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作成:森岡正博 
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論文

 

『倫理学研究』第38号 関西倫理学会 2008年4月 24〜33頁 
膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理
森岡正博

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はじめに

 沼崎一郎は一九九七年に独自の「膣内射精性暴力論」を発表した。これは日本の男性学に新領域を開く画期的な論考であった。沼崎の問題提起を受けて、宮地尚子は一九九八年にその論点をさらに展開する論文を発表した。本論文で私は、沼崎と宮地によって考察された論点を検討し、そのうえで、もしこの路線で思考を進めていくならばそこからどのような帰結が導かれることになるのかを考えてみたい。この種の議論は海外においても本格的には議論されていないのではないかと推察される。関心ある読者はぜひこの議論に参加してみてほしい。

1 沼崎一郎と宮地尚子による問題提起

 沼崎一郎は、一九九七年に「〈孕ませる性〉の自己責任―中絶・避妊から問う男の性倫理」(『インパクション』一〇五号、八六〜九六頁)を発表し、その中で、膣内射精は性暴力であるという議論を展開した。生命倫理学では中絶が女性の問題として議論されるが、それは欺瞞であると沼崎は言う。なぜなら、中絶がなされるのは、望まない妊娠が起きたときであるが、なぜ望まない妊娠が起きるのかと言えば、それは「〈避妊しない性交〉を男が求め、女に強いるからである」(八七頁)。であるから、中絶問題は第一義的には男性問題である。そもそも多くの文化において、男性の生殖能力は男性性の重要な要素と信じら【24】れており、男性はパイプカットに消極的であるばかりでなく、コンドームさえ積極的に使いたがらない。望まない妊娠が起きる原因の多くは、男性が用意周到な準備なく膣内射精を行なうからであり、それを防ぐためにも、男性は「〈孕ませる性〉としての男性の自己責任」(八九頁)を真摯に考えなければならないと沼崎は強調する。
  そのように考える沼崎にとって、望まない妊娠に女性を晒す可能性のある膣内射精という行為は、「一種の〈性暴力〉」(九〇頁)である。そして「恋人間・夫婦間の性関係においても、妊娠と出産に対する周到な配慮と準備なしに膣内射精を行なうならば、それは男性による〈性暴力〉の行使だと考えるべきだ」(九〇頁)というのである。また、望まない妊娠をした女性は、「妊娠しない自由」を暴力的に侵害された被害者であるから、権利回復を要求できて当然であり、したがって「中絶は、膣内射精という〈性暴力〉の行使の結果生じた〈権利侵害〉に対する〈緊急避難〉行為または〈損害賠償〉と考えるべき」(九二頁)だというのである。
  このように考えると、受精・受胎を起点として中絶を論じる生命倫理学の言説は、膣内射精という「男性の〈性暴力〉の行使を隠蔽するイデオロギー」(九一頁)としてきびしく糾弾されなくてはならないし、中絶を女性の行使する悪とみなす中絶論は、男性の女性に対する悪を、女性の胎児に対する悪へとすりかえているのだと沼崎は指摘する。また、ピルを女性が服用すれば、膣内射精の問題はおきないように思われるかもしれないが、ピルの服用によって避妊は女性の問題であり責任であるという意識が醸成されることになり、万一望まない妊娠が起きたときでもそれはまったく男性の責任ではないという事態になりかねないと沼崎は言っているように思われる(八八〜八九頁にかけての記述をそのように解釈しても間違いではないだろう)。
  沼崎のポイントは、(1)避妊責任は女性にあるのではなく、男性にあるということ、(2)膣内射精は性暴力であること、(3)受精・受胎を起点とする中絶論は欺瞞であること、の三点である。さらには、この問題提起によって、生命倫理に対する男性学アプローチの可能性を独力で切り開いたという点も特筆に値する。沼崎のこの論文の重要性については、男性学の分野においても、生命倫理学の分野においてもこれまでほとんど言及されてこなかった。日本でこのような独自の議論が出現しているのだから、それを批判的に継承するのは我々の義務であろう。
  宮地尚子は、一九九八年に「孕ませる性と孕む性:避妊責任の実体化の可能性を探る」(『現代文明学研究』第1号、一九〜二九頁)を発表し、沼崎の論点をさらに批判的に展開した。宮地は、沼崎の主張に基本的に賛同したうえで、女性学的視点から以下のように述べる。
  まず沼崎は、男性の責任ばかりを強調しているが、それでは女性を「脱主体化」することにつながりかねない。また沼崎の言うような「孕ませない責任を自覚しよう」というかけ声だけ【25】では困るのであり、それを何かの形によって「実体化」しなくてはならない。また、膣内射精はSTDを媒介し、中絶は不妊症の原因になることもあるわけだから、膣内射精は「孕ませなくする暴力」でもある(以上、一九頁)。
  宮地はこのように述べたうえで、男性の避妊責任をどうすれば実体化できるのかを考えていく。宮地は、それを法制化していくのがよいとする。すなわち、男性が女性を妊娠させたときに、男性が逃げたり、言い逃れしたりできないようにするために、「強制妊娠罪」を作るのがよいというのである。しかしこれをただ設定するだけでは、その妊娠が強制であったか合意であったかについて、言った言わないの争いが生じることになりかねない。であるから、宮地は、ここに一種の違法性阻却の考え方を持ち込もうとする。
  すなわち、女性が妊娠すると、「合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる」(二三頁)。そのうえで、双方が妊娠を望む場合には女性がその旨の契約書を書いておき、強制妊娠罪が非犯罪化される。その措置がとられない場合には、男性は自動的に強制妊娠罪を問われるのである。さらには、強制妊娠罪の場合、女性が出産したら男性には「強制出産罪」が適用され、養育責任は男性が全面的に負う。女性が中絶したら、女性にではなく、男性に「堕胎罪」が適用される。また、妊娠した子が、その男性の子であるかどうかを確定するために、女性は性交後に男性の精液を密封保存する。そのためのキットは薬局で販売する。このような仕組みが社会に整ったときに、はじめて、男性の避妊責任は法の下に実体化される、と宮地は論じるのである。
  宮地はさらに「男性性の闇」について指摘する。男性たちのなかには、女性の妊娠の負担に気づいているからこそ、あえて避妊しない性交を行なって、それを楽しんでいる者もいるのではないか。「女の身体に変化を起こさせることができるという力を可能性として維持しておくこと」(二六頁)で男性の優位を楽しみ、女性に孕む危険をもらせることで女性をコントロールしようという男性たちがいるのではないか、というのである。その証拠に、結婚を承諾したがらない女性を恋人に持つ男性に対して、「妊娠させてしまえばよい」というアドバイスがしばしばなされるという現実は、まさにそれを指し示しているのではないかというのである。宮地のこの問いかけは、男性学が正面から受け止めなくてはならないものであろう。(沼崎論文への言及としては、このほかにも、荻野美穂「男の性と生殖―男性身体の語り方―」(西川祐子・荻野美穂編『共同研究・男性論』人文書院、一九九九年、二〇一〜二二四頁)がある)。

2 膣内射精に関する三つの暴力性

 さて、沼崎の問題提起をここで振り返ってみよう。沼崎は、女性の意を顧みることなくみずからの欲望に突き動かされてコ【26】ンドームを付けずに膣内射精をするエゴイスティックな男性を念頭に置いて、そのような場合の膣内射精は性暴力であると主張している。男性がそのような行為に走る原因としては、男性の生殖能力を男性性の重要な要素とみなすような、男性のセクシュアリティの存在があると沼崎は考える。そして沼崎は、たとえ恋人間・夫婦間であったとしても、そのような行為は性暴力となると結論するのである。
  沼崎のこの論理は、男性が女性の意に反して膣内射精を強行するようなケースにおいては、何の問題もなく妥当すると私は考える。そのもっとも典型的な例としては、レイプによる膣内射精が考えられる。戦場におけるレイプや、エスニッククレンジングという名の強制妊娠も、その例となるであろう。これらのケースにおいては、膣内射精は性暴力として捉えられるべきであるし、その結果生じた妊娠については、宮地の言うような「強制妊娠罪」を適用する法理が理にかなっていると私も考える。現行法では強制妊娠罪は存在しないが、今後の努力によって、それを法制化することは可能である。セクシュアルハラスメントの概念も、最近までは法の中に存在しなかった。強制妊娠罪が法制化される可能性は開けている。(もっとも、宮地が主張するような、すべての妊娠に対してデフォルトで強制妊娠罪を適用するという仕組みが良いのかどうかについては、慎重な議論が必要であろう。この点については、また別の機会に論じることにしたい)。
  では、恋人間・夫婦間における膣内射精についてはどうであろうか。沼崎はこのケースについて立ち入った議論を行なっていない。しかし、ここにこそ、考えるべき問題が山積しているように思われるのである。以下、それを考察していくことにしたい。
  沼崎は、「膣内射精は、〈性暴力〉なのだ」と言う一方で、妊娠する可能性が皆無でない以上、膣内射精は「潜在的には〈性暴力〉である」とも述べる(九〇頁)。このように、すべての場合において膣内射精は性暴力と言えるのか、それとも膣内射精は潜在的に性暴力であるにすぎないのか、という点についての沼崎の主張には、揺れがある。この点を緻密に見ていくために、私は膣内射精に連関する行為を、次の三つに分けて考えてみたい。

(1)「強制膣内挿入」・・・これは、女性の意に反して、男性がペニスを女性の膣に強制的に挿入することである。法律上これは強姦・レイプと呼ばれる。(法律上は挿入によって姦淫は成立し、射精の有無は問われない)。

(2)「強制膣内射精」・・・これは、女性の意に反して、男性が女性の膣内で強制的に射精をすることである。コンドームやピルなどの避妊措置をしていようがいまいが、射精行為が女性の意に反しているならば、それは強制膣内射精である。

(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」・・・これは、女性の意に【27】反して、望まない妊娠が起きたときに、その直接原因となった膣内射精のことを指す。膣内射精を許しても妊娠しないだろうと女性は思っていたが、妊娠してしまったという場合でも、その妊娠が女性の意に反していたならば、それは強制妊娠であり、それの原因となった膣内射精は、強制妊娠を導いた膣内射精であることになる。

 まず、(1)の「強制膣内挿入」が性暴力であるということに異論を唱える者はいないであろう。仮にパイプカットをした男性であっても、その男性が強制膣内挿入を実行した時点で、その男性の行為はレイプとして認定され、性暴力とみなされるのである。
  次に(2)であるが、沼崎はこの(2)と、次の(3)の区別をさほど明確には行なっていない。しかしこの二つを区別することは重要だと思われる。(2)の「強制膣内射精」とは、女性の意に反して、男性が膣内射精をすることである。「強制膣内射精」は、女性が、膣内では射精してほしくないと思っているときに、女性のその願いを踏みにじる性暴力であると考えることができる。女性が膣内射精をしてほしくないと思うときの理由は何かと言えば、たとえコンドームやピルなどの避妊措置をしていたとしても、それによっては一〇〇%の避妊は不可能だから、意に反して妊娠してしまうかもしれないという怖れがあるからである。もちろん、実際の性交の場面においては、「男性がコンドームを付けて挿入したものの射精しなかった」というケースを女性が想定することはほとんどないだろうから、事実上、女性にとって(1)の「強制膣内挿入」と(2)の「強制膣内射精」は同じことを意味するとは言えるだろう。だから、実際には、「強制膣内射精」を望まない女性は、そもそも「強制膣内挿入」それ自体を拒むのが普通であると思われる。しかしながら、論理構成上は、「強制膣内挿入」の暴力性と、「強制膣内射精」の暴力性は区別して考えておくべきである。
  すなわち、「強制膣内挿入」の暴力性とは、膣内に挿入してほしくないという女性の願いが踏みにじられることであり、「強制膣内射精」の暴力性とは、膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないという女性の願いが踏みにじられることである。であるから、女性が膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないと思っているときに、強制的に膣内で射精することは、女性のその願いを踏みにじる性暴力であると明瞭に言えるのである。
  (3)の「強制妊娠を導いた膣内射精」とは、妊娠したくないという女性の意に反して、実際に女性を妊娠させる直接原因となったときの、膣内射精のことである。これは、いかなる意味で性暴力なのだろうか。このような例を考えてみよう。ある男が友人をふざけ半分で殴ったとする。ところが拳は肋骨にヒットして、肋骨が折れてしまった。このときに、殴られた友人は、肋骨が折れるような殴り方で打撃した、男の打撃それ自体が暴【28】力であると主張できるだろう。これと同じように考えれば、女性の意に反した妊娠という結果を引き起こす直接原因となった膣内射精それ自体が性暴力である、と言えることになる。
  「強制膣内射精」の暴力性と、「強制妊娠を導いた膣内射精」の暴力性には、きわめて重要な違いがある。「強制膣内射精」の場合には、その膣内射精が生じたその瞬間に、その行為が、射精してほしくないという女性の願いを踏みにじっているわけだから、その時点でその暴力性は確定する。ところが「強制妊娠を導いた膣内射精」の場合には、膣内射精を行なった瞬間には、その暴力性は確定しない。その暴力性は、沼崎が言うように「潜在的」なものにとどまるのである。そして、実際に妊娠が判明して、それが女性の意に反していることが明らかになったときに、その原因となった膣内射精の暴力性が〈事後遡及的に〉確定するのである。
  すなわち、「強制膣内射精」を男性が行なったとき、その行為は「妊娠の危険性を引き受けたくないという女性の願いを踏みにじる顕在的な性暴力」であり、それと同時に、それは強制妊娠につながるかもしれない膣内射精であるという点において、「強制妊娠を導くかもしれない潜在的な性暴力」である、ということになる。そして、実際に強制妊娠が生じたときに、後者の潜在性は、顕在性へと変化し、「あのときの膣内射精は現在の強制妊娠の直接原因であり、顕在的な性暴力である」ということになるのである。これは沼崎の議論に胚胎していたものの、明確には分離されていなかった論点である。この点についてさらに議論すべきことはたくさんあるが、それは他の機会に譲ることとし、次節でこの論点に別の視点から光を当ててみることにしたい。

3 事後的に構築される性暴力としての膣内射精

 沼崎の論文における議論には、男性の膣内射精は、意に反する妊娠を女性にもたらす危険性があるから、それを性暴力として見なくてはならないという思考の筋道がある。だが、沼崎の論文には、女性が男性の膣内射精を自発的に許容したり、積極的に望んでいる場合についての考察が不足している。恋人や夫婦間の性交においては、コンドームやピルを使用しているときは、女性が男性の膣内射精を許容していることが多いだろうし、女性が子どもを作りたいと思っているときには、女性はむしろ積極的に避妊具なしで膣内射精してほしいと望むであろう。暴力的でエゴイスティックな性交しかしない男性のケースではなく、もっと互いの性欲を許容し合い、楽しみ合うような男女間における性交の場合においては、膣内射精の暴力性の問題はどうなっているのだろうか。(急いで付け加えておけば、私は〈愛し合う〉男女間の性交においてはあからさまな暴力は起きないと言っているのではない。DVの多くが〈愛し合う〉男女間でなされていることを忘れてはならない)。【29】
  まず、男女が長く続く恋人や夫婦の関係であり、避妊について意思疎通が取れており、女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容している場合を考えてみよう。この場合、避妊をしたうえでの膣内射精は、「強制膣内挿入」でもないし、「強制膣内射精」でもないと考えられる。しかしながら、コンドームの破れなどによって避妊が失敗し、女性が妊娠したときには、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されている。問題は、このような場合に、その直接の原因となった膣内射精を、女性が性暴力と感じるかどうかという点である。それは、膣内射精の後に起きた受胎について、男性と女性のどちらの過失分が大きいと女性が感じるかによると思われる。
  たとえば、コンドームを付けて性交したのであるが、コンドームが脱落して精液が漏れたのであれば、それは男性の過失であって、性暴力である、と女性が感じることはあるだろう。また、性交中にコンドームが破れたときに、その破れをいちはやく察知して対処しなかった男性に過失があるから、それは性暴力である、と女性が感じることもあるだろう。さらには、コンドームの使い方に問題がないのに、あきらかにその時の射精で妊娠してしまったという場合、女性としては男性の言い分に疑心暗鬼になり、その時の膣内射精を性暴力として感じてしまうこともあるかもしれない。
  これに対して、女性がピルを服用しているという前提で性交をしたが、女性の側に飲み忘れがあったという場合は、女性側の過失が大きいと女性も判断せざるを得ないだろうから、膣内射精が性暴力だということにはならないだろう。ピルをきちんと飲んでいるにもかかわらず、人為を超えた何かの偶発的な要因によって妊娠してしまったという場合は、男女いずれにも過失はなく、女性にとっては不運なことであるが、膣内射精が性暴力だということにはならないだろう。(もちろん沼崎の指摘するように、女性にピルを押しつけて、自分の避妊責任は棚上げする男性については、まずその男性の態度を疑問視するべきであることは言うまでもない)。
  以上から分かることは、コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「性暴力」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。
  では次に、男女ともに子どもを作ってもかまわないと思っているときのことを考えてみよう。妊娠を生じさせてもかまわないと二人とも思っているわけだから、コンドームもピルも使わない性交を試みることになる。この場合もまた、「強制膣内挿入」も「強制膣内射精」も起こらない。ところが、やはり、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されているのである。それは、【30】妊娠が生じたあとで、男女のあいだの関係性に、大きな亀裂が入ったときである。
  それはたとえば、妊娠後に男性が女性を裏切って不倫したり、妊娠した女性のもとから逃げたり、あるいは妊娠前から男性が他の女性と付き合っていたことが妊娠後にばれたりして、女性がその男性と性的関係を持ったこと自体を深く後悔し、そんな裏切り者の血を引く子どもが自分の胎内にいるということを、自分に対するこの上ない暴力だと感じたときである。そのようなとき、女性は胎児に対する強い拒否感を抱いて、中絶してしまいたいと思うかもしれないし、そのような感情を持ちながらもしっかりと産み育てたいと思うかもしれない。いずれにせよ、妊娠してしまったことに対するこの拒否感を引き起こした直接の原因である、あのときの膣内射精が、このようにして、性暴力として事後遡及的に構築されることはあり得るのである。あのときの膣内射精さえなければ、いまの自分の陥っている望まない妊娠という出来事は起きなかったのにというわけである。二人の関係性に対する裏切りという可能性をはらみながら膣内射精を行なった時点で、それは潜在的な性暴力を背後に抱いた膣内射精だったのであり、実際に男がそのような裏切りを行なったり、裏切りの情報が暴露された時点で、その潜在性は顕在性へと転化し、「あのときの膣内射精は性暴力であった」ということが事後遡及的に構築されるのである。
 子どもを作ってもかまわないという前提のもとでの性交の場合は、避妊をした性交の場合と異なって、膣内射精が強制妊娠を導いた性暴力として事後遡及的に構築されるための期限というものは存在しない。たとえ出産後であったとしても、「強制妊娠を導いたあの膣内射精は性暴力である」という構築をすることは、理論的にも感情的にも可能である。このことのインプリケーションはかなり大きいのではないだろうか。
  それはすなわち、膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。
  ところで、人間がこのような原罪を背負わずに生まれてくることのできる方法がある。それは、女性が、みずからの意志によって精子をバンク等で入手し、みずからに人工授精するやり方である。この場合、みずからの意志でもって医師に膣内への精子の挿入を依頼するわけであるから、受胎に関する自己責任【31】が貫徹されており、そこに性暴力が入り込む余地はない。医師の関与が性暴力を彷彿とさせるというのであれば、自己注入が可能な器具の開発を待てばよい。その結果、膣内射精に関する性暴力の可能性は回避されるし、生まれてきた子どもには、もはや性暴力の影はつきまとっていないと言える。精子バンク等を利用する女性に対しては、とかく否定的な眼差しが注がれがちだが、膣内射精に関する性暴力の回避という視点からすれば、これほど清潔な手法はないと思われる。
  以上を振り返ってみれば、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力には、次の三つの特徴があることが分かる。(1)この性暴力は妊娠の可能性をもった女性に対して特異的に行使される暴力である。男性や、妊娠の可能性が生物学的に生じない女性に行使されることはない。(2)膣内射精によっていったん受胎が起きたら、あとは女性の意志とは無関係に妊娠が自動的に進行していくという、生物学的な不可逆性が存在する。女性が自分の意志によってそれを食い止めるには、中絶しか残されていない。(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力は、事後遡及的に構築される。この意味でそれは無期限の潜在性を持っている。
  この、「特異性」「不可逆性」「潜在性」の三点が、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力を特徴づけていると言えるだろう。「潜在性」については、強制猥褻やセクシュアルハラスメントなどの性暴力においても見られる特徴であるが、「特異性」「不可逆性」については、膣内射精という性暴力に限って見られる特徴である。

おわりに

 以上の論述を読んで、感情的な反発を抑えきれない読者も多いのではないだろうか。たとえば、「妊娠・出産に大きなよろこびを感じ、それによって自己肯定される女性はたくさんいる。あなたはそれを否定するのか」とか、「愛するパートナーとのあいだに子どもを産みたいというのは女性の自然な願いである。それを強制だの暴力だのと言うのはおかしいのではないか」とか、「妊娠をこのように性暴力という視点からのみ切り取るのは、女性にとっての妊娠の意義を不必要に否定するものであり、それは女性を深く傷つけ、侮蔑するものである」とか、「そのような性暴力に結びついていかないような男女の関係性を作り上げていくことこそが大事なのではないか」などの感情である。
  それらのことを言いたくなる気持ちは、私自身よく分かる。私の中にも、それらの感情があるからだ。しかしながら、膣内射精が内包する暴力性について突き詰めて考えるならば、ここで述べたような結論は避けがたいと私は思う。むしろ、それを認めたうえで、性交・妊娠・出産に不可避的に付随してくるこれらの膣内射精の性暴力の影を、いかにして引き受けていけばいいのか、そしてそれを前提としたうえでいかにして性倫理を【32】形成していけばいいのか、というふうに思考を進めていくほうがよいのではないだろうか。そしてその際には、宮地も主張するように、倫理だけではなく、法の次元での規制をも考慮する必要があるだろう。
  本論文では、宮地が指摘した「男性性の闇」については触れることができなかった。これは男性学に課せられた大きなテーマである。膣内射精という脅しによって女性のセクシュアリティをコントロールするという行為は、たしかに男性の文化の中に存在するように思われる。それについては他の機会に考察することとし、本論文はこれで終えることとしたい。【33】