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はじめに

 生と死の問題を、まったく新しい角度から見たい。
 この本は、そういう思いから生まれた。
 脳死移植、中絶、遺伝子操作などを、いままでになかったやり方で考えることができたら、面白いのではないか。
 生命倫理というと、「善いか悪いか」にばかり目がゆく。だが、それ以前に、これらの問いにもっと違った方角から光を当てることができるんじゃないか。
  たとえば、中絶の善悪が問われるときに、女性の権利と、胎児の生存権ばかりが強調されて、そこに「男の責任」が現われてこないのはなぜなのか。中絶を引き起こす原因となった、「男のセクシュアリティ」こそが、真に問われるべきではないのだろうか。それを通して、男から女へ、女から胎児へとつらなった、暴力の連鎖のネットワークの存在が見えてくる。
 あるいは、子どもが脳死になったときに、頭ではそれを理解していても、どうしても死の実感がわかない人々がいる。彼らの話を聞いていると、脳死になってベッドに横たわっている子どもの身体に、「いないはずの人が、ありありと現われている」という感覚をもっていることがある。生とも死ともつかない、このようなリアリティについて、掘り下げて考えるべきじゃないのだろうか。
 このようにして、生命倫理を、「人間とは何か」「科学技術はわれわれに何をもたらすのか」「現代文明は人間をどこに連れてゆこうとしているのか」という、さらにスケールの大きな問いに結びつけることもできるのではないか。
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 私は、できるかぎりオリジナルな方法で、生命倫理の問いに挑戦した。
 この本は、まず、脳死についてのエッセイから始まる。そのあと、脳死の最新事情を説明するが、読者はその事実に目を疑うであろう。そして「人と人とのかかわりあい」から見た人間の生と死について考える。他者から伝えられた「揺らぎ」が、さざ波のように伝わっていくことの可能性とは、いったい何か。
 次に、日本の生命倫理の出発点である、一九七〇年代のウーマン・リブを取り上げる。あまり知られていないが、日本の現代的な生命倫理は、女性と障害者たちによって開始された。「自己肯定」をめぐって不屈の闘いを挑んだ彼らの運動から、われわれは多くのものを学べるのだ。フェミニズムからの問いかけを受けて、男である私は、とり乱してしまう。彼女たちからの問いに答えるための、男たちの生命倫理についても考える。
 障害者たちは言った。「自分の子どもは、五体満足であってほしい」という、われわれの「内なる優生思想」こそが問題なのではないかと。その問いを、正面から受けとめてしまったとき、われわれは、何を考えなくてはならなくなるのか。ポイントは、「無力化」と「根源的な安心感」だ。
 本の最後では、私の採用した「生命学」という方法について、できるかぎり分かりやすく説明してみた。
 読んでいて、疑問が起きても、そのうちのいくつかは、読み進めるうちに解決されるようになっている。とくに第四章は、途中でやめたくなっても、ぜひ最後まで読んでほしい。とりわけ女性読者のみなさん(その訳は、ここではまだ書けない)。
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 本書では、「生命倫理」「生命倫理学」「生命学」「生命倫理への生命学的アプローチ」ということばを、使い分けた。まぎらわしいが、以下のような違いがある。
 まず「生命倫理」とは、脳死や体外受精など、生命にかかわる諸問題について、人々が具体的に議論し、熟考し、行動したことを指す。たとえば、一九七〇年代にウーマン・リブの女性たちと、障害者たちは、中絶をめぐって激しく議論し、考えを深め、独自の運動を行なっていた。彼らが具体的に考えたことや、行動したことすべてが、彼らの生命倫理である。
 「生命倫理学」とは、一九七〇年代に米国を中心に形成され、一九八〇年代に日本に輸入された「バイオエシックスbioethics」のことを言う。制度化された倫理学の枠内で、脳死や体外受精などの問題を議論する学問である。
 「生命学」とは、私が提唱している学問の方法だ。人間の生と死や、生命世界のあり方を、独自の視点から探求し、自分の人生へと反映させてゆく知の方法のことだ。その内容は、本文を読んでいくうちに、徐々に分かるようになっている。最終章で、それをまとめてみた。「生命倫理学」とは、対照的な内容をもったものだ。
 「生命倫理への生命学的アプローチ」とは、脳死や体外受精などの問題に対して、「生命学」の視点からアプローチすることを言う。そのことによって、われわれの「生命倫理」を、「生命学」のほうへ向かって、飛翔させようとするのである。
 本文を読んでいて、混乱したら、いつでもここに戻ってきて、確かめてほしい。
 「生命倫理への生命学的アプローチ」は、世界的に見ても、珍しいのではないかと思われる。本書では、「エコロジーへの生命学的アプローチ」に言及することができなかったのが残念だ。読者とともに、次の可能性に向かって、進んでゆきたい。
 
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