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作成:森岡正博 
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信濃毎日書評 2001年バックナンバー

 

12月23日掲載

豊田正義『DV(ドメスティック・バイオレンス)』光文社新書・680円

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 夫が妻に暴力をふるう。それも、普通では考えられないような暴行を、平然とやってのける。他人に見つかったとしても、「いやあ、ちょっとした夫婦喧嘩なんですよ」と冷静に弁解するから、なかなか外からは実態がつかめない。家庭内での男から女への暴力は、根が深く、簡単には解決できない。
 しかし、そもそも、どうして男は、同居している女に暴力をふるうのであろうか。豊田正義さんは、妻に暴力をふるう男たちに、徹底的なインタビューを行なった。もちろん、それによって明らかになったことは、真実のほんの一部分でしかないのだろうが、それでも衝撃的である。
 豊田さんは、まず、男に会って話を聞く。男は例外なく、自分が暴力をふるっていることを反省し、なんとかしてそれをやめたいと訴える。そして、妻のことを心から愛していると切々と語るのである。暴力をふるう原因は自分だけにあるのではなく、妻の側にも少しは問題があるのだと言う場合も多い。
 そのあとで、豊田さんは、暴力男の妻とも待ち合わせをして詳しく話を聞くのだ。驚くべきことに、そこでは、さきほどとはまったく異なったストーリーが語られる。妻の側の落ち度として説明されていたことが、まったくの誤解だったり、あるいは、暴行の実態が想像を絶したものであったりすることが、徐々に分かってくる。
 夫の言い分と、妻の説明のあいだに存在するこの落差に、読者はまず度肝を抜かれることであろう。
 豊田さんは、このような作業を繰り返し、暴力をふるう男の心の深層と、生育歴へと迫ってゆく。たとえば、暴力をふるう夫のなかには、「自分の人生はこんなはずではなかった」という自己否定の感覚が濃厚に存在する場合があることが分かってくる。それと同時に、「男たるものこうあるべきだ」という男らしさの束縛によってがんじがらめになっているケースもある。
 暴力をふるう男たちに対するカウンセリングの試みもはじまっている。それによって回復する例はきわめて少ないと言うが、しかし本書では、いちるの希望を感じさせる実例も報告される。ほんとうにかすかな光だ。


12月9日掲載

ステイシー・ヘインズ『性的虐待を受けた人のポジティブ・セックス・ガイド』明石書店・2500円

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 一九八〇年代に、家庭内での子どもへの性的虐待が再発見された。それまでは、親が子どもにセックスを強要するなんて、あるはずがないと思われていたのだった。ところが、米国だけでなく、日本においても、そのようなことが実は頻繁に行なわれていることが分かってきた。
 子どもへのセックスの強要は、暴力とともになされる。子どもとのあいだに有無を言わせぬ力の差があることを利用しながら、家庭内でそれはひそかに繰り返される。子どもは、その状況から自分を守るための防衛手段として、セックスのあいだ自分の意識をあらぬところに飛ばしたり、身体の感覚を感じないように工夫したりする。
 性的虐待を受けた子どもが、大人になって親元を離れたとき、今度はあらたな試練が始まる。すなわち、好きなパートナーができたときに、その人とうまくセックスができないのである。なぜなら、虐待を受けた女性たちは、暴力的な、意に反したセックスしか経験したことがないのだ。そして、そのことをずっと秘密にしてきている。どうやって、好きな人と、愛し合えばよいのか分かるはずがないのだ。
 あるいは、たとえ好きな人とセックスしたとしても、身体の感覚が持てなかったり、意識が以前と同じくどこかに飛んでいってしまったりする。好きな人とのセックスは、彼女にとって、重荷でしかない。
 本書の著者ヘインズも、性的虐待のサバイバー(困難を乗り越えてきた人)だ。性的虐待を受けた女性たちが、セックスを恐怖なしに楽しめるための処方箋を、みずからの体験を交えながら、具体的に紹介した。性的虐待のサバイバーのためのセックスというテーマは、いままで公に語られることが多くなかった。本書の登場は画期的である。
 ヘインズは、まず身体の感覚を少しずつ取り戻すためのワークを推奨する。身体の感覚を開いて、安心とともに行なわれるセックスは、サバイバーの身体と心を溶かしてゆく可能性を秘めているのだということを説得的に示してゆく。当事者だけではなく、援助者にとっても必読書だろう。


12月2日掲載

A・ミンデル『紛争の心理学』講談社現代新書・700円

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 とても重要な本だ。対米テロ事件と同時に刊行されたこの本は、まさに、テロリズムとどのようにして戦えばよいかが書かれている。そしてその答えとは、テロリズムを生み出した主流派の人々が、みずからの作り出した抑圧のシステムを自覚し、みずからの姿勢を深いところから変容させることなのである。
 ミンデルは言う。社会のなかには、力と余裕を与えられた主流派の人々と、彼らによって自由の幅を狭められ、悶々としている少数派の人々がいる。このときに、不正なやり方で自分たちの自由が奪われていると感じた少数派の人々が、主流派の人々に態度を変えてほしいと迫るときの、最後の手段が、「テロリズム」なのである。
 なぜ、彼らがテロにまで走ってしまうのか。それは、主流派の人々が、みずからが行使している権力や抑圧について、ほとんどまったく自覚していないからだとミンデルは言う。主流派の人々は、いろんな巧妙な方法で少数者をがんじがらめにしておきながら、自分たちはこのうえなく公正で、慈愛に満ちて、平和主義者で、平等主義者なのだと信じている。
 だから、彼らは、少数者がテロに走る原因が自分たちの側にあるかもしれないということを、けっして気づこうとはしない。そして、テロが起きたときに、自分たちが突然攻撃されたと感じ、被害者意識をつのらせる。そして、テロへの報復を開始するのである。
 ここに、世界中で起きている紛争の悲劇の根本があるとミンデルは考える。彼は、この事態を打開するために、世界各地で、主流派と少数派を同じ場所に集めて、互いの立場を理解するためのワークを行なってきた。本書に収められている、そのワークの様子は感動的だ。
 主流派に求められることは、みずからの特権や力を否定することではない。そうではなくて、みずからが特権や力を付与されていることにはっきりと気づき、みずからの行為の影響範囲と結果について自覚をすることだ。それだけで、少数派の怒りは溶けはじめる。主流派も対応して自己変容をはじめる。すばらしい本である。


11月4日掲載

佐倉統『遺伝子vsミーム』廣済堂出版・1000円

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 「人間は遺伝子の乗り物」だと言ったのは、リチャード・ドーキンスだった。人間が、利己的な遺伝子によって支配されているのかどうかをめぐって、大きな議論がおきた。
 ドーキンスは、もうひとつ、面白い考え方を提案している。それが、「ミーム」である。「ミーム」とは、人から人へどんどん伝わっていく観念や情報のことだ。
 たとえば、「ラブ・アンド・ピース(愛と平和)」という考え方は、七〇年代の平和運動をとおして全世界に広がった。現在でもなお、こころある人々によって使われ続けている。この「ラブ・アンド・ピース」のミームは、ピースバッジに印刷されて広がったり、あるいはジョン・レノンの歌をとおして広がったりする。かなり強力なミームであると言える。
 佐倉さんの新著は、このミームという考え方のなかにどのような可能性が秘められているのかを、大胆に語ったものだ。人間を、「遺伝子」と「ミーム」という二つの情報系の統合体とみなしたときに見えてくるものはいったい何か。
 ミームは、文化の生態系のなかで繁殖し、自分のコピーをたくさんばらまこうとする。そして、競争相手となる他のミームとのあいだで、はげしい生存競争をする。
 ミームが、みずからの生存をかけて闘争する場所、それが人間の「脳」だ。われわれの「脳」をいかにして虜にして、攻略するか。それがミームの腕の見せどころだ。ネット時代を迎えて、ミームの闘争の場は、インターネットへと拡大した。
 佐倉さんはさらに指摘する。ミームは、人間の老年期の意味に、新たな光を投げかけるのだ、と。遺伝子の視点からすれば、生殖年齢を過ぎた老人に、存在意義はない。だが、ミームの伝達者という観点から考えれば、様々な経験を積んだ老人こそが、よきミームの担い手となり得るのだ。
 ミーム学というのは、基本的には自然科学なのだけれど、人間を真にトータルにとらえることのできる新境地を開くかもしれないと佐倉さんは期待する。その可能性はあるかもしれないと思わせる本である。


10月14日掲載

杉田聡『クルマを捨てて歩く!』講談社+α新書・780円

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 日本はクルマ社会だ。自動車がそこかしこに溢れ、町中に住んでいると、騒音や、排気ガスがすごい。道を歩くときも、きょろきょろとあたりに気を配りながら、慎重に歩行しないといけない。
 道を歩いて渡ろうとしたときに、いきなりクルマのけたたましいクラクションが鳴って、「なにしてんだ、ばかやろー」と怒鳴られたりする。あわてて、すごすごと引き下がってしまう。
 でも、どうして、こんなにクルマのほうが威張り散らしているのだろう。公共道路は、本来、歩行者のためのものじゃなかったのだろうか。
 杉田聡さんは、本書で、「クルマ優先」の考え方のおかしさを、徹底的にあばいてゆく。そして、なるべくクルマを使わないで、歩いて生活するほうが、結果的にはずっと気持ちがよく、経済的で、幸せだと結論する。
 クルマによって、年間五〇〇〇人以上の人々が殺されている。クルマに乗っている人の死亡数を含めると、一万人を超える。これは、阪神淡路大震災が毎年起こっているようなものだと、杉田さんは言う。もし、灯油ストーブの事故で年間五〇〇〇人以上もの死者が出るとしたら、すぐ製造中止になるはずだ。だが、クルマの場合だけは、そうならない。
 それは、あまりにもクルマが身近な存在であり、かつ、この社会があまりにもクルマに依存したシステムを作り上げているがゆえに、「クルマをなくしたらどうか」という発想すら思い浮かばないように、われわれが洗脳されているからである。
 だが、その洗脳を取り払ってみたら、どうなるか。杉田さんは言う。クルマを捨てて、歩き中心の生活に戻ってみると、まず自由時間が増え、クルマ関係の出費も減って貯金が増える。一日三〇分以上歩くから、健康になって、持病が快復する。クルマに乗って移動することによって忘れ去っていた、様々な風景や、季節の味わいや、人々の生活のにおいや、思索の楽しみを取り戻すことができる。
 クルマをやめた人は、例外なく、どうしてあんなものに乗っていたのだろうと回顧するようになる。疑う人は、いますぐ本書を読むべきだ。


9月30日掲載

田中公一朗『マイルス・デイビス』勁草書房・2000円

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 ジャズが好きな人なら、一回はマイルス・デイビスにはまったことがあるはずだ。闇を切り裂くようなトランペット。モワモワとくぐもる意味不明なソロ。そして、マイルス率いるグループの、驚異的な完成度。
 マイルス自身は、自分が「伝説化」されてゆくことを拒んだらしいが、その事実すらもが、彼のカリスマ性をますます高めてゆく。
 田中公一朗さんの新著は、マイルス・デイビスという謎に、独自の視点から迫ろうとする興味深い一冊である。あまたの評論家たちによる「マイルス・デイビスの私物化」を打破すべく、「俺だけがマイルスを知っている」的な過剰な読み込みを避け、彼の音楽を広い文脈のうちに置き直すことを試みた。その結果、いくつかの面白い論点が浮かび上がってきている。
 たとえば、マイルスは喉の手術によって、かすれ声しか出ないようになってしまった。マイルスはこのことを自伝の中で、さらっとしか触れてないが、田中さんはこの「声の喪失」体験に何かの秘密が隠されているのではないかと考える。
 マイルスが声を失ったと同時に、彼はミュート・トランペットを多用するようになる。ミュートとは、トランペットの音の出口を塞ぐような装置で、音がくぐもったようになる。マイルスはミュートによって、独自の音世界を形作っていく。
 田中さんは、声を失ったマイルスが、自分のトランペットからも声を奪ったのではないかと推測する。そしてこれをマイルスのトラウマと呼ぶ。しかし、このミュートによっても、マイルスはみずからのトラウマを癒やしきることができず、憑かれるようにして自分の音世界を解体し、再構築し、変態させ、人生の最後まで悪魔的な実験を続けたのであった。
 マイルスの研究書ならば、この仮説の裏付けが要求されるのだろうが、田中さんのこの本にそれを求める必要はないと思う。マイルスを通して、音楽とは何かを考えるときの、刺激的な着想集として十分に利用できるからだ。気負いのある文章が少し気になるが、田中さんのこれからの仕事は要注目だ。


9月23日掲載

浅見克彦『愛する人を所有するということ』青弓社・1600円

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 「愛する人を所有するということ」、これはほんとうに悩ましい問いだ。だって、誰かを好きになったら、どうしてもその人を自分だけのものとして独占したくなるだろうし、それがさらに進めば、その人のことを一部始終監視していたいという気持ちに襲われるかもしれない。
 でも、好きな人を独占して、その人にまったく自由を与えないというのは、「その人を愛していること」ではないにちがいない。では、いったいどうしたらいいのだろう。好きな人のことを、まったく縛らないなんてことができるんだろうか。
 浅見さんは、この本の中で、次のように考える。誰かを愛し始めた人は、その人をどうしても所有したくなる。
 だが、もし仮にその人をほんとうに所有してしまえば、そのとき「愛」は終わるであろう。なぜなら、愛とは、自分のコントロールを超えた他者によって、この私が津波に襲われるように翻弄され、私が私であるという同一性を破壊される寸前にまで押し流されてしまう、ということでもあるからだ。
 そして、私の同一性が破壊される崖っぷちで、ぐっと踏ん張って、みずからの自我を保持し、なんとかサバイバルしようとする試みこそが、「愛」なのだと浅見さんは考える。相手によって自分が壊されるという動きと、それを克服するために自我を再生させるという動きの、両方を巻き込んだダイナミズムとして「愛」というものをとらえるのだ。
 浅見さんは、さらに、セックスの営みにおける愛撫を例にとって、「自我」や「所有」が立ち現われない融解状態というものがあることに注意をうながす。だが、人は、このような融解状態にいつまでもとどまっていることはできない。やがて人は、融解状態を離れて、ふたたび「自我」と「所有」の世界に戻ってくるのである。
 この二つの世界のあいだで引き裂かれざるを得ないのが人間の「愛」であると浅見さんは言っているように見える。
 私自身は、所有を離れた愛への道筋は開かれていると考えるが、浅見さんのこの本は敵ながらあっぱれという出来映えだ。


9月2日掲載

島田裕巳『オウム』トランスビュー・3800円

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 オウム真理教事件の裁判が進んでいる。麻原は、訳の分からないことをつぶやいたり、英語でしゃべったりしているようで、それに愛想を尽かせた弟子たちは、次々と麻原への信仰を捨てはじめた、という報道がなされている。
 だが、島田裕巳さんの『オウム』を読んで、教祖と信者の関係というのは、そんなに単純ではないんだなあと思ってしまった。新聞やテレビは、詐欺師・麻原に騙されたおろかな信者たちという構図を、ただ当てはめているだけなのではないか。彼らのあいだに、いまもなお残存する不気味な信仰形態に目をつむったまま、彼らを戯画化するストーリーを垂れ流しているだけなのではないか。
 島田さんは、オウム真理教事件に巻き込まれてしまった宗教学者だ。事件後、大学の職を失った。そして、この事件にかかわったみずからの人生に決着をつけるために、この大著を書き上げた。
 島田さんは、オウムの「マハー・ムドラー」という考え方に注意をうながす。マハー・ムドラーとは、麻原が信者たちに与える、一種の試練のことである。信者は、この試練をくぐり抜けることによって、解脱へと近づいてゆく。ところが、このマハー・ムドラーは、信者にとって、耐え難いくらい過酷で、理不尽なものだと、麻原から教えられている。
 島田さんの観察によれば、あの地下鉄サリン事件とその後のオウムへの弾圧それ自体が、麻原が仕掛けた巨大なマハー・ムドラーの試練なのではないかと、いまだに信じている信者・元信者が多数いる。
 つまり、オウム事件というのは、麻原が信者たちを解脱へと近づけるために仕掛けた、巨大な魂の儀式なのであり、オウム裁判もまたその儀式の一環であるという解釈が、オウム信者たちには残されているのである。いくらつらくても、いまががんばりどころであり、弟子たちがこの試練を耐えきることを、麻原教祖は願っているのではないか、と。すべては麻原教祖の愛情から出た行為であり、法廷での姿も、それを悟られないための偽装であろう、と。島田さんは、オウムの底なしの宗教性を、みごとに切り出すことに成功した。


8月19日掲載

川口敏『死物学の観察ノート』PHP新書・660円

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 「つちのこ」の死体が発見されたというニュースが出回ったのは、たしか昨年のことだった。それはいったん土に埋められたので、骨だけしか残っていなかったという。専門家が鑑定したところ、「つちのこ」ではなくて、ヘビの一種だったらしい。
 死んだ動物の骨から、生きていたときの姿形を推定できるということなのだが、そのためには、普段から、死んだ生き物について詳しく観察しておかなければならない。この本の著者の川口敏さんは、死んだ生き物から、生物の不思議をさぐる学問のことを、「死物学」と呼んでいる。これは、もちろん「生物学」に引っかけた命名だ。
 川口さんは、道を歩くときでも、野山をさまようときでも、地面に落ちている哺乳類の死体をつねに探している。そして、モグラ、イタチ、ネズミ、野ウサギなどの死体を見つけては自宅に持ち帰り、細かく観察し、標本にする。
 川口さんの指摘を読むまで、私も「標本」と「剥製」を混同していた。よく応接間などに置いてあるシカやクマの実物大のぬいぐるみみたいなのは、「剥製」である。これは保存もきかないし、単なる見せ物にすぎない。これに対して「標本」は、毛皮と骨に分離して棚の中に保管されており、そのひとつひとつに標本番号、計測データ、採集時の状況などが付けられている。この死せる「標本」をもとにして、動物の身体の細部の仕組みが、綿密に明らかにされていくのである。
 実際に、道に落ちている動物の死体をきちんとした「標本」にするのは、とてもたいへんらしい。すごい腐臭がするし、解剖する手を寄生虫が這い上がってくる。それでもなお動物の死体を求めてやまない著者の偏愛ぶりが、この本に異様な迫力を与えている。
 骨格が華奢で、肉を削ぎ落とすのがむずかしい小動物は、自然乾燥させて木の箱に入れ、野外に放置しておくと、カツオブシムシがどこからともなくやってきて、屍肉を食べ尽くし、きれいな骨格を残してくれる。それを手にしながら、うれしそうにスケッチし、標本棚へと収める著者の姿が思わず浮かんでくるような好著であると思う。


8月5日掲載

西垣通『IT革命』岩波新書・700円

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 インターネットに没頭する人たちが増えている。とくに最近では、パソコンをネットにつなぎっぱなしで、あっちの世界に浸っている中学生や高校生も、たくさん出始めているようだ。かくいう私も、もうネットには常時接続の状態で、もうこれなしには生活できないくらいだ。
 でも、インターネットの世界で一日の大半を過ごすようなことになると、ちょっと人間性がおかしくなるのでは、と不安になることがある。ネットの世界のやりとりばかりしていると、こっちの生身の世界の豊かさや、常識などを、どんどん喪失していくかもしれないからだ。
 西垣さんの本書は、ずばりネット時代のわれわれの生き方についての考察である。西垣さんは言う。われわれは、お互いにこころを通い合わせることのできるコミュニティなしでは、生きていけない。それは、インターネットが極度に発達するであろう将来においても同じことだ、と。
 もちろん、ネット上にだってコミュニティはある。いつも訪問する掲示板や、メーリングリストなどを介した、「オンライン・コミュニティ」があるではないか。しかしながら、西垣さんは、それだけでは「生きるに値するネット社会」は建設できないと考える。なぜなら、ネット上だけで成立するコミュニケーションは、往々にして袋小路にはまりこみ、教条的でゆがんだものになる危険性をはらんでいるからである。
 われわれが生きるに値するネット社会とは、ネット上で出会う人々が、この現実の世界の中でもまた軽やかに出会えるような仕組みが保障されているような社会である。そのためには、いまの都市空間そのものを劇的に改造しなければならないと、西垣さんは考える。具体的には、高さ千メートル級の巨大高層ビル群を構築し、その中を、人間と、物と、情報が絶え間なく流れていくようにする。
 このようにして、IT革命とは、実は都市革命なのだということを西垣さんは強調するのだ。これは大胆な主張である。私は、ネット上の人間関係にもっと可能性を見たいと思うのだが、西垣さんの言う都市革命にも、とても惹かれるものを感じる。


7月29日掲載

藤井輝明・石井政之編著『顔とトラウマ』かもがわ出版・2000円

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 人間にとって、顔というのは大きな問題だ。どんな人でも、自分の顔について、いろいろ悩んだことがあるはずだ。なぜかといえば、顔の造作によって、他人からの扱いが劇的に変わるということを、われわれは知っているからだ。
 だとすると、病気や外傷のために、顔に大きなアザがあったり、いわゆる普通の顔をしていない人たちは、とてもたいへんな悩みをひとりで抱え込んでいることになる。この本においても何度も語られるように、彼らが街を歩いているだけで、道行く人々にじろじろと凝視されたり、「お化け!」とからかわれたり、バスを降りるときに唾を吐きかけられたりする。
 しかし、そのような顔をもった人たちの悩みは、いままで社会のなかできちんと認知されてこなかった。顔のアザで悩んでいるなどと言おうものなら、「世の中には手や足のない人だっている。それを思うとあなたは幸せ」と、たしなめられたりするのである。
 たかが顔のことなのだから、そんなにくよくよするなと言われても、当事者たちはまったくなぐさめられない。現実の社会では、普通と異なった顔をもつ人間が、どのくらい冷たい視線を浴びたり、差別されたり、陰湿にからかわれたりするのかを、彼らは身をもって知っているからだ。
 「顔なんてたいしたことではない」となぐさめつつ、実は、顔の造作によって人間の扱いを劇的に変えるこの社会のダブルスタンダードによって、当事者たちは子どものときから苦しめられてきた。
 私はここまで「普通とは異なった顔」という言い方をしてきたが、実はこの表現だって、問題含みだと言える。アザがあったって、普通の顔じゃん、というふうに多くの人々が感じることができるようになったら、アザのある人の顔も「普通」の顔になるはずだからだ。
 この本は、健常者と身体障害者のちょうど中間地点に、宙づりにされてきた彼らのつらさを、まずは日本中に孤独にちらばって存在しているであろう当事者たちと分かち合うことを目的としている。それに加えて、われわれの無知を思い知るよい機会にもなることだろう。


6月10日掲載

森崎和江『見知らぬわたし』東方出版・1800円

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 人は、エロスをどのようなときに感じるのだろう。その人の姿を見ただけで、こころがどきどきする、そのような気持ちのなかにもエロスが含まれているのか。エロスは、ここにいる自分自身を無防備にすることによって、どきどきする相手の中へと侵入してゆくことかもしれないと思ったりする。
 森崎和江さんの新著『見知らぬ私』を読むと、これとはまた異なったエロスの捉え方が示されている。森崎さんにとってのエロスとは、いのちをいつくしむこと、そして悠久の昔から連綿とつながってきた生命のざわめきに参与することであるようだ。その生命への参与のなかに、恋があり、ときめきがあり、融合があり、悲しみがあり、楽しみがある。
 森崎さんのエロスは、私の存在を大きく取りまく「自然」に向かっても開かれている。森崎さんは、蛍を見に行きたい、木に会いたいと言う。彼女にとって自然とは、生命を生み出したその根源であり、そして生命が老いて死んでゆくその終着点である。しかし、生命はそこで尽きるのではなく、土に還り、根源と一体化することによって、ふたたび、あらたな生命をはぐくんでいくのだろう。
 森崎さんは自分の身体を鳥に食べさせるというイメージを語る。「食べてほしい、食べさせたい、という思いは何でしょうね。いのちを、何かに。他の生きものに。微生物その他に・・・・」。おそらくそれが、自然とのエロスであり、交接なのだろう。「自然」と交わること、生命の連鎖と交接すること、その背景のもとに、たとえば好きな男と「楽しむ」ことが配置される。
 老化する身体の中に、日々あらたな生命が生まれると森崎さんは言う。「老いてなお、今朝のわたしが生まれているよ。いえいえ老いつつ生きてこそ、出会うわたしです」「おはよう、今朝のわたし」。そのように自分に言い聞かせ、いまの一瞬の魂を燃やすように生きてゆく。老いつつ生きるとは、このような生き方なのか。その視線は、海の向こうまで渡り、ちっぽけな国家の枠組みをしたたかに超えようとする。日本のフェミニズムに決定的な影響を与えた森崎さんの、老いとエロスの旅はまだまだ続きそうだ。


6月3日掲載

大越愛子ほか編著『フェミニズム的転回』白沢社発行、現代書館発売・1800円

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 気が付いてみたら、フェミニズムについて語るのはかっこわるい、という風潮になってきている。たしかに、一時期のように、男性社会に向けて大見得を切る勢いというのは、なくなってきたのかもしれない。だが、フェミニズムの最近の展開と深化を、冷笑してすますわけにはいかないのだ。
 たとえば、『フェミニズム的転回』に収められた大越愛子さんの文章は、この思想運動の底辺に秘められた巨大な破壊力がいまだに脈々と生き続けていることを生き生きと語っている。「フェミニズムなんて、終わってるじゃん」とかバカにする奴らは、きっと、八〇年代フェミニズムの表面的イメージだけでしゃべっているんじゃないのか。
 フェミニズムは、女同士の連帯によって、男性中心主義のシステムを解体することをめざした。ところが、その後で持ち上がってきたのは、「同じ女だというだけで、どうして連帯できるのか?」という難問だったのだ。たとえば、異性愛の女性たちは、同性愛の女性たちと、どうすれば連帯できるのか。「先進国」に住む女性たちは、自分が経済的に搾取している「途上国」の女性たちと、どうすれば連帯できるのか。
 こんなふうに考えていくと、『青鞜』に代表される大正時代の日本のフェミニズムもまた、批判対象になってくる。なぜなら、それは、アジア諸国を侵略しようとする当時の国家体制に乗っかったままで出発したフェミニズムであるからだ。日本のフェミニズムは、このような「帝国のフェミニズム」を母とするのである。
 第三期のフェミニズムは、男性社会のシステムに組み込まれざるを得なかったみずからの姿勢と歴史を、徹底して問いなおすことからスタートする。そうやって、みずからの内部矛盾をあからさまにし、その苦しみを引き受け、それをくぐり抜けることによって、新たな生の可能性を切り開こうとするのだ。
 自分よりも力の弱いものを、言葉を使ってうまく丸め込もうとする勢力を、その同じ場所にとどまりながら解体し、無効にしていくような「闘うフェミニズム」が高らかに宣言される。では男は、どうするのか。それは男が自分で考えねばならない。


5月27日掲載

ジャスティン・バーリー編『遺伝子革命と人権』DHC・1800円

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 羊のクローンが誕生したのは、一九九七年のことだった。その後、あっというい間にクローン技術は世界中に広がった。そして、昨年から今年にかけて、クローン人間を作る準備をすすめている団体の存在が明らかになって、国際的なセンセーションを巻き起こしている。
 たしかに、クローン羊が誕生したときには、アメリカのクリントン大統領や、ローマ法王たちが、それを人間に応用することは許されないと、語気を強めて宣言したものだ。だが、その後、実際に、「死んだ自分の子どものクローンを作ってほしい」と望む親が、世界中で現われたり、「クローン人間を作ることのどこが悪いのだ」と疑問を投げかける倫理学者たちも現われた。
 本書は、一九九八年にオックスフォード大学で開かれた講演会の記録なのだが、その内容のほとんどが、クローン人間は許されるのかどうかに絞られている。クローン人間擁護派と、反対派の著名な学者が入れ乱れて、大論戦をやっている。クローンの倫理問題も、ほとんど出そろっているので、このテーマに関心をもっている人にとっては、必読書と言えるだろう。
 この本のなかで、だんとつにおもしろいのは、倫理学者ジョン・ハリスの、クローン人間擁護論だ。彼は、クローン人間への反対論を、ひとつひとつ論破してゆく。たとえば、クローン人間は人間の尊厳に反すると言うが、具体的にどのような尊厳に反するのかが示されていない。あるいは、クローン人間は人間を道具化するものであると批判されるが、そもそも親が子どもをほしいと思って産むこと自体が、子どもの道具化ではないのか。
 ハリスは、親は「自分の子どもを特注するに当たって自由な選択権を持つべきだ」と主張する。そして、クローン人間を禁止するのは、「レイプのおそれがあるからという理由で性行為を禁止するのと同じである」と断言するのだ。
 ハリスの、この暴走気味の論説に対して、並み居る論者たちは、きちんとした反論ができていないように見える。でも、それでいいのか? 考えさせられる本だ。


5月13日掲載

リチャード・ドーキンス『虹の解体』早川書房・2200円

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 人間は遺伝子の乗り物である、と言い出して大いに話題をさらったリチャード・ドーキンスの最新刊である。遺伝子の目的は自分をどこまでも生き延びさせることだ。だから、「利己的な遺伝子」だとドーキンスは言う。
 この理論を、本書『虹の解体』では、さらに先まで押し進めている。ドーキンスによれば、遺伝子は、他の遺伝子と、つねに争っている。すきあれば他の遺伝子を出し抜いて、自分の勢力圏を広げようとする。だが、そのような利己的な遺伝子の取る戦略は、他の遺伝子を攻撃することばかりではない。
 むしろ、他の遺伝子と相互的な協力関係にはいることによって、自分自身を安定して生き延びさせようとすることが、たくさんあるのだと言う。ドーキンスは、これを「相互協力的な同盟」と表現する。そして、これらの同盟関係を結んだ多数の遺伝子たちが、協力して人間という個体の身体を作り上げるのである。
 だから、人間という生物個体は、お互いに同盟関係にはいった利己的な遺伝子たちが、いまここで仮に作り上げた砂の城のようなものなのだ。遺伝子たちは、人間という個体を作り上げたほうが、自分たちの生存に有利だからそうしているにすぎない。ドーキンスは、生物個体に対しては冷ややかだ。そのかわり、遺伝子に対しては偏愛すら感じさせる書き方をしている。
 ドーキンスにかかれば、生物たちの共生の象徴である熱帯林ですら、「森林は利己的な遺伝子たちのアナーキーな連盟である」ということになる。遺伝子は、自分自身が生き延びるために、打算的に敵と講和条約を結んでいるのだが、その打算的同盟の巨大なネットワークこそが、熱帯林だというのだ。
 われわれの細胞(真核細胞)は、二種類の細菌が共生したものだという学説が有力であるが、ドーキンスによれば、それは愛ある共生ではなくて、利己的に生き延びようとする二つの細菌が、打算的に手を組んだものである。ドーキンスは言う。「遺伝子レベルではすべてが利己的である」「協力や友好は副次的な結果にすぎない」。彼をここまで突っ走らせる動因は、いったい何なのだろうか。


4月29日掲載

多田富雄『免疫・「自己」と「非自己」の科学』NHKブックス・870円

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 からだには、自然治癒力というものがある。病気にかかっても、じっと寝ていれば、いつのまにか治ってしまう。これは、人間のからだがそなえている免疫システムのおかげだ。免疫というのは、信じられないくらい巧妙にできた仕組みだということが、多田富雄さんのこの本を読むと、よくわかる。ほんとうに、神様が設計したんじゃなかろうかって思うくらい、よくできている。
 多田さんは、いままで『免疫の意味論』などのすばらしい本を出版しているけれど、本書は、その総まとめと言った感じの書物だ。ここ一〇年の生命科学の進展を組み入れて、とてもわかりやすい免疫の見取り図を描き切っている。
 人間のからだにウィルスが侵入してくると、免疫システムを構成する様々な細胞が、連絡を取り合って戦線を張る。まず、マクロファージという細胞が、ウィルスを食べる。そして、ウィルス情報をT細胞に伝える。ウィルス情報をもらったT細胞は、ウィルスに感染した細胞だけを認識して、効果的に殺してゆく。と同時に、情報を受け取ったB細胞が抗体を作りだして、攻撃に参加する。
 多田さんは、免疫システムとウィルスの戦いを、まるで舞台の上のドラマのように解説してくれる。多田さんは、細胞たちを役者にたとえ、その役者たちが悪者を一致団結して退けてゆく様を、語り部として謡うのだ。多田さんは新作能の作家としても著名だ。免疫システムの戦いを、舞台の上の能のように眺めているのかもしれない。だから、人体システムの不思議なダイナミズムが、手に取るように伝わってくるのだと思う。
 免疫システムを研究していると、「生命」とは何かということが、別の面から明らかになってくる。それは、「スーパー・システム」としての生命だ。生命というのは、遺伝子によって前もって決められたとおりに動くような操り人形ではない。そうではなくて、様々な環境条件や、偶然性などを取り入れながら、時間的な記憶を蓄積し、みずからが生きる目的そのものをみずから作り出していくようなシステムなのだ。ここに「生命」の神秘が示されているのである。


4月8日掲載

藤原帰一『戦争を記憶する』講談社現代新書・660円

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 戦争は、かなしい。空襲によって多くの人間が焼かれ、子どもたちは親を失い、女たちは強姦される。私たちは、第二次世界大戦中にその被害者になったわけだし、中国大陸や南方では、逆に加害者となった。
 私は戦争を体験したことはないけれど、戦争被害者たちの叫びやうめきを見聞きするたびに、人間になんか生まれてこないほうがよかったんじゃないかと思ったりする。戦争は絶対悪。人間は、いかにすれば、戦争という呪縛から解放されるのか・・・。
 というふうに考えちゃうのは、とても戦後日本的なんだよ、と藤原帰一さんは言う。たとえば広島の原爆投下について、戦後の日本人がどのようなことを語ってきたのかを考えてみればいい。原爆ドームにこめられた願いは、地球上からの核兵器の廃絶、兵器の廃棄である。どの国がどの国に原爆を投下したかということよりも、人類によって原爆が投下されたというその事実に意識は収斂し、人類にとっての兵器と平和の意味へと思索は向かっていく。
 これに対して、ユダヤ人がアメリカに建設したホロコースト記念博物館が発するメッセージは、まったく異なっている。彼らが強調するのは、人々への不条理な暴力や虐待があったときに、いかにすればわれわれは彼らに対して勇気をもって立ち上がれるのかということだ。そして、必要とあらば、われわれには武器を取る義務と責任がある、と彼らは考える。つまり、ホロコーストのような惨事が起きたときには、われわれには武器を取って敵と戦う義務があるというわけだ。
 藤原さんは、戦争に対するこの二つの考え方を、「反戦」と「正戦」と呼んで対比させる。戦争について考えるとは、これら二つのあいだで右往左往してきた人間の歴史について考えることなのだ。
 かつてあった戦争について、われわれが何を思い出し、何を記録し、何を語り伝えようとするのか。そのスタンスの違いが、「反戦」と「正戦」の落差へと反映されてゆく。対象から距離を取った冷静な分析で、問題の全体構造を俯瞰しようとする藤原さんの筆が冴えている。若い読者に薦めたい。