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作成:森岡正博 
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脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

第7章 効率性とかけがえのなさ (149〜167頁 傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

 

「修理の医療」

  将来の医療は、自動化された治療システムと、人間による看護に二極分解するという予想を述べました。現在の医療の中にも、この二つの要素をはっきりと見出すことができます。それは、現代医療の中にある「修理の医療」の側面と「看護の医療」の側面です。
  修理の医療とは何でしょうか。自動車の修理を考えてみてください。具合いの悪い自動車を工場でまず分解します。そして悪い部分を取り替えたり正しい状態に戻したりして、再び自動車を組み立てます。これで自動車の修理は完了です。人間を治療するときに、この自動車の修理と同じような態度と姿勢でのぞむ医療が「修理の医療」です。
  修理の医療の特徴は次の二つです。一つは、部分主義の医療であるという点。つまり、悪い部分にまず注目して、その部分を調節したり取り替えたりすることで全体を治すという医療です。もう一つは、人間の身体の生物学的な側面にのみ注目が払われているという点です。人間の身体は、生物学的に(生理学的に、解剖学的に)見たとき、自動車よりもはるかに複雑な構造とシステムをもっています。そのような複雑な人間の身体を修理するためには、人間の身体の生物システムとしての側面にだけ神経を集中し、人間の側面については目をつむらざるをえません。要するに、修理の医療の対象となっているのは、「ひとりの人間」というよりも、むしろ人体システムという「生物の肉体」なのです。
  現代医療は、修理の医療という性格をその根本のところにもったまま今日まで発展してきました。それが最もくっきりとした形で現われているのが臓器移植の医療です。臓器移植の医療とは、人体の部分を他のものと入れ替えることで人体全体を治そうとする医療です。この意味で、臓器移植は典型的な修理の医療であり、また部分主義の医療です。

効率性の追求とは

 修理の医療を支える第一の価値は「効率性」です。
  脳死と臓器移植の議論には、「無駄の排除」とか「臓器の有効利用」などの表現が多く出てきます。たとえば杉本侃は次のように述べています。「脳死は、臓器移植の提供者としてもっぱら注目を集めている。さもなくば、死体に対する無意味な医療が続けられ、高額な医療費と優秀なスタッフが無駄に使われることが問題視される」(「外科治療」一九八四、第五〇巻一号、六ページ)。杉本は、脳死の人に対する医療は無意味で無駄だとはっきり言い切っています。私は第2章で述べたように、これとまったく逆の意味をもっていますが、一般的にはまだ杉本のような意見が少なからず見られます。
  太田和夫の『これが腎移植です』(一九八七・七改訂第三版、南江堂)という本には、「死体腎を無駄にするな」のかけ声のもと病院へと全速力で走ってゆく臓器たちの姿が漫画(一七〇ページ)として描かれています。ここには、不要になった臓器をなるべく無駄にせず、すばやく、効率的に利用しようという精神がにじみ出ています。
  また阿久津哲造は次のように述べています。

  一九八六年の米国の医師会雑誌七月号に発表された「臓器獲得問題─多くの原因と容易でない解決」という報告によりますと、この年、約二万人の人が脳死になると予想されるが、米国でさえこの人達のうちドナーになるのはわずか一五%くらいで、そのほかの八五%は埋められるか焼かれてしまうわけで、その数は、約三万四千の腎臓、一万七千の肝臓、膵臓、一万七千ペアの肺ということになり、約十万の移植できる臓器が、残念ながら惜しくも捨てられているという状況です。(日本人工臓器学会編『臓器置換と意識改革』一九八八・九、朝日ブックレット94、朝日新聞社、五〜六ページ)

  このことばの中の「残念ながら惜しくも捨てられて」という箇所に、臓器の効率的な利用ができなかった無念さが表現されています。
  このように、脳死と臓器移植の場面で前面に出てくるのは、なによりもまず無駄を排除し、効率性を追求しようとする医療の姿です。
  「効率性の追求」とは、ある目標を達成するときに、その目標の達成のために役に立たないものや邪魔になるものをできるだけ排除し、いくつかの選択肢を比較考量して、少ない努力でなるべく多くの成果を引き出そうとする姿勢のことです。これは、あるものごとを、特定の目標の達成という視点だけから眺め取ることを意味しています。たとえば脳死の人からの臓器移植という場面での効率性の追求とは、脳死の人とレシピエントを取り巻く人と人との関わり方を、「臓器の移し換えの成功」という視点だけから眺め取ることを意味します。このような姿勢は、当面の目標の達成という部分にだけ注目する部分主義であるとも考えられます。
  臓器移植で目指される効率性とは、具体的には、脳死の人からできるだけ多くの臓器を、できるだけ「新鮮な」状態で、できるだけ組織適合性の良いレシピエントに、できるだけ高い成功率(手術の成功率、臓器の生着率、レシピエントの生存率)で移植することです。このようなかたちの効率性から見れば、脳死の人の臓器を利用せずに身体ごと燃やしてしまったり、脳死の人の看取りとか称して貴重な時間と費用を食い潰したりするのは、まったく無駄なもったいない行為だということになるでしょう。そして一部の人たちは、これは一般市民への啓蒙がまだ足りないせいであり、自分たちの科学的な考え方がまだ理解されていないからだと考えるかもしれません。あるいは、利用できる臓器をこのようにみすみす捨てている行為こそ、人類の助け合いという倫理に反する、非倫理的な行ないであると言うかもしれません。
  しかし果たしてそうでしょうか。
  効率性の追求に意味が出てくるのは、追求する目標の具体的な内容が簡単に把握でき、かつ、効率性を計算する枠が比較的小さく限られているときだけです。たとえば、臓器移植の場合、その目標は臓器の移し換えに成功することだとします。そして効率性を計算する枠としては、摘出可能な臓器の数とその状態、手術のためのスタッフと設備の問題、レシピエントの数と適合性と病状、移植にかかる費用、ざっとこれくらいの情報が手に入れば充分だとします。このとき、臓器の移し換えのためにはどのような手順を踏むのが最も効率的であるかを計算することができます(計算する、とは変なことばですが、慣れない方は「検討する」ということばで置き換えて読んでください)。移植医たちの言う効率性とは、だいたいこのようなものであると想像されます。
  しかし、初めに述べた二つの前提が崩れると、効率性の追求はほとんど意味をなさなくなってしまいます。たとえば、臓器移植の目標は臓器の移し換えに成功することだと述べました。けれどもこれは臓器移植というもののかなり狭いとらえ方です。第3章でも述べましたが、臓器移植とは第一には、移植手術を受けたレシピエントのいのちが助かり、生の質が改善されることを目標にしているはずです。そのためには単に臓器の移し換えに成功しただけではだめです。移植手術後の免疫抑制剤の副作用によって生の質が下がらないように、継続的に管理しなければなりません。身体の管理だけではなく、レシピエントの心理的な援助や、レシピエントの家族の心理的な援助まで、効率性の計算の枠の中に入ってきます。また第二章で述べたように、臓器移植の前提として、ドナーの家族による脳死の人の看取りを援助することがあります。これは臓器移植の目標の一つに、脳死の人の家族の心理的な看護が入っていることを意味します。ということは、臓器移植の効率性の計算の枠内にも、脳死の人の家族の心理が一項目として入ってくることになります。そしてそれにかかる費用も入ってきます。
  臓器移植の目標をここまで広く考え(それが当たり前なのですが)、効率性を計算する枠の中にじつにさまざまな要素が入ってくるようになると、何が効率的なのかを一義的には決められなくなってきます。それは、考慮すべき要素の数が増えて私たちの頭の計算能力をあっさり越えてしまう点と、要素の中に人間の心理的なものが入ってきて計算がきわめて難しくなる点に原因があります。すなわち、臓器移植というものを少し広い視野で考え始めると、臓器移植の場面ではどのような手順を踏むのが効率的なのかを一概に決められなくなるわけです。それだけではありません。人工透析が割合うまくいっている人に対する腎臓移植などは、移植をすることが、目標達成のために効率的であると果たして言えるのかどうか、再考しなければならないかもしれません。
  先にあげた杉本侃の、脳死の人に対する医療は無意味で無駄だという意見についても、同じことが言えます。杉本は、脳死の人にほどこされている医療を基本的には「延命のための医療」というふうにとらえ、脳死の人はもう二度と回復しないのだから、(臓器移植の場合以外は)その医療は無意味で無駄だと考えているようです。しかし脳死の人にほどこされる医療は、家族による脳死の人の看取りの援助のための医療という性格をももっているはずです。そのような視点で眺めれば、脳死の人への医療は、決して無意味で無駄な医療ではありません。要は、問題状況を把握するときの視野の広さなのです。

商品流通社会の思想

 現実の臓器移植で、効率性が強く求められる場面のひとつに、臓器の流通の効率性があります。第3章で述べたように、脳死の人からの臓器移植が日常的にできるためには、臓器を摘出する病院と移植手術を行なう病院の間に、緊密な情報ネットワークがしかれていなければなりません。臓器移植のドナーが見つかったら、コンピュータで組織適合性のもっとも良いレシピエントを探し、移植をする病院からただちに移植医を呼び、臓器をすばやく運んでもらわなければなりません。そのような設備とシステムが整ったうえではじめて、脳死の人からの臓器移植は効率的に行なえるのです。
  脳死の人からの臓器移植が日常的に行なわれている地域では、例外なくこのような大規模な臓器の流通ネットワークが成立しています。アメリカでは、全国に臓器斡旋機構が一〇〇施設以上あり、そこに登録されたデータはリッチモンド市にある全国登録センターに集められています。そして臓器は飛行機やヘリコプターですぐに目的地へと運ばれます。ヨーロッパでは、オーストリア、ベルギー、西ドイツ、オランダ、ルクセンブルクなどの国が参加するユーロトランスプラントという臓器斡旋機構があります。オランダにある事務所を通じて、多国間の臓器移植を実現しています。日本では、千葉の国立腎移植センターのコンピュータに、全国一四の病院のコンピュータを接続して情報を集めています(『臓器置換と意識革命』六〇〜六一ページ)。日本でも、アジア地域をカバーする多国籍の臓器移植のネットワークを作る試みが始められています。
  こうやって考えてみると、脳死の人からの臓器移植が日常的にできる社会とは、まず高度情報社会であることが必要です。地域のステーションにコンピュータが配置され、中央のコンピュータとの間には昼夜を問わない情報通信のシステムが確保されているわけです。次に、その社会は流通社会であることが必要です。医師が病院の間を飛行機やヘリコプターを使ってすばやく行き来し、臓器を手荷物のようなかたちで短時間で運べる社会です。そのためには、正確で迅速な交通網が整備されていることが前提となります。また同時に、その社会は、人間の生きた臓器を持ち運び可能な「荷物」とみなす発想を、受け入れる社会でなければなりません。
  脳死の人からの臓器移植が定着する社会は、情報流通社会です。それを成り立たせている技術は、今日の情報流通産業を成り立たせているものと同じです。情報流通産業、たとえば宅配便を支えているのは、顧客の荷物がどこからどこまで動くかという情報をコンピュータに入力し、瞬時に効率的な輸送ルート決定する情報技術と、その指示をただちに行動に移せるだけのトラック運送の定期的で正確なネットワークでしょう。広域的な臓器移植を支える技術も、この宅配便の技術とほとんど同じものです。脳死の人からの臓器移植とは、この意味で、今日の「情報流通社会」が生み出したひとつの社会現象であるということができます。臓器移植の思想とは、商品流通の思想なのです。そして脳死の人からの臓器移植の効率性も、商品流通の効率性であると考えられます。
  効率性が追求される商品流通は、ある商品と貨幣とを等価交換することで成り立っています。臓器移植という医療も、悪くなった臓器を他の臓器と取り替えることによって人間を修理しようという医療です。人工臓器も同じ考え方です。ある部分を他のものと交換すること、ある部分を他のもので代用すること、これが臓器移植の医療の根本です。交換して、流通させる。医療の中でこの思想がもっとも徹底したのが、臓器移植であるといえます。

かけがえのなさを大事にするということ

 ところで、医療のもうひとつの側面である「看護の医療」とは、臓器移植とは逆に、交換のできないものを扱うところにその特徴があります。交換できないもの、すなわち他のものに決して置き換えることのできないもののことを本書では、「かけがえのないもの」と呼ぶことにします。
  医療の世界における、かけがえのないものの代表は、「健康」と「いのち」でしょう。悪くなった臓器は人工臓器によって置き換えられるかもしれませんが、人生のある時期に失った健康は、いくらその後で回復したとしても、またいくら補償金を積まれたとしても、もう二度と取り返しがつきません。かけがえのないものとは、言い換えれば、取り返しのつかないもののことです。いのちも同じです。いのちは決して他のものでは置き換えることはできません。いのちを失えばもう取り返しがつきません。取り返しのつかないものといえば、生の一瞬一瞬もそうです。生の一瞬一瞬とは、決して他のものでは置き換えることのできない、一回限りの出来事の連続です。生の一瞬一瞬のかけがえのなさは、いのちのかけがえのなさと通じるものをもっています。
  このような「かけがえのなさ」を大事にすることが、じつは看護の本質なのではないかと私は考えています。したがって、本書の「看護」ということばづかいは、普通の使い方とちょっと違うのかもしれません。看護とは何かについて、私はまだ納得のゆく答えを見つけていませんが、本書では、当面の答えとして、看護ということばをそのように使うことにしたいと思います。すると「看護の医療」とは、かけがえのなさを大事にすることが第一の目標であるような医療のことになります。
  看護の医療の性格を強くもっているものには、老人介護の医療や、末期医療などがあります。老人の介護とは、老人の身体を修理することではなく、老いた人の生の一瞬一瞬を援助し大事にしてゆくことです。老いた人をめぐるそのような人と人との関わり方が、老人の看護の医療なのです。末期医療とは、死を目前にした末期患者の身体や精神の苦しみをやわらげ、死を迎えるまでやすらかに生きられるように援助することです。このときの発想も、延命を目的とした身体の修理ではなく、やがて死を迎えるいのちのかけがえのなさを投薬や手厚いケアによって大事にしてゆくことだと思います。かけがえのないものを大事にするという態度と行為。これもれっきとした医療の一部であり、医療を構成するひとつの要素であることに気づかねばなりません。
  生命倫理の議論をするときに「いのちの尊厳」ということばが必ず出てきます。これは具体的に何を指しているのかはっきりしないというので、たいへん評判の悪いことばです。私は、「いのちの尊厳」ということばが言いたいのは、このかけがえのないものを大事にするという態度と行為のことではないかと感じています。
  医療は、修理の医療の側面と、看護の医療の側面とを兼ね備えています。臓器移植の医療にしてもそうです。たとえば脳死の人からの心臓移植は、レシピエントのいのちという「かけがえのないもの」を救うために、脳死の人の心臓と入れ替える修理の医療を行なうことであると見ることもできるかもしれません。
  しかしもう少し突っ込んで考える必要があります。脳死の人からの心臓移植の場面で、「かけがえのないもの」は、レシピエントのいのちだけではありません。脳死の人を取り巻く親しい人々や家族の人間関係の場そのものも、「かけがえのないもの」のひとつではないでしょうか。たとえば家族が肉親の死を徐々に受容しはじめているその「場」は、やはり他のものによっては決して置き換えることのできない「かけがえのないもの」ではないでしょうか。
  臓器移植でしか助からない患者の苦しい境遇を見るとき、脳死の人からの臓器移植を推進することこそが、「医の倫理」であり、それに反対するのはかえって倫理にもとることになる、という発言がよく見られます。そのような発言をされる方が、往々にして見落としがちなのが、ここで述べている脳死の人を取り巻く人と人との関わり合いの場のもつ、かけがえのなさです、私が第2章で強調した「家族による脳死の人の看取り」の援助も、このかけがえのなさにもっと注意を向け、医療の現場でこのかけがえのなさを大事にしてゆく姿勢を身につけてほしいという問題提起なのでした。そして脳死の人からの臓器移植を行なう際には、このかけがえのなさを大事にする姿勢と態度とを整えたうえで行なってほしいという提案をしたのでした。
  さらに言えば、医師への不信がつのるひとつの原因は、患者やその家族が生活のうえで大事にしてきたさまざまな「かけがえのないもの」を、医療現場で医師たちもまた大事にしてくれるかどうかという点に疑問があるからだと思います。
  修理の医療と看護の医療、そしてその背後にある「効率性」と「かけがえのなさ」。この二つの考え方は、根本的に異なった発想から出ているように思われます。脳死と臓器移植の場面にこの二つがともにはっきりと出てくるのは面白い現象です。この二つは、最近よく語られる「キュア(治療)」と「ケア(看護)」の区別に対応しているといえるかもしれません。しかし私はキュアとケアの二分法で考えるよいも、ここで述べているような語り方のほうを好みます。確かにキュアとケアの二分法は、単純かつ簡単で、ことばを聞いただけでなんとなく分かったような気になります。しかしじっくり考えてみると、それが何を指しているのか、もうひとつ判然としません。それがこの二分法の弱さです。

効率性とかけがえのなさは二律背反

 私は、効率性を追求する態度と、かけがえのなさを大事にする態度とは、根本的には相い容れないものだと考えています。突き詰めて考えれば、どんなものごとにだってかけがえのなさはあります。効率性を追求しようとすれば、どうしても何ほどかのかけがえのなさを犠牲にせざるをえません。逆に、すべてのかけがえのなさを大事にする姿勢を貫けば、効率性の追求などありえないでしょう(『生命学への招待』をお読みになった方は、生命圏の原理と他者の原理を連想されるかもしれません)。
  脳死と臓器移植の議論には必ず費用の問題が出てきます。脳死の人を維持しておくためには多額の費用がかかるとか、腎臓移植が成功すれば、人工透析にかかっていた費用よりも安くあがるとか、心臓移植とその後の治療のための費用を誰がどういうかたちで負担するのか、などの問題です。このような経済問題は、何も脳死と臓器移植に限らず、生命倫理を議論するときに必ず出てくる問題です。生命倫理の中には、医療資源や費用の配分などを集中して議論する部門があるほどです。
  私が以前から気になっていたのは、どうして生命倫理の問題が「経済問題」として現われてくるのかという点です。生命倫理とは、ことばの感じからしても、経済からはきわめて遠いと思われる「いのち」を扱う領域のはずです。それがどうして「経済問題」というかたちで真剣に議論されるのでしょうか。経済問題とは、どうすれば安くあがるか、どうすれば公平な費用の負担がなされるか、どうすれば効率的なお金と医療資源の使い方ができるかなどの問題です。そのような議論をするためには、いろいろな選択肢を比較考量しなければなりません。生命倫理の場面では、これは「いのち」と「いのち」の比較考量を意味します。たとえば一個しかない臓器を誰に移植すればよいかという場面では、数人のレシピエント候補者のいのちといのちが、比較考量の対象になっているわけです。たとえば人工心臓の開発のための資源と設備を、AIDS研究のために回すべきだという場面では、間接的に、心臓病患者のいのちとAIDS患者のいのちが比較考量されていることになります。
  かけがえのないもの同士を比較考量することは本来できないはずです。かけがえのないものとは、決して他のもので置き換えることのできないものです。ところが比較考量とは、あるものを他のもので置き換えてみるというステップを踏みます。したがって、かけがえのないものを比較考量するのは本来不可能なのです。しかし、私たちは事実として、比較考量の不可能な二つのかけがえのないもののうちから、ひとつを選択することを強いられることがあります。
  たとえば一個しかない心臓を、数人のレシピエント候補者の誰に移植するか、すばやく決めなければならないこともあるでしょう。このとき、この数人の心臓病患者のいのちは、どれもかけがえのないものです。しかし、それらかけがえのないものの中からひとりだけを選択しなければなりません。では私たちは、どうやってこの選択を行なっているのでしょうか。
  ひとつの方法は、それら数人のレシピエント候補者のいのちが「かけがえのないもの」であることをひとまず忘れ、それらを他に置き換えられるものとして、すなわち比較考量の対象として考えて結論を出すやり方です。これはある意味で、人間のいのちをモノとして把握し、ひいては商品としてみなす考え方を導きます。そしてこの考え方の延長線上で、心臓移植の効率性がシビアに計算されることになります。これは言い換えれば、いのちに対する「傍観者」の立場です。臓器移植の医療は、多かれ少なかれその手順のどこかで、このようないのちの「かけがえのなさ」をひとまず忘れるというステップを踏むことになります。
  これに対して、もうひとつの方法は、それら数人のレシピエント候補者のいのちが「かけがえのないもの」であるという点に、最後までこだわるやり方です。この場合、候補者の間の比較考量は不可能になります。ではどうするかというと、状況の力や偶然や、もののはずみにまかせるのです。たとえば早い者勝ちにするとか、くじ引きにするなどです。このようにすれば、かけがえのないものの間での比較考量をせずに、選択をすることができます。この方法では、脳死の人からの臓器移植は事実上不可能になります。前にも述べたように、臓器移植は、組織適合性や臓器の大きさなどのきびしい比較考量なしに正しく機能しないからです。また、このような移植のやり方はレシピエントの安全性を無視した、無責任なものであると非難されるでしょう。
  しかしこのことは、医療において「かけがえのなさ」に最後までこだわることが意味をもたないということを示しているのではありません。いのちのかけがえのなさに最後までこだわって、比較考量に基づいた決定ができないというのは、「当事者」にとっての真実です。たとえば脳死の人を看取る家族にとって、脳死の人をめぐる看取りの場のかけがえのなさに最後までこだわるならば、脳死の人からいま臓器を摘出されたときの心理的な痛手と、レシピエントの回復とを比較考量することは不可能になります。ある人はこれを家族のエゴだと言います。そういう面はあるにしても、これを当事者にとっての真実として考えてゆくことも、それほど不当なことではありません。
  経済原則のもとで、臓器や資源の適正な配分と効率性を追求してゆかねばならないのは厳然たる事実だと言われれば、それはそれで正しいと思います。ただしそれは、あくまで傍観者にとっての厳然たる真実です。当事者は別の原理で動きます。当事者としては、自分が当事者である「いのちのかけがえのなさ」に最後までこだわって、そのような比較考量を受け付けないこともあるでしょう。それはそれで当事者にとっての厳然たる真実です。大事なのは、人は傍観者にも当事者にもなりうるという点です。そして医療についていえば、傍観者であった人も必ず当事者になるという点です。

「傍観者」の論理と「当事者」の論理

 修理の医療と効率性は、医療のもつ傍観者の側面を代表していると考えられます。看護の医療とかけがえのなさは、医療のもつ当事者の側面を代表していると考えられます。そして現代医療の主流が修理の医療として発達してきたということは、現代医療は当事者の側面よりも、傍観者の側面の方が優位に立つ医療だということにつながるでしょう。そしてまさにその点が、現代の医療が生命倫理の問いを生み出さざるをえない原因なのかもしれないのです。
  どうして現代医療がそのようなかたちに発展してきたのでしょうか。現代医療と自然科学との関係を抜きにしてそれを語ることはできません。現代医療とは、何よりもまず自然科学の成果と融合してでき上がった医療だからです。現代医療の性格の一部は、明らかに自然科学のもつ性格でもあります。
  振り返ってみれば、自然科学(サイエンス)は一貫して傍観者の立場を崩しませんでした。それは、傍観者の立場を貫くことによって、自然科学は普遍性と客観性を保持できると考えられてきたからです。現代医学はいつのころからか、自分のことを科学であると自称するようになってきました。それに呼応するように、現代医学もしだいに傍観者の医学へと変わってきたように思います。そして、今回の脳死と臓器移植の議論で見られたように、傍観者としての議論を貫くことこそが科学的な議論の態度であるという意見も多く見られるようになってきたわけです。現代医学は自然科学に徹すれば徹するほど、傍観者の医学へと変貌してゆくのです。
  私は次のような想いをめぐらすことがあります。傍観者の科学ではなく、当事者の科学というものがありうるのではないだろうか。傍観者の科学の視線で医療を眺めるとき、そこに見えてくるのは医療の効率性です。これに対して、当事者の科学の視線で医療を眺めるとき、そこに見えてくるのはいのちのかけがえのなさです。
  傍観者の科学は、いろいろな問題はあるにしても、独り立ちできるくらいに成長しました。しかしこの当事者の科学はまだ産声すらあげていません。この科学の赤ん坊はどこにいるかといえば、他でもない本書でずっと論じてきたような、医療の倫理問題が生じてくるような場所にいるのです。傍観者の科学は、近代ヨーロッパで、遠い夜空の星々を地上からはるかに眺める(傍観する)天文学を母体として誕生しました。それを医学の中に取り入れたのが現代医学です。当事者の科学は、おそらくいのちをめぐって多くの人々が当事者にならざるをえない現代の医療を母体として誕生することでしょう。それは常に当事者の立場に立ち、かけがえのないものに注目してゆく科学になるはずです。そしてその発想は、医療の現場の中で、とくに「かけがえのないもの」の看護に当たっている人々の間から、徐々に醸成されてくると思われます。
  当事者の科学が産声を上げるまでには、まだまだ長い年月が必要でしょう。おそらく近代ヨーロッパ型科学が離陸するのにかかったのと同じくらいの時間が必要でしょう。それは年の単位ではなく、世紀の単位です。新しい型の科学を育てるには、数世紀の視野をもたねばならないわけです。

          

 このような夢物語のようなことを述べながら、本書を閉じることにします。効率性とかけがえのなさについては、まだまだ述べたいことがたくさんあります。しかし、現時点ではまだまとまったことを語れるだけの材料を持ち合わせていません。かけがえのなさについて最近感じたのは、次のようなことです。臓器移植を推進する人たちは、移植のためのネットワークの整備とそこでの効率性を強調します。すでに述べたように、これは臓器の商品流通の効率性です。ところが、その同じ人たちが、臓器の売買に関してだけは異様に神経質になります。これは非常に不思議な現象です。臓器の商品としての流通網の整備にあれだけ熱心な人たちが、どうして流通の正当な代価としてレシピエントがドナーの家族にお金を払うことを、あれほど忌み嫌うのでしょうか。移植医たちの説明によると、レシピエントは医学的な適合性のみによって厳正に選ばれるわけですから、手術後に適正な代価を払ったからといって、とくに移植の公平さが損なわれるようになるとは思えません。しかし臓器移植は事実上すべて善意による無償提供のかたちをとっています。単なる贈与物を運ぶために、あれほどの流通システムが組まれることは、現代の資本主義社会においては奇跡のような気がします。
  私は次のように考えています。移植のネットワークを作った人たちも、心の中では、脳死の人の臓器をかけがえのないものと感じているのだと思います。そのまま捨ててしまうのではもったいないから、まだ使えるうちに、他の人間の身体の一部と入れ替えようという発想とともに、その臓器は本来は脳死の人の一部としてかけがえのないものであり、決して他のものと等価交換してはならないのだという発想もあるのではないかと思うのです。ところが、移植の正当な代価としてお金が支払われることになると、そのかけがえのない臓器を結果的にであれ、金銭と等価交換したことになり、そのかけがえのなさをみずから破棄したことになります。臓器の善意の提供ならば、そんなことになりません。そこにあるのは等価交換ではなく、「かけがえのなさ」の一方的贈与だからです。
  移植医の人たちはこれを聞いて、そのとおりだと言うか、あるいは私たちは科学者であり、そのようなロマンチシズムとは関係ないと言うか、それは分かりません。しかし、その反応はどうでもよいことです。大事なのは、効率性の追求に突き進む現代医療の最先端にも、「かけがえのないもの」への視線が根強く残っているらしいという点を確認することです。現代医療の倫理問題を考えるときの鍵のひとつは、やはりこの位置に隠されているのです。そしてそれはまた将来の医療と科学のあり方を考えてゆくときの鍵でもあるのです。

 

入力:だむす