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作成:森岡正博 
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脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

221〜226頁 (傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

文庫版の解説 「人」の「問題」としての脳死

               木村 競

 「〜問題」、「〜の問題」という言い方がある。昔なら「公害問題」、今なら「環境問題」、あるいは「老人問題」、「いじめ問題」、「外国人労働者受け入れ問題」、「ゴミ処理問題」等々。もちろん、その事柄が社会的に重要であり、ことさらに問題視する必要があるからこそ、それらについて「〜問題」、「〜の問題」という言い方がされるわけである。
  しかし一方、「〜問題」、「〜の問題」と言ったり聞いたりする時、我々はその問題が簡単には解決しないことも承知している。つまり、それらは解決がすぐに見つかるような単純な問題ではないのだ。様々なレベルの様々な要素が複雑に絡み合って成立していて、論じ始めれば次々と新たな問題が湧き出てくる、そのような事柄について我々は「〜問題」という言い方をするのである。
  このことを逆に考えれば、「〜問題」と言われるような事柄は、それを丁寧に追いかけて行けば様々なことが見えてくる糸口なのだということを意味している。つまり、「〜問題」と言われるような事柄は、まさに現代の社会のありさまをあらためて考え直すことを我々に提示してくれる「問題」なのである。たとえば、「外国人労働者受け入れ問題」ならば、それは国内の労働力不足に関わる問題である一方、日本経済の発展がアジア諸国との間に大きな経済・所得格差を生み出したがゆえに生じた問題でもある。さらに、受け入れた労働者の社会保障、住宅、子供の教育といった問題を生ぜしめる問題であり、ひいては日本人の人権感覚や差別意識を問い直させる問題でもある。「ゴミ処理問題」にしても、それを考えて行けば流通のあり方から、現代社会の大量消費傾向といった文明論的問題にまで至らざるを得ない。
  「脳死」とは、まさにこのような意味で「脳死問題」と呼ばれるべき事柄にほかならない。「脳死」とは単なる医学的な事柄なのではなく、現代の日本社会の姿を映し出す「問題」であるという把握を出発点にしているところに、この『脳死の人』の第一の特徴があるといってよいであろう。森岡氏は、「はしがき」でこの様な姿勢を「第三期」の脳死論の特徴であるとして、次のように言っている。
「脳死を追求してゆくと、そこには現代社会の抱えるさまざまな問題、たとえば現代社会の効率性、現代医療の部分主義、医師の啓蒙観などが、じつにクリアーに見えてきます。」(Cページ)
  しかし忘れてはならないのは、「脳死問題」が単なる医学的な事柄ではないということは、別の意味ももっていることである。脳死とは人間の死にほかならない。人間は単に医学的、生物学的に存在しているわけではない。そうである限り、「脳死問題」を論じるということは、どうしても人間存在の全体に関わる包括的な視点をもたざるを得ない。別の言い方をすれば、少しでも脳死について論じれば、それは何がしかの「哲学」、つまり人間についての全体的・包括的な態度決定を含んでいるということである。森岡氏は言う。
「人間の死について医学の枠だけで議論を進めることは、そもそもできないような構造になっているのです。いくら医学的な側面だけに限定するようなかたちで議論を進めても、そこにはさまざまな哲学が裏口からこっそり入り込んでしまうのです。
  人間の死を論じるときに、いくら特別の枠を設けても、議論は必然的にその枠の外へとはみ出してしまいます。それは、『人間の死』というものが本当の意味で包括的であり、決して一つの側面からだけでは語りつくせないことを示しています。」(一二〇ページ)
「脳死とは人と人との関わり方である」という簡潔で明確な定義に、脳死のこのような「問題」性に対して『脳死の人』がとった視点が示されている。『脳死の人』は「人」という言葉を巧みに用いて、脳死が「人間の問題」にほかならないことを浮び上がらせることに成功している。この点に『脳死の人』の脳死論としての第二の特徴がある。
「社会問題にまで至った『脳死』の本質は、脳の中身にあるのではなく、脳死になった人とそれを取り巻く人々との関連性や関わり合いにあるのです。」(一三一ページ)
「『脳の働きの止まった人』を中心とした、このような人と人との人間関係の『場』のことを、私は『脳死』と呼びたいのです。」(九ページ)
  しかし、「脳死とは人と人との関わり方である」という視点はこのような哲学的な意味をもつだけではない。この視点こそが、『脳死の人』が他の脳死論にはない具体性、あえて言えば「実際に役立つ脳死論」という性格をもつことを可能にしたのである。ここに、この視点の卓抜さと、脳死論としての『脳死の人』の最大の特徴、価値を見いだすことができる。
  すなわち、脳死を単に医学的、法律的に論じるのではなく、社会的、文化的文脈において論じたものは、数多く存在する。死生観といった文化論的視点から論じたもの、あるいは現代社会論としての脳死論も増えてきた。しかし、「脳死問題」とは、医学的、法律的、文化論的、どのような形でにせよ、(森岡氏の言い方を借りれば)「傍観者」的に説明してもらってもしようがない実際的な問題なのである。個々の具体的なケースでは、我々は「当事者」としてどう振舞うべきかを現実に決定しなければならない。「脳死問題」とは、感情や経済的問題や社会的慣習など様々な事柄が絡み合っているこの現場で、我々が「脳死の人」の家族、知人、医師、看護婦等として実際に行なう振舞いを律するための視点の提示を要請している問題なのである。求められているのは、理論的解決ではなく、具体的な提案なのだと言ってもよい。
  『脳死の人』は、このような「当事者」の具体的な問いかけに応え得る議論を進めることに成功している。そして実際に具体的な提案を行なっている数少ない脳死論ということができるであろう。
  すなわち、脳死状態になった人も、あくまで一人の「人」であり、「脳死とは人と人との関わり方である」という視点をとることによって、その「人と人との関わり方」を実際にどうするべきかという具体的な問題の立て方をすることが可能になったのである。このような問題の立て方ができる議論であってはじめて、その脳死論は「当事者」の問いかけに応え得る。すなわち、「脳死の人を私たちの社会へ迎え入れる際に、家族、医師、看護婦、移植関係者などが共有すべき最低限の礼儀作法」(一八ページ)を作り上げる作業を始めることができるのである。
  第2章以降の集中治療室(まずこれを取り上げた着眼の的確さは特筆されるべきである)、臓器移植、脳死身体の「利用」、医療現場(「おまかせ患者」という存在の解釈、「看護婦」の重要さの指摘は特に注目される)といった場面における「人と人との関わり方」の諸相の分析および具体的な提言の個々については、本文を読んでいただくとして、ここではその際の森岡氏の姿勢の特徴を一般的に整理しておこう。
  まず第一に目につくのは、たとえば臓器移植の是非について現時点で早急に決定的な結論を下してしまうのではなく、現実の変化に即して問い直しと態度決定の変更を続ける可能性を残した議論を行なっている点である。「脳死問題」を構成する諸要素やそれをとりまく事態はこれからも常に変化していくに違いない。それに応じて「人と人との関わり方」も変わらざるを得ない。その時点その時点で出来るだけ適切な振舞いを追求していくべきだというこの姿勢は、「人」の「問題」を考察する姿勢として望ましいものと言えるであろう。
  第二に指摘すべきは、医学的なものを始めとする「技術」の進展が「脳死問題」にどれだけの現実的影響をもたらすかということについての冷静な目である。科学技術およびその進展を一概に善あるいは悪と決めつけることなく、それが「人と人との関わり方」をどう規定するかということを冷静に分析していこうとする態度は、科学・医療技術の進展によって発生した「脳死問題」を論じる際にとりわけ求められる態度と言える。
  第三に、専門家の「部分主義」や「啓蒙」的態度に対する批判として打ち出されている「素人」の立場の重視もふれておくべきであろう。「いのち」というような全体的な問題は、部分に分割して扱うことはできず、それについて「生活のうえで直観的にすでに把握している」(一三六ページ)「素人」の立場から発言し、議論されるべきであるという森岡氏の主張は、書物の性格上十分に展開されているとは言い難く、そのまま全面的に受け入れることはできない。しかし、知の権力性、知の変革の可能性といったことも考え合わせると、この主張は、現代の知のあり方一般の問題へとつながる広がりをもっていると言えるであろう。
  最後に付け加えるならば、「脳死とは人と人との関わり方である」という視点は、「脳死問題」が語の正しい意味での「倫理問題」であることもはっきりと照らしだしている。森岡氏は「男女産み分けや体外受精など、現代医療の最先端の成果は、例外なく倫理問題を引き起こすようになっています」(一三二ページ)と述べているが、冒頭にあげた様々の「問題」も結局のところ「倫理問題」である。現代においては「倫理」という語はほとんど死語と化している。しかし、これまで述べてきたような性格をもつこの『脳死の人』の議論は、倫理ということを現代において論じるとするならば、どのように語られるべきかということに関して、有り得べき一つのモデルを提出することに成功していると言えるのではないか。具体的提言に富んだこの『脳死の人』がぜひ多くの医療の現場で活かされることを望むとともに、このような意味からも文庫となった『脳死の人』が多くの人に読まれることを期待したい。
(きむら きそう・哲学)

 

入力:だむす