生命学ホームページ 
ホーム > エッセイ・論文 > このページ
作成:森岡正博 
掲示板プロフィール著書エッセイ・論文
English Pages | kinokopress.com

論文

『女性学』日本女性学会 第10号 2003年1月 47−59頁
男性のセクシュアリティとポルノグラフィー
―支配・自傷・フェティシズム
森岡正博

この論文は、完全に書き直して、2005年2月刊行の拙著『感じない男』(ちくま新書)第2章「「男の不感症」に目を背ける男たち」に収録しました。下記は、書き直し以前の不完全版ですので、ぜひ『感じない男』のほうを読んでみてください。




 二〇〇二年に開催された、日本女性学会大会のシンポジウムで、「男のセクシュアリティーの一断面」という発表をした。当日の発表は私の希望で録音を控えてもらった。自分自身のことを、かなり語ったからだ。そのかわり、その内容の核心部分を、ここで文章にしておきたい。
 まず、私はポルノについて、私自身の体験に基づいて語っていこうと思う。なぜなら、男たちのセクシュアリティや性体験は千差万別であり、けっして単一の「男」という枠組みでひとくくりにはできないからである。したがって、以下に語られるのは、私自身の場合、あるいは私と同じような男の場合である。文中に出てくる「男」という言葉も、特に注釈がないかぎり、第一義的にはそれを意味する。第二に、私の分析は、ヘテロセクシャルな視点に限定されている。この意味での議論の偏りが存在することをもまた、留意しておいてほしい。ホモセクシュアリティについても、語りたいことはあるが、ここでは述べない。またポルノの定義もここでは行なわない(定義が重大問題であることは認識している)。
 さて、ポルノには、「教育メディアとしてのポルノ」という側面と、「マスターベーション・ツールとしてのポルノ」という側面がある。前者は、性体験の少ない若者が、ポルノによってセックスのやり方を覚えてしまうという面である。これは単にセックスの方法を伝達するだけにはとどまらず、男性の「性的主体形成」の基盤を与えるという機能をも持ち合わせている。後者は、雑誌の写真やビデオを見ながらマスターベーションをすることを指す。前者後者ともに重要な機能であるが、ここでは後者のマスターベーション・ツールとしてのポルノに焦点を絞りたい。
 男(=私のような男、以下略)がポルノを見るのは、どういうときか。大別すると、(1)何だか分からないがむらむらっとポルノを見たくなるとき、(2)マスターベーションをするとき、の二つである。そして、(1)の、何だか分からないがむらむらっとしてポルノを見てしまったときには、かなりの割合でマスターベーションをしてしまうように思われる。(若いときから現在まで私のセクシュアリティはずいぶん変貌しているので、これらの記述が通時的に当てはまるとは限らない)。そして、マスターベーションをすると、かなりの割合で射精にまで至るように思われる。
 ここで、ひとつの切り口を導入してみたい。それは、「男は射精後にポルノをどうするのか」という問いである。マスターベーションをして、射精をし終わったとき、男はそれまで見ていた写真やビデオをどうするのか。その答えはひとつ。射精後もずっと同じように写真やビデオを見続けているということは、ほとんどない。射精後は、写真をパタンと閉じ、ビデオのスイッチをガチャッと切るのである。切ったあと、気分を変えるために、何か別のものに気をそらす。あるいはその部屋を立ち去って、戸外の空気でも吸いたくなる。要するに、さっきまで自分が集中して使っていたポルノから、なるべく離れ、距離を取って、その存在を忘れてしまいたいのである。射精後のポルノ、それは、もう当分のあいだ(あるいは二度と)見たくない物体なのだ。それはなぜなのか。それを理解するためには、射精という疎外体験について知らなければならない。
 射精についての神話がある。それは、「射精は男にとってのオーガズムである」という神話だ。この神話は男たちも口にするし、フェミニストたちもこのような見方を取ってきたように思われる。しかしながら、私の体験から言えば、射精はほとんどの場合、オーガズムではない。それは局部的な排泄感覚の快を基本とした、きわめて取るに足らない快感でしかない。たとえば、射精して「涙を流す」男がいるのか? 射精して、腰が抜けたようになって「立ち上がれなくなる」男がいるのか? 「頭の中が真っ白」になる男がいるのか? 「ろれつが回らなくなる」男がいるのか? 私は射精によってこのような状態になったことは一度もないし、そのような射精体験談を聞いたこともない。年輪を重ねた女性たちにおいては、(個人差はあるが)ときおり訪れることのあるというこれらの状態を、男は射精によっては体験することができないように思われる。射精の前後、男は自分の身体の周囲がはっきりと見えている。筋肉によって自分の身体の姿勢を堅く保持したまま、視覚によってまわりの状況を鋭敏に覚知したなかで起きる、局部の自動痙攣運動が、男にとっての射精である。それは、たしかに快感ではあるが、このうえないエクスタシー体験として語られるところの「オーガズム」という名には値しない。(もちろん、セックスで「すごく良かった」ということはあるが、それは射精以外のファクターが効いているのである)。
 したがって、射精における男の原体験とは、射精するたびに繰り返されるところの、めくるめく快感や深い充足感からの疎外体験なのである。射精によって何かすごい快感の世界に入り込めると思ってしまうのだが、射精後にはつねにそれが裏切られ、何の深い充足感もないざらざらとした砂漠にひとり取り残されて、早くここから立ち去りたいと願わざるを得ない、それがマスターベーション体験の核心部分なのである。そして男は、これを性懲りもなく、定期的に繰り返してしまう。私は、このような原体験のことを「男の不感症」と呼んで、拙著で詳細に分析したことがある(1)。同書のこの箇所は、女性たちからだけではなく、男性たちからも驚きと疑いをもって読まれているようだ。右記の本は生命倫理についての文脈で書かれているので、これをセクシュアリティ論の文脈に置き換えてみる必要があるだろう。同書から、ポルノに関する分析を引用する。

 このような疎外の感情を植え付けられた男たちは、「性交において女は、男たちが伺い知ることのできないような、うらやましいくらいの快感や充足感を経験するらしい」という思い込みを、女性に対して貼り付けるのである。この思い込みは、男性向けのポルノグラフィーにおいて、しつこいくらい繰り返し描写される。セックスにおいて女性は、はじめは嫌がっていても、やがて男のペニスによってめくるめくような快感に襲われ、何を失ってもかまわないほどのエクスタシー=充足感に至るというのである。このような女性観を、男たちは思春期から刷り込まれる。男たちは、その思い込みから容易には抜け出せない。その結果、男は、女性に対する二重の見方をするようになる。ひとつは、性的快感の面において男は女にけっしてかなわないという「劣等感」であり、もうひとつは、女は性的快感にのみ生きる非理知的生き物であるという「女性蔑視」である。(2)

 この「劣等感」と「女性蔑視」が、同じコインの両面であることは言うまでもないだろう。男にとってのポルノとは、射精において繰り返される疎外体験をもとにして、このような「劣等感」と「女性蔑視」を心の底まで刷り込ませることによって、男に偽の自尊心を保障しようとする装置である。男による女性嫌悪の問題はフェミニズムによって精緻に分析されてきたが、女性嫌悪の基盤には「男の不感症」があるという点を、しっかりと見据えなくてはならない。
 男たちは、みずからが不感症であるかもしれないということを、徹底的に隠蔽しようとする。それを隠蔽するときに活躍するのが、猥談であり、猥談メディアとしての週刊誌などである。男性向け週刊誌やスポーツ紙などには、どのAVがすごく良かったとか、どこの風俗嬢が最高に気持ちよかったなどの話が、あふれんばかりである。それらの射精産業利用レポートでは、まるで何かがばれてしまうのが怖いかのように、徹底的に射精体験の快感が饒舌に語られる。「すごく良かった」「最高だった」というこれらの言葉の羅列は、まるで悪魔を封じ込める「呪文」のように聞こえる。そこにおいて封じ込められなくてはならない悪魔とは、言うまでもなく「男の不感症」という原風景のことである。男たちが、いったい何を怖れているのか、冷静に見つめてみる必要がある。もちろん、ハヴロック・エリス以降の性研究は、男性の射精の不満足感や消耗感について言及してはいるが、「男の不感症」という視点からの掘り下げは見られない(3)。
 ここで最初の問いに戻ってみよう。男は射精後にポルノをどうするのか。男は射精後に、みずからの不感症に直面してしまう。「あるはずのオーガズムが、ない」という事態に直面する。と同時に、目の前に開いている写真や映されているビデオのなかでは、「自分が得ることのできなかっためくるめく快感に浸っている」女性の姿が、強調されて存在しているのである。ポルノのなかでは女性たちがめくるめく快感に酔っているのに、この自分は、そういう快感から疎外されたまま、いま砂漠のなかに立ちつくしている。これが、射精後にポルノを前にした男の感覚であろう。このときに、男に残された道は、この状況から一目散に逃走することのみである。



 これまで見てきたように、ポルノを使ったマスターベーションによってもたらされる射精は、それほどのエクスタシーではない。では、なぜ、男はポルノを用いたり、ときには高い金を払って射精をしようとするのだろうか。
 結論から言えば、マスターベーションを始めてから射精するまでのプロセスがいちばん気持ちよく、射精は局部の自動痙攣運動であり、射精後は疎外から目をそらすためにとにかく気分を変えたくなるということなのだ。開始から射精直前までが、マスターベーションの本編である。だから、快感を多く得たいと願う男は、射精をなるべく遅らせようとする。
 マスターベーションの欲望というものを、言語化するのは非常にむずかしい。まず、それは、射精という到達点を夢見て行なわれるものではない。すでに述べたように、射精は疎外体験以外の何ものでもない。では、開始から射精に至るプロセスが気持ちいいから、それを得たいという欲望なのかと言えば、その言い方は間違ってはいないが、やはり核心をはずしている。なぜなら、マスターベーション開始から射精までのあいだに得られる肉体の快感は、基本的にはやはり「排泄」に至るプロセスがもたらす快感であるとしか思えないからだ。男性メディアでは、射精することを「抜く」と表現する。これは、このような「排泄感覚」を見事に言い当てている。ちょうど、膀胱一杯になったおしっこをがまんしながらトイレに入って、いざ排泄する瞬間までのプロセスで感じてしまう快感というものと、マスターベーションによる肉体の快感は、ほとんど同じ質のものなのである。
 「抜く」という表現には、何か「溜まってきたもの」を「抜く」ということが含意される。したがって、マスターベーションしたいという欲望は、自分のなかに溜まってきたものを抜きたいという欲望として感受される。ここでいくつかのことを留意しなくてはならない。
 ここで男の気持ちに即して考えてみる。なぜ「抜く」のかと言えば、「溜まってきた」からである。つまり、溜まってないのに、わざわざ「抜く」のではない。つまり、自分が望んだわけでもないのに「溜まってしまった」から、「抜かざるを得ない」のである。これが、私をも含めた多くの男の気持ちにとっては、いちばんストンと腑に落ちる説明であろう。ということは、マスターベーションとは、「してもしなくてもいいけれど、それをすると気持ちいいから、自分で積極的に選択して行なう」というような行為ではないことになる。そうではなくて、マスターベーションとは、「なぜか分からないけれども、溜まってきてしまったから、それを抜くために、否応なく処理しなくてはならない」というような行為なのである。もしそれを処理しないで放置しておくと、とてもいらいらした気持ちになったり、物事に集中できなくなったり、ものを壊したくなったりして、自分が統御できなくなるような気がする。若いときに実験したこともあるが、ずっとがまんしていると、もう居ても立っても居られなくなり、いらいらして、何事も手に着かなくなってしまう。そして「夢精」が定期的に起きるようになる。
 したがって、私のような男の自意識に即して言えば、男はマスターベーションを「やむにやまれずしている」のである。この閉塞感と圧迫感が、マスターベーションの基調を決定しているように思われる。「マスターベーションしないとやっていけない私」という自意識が、男のセクシュアリティの根底にある。
 ところで、以上の私の説明は、フェミニズムが執拗に批判してきた「男の性欲=自然・必然」論と同じものであるように見える。フェミニズムはそれを否定し、男の性欲もまた、ジェンダー次元の権力支配関係のもと、社会的に構築されているのだと主張する。たしかに、男の性欲のなかに、社会的に構築されている側面が重厚に存在するのは事実であるし、それについてはすぐ後で述べることにする。しかしながら、男の性欲は一〇〇%社会的構築物でしかないという主張があるとすれば、それは一面的な考え方である。
 再度繰り返すと、何かが自分のなかに溜まってきて、自分を閉塞させ、圧迫するから、それを抜かないとやっていけないという感覚が、(私のような)男のマスターベーションの欲望の基本にはある。この感覚は、男一般にまで拡張しても、かなりの程度当てはまるのではないかと予想される。男のセクシュアリティを内側から理解するためには、このポイントを押さえることが必要ではないだろうか。
 では、溜まってくる「何か」とは、具体的には何であろうか。それは精子なのか。男は往々にして、精子が溜まってきたというふうに自己理解しているが、それが正解だとは限らない。自分自身を振り返ってみるに、「溜まってくるもの」には二種類あるように感じられる。ひとつは、たしかに精子のようなものである。つまり、若いときにマスターベーションをしないでがまんしていると、どうしても夢精をしてしまう。マスターベーションを定期的にして「抜いて」おくと、夢精はほとんど起きない。若いときには、下着を汚してしまうのがいやで、毎晩抜いていた男も多いはずだ。いくら構築主義者であれ、この次元での「生理」が男に存在するのを否定することはできない。
 もうひとつは、いくぶん精神的な次元のものである。つまり、マスターベーションをして性的に興奮しないとやっていけない、というような「精神的」な閉塞や圧迫が「溜まってくる」のである。そして、男がポルノを用いてマスターベーションしたいと欲望するのは、この精神的な次元での欲望を満たすときなのではないだろうか。というのも、マスターベーションは、ポルノを使わなくても可能である。単に性器を刺激しているだけでも射精までいける。性器を刺激するときに頭の中でエッチなことを想像しているだけでも、気持ちよくなれる。しかし、ポルノを見ながら性器を刺激し、射精にまで至るプロセスがもたらす気持ちよさは、単なる性器刺激とは質の違ったものであると言える。では、男はポルノを使ってマスターベーションすることによって、何を満たしているのだろうか。このことを、別の角度から検討してみたい。



 ポルノを見ること、あるいはポルノを見てマスターベーションすることは、セックスの代償行為なのだろうか。これには、イエスとノーの両面がある。
 まず「イエス」の側面から考えれば、たとえば人間的・性的に大好きな女性が身近にいるときには、ポルノを見ようという気持ちはほとんどまったく起きない。その女性を眺めたり、触ったり、コミュニケーションすることで、エロチックな欲望は満たされていくからである。しかしながら、その女性が遠くにいて、私がアクセスできないとき、私のなかにはポルノを見たいという欲望が湧いてくることがある。この場合、ポルノは、その女性とエロチックに関われないことの代償物として機能している。
 次に「ノー」の側面を考えてみる。とりあえず身近に性的にアクセス可能な女性がいて、いつでもセックスを試みることが可能な状況に置かれているときであっても、男はポルノを見たくなることがある。具体的な例を想像したければ、結婚して性生活を行なっている男であっても、妻がいないときにこっそりとポルノを見てマスターベーションをしている場合があることを想起してみてほしい。それはなぜかと言えば、ポルノを見たり、ポルノを見てマスターベーションをすることによって、男はパートナーとのセックスでは得られないような刺激を獲得するからである。では、その刺激とは何であろうか。
 もちろん、いまのパートナーとは異なったタイプの女性とセックスするという妄想を満足させてみたいというものもあるだろう。あるいは、パートナーの性的満足にまったく気を使わずに、自分の快感のためだけに自分の性器を使いたいということもあるだろう。しかしながら、そのような分かりやすい動機の背後には、さらに深い動機が隠されていると思われるのである。以下においては、多くの男の次元にまで拡張した仮説を提示してみたい。
 まず第一は、「女を傷つけたい」という欲望が満たされるということである。ポルノのなかでは、女は男の欲望の人形として扱われ、男の性欲に奉仕するメイド的存在として描かれる。ポルノに没入することによって、男は、自分の好みの女をみずからの性的な支配下に置くという快感を得ることができる。それだけではなく、女の意志に反してみずからの欲望を貫徹するという状況をも架空体験することができる。いやがる女を無理やり自分の思い通りにするというシチュエーションのポルノは数多く生産されるが、そこでは、女の意志に反して、女を傷つけることによってみずからの快感としたいという欲望が満たされるのである。いやがり、拒否し、困り、泣く女を見て射精したいというわけである。
 この点は、すでにフェミニズムによって詳しく分析されてきた。彼らの指摘はおおむね正しいと思う。それを確認したうえでひとつだけ補足しておくと、一〇〇%本気で嫌がって泣いている(と感じられる)ビデオを見て性的に興奮できる男というのは、それほどいないのではないかと私は思う。その証拠に、レイプをテーマとしたビデオのほとんどは、最初は嫌がる女でも最後は快感にもだえてしまうという作りになっている(もちろん例外はある)。なぜかといえば、結局は女も喜んだのだという落ちがないと、射精したあとの後味が一層悪くなるからだ。「レイプされても女は結局喜ぶ」というポルノの神話が発生する原因のひとつは、この点にある。
 では、そもそもなぜ「女を傷つけたい」という欲望が発生するのか。その原因のひとつは、「男の不感症」にあると私は思う。先にも述べたように、「男は射精によって疎外体験を繰り返し植え付けられるのだが、女性は男が決して味わえないようなめくるめく快感を体験することができる」という観念を、男は心の根深いところで持っている。この観念は、「自分よりも劣位に置かれているはずの女が自分よりも大きな快感に開かれているのは許せない」という怒りを誘発する。この怒りは、快感にもだえる女を罰しなければならないという衝動となって爆発する。現実世界で女を罰するときに、それはレイプとなり、中絶の強要となる。ポルノの架空世界で女を罰するときには、レイプのような状況が描かれることになる。男にとって未知の快感を味わえる可能性をもった女性を罰すること。その衝動が、女を傷つける内容のポルノによって満足されるのである。
 第二には、「自分が傷つく体験をしたい」という欲望が満たされる。これは一見分かりにくい願望だが、生育の過程で植え付けられたトラウマを再演したいという衝動と関連している。フェミニスト心理学による研究でも明らかになっているように、性的なトラウマを受けた女性のなかには、トラウマを受けた状況を無意識に再演するように振る舞うケースが見られる。たとえば、夜道でレイプされた女性の場合、気が付いてみたら、またふたたび同じような危険な夜道を歩いているということがある。女性の自傷行為なども、これによって説明がつく場合もあると言われる。
 男がポルノを見る理由として、みずからの性的なトラウマの再演というファクターがかなり濃厚に潜んでいるのではないだろうか。性的なトラウマを受けた状況を再演することは、古傷をナイフで刺すような痛みを自分自身に与えることにつながる。実際、ある種のポルノを嗜好しているとき、それを見ることによってみずからを痛めつけているのではないかと感じることがある。自分自身を性的に痛めつけるために、ポルノを使っているという側面があると考えられる。誤解なきようにしていただきたいが、これは私が性的に「マゾヒスト」であるということを意味してはいないし、私の嗜好するポルノがマゾものであるということでもない。実例をあげれば、私の嗜好のひとつである制服ものを見るとき、私は何か自分自身を痛めつけるために見ているような感覚に陥る。さきほども述べたが、これは「自傷行為」に分類されるべき症状なのではないだろうか。摂食障害、リストカットなどの自傷行為のひとつとして、ポルノ耽溺というものがあるのではないだろうか。
 自傷行為としてのポルノ耽溺という視点は、すぐには市民権を得られそうにない。しかしながら、私の個人的な体験から語る以上、私はこの仮説を放棄するわけにはいかない。これはどこまで普遍化できるものなのか。男のポルノ視聴によるトラウマの再演は、彼の母親との関係に根を持っているのではないかという直観が私にはある。男と母親のあいだで形成された生育プロセスのなかで、母親によって刻印された何かの性的なトラウマを、男はその後ポルノ視聴によって再演し、自分を傷つけながらトラウマをなぞっているという可能性である。
 学校の制服を着た女性が登場する「制服もの」は、私の嗜好範囲内であるが、そのような嗜好は、中高生の時代に性から遠ざけられていたことへの未練と後悔が原因だと言われることがある。たしかにそれは否定できない。だが、単にそのような表層的な理由だけだとは思われない。「制服もの」への嗜好は、まさにみずからが思春期を迎えようとしていた中高生のときに、そのような制服を着ていた同級生の女子の背後に二重写しとなっていたところの「母親」との関係へと向かっていると考えられはしないだろうか。この時期に、母親との関係において自分が受けたところの、何かの象徴的な性暴力を再演し、みずからを傷つける体験を反復するために、男はそれらの写真やビデオを見るのではないだろうか。それは、それぞれの男が嗜好するそれぞれのジャンルにおいて、当てはまるのではないだろうか。今後の考察によってこの論点を掘り下げてゆかねばならない。
 もうひとつ考えられるのは、ビデオのなかで女にできるだけ感じてほしいという欲求についてである。ポルノビデオにおいては、一般に、与えられる快感にわれを忘れて悶絶することのできる女性のほうが、人気がある。その理由のひとつも、性的なトラウマの再演として説明できる。すなわち、男は性的に不感症であるのに、女はめくるめく快感を得ることができる、という観念を男は植え付けられているのであった。これは、男にとって強烈なトラウマとなる。自分は快感を得られないのに、彼女たちはそれを享受することができるからだ。この思いは、意識下に沈殿する。それが反転して発動したとき、それは「感じる女をもっと見たい。そして感じることのない男の私をもっと痛めつけたい」という自傷行為となるのである。ビデオのなかの女は、感じれば感じるほどよい。快楽にもだえる女を見るたびに、男の心の古傷から血が滲むのである。
 第三に、ポルノによって男のフェティシズムが満足されるということがある。フェティシズムとは、人格をもった生身の女ではなく、その女が身につけている衣装であるとか、肉体の一部や断片、女の置かれている状況などに性欲が向かうことである。実際の男女関係において、付き合っている女性をフェティシズムの対象としてのみ扱うことは不可能に近い。それがポルノでは可能になる。フェティシズムとは、人格をもった生身の女を周縁化し、そのかわりに、抽象化された衣装・物品・状況などを前景化することである。これについては、拙論「なぜ私はミニスカに欲情するのか」(4)において詳論した。結論だけを述べると、フェティシズムのポルノにおいて、男は、到達したいのに到達できないという状況を意図的に作りだして発情しているのであり、それは人間と神との関係に似ているという点で宗教的なものを含んでいると言えるのである。
 このように考えてきたとき、ポルノは、単なるセックスの代用品ではないことが明らかになる。そして、ポルノは、男の心の深層にまで根深く食い込んでいることが予想される。ここまで深いところに食い込んでポルノが成立し、流通している以上、男にポルノを手放させるのはきわめて難しい挑戦なのである。ここで分析した三点については、また荒い仮説にとどまっているので、さらに緻密に検討していかねばならない。
 私のような男の内面に即して、ポルノとセクシュアリティについて考えてきた。ここで、社会に流通している商品としてのポルノについて一言述べておきたい。とくに写真やビデオ製作の現場で、想像以上の意に反した強制、泣き寝入り、妊娠、感染などが生じていることが推測される。セックスワーカーが社会的に負のラベリングをされている現実がある以上、これらの被害は表には出にくい。暴力団などの資金源となっている可能性も充分にあり得る。買売春や風俗産業との連続性も高いであろう。ポルノを規制するかどうかという以前の問題として、現存の就業女性たちを泣き寝入りから守るための組織が必要である。ポルノを使用している男たちの多くも、それらの女性たちへの実際の人権侵害の実行を心底望んでいるとは思えない。彼女たちへの人権侵害を阻止するための社会的アクションが必要である。そのうえで、人を性的にいじめたり、困らせたり、傷つけたり、泣かせたりする表現物への欲望というものを、社会のなかでどうしていけばいいのかについて考えるべきである。男だけではなく、女の側にもこうした表現物への欲望がある。これは両性にとっての課題なのである。
 私にとって、もっとも欲情するポルノは何であろうか。それは、私が人間的・性的にいちばん好きな女性と一緒になって作ったポルノであろう。それをふたりで見て性的な楽しみにするときが、もっとも気持ちよいのではないかと思う。これはもはや、ポルノという名前では呼べないのかもしれない。この話を女性学会大会のシンポジウムでしたとき、同席したある男性パネリストは「そうかなあ?」と疑問を呈した。その疑問の趣旨もよく分かる。男のセクシュアリティは多様である。また、会場からの質問で、射精以外の性感で肉体的オーガズムを感じることが実際にあるという意見が出された。たしかにそのようなことは、あるかもしれない。射精における「男の不感症」という形へと性感が切りつめられてきたことを、さらに考察する必要がある。
 会場からはさらに、オーガズムやエクスタシーという観念は、女にとっても男にとっても、常に到達不可能な地点に設定されるのではないかという趣旨の意見も出された。ラカンの「対象a」に似たものとしてのオーガズムという捉え方は、正鵠を射ているように思われる。論点となるのは、オーガズムのそのような性質が女に対しては意識上にあからさまに露出されるのに、男に対しては隠蔽された形で意識下に内向させられるという非対照的な構造があるのはなぜなのか、ということである。具体的に言えば、「女の不感症(冷感症)」がメディアでしばしば語られるのに対して、なぜ「男の不感症」がほとんどまったく語られないのかということだ。女性たちは不感症(冷感症)という問題と格闘せざるを得なくなっているのに対し、男たちは不感症という発想すら持つことはない。そのかわりに、男たちは勃起不全という別種の観念に悩まされ続けている。ここに潜む政治学について、さらなる探求を試みることが要請されるのである。

(1)拙著『生命学に何ができるか』勁草書房、二〇〇一年、二七一頁以降。
(2)同書、二七九頁。
(3)金塚貞文『オナニズムの秩序』みすず書房、一九八二年、二四頁以降参照。
(4)『アディクションと家族』第一七巻第四号、三七一〜三七六頁。