生き延びてきた。生物としての人間は、自分たちが快適に生き延びてゆくために、他の生物を殺して食べ、彼らを自分たちの生活の素材として利用してきた。これが、人間が今日まで一貫して貫いてきた、生活の基本原則である。自分たちの生き延びと快適な生のためには、他の生物をいくら犠牲にしてもいいという姿勢があったからこそ、人間は数百万年をへて今日まで生き続けて来られたのだ。そうでなければ、とっくの昔に絶滅している。
 この冷厳な事実を直視しなければならない。
 人間は、生命圏の中で、他の生物たちと連続性を保ち、彼らにささえられながら生きている。しかし同時に、人間は、自分たちの快適な生き延びのために、他の生物や人間を日々犠牲にしながら生きているのである。
 この後者の事実は、人間に「自己利益の本性」を植え付けた。
 「自己利益の本性」は、人間が自分たちの利益を最優先して行動することを肯定する。「自己利益の本性」とは、自分たちの生き残りや、利益や、快適さのために、他の生物や他人を犠牲にしたり搾取してもかまわないと考えてしまう本性だ。他人は死んでも自分だけは生き残りたいと思ったり、少々自然破壊をしても自分は快適な生活を送りたいと思ったりする人間のこころの奥底には、この本性が潜んでいる。これは、人間のエゴイズムとか、貪欲な生き方をささえている本性なのだ。
  この「自己利益の本性」は、人間の中に最も根深く植え付けられた本性である。いったんそれが発動しはじめると、生命圏の中で他の生命体と交わりたいという「連なりの本性」や、共同体の中で他人とささえあって生きてゆきたいと【81】いう「ささえの本性」を力づくで駆逐してしまうパワーを持っている。
 「自己利益の本性」が発動するとき、それはだいたい次の四つの形をとる。もっとも基本的なものは「自己防衛」と「自己生存」である。人間は危害に直面したときに、とにかく自分の身を守ろうと必死に行動する。そのあとで、他人に手をさしのべる。また、環境が悪化したときには、なにを犠牲にしても自分とその子孫の生き残りを最優先して行動する。
 次に重要なのは「快適さの追求」と「欲望の追求」である。苦しみが少なく、快適さの多い生活をするために、人間は何でも試みる。それを達成するために文明が花開き、動植物や他の人間たちを搾取する。この傾向がさらに強まると、快楽の差異と増大を追求する行動へと高まってゆく。
 この「自己利益の本性」が自然保護に持ち込まれると、人間のために自然環境を管理しきってゆこうとする「保全」の思想となる。その本性が社会福祉に持ち込まれると、現在・将来の自分自身への見返りを暗に期待する利己主義の援助思想となる。

 (3)「ささえの本性」−−苦しんでいる他者を助けたい

 しかし、人は共同体の中で常に自分自身の利益のことだけを追求して生きているわけではない。人類が数百万年の長きにわたって生き延びてこれたのは、人類が家族を中核とした血縁共同体を形成して生活し、さらに家族を包含する様々なレベルの社会を形成して、共同で食料を確保し外敵を駆逐したからである。人類は、クロポトキンの言うような「相互扶助」を、重要な生活規範のひとつとして選択することによって、今日までやってきた。
 この事実は、人間に、「ささえの本性」を植え付けた。「ささえの本性」とは、困っている者、助けを求めている者、苦しみを訴えている者、不安におびえる者などを見たときに、彼らを助けてあげたい、世話してあげたい、守ってあげたい、願いをかなえてあげたいと思い、行動してしまう本性のことである。この本性は、人間が自己の利益に反してまでも行なってしまう「利他的行動」「自己犠牲」「援助行動」の原動力になるものである。
 苦しんだり、困ったりしている他者から、なんとかしてほしいと目の前で訴えかけられたときに、人間の中の「ささえの本性」は敏感に反応する。自分の都合を一瞬忘れて、その訴えかけの場の中に思わず引き込まれてしまうのである。瓦礫の下で助けを求めている人のために、この自分が何かの役に立てるかもしれないという思いは、人を予想外の援助行動に走らせる。あるいは、過去に誰かの手によって自分が窮地から救われたという記憶もまた、「ささえの本性」を目覚めさせることがある。遠くからすばやく送られてきた食料や義援金は、そういう思いのなせるわざかもしれない。ささえの【82】行動は、こうやって、時空をこえて連鎖してゆける。
 「自己利益の本性」に逆らうかのようなこのパワーは、古来から宗教の戒律や、倫理・道徳の基本として説かれ続けてきた。社会福祉のところで述べた利他主義の援助思想は、この本性から導かれるものである。
 ここで、「自己利益の本性」と「ささえの本性」の関係を、災害を例にとってもう少し考えてみよう。
 たとえば、大きな船が突然火災になる。火と煙がすぐ後ろまで迫っている。人々は我先に船室の出口に殺到し、救命ボートを奪い合おうとするだろう。これは、自分の生命が危機に陥ったときに、多くの人がとってしまう本性的な行動である。まず自分(と家族)の生命を確保することに全力を傾け、そのためだったら他人を蹴落とすくらいのことはやるかもしれない。「自己利益の本性」が全開する状況である。
 しかし、同時に、たとえば今回の震災で再認識させられたのは、一時的なパニックが終わったあとの、被害者自身による援助行動のすばやさである。自分の家が崩れ落ち、家族の安否も分からない状況で、少なからぬ人々が、生き埋めになっている他人の救助に走った。彼らは、この事態を何とかしなければという興奮状態になって、とにかく救出に駆けつけたらしい。崩れた瓦礫の下で、誰かが助けを求めているという事実を目の前したとき、自分の都合とは関係なしに、その人を助けようとする行動に出てしまう。私はこのような本性的な行動の背後に、「ささえの本性」を見たいのである。全国から瞬時に集まったボランティアの行動の背後にも、この「ささえの本性」があったはずである。
 しかしながら、あと半年、一年経過したときに、被災地で利他的な「ささえ」の行動がどのくらい維持されているか危惧される。そのころには、多くの人々は自分自身の生活の利害や都合を最優先する「ふつうの人々」に戻っているはずだからである。だから、長期的な災害からの復興プログラムは、逆に、利己主義の援助思想にもとづいた、冷徹な社会建【83】設プランに主導権を移す必要があるだろう。

 三つの本性の力関係が変わってきた

 以上のように、人間がこの地球上で生命体として共同体を形成して数百万年生き延びてきたという歴史が、人間の奥底に、克服しがたい三つの本性を植え付けたのだと私は考えるのである。それら三つの本性は、あるときは調和的にはたらいて問題を起こさないが、そうでないときにはお互いに根本的に衝突し、我々をとてつもないジレンマに突き落とすのである。それらが正面から衝突したときに、その衝突を根本的に調停することは不可能である。その衝突は、我々の具体的な生活や政治や思想のレベルに波及し、様々な形態をとって社会問題となる。「誰のための自然保護か」「誰のための福祉か」という難問は、その一例である。
 そして、人類の歴史を冷酷に観察すれば、この三つの本性が衝突したときに、もっとも力強く他を圧倒するのは「自己利益の本性」である。人類の文明史とは、「自己利益の本性」が、他の二つの本性を力づくで従えてきた歴史だとも言える。しかし、その本性のあいだの力関係も、人類の社会のハードウェアが変化すれば当然変わってくる。たとえば、自然それ自体に価値を認めてそれを守ろうという形のエコロジー思想が、人類史に本格的に登場したのは一八〜一九世紀以降のことである。これは、工業化によって人間の環境改変能力が飛躍的に増大してきたことと関係している。そのようなエコロジー思想が徐々に影響力を増してきたとすれば、それは現代社会において「連なりの本性」が相対的に発言力を増してきたことを示しているとも言える。しかし、それはまだ強大な「自己利益の本性」と対抗するまでには至っていない。地球環境保護を進めるときでも、あるいは福祉社会の建設を進めるときでも、我々の「自己利益の本性」に結局は訴えかけなければ具体的な行動にはなかなか移れないのだ。我々が持続的な社会行動に移るのは、「人類の生き残り」が危機に迫ったときであり、「自分の老後の不安」が実感させられるときであるのは悲しい事実であろう。
 しかし、それでもなお我々の内部には、自己の都合を超越し、他の生命体や自然や困っている人々のために動いてしまうという本性がしっかりと息づいている。今回の震災で我々の目を洗いながしてくれたのは、全国から自然集結したボランティアの若者たちであった。金子郁容の言う『ボランティア』を我が身で実践する人々が、この国にも育っていたのだ。しかし、彼らの行動を過剰に賛美し、その瞬間的なパワーだけに頼ろうとするのは一面的である。
 我々は、対自然と、対人間の二つの場面で、二重に引き裂かれていると私は言った。その引き裂かれた深淵の両側に足を据えながら、我々自身の生き方と、今後の文明の舵取りの仕方を、ニヒルな現実主義に陥るのでもなく、かといって安易なロマン主義にひたるのでもないやり方で、模索してゆくしかないのである。 【84】


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