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作成:森岡正博 
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意識通信

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

168〜195頁 (傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

対談 脳死と臓器移植の本当の問題  杉本健郎・森岡正博

 「脳死」に直面した家族の気持ち

森岡 私も最初は、脳死の本質は脳の中にあると思っていました。しかし、勉強してゆくうちに、世のほとんどの脳死論が、じつは見当はずれのことをしているのではないかと気づきました。普通の人にとって、脳死の問題とは、脳の断面図の話ではなくて、自分の知っている人が昏睡状態になって横たわっている、そのような人に対して、どうやって自分は振る舞っていけばいいのか、これからどういう関係をもっていけばいいのか、どういう心の決着をつければいいのかという問題であると思いはじめてきたわけです。
杉本 立花隆さんの書き方というのはまったく逆からでしょう。
森岡 まったく逆なんです。
杉本 いま話を聞いて、確かに脳死との出会いは具体的にはそのとおりだと思います。ほとんどが急性の死であり、若い子供の死でもあるでしょうし、要するに突然の事故であり病気です。蜘蛛膜下出血、心筋梗塞にしてもそうです。心筋梗塞は一次性の脳病変によるものではありませんが。だから、そういう場で「脳死」に出会うわけですが、その出会いというのは非常に限られた人ですね。
森岡 限られたというのは……。
杉本 病気そのものも限られていますし、たとえば交通事故でも、即死状態だとか、くしゃくしゃになっている状態ではそういうことはありえないわけでしょう。だから、人数的に非常に限られた人になるわけです。
森岡 そうですね。
杉本 事故であってもあるていどの条件がいるだろうし、病気の過程の中でもいろいろな条件がいるだろうし、そこでセレクトされてくると、一生脳死に出会わない人がほとんどだと思います。
  ところがそれに出会う場所がほかにもある。それはやっぱりマスコミを通じての出会いでしょう。
森岡 なるほど。
杉本 この前、ここの地元のKBS放送局(京都)のラジオを聞いていると、北海道から新鮮なウニを取り寄せるときに、「脳死状態で運んで来て」と言うんです。それが一般の放送として流れているわけです。ぼくは抗議の手紙を書いたのですが、何も返事が来なかったです。「ウニを脳死状態でこちらへ送ってくる」というのは、それが新鮮であるということを表現しているのです。
森岡 そういう意味ですか。
杉本 それをアナウンサーが流すんですよ。つまりフレッシュさという意味で使われたり、いますぐにでも使えるのだ、食べてもうまいという感じでしょう。移植しても使えるのだという感覚だけがサ−ッと流れるんです。
  ほとんどの人は「なんや脳死やったら、しゃあないのではないか」という目で記事を読むわけです。それよりもセンセーショナルな、移植をしたとか、金を集めてどこかへ移植に行くという方がピカピカ光るのです。
  それは、ぼくがいろいろな人にいままで出会ってきて感じたことですが、マスコミ関係もそうです。「産経新聞」の記者、「朝日新聞」もそうですし、今度シンポジウムの打ち合わせに来た仏教系の大学の学生もそうですが、脳死問題をやろう、臓器移植を取り上げようというときに、まず臓器移植は素晴らしいから、それを何とか博愛的な要素から盛り上げてみたいという方向性の方が強かったんです。ところが、問題を深めるためにいろいろな人に話を聞いてきたり、勉強をしてゆくなかで、すでに議論は終わっていると考えていた脳死こそが問題ではないかということに初めて気づいてきたというのです。
  問題は新聞に載っている派手なことではなくて、その裏にあるドナーの人のほうが、大切なのである。それがメインになるはずだということがやっと分かってきた。
  救命センターというのはいろんな状態の人がごちゃまぜに入ってくるんです。交通事故から犬にかまれたものまで、とにかく一次から三次救急的なものまで全部入ってくるわけです。だから、もっとダーティなイメージなのです、血をダッと流して。救命センターというところはそのへんで倒れた人が、自分の知らないところへ連れて行かれて、初対面の治療グループに処置されたりする場合がほとんどです。だから、そこでは完全に医者上位です。
  ですから親族が、運ばれた人を見て、触って、感じて、状態を認識するだけの余裕があるかどうかです。先に脳の断面図を見せられてどうのこうのと説明されると、ことばとしては理解できるかもしれません。医師との会話は別の部屋です。別室で充分に話し込んでおいて、それから治療室へ連れていって、さあ、ちょっと五分間だけ会ってくださいという。そこで、先ほどおっしゃった「脳死」の現実に出会うわけです。それを見られるのはごく限られた人だけでしょう。限られた人だけで、親戚などの遠い人は入れないですよ。両親とか、子供とか、本当に一親等範囲内しか入れないのです。だから、現実には事故や病気が起こったあと会えるのはごく限られた人だけです。それはいまの体制の中では当然だと思うんです。そこで初めて子供の状態、つまり患者の状態を、「あ、こんなんやなあ」と認識するんです。肌で感じ、触れて、目で見て、臭いをかいで、血を見て、「こんなんでいいのか」とか思うわけです。ぼくの本にも書きましたけれども、入院してからでも顔や手に血がついている、泥がついている。看護面での配慮がなされていないのです。
  一般的にそういうところに面会に入れるのは親族の中でも本当に限られた人です。親類、縁者というのは、本人とは対面していなくとも、人工呼吸器で呼吸をしていることなどを知ると、やっぱり、「なんや、そんなのは意味がないやないか、やめてしまえ」というほうに動くのです。それは、この前、中川米造先生がおっしゃったのですけれども、日本では遠い親類、縁者はいちばん曲者なのです。いろいろな意味でのストッパーになりがちなんです。
  やっぱり現実に「脳死に近い人」に会える人で、なおかつ充分な判断ができる人は、本当に限られた人になってくる。
森岡 五分間会えますよと言われて、脳死の人を見たり、感じたりできる人というのは本当に少数である。だけれども、結局、臓器移植となった場合に、その承諾はその少数の人のところに取りに来るわけでしょう。
杉本 そうです。
森岡 だから、脳死とは、その少数の人が当事者になるような問題なのですね。臓器移植のほかにも、人工呼吸器を止めるか否かの判断があります。また、本当に脳死の人を看取って、心の整理をつけなければならない人は、その少数の家族ですね。だから、その人数は限られているし、会える期間もほんのちょっとしかないのだけれども、そのあいだ濃密なかたちで脳死の人に直接会う、そういう少数の家族が本当に脳死の本質に出会うわけです。
  だから、脳死の本当の問題はそこで起きるのです。もちろん脳死ということばは、先ほど言われたようにマスコミを通じて流れているから、かなり多くの人が聞いて知っているわけです。そういう意味ではポピュラーです。たとえばマスコミの脳死の記事を新聞で読んでいれば、だいたいのことは分かるし、脳死について何かイメージを持っているわけです。
  しかし、たとえばその人の家族が脳死になったとき、突然その人は当事者になるわけです。この確率はたとえば一〇〇分の一以下だろうけれども、当事者になったときには今度は全然違う現実にぶち当たると思うんです。マスコミで知った「脳死」のイメージをもっている人が、現実に脳死の人を看取る人になったときに、現実との間に大きなギャップを感じるはずです。
杉本 そこのところを書いたぼくらの本(『着たかもしれない制服』)はあまり売れなかった。
森岡 そうですか。
杉本 医者サイドは医師会等をふくめてぼくらの意見を重視していないようです。最近、京大とか、うちの大学(関西医科大学)で学生に講義をしてほしいということがときどき出てくるようになってきたのですが、やっぱり医師会の方から討論するから出てこいというのはないです。いまよくお呼びがかかるのは西本願寺です。仏教関係は現在すごくそれを考えています。
森岡 やはり医師には、脳死とはこのようなものだというイメージがすでにあると思います。それは、たとえば脳の断面図を持ってきて、この部位がこうなっているからもう脳死である。これこれの臨床医学的な徴候を満たしているから、これは脳死です。もっと時間が経過したら、脳の中身はこのように変化しますよ……。これが医師のもっている脳死のイメージです。だから、それについてはわれわれ医師がいちばんよく知っているので、これを素人の市民に啓蒙しなければいけないという図が、脳の中にあると思うんです。
  もし、そうだとしたらそれはまったく倒錯した考え方です。「脳死」は医学的な面以外の、さまざまな側面をもっています。医者はそれらさまざまな側面をもった「脳死」というものを、たまたま医学的な目で見ているだけです。専門家ですから、医学的な側面だけはよく見えますでしょう。でも家族は、医師からは全然わからない側面も感じとれます。たとえば、いままでいろいろな人生の歴史をともにしてきた人が、いまこうやってチューブにつながれて身動きせずにベッドに横たわっている。そのような人生の歴史と想い出とともに認識されるのが、家族の目から見た「脳死」なんです。脳死の人の歴史や想い出なども、すべて「脳死」はふくんでいるのです。たとえば、臓器移植の承諾をするときには、家族はきびしい決断をしなければいけないでしょう。そのときでも家族は脳死の人を、その歴史や想い出をぬきにして眺めることはできないはずです。家族にとっては、その歴史や想い出は、すでに「脳死」の一部です。
  脳死の人の看取りや臓器移植の問題に本当に直面するのは家族のほうなのだから、その家族に脳死の人がどのように現われ、どのように消えていくかというのが本当の脳死の問題であるとさえ感じます。だから、先生が書かれたような記録が本当の脳死の記録だと私は思います。
  このような話は、もっと上手に語れば、いわゆる医師でない人には本当に分かってもらえるのではないかという気がするんです。むしろ医師のほうにこのような話を分からせるのがたいへんであって、素人が何を言うかといつも私は反論を受けることになってしまいます。
杉本 いまおっしゃったような意味で、逆に医者に脳死を教える必要があるということですね。
森岡 そうです。

 脳死問題から医療全体の問題点が見える
 
杉本 ぼくは、脳死問題を契機に医者の感覚とか、いまの考え方とか、医療状況、医療の中の体質をひとつ変えたいという望みがあるのです。というのは、脳死に限らず、植物状態の人もそうですが、いま病院に入っているハンディキャップをもった人たちの問題が一つあります。彼らに対する医者からの処置は、ボディであり、モノなのです。アメリカナイズされた医療が徹底してあるわけです。だから、治る医学か、治らない医学か、よく言われるパーセントの医学です。より差があるか、ないかということが問題にされる。ぼくらも実際にはそうしているのですけれどもね。より差があればこのデータの価値はあるし、こちらは価値がないということになるわけです。
  それと同じ線上にある脳死問題ですから、脳死に限らず、いまの医療そのものが強く問いなおされているわけです。しかし一部の人は脳死問題を一般化させたくないのです。早く討論を終わりたいのですよ。
森岡 なるほど。
杉本 脳死問題は脳死問題だけで切ってしまって、移植は別個に早くやりたいのです。あれは結局、移植医たちが業績主義に走っていくのと同じ問題のように思われます。早く自分がやりたいと思うし、もっと自分の研究テーマを先に進めたいわけです。もちろん医師として患者を救いたいという気持ちが主ですが。
  だから、移植医のほうのそういった願いというものは、脳外科のほうでは迷惑だと思うでしょう。けれど迷惑だというのは移植との関連で脳死が注目されるのが迷惑なのであって、自分たちがいままでやっている診療というのは、とことん生かしたりする医療ではなく、むしろパーセントの考え方でやっているわけで、意味のないことはしない。リカバリー(回復)してまともになれない人はもうカットするという考え方が脳外科の一部にあるように思います。
  たとえば、昔ある病院ではダウン症の子の心臓手術をしなかったというのがありました。いまの脳外科でもハンディキャップをもった子が脳の外傷を負ったり、水頭症を負ってきたりした場合、一部の人は、手術はいらないというのです。
  脳外科、心臓外科はアメリカナイズされた医療の先端です。一%より〇・一%にチャレンジするということはしないんです。たとえそうしても、植物状態ないしそれに近い状態にしか戻らないから意味がないという言うわけです。考え方の基本はそういうものだと思います。
森岡 そのような点で、先端医療をされている医師と、われわれ素人との間には、大きな意識のギャップがあるわけです。そのギャップは脳死の場面に限らず、他の医療の場面でも同じように出てきているはずです。この意味で、脳死問題は一つの入り口なのであって、ここをじっくり見ていったら医療全体の問題点が非常にクリアーに出てくると思う。
杉本 そう、いのちに対する考え方というのは、確かにものすごく明確に出てくる。

 脳死判定の現場では

森岡 そうすると、今度はまったく裏返しのかたちで、ホスピスとか、ターミナル・ケアへ話がいくと思いますが。
杉本 もういっているのではないでしょうか。しかし、そのようになってくると、今後は逆のとらえ方で、尊厳死、安楽死という問題からの切り返しが出てきます。人格を無視して「生かし」続けているのではないかということで、「もっと楽に死なしてやればいいのではないか」という意見が脳死の場面にまで出てくるんです。そこのところが混乱してとらえられている。
  私は話をするとき、いつも最初に、ターミナル・ケアで、がんの末期で苦しんだりしている人とか、ホスピスでの問題と、脳死問題というのは絶対に同次元で話をしてはならないと言うんです。そうでないと混乱してしまうんです。「おれは立派に死にたいから、中途半端に生かしてくれるな」という意見はそれでいいのです。畳の上で死にたいというおじいちゃんの意見もいいでしょう。けれど脳死や移植が問題になってくるのは、そういう人たちではないわけです。死にたいとは夢にも思ってない人が交通事故かなにかでバーンと運ばれてきて、これは脳死に近い状態ですとか、非常に切迫脳死というような状態ですからもうやめましょう、というようなことが起こっているんですよ。
  そこで現実にやられていることは、はっきりいって判定基準にあてはまるかどうかのレベルではないのです。判定基準が問題になるのは、何度も言うようだけれども、移植が裏にあるからなんですよ。だから、今日も明日も救急車が鳴っている中で、たまたま救命センターという名がついているところへ運び込まれる人はむしろいいのです。けれども、いまの他の施設の状態だと、判定基準があっても充分に実施されない場合が出てくるでしょう。医者が見て、「これはもう瀕死やな、でも頑張ってみようか。何時間かやったけど、やっぱりあかんな」ということで、さっと、潮が引くように医療を引き上げてしまうんですよ。そういう現実が一部にはあるように思います。
  そういうところから移植の問題が出てくるのでしょうけれども、そういうケアができる高度な、しかも長期に渡って管理できる状況があるのは、日本のごく限られた地域でしかないと思うんです。
森岡 なるほど。
杉本 だからいま脳死問題は巷にあふれ、しかも脳死ということばがひとり歩きしているように、どんどんその言葉が使われていますが、実際の場では厚生省の基準でさえどこまで実施されているかですよ。今度の新潟の病院の中の事例(一九八八年五月五日、信楽園病院での脳死腎移植)では、基準をクリアーしました、三〇分間で倫理委員会は終了しました、みんな一致して同意しましたとか。
  ちょっと話がずれますけれども、あのプロセスはわれわれのサイドからみると、臓器提供に踏みきるときに奥さんの考えたこと、その間の葛藤とかはすごくよく理解できるのです。あそこにもし問題があるとしたら、倫理委員会がクローズで行なわれたこと、しかもそれが三〇分ですまされたというところだと思います。いったいどのような中身であったのか分かりません。いろいろなところで毎日起こっているという現状は、もっと拡大していけば、「脳死」ということばではなくても、「脳死に近い状態」という表現が使われている場合はいっぱいあると思うんです。
  だから、いま皆さんが考えておられる「脳死」という概念は、きれいな部屋で、あるていどの設備が整って、スタッフがたくさんいるなかででき上がってくる脳死像を描いているわけです。
森岡 そうですね。
杉本 いまの日本はそうではないです。
森岡 機器が全部そろって、きれいな部屋で、全部スタッフがそろって待っているというのは非常に少数のところである。
杉本 その少数の話を例に、サイエンスということで、脳死というのは医学的にいえば死であるのだと、ポンと決めてしまって、無駄なことはやめようという。無駄なことはやめようということの中には経費削減の問題が横たわっているでしょうし、余分な労働力をはぶこうということもあるでしょう。つまりいろいろな意味から、「無駄な医療」を縮小させていくひとつの材料になっているように思います。つまり戻ることがありえないであろう人に対して金をかけるな、高度な医療を使うなということだと思うんです。
森岡 それはありますね。
杉本 最近はかなり徹底してきていると思うんです。そこは医療不信になってくるのでしょうけれども、病院の夜中の体制は非常に人数が少ないわけでしょう。若い医者がいても、テクニック的な問題もあるでしょうし、その救命センターで急にトラブルが起こったときでも、充分に対応できない場合も出てきてしまう。いつもいつもウワッと医者が寄ってきて何でもできるのではないわけです。医療スタッフの人数はいま削減されてきているし、最低限のメンバーでやっているでしょう。だから、いろいろなトラブルが起きないとはかぎりません。先端と言われているところでも、そのようなことが表に出ないだけであって、いっぱい起こっている可能性があります。
森岡 いわばモデル地区とそうでないところとの間に、大きな体質の差があるということですか。そしてモデル地区以外のところでは、結局、体質といいますか、性質はこれからも変わらないということなんですか。
杉本 変わらないです。
森岡 よく社会主義国へ行くと、たとえばどこか調査に行きたいというと、どこかモデル地区へ連れて行くでしょう。
杉本 そうそう。テレビで撮るところもそういうところですよ。
森岡 非常に訓練されたのをやってますね。それ以外のところを全然見せてくれない。だからわれわれにモデル地区の話だけが伝わってくる。脳死の場合もこれとまったく同じようなことになっているわけですね。
杉本 脳死判定にしても、たとえばきちっと点数づけをして、基準を満たすように努力をするところは、それはぼくはかなりいいところだと思います。でも実際にはやっぱり面倒くさいという面があるでしょう。
森岡 そういうものですか。
杉本 ある意味では死に対して麻痺しているんですよ。先ほど、あなたは血を見たことがないとおっしゃいましたけれども、たとえば顔面に大きな傷をつくったり、手が一本くだけていたりとか、どんな状態の人が入ってきても平気で見られるような状態に医師はならざるをえないし、なっているわけです。
森岡 そうなんでしょうね。職業的にそのようにならないとできないことがある。
杉本 だから、どこのだれとも知らない人がポンと入ってきて息を引き取って、あとで話を聞くと近所のどこそこの人だと知って、「へー」ということになる。日常的には、自分との個人的な関わりはまずないわけで、「あ、亡くなりましたね」と言ってハンコを押すことになる。本当に合理化されたなかでのひとつのシステムになっているわけです。

 死の受容と別れの期間
 
森岡 そうですね。だからそこでやっぱりギャップがあるわけです。家族の場合は患者をよく知っています。医者の場合は知らないうえにかつ慣れているから機械的にできる。でもそれでは駄目ではないか、医者が家族に対してももっと親切に応対してゆかねばならないという意見も出てきます。しかし、いまのままだと、それは事実上無理だと思います。
  もちろん脳死の場合は救急医療ですから、そういう特殊性もある。パッと来て、早い時間にパッとやらなくてはならない。機械的にやらなくてはいけない。そのあとは駄目だったら、さっと引き上げてしまって、あとは看護婦たちが残って、家族の世話をする。あとに残るのは移植の話だけということになっているような気がします。それはおかしいのではないか、もっと家族の気持ちのことを考えようという意見が出されるわけです。では家族を見守ってゆくためには具体的にどうすればいいのでしょうか。
杉本 医師と家族とのコミュニケーションがうまくとれだしたら、一か月、二か月と「脳死」のまま続くことにはならないと思います。(キュブラー=ロスではないですけれども)何日間かたって、受容の時期が来て、コミュニケーションが充分できだしたら、そろそろ消極的になってゆく時期が来るのではないかと思います。それはあ・うんの呼吸ではないですけれども、医者と家族との呼吸であり、周りといっしょにする場面づくりであり、別れの時期の設定であるわけです。それは決して移植のためにする終わり方ではないんですよ。いくらなんでも一日以内ということではなくて、脳死というのは幅があるわけですから、その時間を目一杯使うなり、納得するための時間として使っていったらいいのです。その数日間に要する費用が一日、二〇万から三〇万ぐらいの金がいるからもったいないと言われるわけですが、逆に言えばターミナルであるからこそ、そのていどの出費は許されていいのではないかとぼくは思います。
森岡 私もそう思います。見逃してはならないのは、家族の死の受容です。脳死に直面する当事者にとっていちばん大事なのは、その死を受容する時間をどう確保するか、周りがどう確保してあげるかということだと思います。
  それも医療なんだということです。そういう時間を保証するということも、じつは医療である。脳死の看取りということもひとつの医療である。ただそれは脳外科学という医学の中に入らないんです。脳生理学の中にも全然入らない。かつそれは先端技術医療でもないと思います。しいて言えば看護学に入るのでしょうね。
  そのようなことを支える設備やスタッフやシステムというものが理想論として、あってもいいのではないかと思います。
杉本 逆に「脳死」のような状況をつくろうと思えばできるわけです。たとえばおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなるときにみんな気管内挿管して人工呼吸器を動かすんです。同じ状況をつくろうと思えば全部できますよ。でも実際にはほとんどやらない。たいていは慢性の病気ですし、おじいちゃん、おばあちゃんでもあるし、「これで終わりです、いいですかな」ということが、すでに医師と家族の間にでき上がってますから、昔ながらに、ぼくも当直しているときにあるんですが、呼吸を見て、脈を取って、心音を聴いて、目を見て、つまり三徴候をみて、「お亡くなりになりました。何時何分です」ということで儀式が終わるんです。
  それをやらさずに誰にでも人工呼吸器などを全部突っ込んでいくと、どうなるのか。人工呼吸器をポンとセットしたら、機械がガーと動き始めます。何日間か、何時間かわからないけれども、あるていどの期間、そういう状況を作っていくことができるのです。そうすると別れを惜しむ人が逆にそれをやれということにならないか。
森岡 なるほど、それは気づきませんでした。
杉本 しかし、突然、交通事故か何かで脳死になった場合は、おじいちゃんおばあちゃんの場合のように、無理につくり出したものと違うんです。
森岡 そうですね。突然の脳死の場合は、そのおじいちゃん、おばあちゃんみたいに、本人も周りの人も死をあらかじめ覚悟していたわけではないということですね。
  別れの期間を設定しようというときに、マニュアルに書いてあるからしましょうというのではなくて、いろいろな人間関係の呼吸で、別れをするために、その場その場に応じてみんなが融通をつけることができれば理想だと思います。医療従事者たちの普段からのそういうことに対する感性みたいなものがあれば、いちばんよいと思います。われわれ一般市民と通じ合うような感性を、医師の側がもつことが、鍵になると思います。もちろん費用の問題は別かもしれませんが。

 ドナーとレシピエントの家族の関係
 
森岡 臓器移植は業績主義がむしろ原動力で動いているという話があります。しかし、一般市民としては、何か雲の上の話で、「業績」といってもなんのことだかわからない人がほとんどだろうと思います。
  医師は家族に、移植をすれば業績になるからという説得のしかたは絶対やらないでしょう。こちらに死にそうな人がいるから、心臓がこちらへ行けばこの人は助かると説得する。すると、やっぱり家族は動かされる。あなたのご家族の心臓を一個こちらへあげれば、こちらの一つのいのちが助かるんです。あなたのご家族のかたの臓器が生き続けるんですというところで、ドナーの家族は納得し、ある場合にはいいことをした気持ちになって、臓器をあげるのです。そこにはいわゆる「善意の提供」というストーリー以外のものは入ってこないわけです。そういうストーリーの流れにのってドナーの家族は納得するし、もらった人も「ありがとうございました」ということになるのだろうと思うんです。じつはそのような議論ともうひとつレベルの違うところで業績主義が動いていたり、もっと別の政策の次元では医療資源の問題、経済の問題が動いたりしているわけです。構造は何重にもなっていると思います。
杉本 だから、いまの医療政策の中身を考えるとき、「脳死と臓器移植」は非常に面白いマテリアルだと思うんです。
  移植という問題に限れば、そこで引っ掛かっているのはやっぱり和田事件でしょう。まだやっと地検の資料が公表された程度です。明らかに脳波もとってないし、はたして脳死であったのか、また本当に心臓移植が必要であったのかなどいろいろな問題をふくんでいるでしょう。
  和田問題というのが、結局あのような曖昧なかたちで終わってしまうこと自体が、医療の不信に拍車をかけているわけです。あれを曖昧でなくしてしまうと、非常に困ることになるんでしょう。
森岡 それに、和田教授はずっと胸部外科学会のリーダーとしてやってきたし、いまでも退官されてまだリーダーとしてやっていると聞きました。このようなことを許すいまの医学会の雰囲気といいますか、体質に、はたして国民が納得するかですね。
  アメリカの生命倫理の研究誌(Hastings CenterReport, October, 1985)に、一九八五年に日本で起きた事件が紹介されていました。医師が誤って一〇歳の少女に抗がん剤を注入して殺してしまった事件ですが、その医師は自分の誤りを認めて謝罪したのち、医療過誤を追求されることもなくカナダで研究を続けているとのことです。医師の明らかな過失が、きっちりと追求されない日本の医学界の体質は、外国からも奇異な目で見られています。
杉本 個々の移植についていえば、ドナーを不明確にし、レシピエントを不明確にします。医者だけが両者を知っている。医者はつけ替えをして、そのあとの生存率とその期間に興味をもつわけです。ところがドナー側というのはやっぱりなけなしのものをあげたわけで、その代わりに金をくれというのではなくて、そのあげたものがどういうふうに働いているかということを知りたいし、その権利があるのです。もう言ってほしくないという人もあるかもしれないけれども、われわれにしたら知る権利がある。どこへ行ったか分からない。ぼくらの場合はあげたものがどこへ行って、どうなったかということは分からないのですよ。やっぱり生きているか、死んでいるのか、動いているか、動いてないかということを知りたいのです。ドナー側としては、移植臓器はすべてをかけた生命の継承でしょう。
森岡 そうですね。
杉本 だから、ポンコツ屋でタイヤ取ってきたり、ハンドル取ってきたりして自分のいいようにリフレッシュするという同じ感覚で臓器も扱われているような気がします。しかも、レシピエントの選択の問題が一般には全然わからないでしょう。
  今度の本(『剛亮の残したもの』)にも書いてますけれども、レシピエントの母親からNHKテレビ(NHK特集「剛亮生きてや」一九八七・三・一六放送)を見てNHKに手紙がきた。二十歳になる子の腎臓が死んだうちの子のあげたものだということがテレビを見て分かった。ぼくらはテレビに顔が出ているし、どこの誰かということが相手には分かっているわけです。その母親はそのとき移植をした医師に、「線香を上げにいきたいから」と言った。ところがその医師に、そのようなことはしないほうがいいと断られた。それではせめてお花だけでも供えたいと言ったがそれも断られたというのです。そうではない、やっぱり向こうにしたらもらって本当にありがたいし、その人が透析から抜け出して非常に元気にやっているという感謝の気持ちで、うちの子供に線香を上げることは、なんら問題のないことです。
  ぼくらもまさかそこで札束をもらいたいとか、ゆすろうなどと言っているわけではない。ただレシピエントとして腎臓を受け継いだ人は、それだけの貴重ないのちをもらっているのだから、たとえ人から注目を浴びてもぼくはいいと思います。それだけ問題なくあとの人生をきちっと生きなければいけないと思います。自分の人生を人からもらっているわけです。だから、隠す必要は全然ないと思います。もらったんだという気概をもって後の人生を生き抜く必要があると思います。それだけの背負うべき役目があるのではないかと思います。単に部品のつけ替え、オペをして、がんの部分を取ったという問題と全然違うと思います。
森岡 強く生きられる人もいるでしょうけれども、自分の中にほかのものが入っているというだけでかなり心理的なストレスがたまる人もいると思います。
杉本 自分で望んだことなのでしょう。
森岡 そうです。
杉本 単に人工の機械のペースメーカーが入っているのとは違うと思います。それだけの重さというものは「部品」であっても感じるべきだと思います。いまはぼくはそのように思います。クローズにする必要はないのではないかと思います。それから、レシピエントの選択のプロセスで、腎臓でも、有名なというか、いわゆる力のある人のほうに先に行ってしまうような気がしてならないのです。それから、心臓などになってくると何千万近い費用が要るわけです。そうすると当然、人が限られてしまうでしょう。アメリカなどは最初は財団をつくって金を出していたけれども、それはすぐにパンクしてしまって、結局いまは金のある人だけしかやれない。金のない人はたとえば明美ちゃん基金というのをやっているけれども、一人、二人やったらそれで終わりですよ。

 いのちを金で買うようないまの社会
 
森岡 でも、自由主義の社会だから、金を持っている者が高度医療を受けて何が悪いという意見が一方あるのです。金持ちは心臓をもらえて、金持ちでない人はもらえないというのは、金持ちが東京に家を建てられて、金持ちでないのは東京に建てられないということと同じで、それ自体はなにも悪いことではない。自由社会なのだからいいではないかという意見もあるのです。
杉本 けれども、それはいのちに対する平等とは違います。それは物質的なもの、モノはそうでしょう。けれどいのちは金のあるなしにかかわらず、平等であるはずのものですよね。
森岡 そうでしょうね。
杉本 だから、いのちが終わるはずの人が移植で生き延びたということは、そのいのちをお金で買ったということとは全然別の問題です。それは生命の継承であり、モノの売買とは質的に違うと思います。
森岡 しかし、いま医療を受けるときにはお金を払っているわけです。ということはある意味では、われわれはいのちを買っているわけです。たとえば心臓移植に限らず、ほかにも保険医療でない医療があります。それを受けられる人というのはお金を持っている人です。そういうかたちで医療を受けられた人には、ある意味で、そのような治療を受けるために支援してくれた看護婦とか、医師とか、そういう機械をつくったメーカーの人たちの協力があったわけです。でもその協力の代償にお金を払っているわけです。その点ではやっぱりいのちを買っているのではないかと思うんです。
  だから、資本主義の世の中での医療というのは、多かれ少なかれ、いのちを買うというようなことがすでに起きているのではないかという気がする。ただ心臓を札束で買うという表現を使うと非常にくっきり見えてくるから……。
杉本 見えてきすぎるからね。
森岡 非常に何かくっきりしてしまうのだけれども、じつはそれは医療の中に、すでに多かれ少なかれあったことではないかという気がするんです。私はそれを肯定しているわけではないんだけれども。
  医師にしても給料をもらった引き換えに医療をしているわけです。だから医者が治療をするというのは、ある意味では部品の修理なのだけれども、別の意味ではいのちが育つのを助けてあげたり、あるいは自分のいのちのエネルギーみたいなものをあげているのかもしれない。ケアをするというのは、そういう面もあるでしょう。これと引き換えにお金をもらって商売の関係として成立しているのが現代の医療です。だから、たとえば心臓移植にしても、金持ちが特権的に心臓をもらっても、それは自由主義経済のもとでは、なんらおかしくないではないかという意見も出てくると思います。
  もしその論理がおかしいのだとしたら、どこがおかしいのか。これはわれわれの社会のあり方をどう考えるかという問題です。
杉本 それの最たるものがアメリカなわけでしょう。
森岡 でしょうね。
杉本 国民皆保険になって、あるていど医療が保障されているというのは基本的にはいいことですが、高度医療になってくるにつれて金がかかってくるわけで、いまそのような方向へ来ていますでしょう。
  それこそ大学院構想ではないけれども、医学部にしてもそうです。経済効率から国公立の病院というのはセレクトされていって、大学病院では一般患者はもう看ないで、よほどの紹介がある場合しか取らないということになってくる。だから、大学の付属病院はそれだけの価値でしかなくなってしまうし、高度医療だけをやる機関として存立するようになってくる。そこで看てもらえる人は全部大学の関連の病院でセレクトされる。
森岡 そうなんでしょうね。
杉本 だから、(資本主義のプロセスなのかもわからないですけれども)方向がそのようにアメリカナイズされてきているように思うんです。
森岡 いのちというのは金で買えないものですか。
杉本 そのへんはどうですか。買えないというよりは、やっぱりそれは基本的には金によらず平等に保証されねばなりません。けれどもいのちの長さをどうするかという問題もあるでしょう。だからいのちは金で買えないのですかとおっしゃいましたが、ある意味では買っているようなものかもしれません。実際問題として資本主義のいまの社会に生きていれば、車が当たってきても大丈夫なように外車に乗ろうとする。当たってきたらペッシャンコになる日本車よりはということで。走るものではなくて、防衛するための車として、自分で防衛するためには金がいるという発想になるでしょう。だからあるていどまでは金で防衛する。そのように言われたら確かにお金でいのちを守る、あるいは買うようないまの社会です。

 医師にものを言えない現代医療の体質

森岡 話は変わりますが、たとえば、アメリカの場合ですと、臓器移植をしたくない家庭は、いやだとつっぱねることができる雰囲気があるかもしれません。ところが日本で同じ状況になった場合、いやだと言ったときにそれを尊重する雰囲気がいったいあるかどうか。
杉本 ぼくらの場合は、表面的には家族の意思を尊重するかのようにみせて、実際は尊重せずに、そのプロフェッショナル性でもって意思と反対の方向、つまり薬も水分も抜いてゆくという方法でダウンさせられていったわけです。そういう体質が日本にはあるのです。
森岡 この間の生命倫理懇談会の加藤一郎さんの話は、自己決定権を尊重しなければいけないということでしたが、あれは要するに臓器移植をやりたい人はやればいいのであって、やりたくない人はやりたい人の邪魔をするなという話でしょう。でも、あの思想はあのかたちでは本当はわれわれの社会では機能しないのではないか。われわれは村八分にされるという恐れから何かをしないということがいっぱいあるでしょう。たとえば、脳死になったら本来、臓器移植をするべきですよという雰囲気が漂っているなかで、「しません」というのはこの文化では本当に言いにくいと思います。「そうですか、しかたないですね」と返事されたあと、何か意地悪されたりとか、何か他人の視線が冷たくなったりとかがあるだろう。それをあらかじめ予想するからつい反対の言葉が言えない。たとえばいまの医療現場で、患者さんは医師に強くものを言えないでしょう。ぼくもこれは経験をしたから分かるけれども、医師がこのような処方をしますと言ったら、嫌だと思っても、何か口に出して言えないです。
杉本 言えないでしょうね。
森岡 医師と理屈だけで勝負したら勝つ自信はあるけれども、やっぱり言えないです。だから、何かよく分からないけれども、日本ではそういうのが普通の雰囲気なんです。そういうところで、やたら自己決定権であるとか、アメリカで機能しているのをいきなり持って来られても困るんです。
杉本 そうです。そういう体質そのものがいまの医療のベースにあるのであって、それを何とか変えなくてはいけないし、変える手始めとして今回の脳死問題を逆に利用できないかというのがすごくある。
森岡 それは非常によく分かります。
杉本 だから、納得のいくように説明をするし、包み隠さずデータを見せるし、たとえばカルテにしたって見せるとは言わないけれども、きちっとつける。あのような時期になるとほとんど何もしないし、カルテにも書いてない。
森岡 それは他の医師から聞きました。ぼくはびっくりしました。カルテは本当にズサンらしいですね。
杉本 何も書かないことがよくある。
森岡 死亡とさえ書いてないという話を聞きました。
杉本 残すという必要性がないから、つまりあとで利用しないから、きちっとした記録は必要ではない。もちろん看護記録には書いてあるのでしょう。ぼくの場合はベッドサイドで自分でノートにつけていたわけだから全部分かる。
森岡 なるほど。
杉本 やっぱり公開制にしないといけないと思います。たとえば、結論じみてくるけれども、脳死に対してぼくは認めないわけではなくて、脳死はもちろん存在するでしょうし、時間的な幅のあるものだろうし、時間的経過の中で質も違ってくるでしょう。ただ現在言えるのは、早期に診断するだけの、必要かつ充分な理論的・科学的根拠がないということです。たとえば六時間という場合でも、その六時間に対しての根拠に普遍性をもたせることは、いまの段階ではできないでしょう。ただし、それが七時間であろうと一〇〇日であろうと同じです。そのかわり途中で切り上げることがあってもおかしくない。それは私も認めるわけです。自分自身が移植を認めたわけですし、脳死というその幅のある死の過程で次の人に臓器を提供するということはありうるだろうし、否定はしません。
  ただ、基本的には平等と公開という原則を踏み外さないようにしないといけない。それが保証されるようなシステムができ上がればいいのです。それができないかぎりはあくまで反対的な立場で声を上げざるをえない。公開ということでカルテをきちっとつけ、隠さずにしゃべる。そうして家族とコミュニケーションをとる努力をし、家族に患者さんをできるだけ長く見せてあげるということも必要でしょう。患者さん本人を非公開にするようなかたちというのはもってのほかなのです。
  とくに、脳死に入った状態では、クリーンルームがどうのこうのという必要は全然ないわけです。この前、家族との別れがしやすいように部屋を移すという問題が出ていました(木原記念財団脳死シンポジウム)。あれと同じような発想でも別にかまわないわけです。できるだけ近くに寄り添い、看護ができ、別れができる。別れを設定したうえで、別れをつくれという言い方はおかしいですけれども、家族みんなで瀕死の状態の患者を看護できる場所を保証する。家族に看護を基本的にさせるという場をつくる必要があると思います。
  それから脳死を決定する段階での資料を、あとで問われたときに全部オープンにできるようなシステムをつくる。
  もう一つ大事なのは今回の新潟の事例(信楽園病院での脳死腎移植)でもそうですけれども、倫理委員会でどのような討論がされたかということもきちんと記録する。倫理委員会をその場で公開せよというのではなくて、あとでもいいから資料を公開できるようなシステムにする。
  そういうふうなことが基本的にでき上がったうえではじめてゴーサインになる。
  それからもうひとつ、先ほど言いましたけれども、レシピエントの選択の中で平等原則を貫かねばいけないと思います。そこが基本的に保証されたらゴーサインを出してもいいだろうし、それが一つのモデルとしていろいろな場面で用いられるようなかたちになってきたら、医療への信頼が高まるのではないかと思います。ただし、ゴーサインが出たあと、はたしてドナーが必要な数だけ現われるかどうか、大きな疑問です。現在の腎バンクの状況を見るか分かるでしょう。

 情報の公開と平等な関係を

森岡 いま言われたことは非常によく分かります。まさにそのとおりだと思います。そういうことを実際に実現するために、たとえば社会のどこを押せばいいかということなのです。
杉本 何も必要ない。いまの事実がみんなに見えさえすればよいのです。
森岡 具体的にどうすればいいのか。だって、見せてくださいと医者に言っても見せてくれないでしょう。だから、そういうことを実現するために何か戦略が要るわけです。
杉本 だから、医者が見せなければいけないわけで、見せざるをえないようなシステムをつくる。法律ではないですね。そういう雰囲気にさせていく必要があるのではないか。
森岡 まず雰囲気をつくるということですね。たとえば倫理委員会をオープンにさせるためには、具体的にはどこに働きかければいいのでしょうか。
杉本 マスコミや、講演の場などいろいろな場面で討論を広めていくなかで、つまりコンセンサスを作ってゆくなかで、オープンにすべきことを出してゆく。いまの討論の中身は、脳死の診断ができるかどうかということになっている。そして反対か賛成かという単純な論理の中で展開されている。けれど、公開をせよなどといった具体的な要求項目が上がってくれば一般の人たちももっとスムーズに討論に参加できるのではないか。
  一般の人すべてが脳死という状態を理解しなければいけないというのではないのです。たとえば断面図を見せられて、その機構のどこが死んでいて、というような理解はできなくてもいいのです。信頼関係がベースにあり、「あなたにいのちを預けた」と言ってもらえるようになればいいわけです。つまり信頼に基づいた平等な契約関係が生まれることが必要なのです。しかし、それをつくるにしてもやっぱり和田事件が引っ掛かってくるし、一般的には医者は何をするか分からないというような不信感みたいなものがある。そもそも「薬がわかる本」がベストセラーになるというのは、医療不信が根っこにあるからです。医療不信、医療不信があること、そこが問題なんです。合意と賛成というのは、公開と平等の原則をきちんとしたうえでの話です。そのためにはまず、一つひとつの事例をオープンにしていって、たとえば新潟なら新潟の例をたたき台にして何例かを検討していくことから始めなければいけないと思うんです。
森岡 言い換えれば、医師たちのグループ自身が、そういうことを自分たちの問題として受けとめ、自分たちのやり方を変えないと駄目だということに気づくこと。
杉本 それもひとつです。それとともに医者はこうあるべきだということを、脳死問題を通じてまわりから起こしていかないといけない。
森岡 まさにそのとおりだと思います。ただ、最近までの医師の書いた脳死の本や記事を見ていると、「啓蒙」が必要だというわけです。
杉本 脳死状態の啓蒙でしょう。
森岡 そうです。なぜ啓蒙するかというと、脳死から臓器移植をスムーズに進めるためには、まだ一般市民は何も知らないから啓蒙する必要がある。コンセンサスが得られないのは、啓蒙の努力が足りないからである。啓蒙すれば一般市民はよく分かってくれて、脳死も臓器移植もスムーズにいく、という発想の話がわりといっぱいあります。だけれども、それでは絶対駄目だということに気がつかなければいけない。医師たちは別のことをしなければいけない。啓蒙というのは非常に簡単な図式です。自分は変わらなくて、永久不変であって、相手を変えさせるというのが啓蒙でしょう。そうではなくて、自分たちがいままでにやってきたこと自体を変えていかないかぎり、相手も分かってくれないということに気づかなければいけない。
杉本 そうです。だから、立花さんのようにあのような討論を挑んでいくのも一つのやり方だと思います。だけれども、あれは普通に読むと非常に分かりにくい。雲の上の討論になってしまうのです。
  それよりも根底にはやっぱり医者への不信があるんです。医者への不信というのはこれからの医療の根幹にかかわる大きな問題ですよ。
  だから、そこのところを、医者自身に気づかせなくてはいけないし、気づいた医者が不信を回復してゆく努力を始めていかなければいけないということです。たとえば、患者さんに薬の名前を教えるとか、できるだけ医療内容を見せるようにするとか、このようなことを日常的に心掛けるべきです。そういう動きをつくっていかずに、医者のすることを信頼しなさい、理解しなさいというのは無理なことなのです。
  たとえば「脳死に近い」状態にあったとして、患者サイドが知らないうちに医者が点滴を減らしたり、薬を中止したりとか、つまり表向きには治療続行について「はい、分かりました」と言いながら結果的に医者の考えを押しつけてしまうような体質はやめなければいけない。また医者のほうが基準をつくろうというのは、つまり基準さえ満たしていればそれでよしと言えるからということがある。しかし基準さえ満たしていればいいというのではなくて、時間的経過や、どのように基準を満たしていったのかということまで明らかにし、基準以上に充分な検討をしたのだということを公開していく必要があるのです。もちろん基準そのものの科学性についてはさらに討論が必要ですが。たとえば、新潟のような問題が出たときには必ず全部の資料をオープンにして討論のたたき台にしていく。今度の場合、新聞によると比較的家族の了解が尊重されていたように思われます。たとえば、四月三〇日に「脳死」ですと言われて、家族は五月三日まで三〜四日間は模索しているわけです。その間のイニシアティヴはほとんど家族のサイドにあったように思われます。それで移植にいたった。これはやっぱりすばらしいことです。善意のことで博愛的なことだとみんなは納得する。そういう具体的事例をオープンにしていくことが大事なのだと思います。ぼくたちの本も、一つの事例をオープンにしたいという気持ちがあって、出版したんです。
森岡 それは非常によく分かります。

「いのち」の問題を考えるきっかけとして

杉本 ある文科系大学のシンポジウムのときに、ドナーカードを持つことを運動として若者の間に普及させてみたらどうだろうかと、出席したメンバーの中で、冗談半分で話題になりました。つまり、そこで初めて考えるきっかけをつかめるのではないかということです。
森岡 なるほど。自分の問題。
杉本 いのちと自分の問題。たとえば、オートバイでぶっ飛ばしたり、車を運転する若者がドナーカードのハンコを押すか押さないかということになるのですが。アメリカではみんな免許証を取るときにやるでしょう。それと同じように、法律的ではなく、一つの運動としてドナーカードを持ちましょうという感じでやっていったらどうなるか。結局、心臓移植などのドナーになる可能性があるのは若者なのですから。自分の知らないうちにドナーになっていたというのではなくて、一度、「いのち」を考えてみる機会をつくるのです。自分の臓器を人にあげるのか否かという選択のときに、何かの討論が生まれてこないか。ただそれは法的は規制は何ももたせないのです。はやりとしてでもいいのですけれども、テレホンカードみたいな感じでね。私のいのちをあげますみたいに。
  すると、みんなはもっといのちを大切にしようとするだろうし、自分のいのちというものを考えていくきっかけになるのではないかと思います。逆の立場から、つまり一般に知らせるという意味からも面白い手ではないかと思います。それは明らかに移植を認める立場からの発言になってしまうでしょうが。この前のシンポジウムで若者に話をしていたら、ドナーカードという問題に意外にも反応がありました。学生は案外このようなところに興味があるのだという印象をもちました。ただしこの問題は、もしドナーカードさえ持っていたら、無条件に移植を行なってよいということにはなりません。たとえ、ドナーカードを持っていても、それは健康なときに考えた判断であって、病んだあとも同じ考えをもつことができるかは、分かりません。あくまでも参考ていどのものでしかないでしょう。しかも脳死をとりまく医療情勢が改善されたうえでのことでしょうが……。
森岡 今日は長い時間ありがとうございました。お疲れになりましたか。
杉本 ちょっと声が枯れてきました。

(一九八八年六月二六日  京都市にて)

 

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