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作成:森岡正博 
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エッセイ

『少年育成』 2003年11月号 8〜14頁
少女への性幻想を考える  
森岡正博

このエッセイは、完全に書き直して、『感じない男』(ちくま新書 2005)に収録しましたので、そちらをご覧ください。 



 少女たちが性犯罪の被害に遭う事件が、あとを絶たない。東京の赤坂で女子小学生たちが監禁された事件は記憶に新しいが、その後も、都立高校一年生の女性が行方不明になったあと殺されるという事件が起きている。犯人はともに独身男性で、事件発覚後に自殺した。
 ところが、これらの犯罪に巻き込まれる少女たちは、単なる被害者とは言えないのではないかという感情が、人々から沸き起こってきているように見える。な ぜなら、最近の出会い系サイトなどの状況を見ても、少女たちがみずから援助交際をもちかけているケースが少なくないからである。赤坂の事件のあと、鴻池祥 肇大臣は、赤坂の事件の小学生は「加害者か被害者か分からない」と発言した。大臣は指摘を受けてこの発言を撤回したが、この出来事がマスコミに流れると、 大臣事務所には激励のメールや電話が多く寄せられたという(二〇〇三年七月一八日報知新聞)。少女たちははたして「被害者」なのかという疑問が、一般庶民 のあいだにもあることを示している。出会い系サイトに積極的に援助交際の書き込みをする少女たちが、その結果、犯罪に巻き込まれたとしても、ある面ではそ れは自業自得ではないかというわけである。
 ジャーナリストの宮淑子は、『黙りこくる少女たち』(講談社 二〇〇三年)で、一二歳の少女が関西の高速道路で落下死亡した事件を取材する。これは、現 職の教師が少女を援助交際に誘い、手錠をかけて拉致する途中で起きた事件であり、その猟奇性からメディアの大きな注目を浴びた。宮は、この事件の判決を法 廷で傍聴するのだが、裁判長の次の言葉に怒りを覚えたという。
 裁判長は言う。少女は「素性も分からない見ず知らずの男性を相手に援助交際と称する行為に及ぼうとしていたものであって、このような被害に遭うとは思っ ていなかったにせよ、やはりいかなる危険が存在しているかもしれないところに自ら身を投じたものというべきであるから、そこに落ち度が全くなかったという ことはできない」(同書 一四六頁)。
 被害者にも落ち度があったのだから、ある意味では自業自得であるというこの種の考え方は、女性が性犯罪に巻き込まれたときにしばしば男性側から繰り出さ れてくる論理である。しかしこの論理は、被害者を過度に追いつめ、逆に加害者を免罪してしまう危険性をはらんでいる。犯罪になったのは、被害者が挑発的な 書き込み(服装、態度等々)をしていたからであり、行為に及んだ男はその点で情状酌量に値するというわけである。
 都会の繁華街に遊びに行って、男から「いい金になるバイトがある」と言われて付いていった少女に落ち度があったと断定していいのだろうか。あるいは高速道路の事件のように、電話で援助交際の話をして、実際に男と会って付いていった少女に落ち度があったと断定していいのだろうか。この点は、慎重に考えてみ る必要がある。
 出会い系サイトの書き込みについては、出会い系サイト規制法(インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律)が今年成 立した。これは、出会い系サイトを介した児童買売春等を規制するもので、少女が援助交際の書き込みをした場合、少女本人も罰せられる。この点については、 少女はあくまで性犯罪の被害者であるという反対意見もあって、議論が紛糾した経緯がある。この反対意見は結果的には却下されたが、その反対の理由は肝に銘 じておく必要がある。すなわち、先に述べたように、「少女も罰せられる」→「少女も加害者」→「性犯罪を犯した男性にも情状酌量の余地がある」というふう に流れていく危険性があるのだ。この流れだけは食い止めておかないと、「結局、女が悪いんだ!」という女性蔑視の視線が、ふたたび社会に蔓延することにな りかねない。



 では、援助交際をもちかけたり、男からの誘いに乗ったりする少女たちは、まったく落ち度もないし、悪くないのであろうか。私は、そのような少女たちは 「思慮」が足りないけれども、けっして落ち度はないし、悪くもないと考えたい。だから、彼女たちが運悪く犯罪に巻き込まれたとしても、それはけっして自業 自得ではないのである。このあたりのことを、もう少し考えてみよう。
 少年も少女も、小学校高学年から中学校にかけて、第二次性徴期に入る。この時期、彼らは恋愛と性の冒険を試みはじめる。少女たちは、自分の身体にどのく らいの価値があるのかを確かめたい誘惑に駆られる。性的な誘惑に、ほんの少しは乗ってみたい気持ちも目覚めてくる。宮の書物の中で、セックスワーカーのモ モコは、次のように語っている。「援助交際は、私は悪いことだとは思いません。若い人が自分の性的な価値を確かめるための『実験』または『冒険』の時期だ と思うからです。しかしそれには危険が伴います。若い人に限らず、性的な行為を行う際に生じる危険について、すべての人は適切な教育と情報を与えられる権 利と必要性があります」(同書 一五〇頁)。私もこの意見に賛同する。男の子であれ、女の子であれ、第二次性徴が始まった子どもが「性の冒険」を試みよう とするのは、当然のことである。ちょうど野生動物の子どもたちが、成長した自分の身体の性能を試すために、枝から枝へと無謀な飛び移りをしてみるように、 人間の子どももまたその機会を奪われてはならないと思う。
 大人の役目は、子どもたちの「冒険」を、「悪いこと」とか「落ち度がある」と言ってやめさせようとすることではなく、子どもたちの「冒険」を遠くからち らちらと横目で眺め、もし彼らが危機に瀕しそうになったときには直ちに急行して彼らを救うことであるはずだ。そもそも「冒険」は、「逸脱」を含む。大人が 子どもたちに一方的に期待しがちな理想的な子ども像からの逸脱を試みることが、冒険ということなのだ。大人がなすべきことは、冒険を食い止めることではな く、冒険から生じるかもしれない危機的状態から子どもたちを救い出すことである。
 まさにこの点において、少女買春をする大人たちは、決定的に間違っているのである。「お金と引き替えに売春をするということが、自分の身体と精神と人生 にとってどのような不可逆的な影響を及ぼすのか」について充分な判断ができにくい危険性のある少女たちに、セックスをもちかけたり、彼女たちからの誘いに 乗ったりすることは、まさに子どもの尊厳を踏みにじる行為だからである。そしてそれは、いくら少女たちから積極的に性の誘いを受けたとしても、やはり子ど もの尊厳を踏みにじる行為なのだ。
 もう一度言うと、大人たちがなすべきは、「冒険」しようとする少年少女たちを危機から守ることである。「冒険」を試みようとすることそれ自体を食い止め ることではない。身の丈を超えた性の冒険は、たしかに「思慮」が足りない行為ではあるだろうが、それは第二次性徴を迎えた子どもにとっては落ち度でもない し、悪いことでもないはずだ。彼らの性の冒険を悠然と受け流すことをせず、逆に、みずからの欲望を満たすための道具として使おうとする大人こそが、咎めら れるべきである。
 もちろん、違法な冒険については、子どもたちがそれに踏み出す前に防止しなければならない。出会い系サイト規制法によって、援助交際の書き込みが禁止さ れたのだから、大人も子どももそのような書き込みをできないようにしなくてはならない。(子どもの書き込みも処罰対象にするという点については、もう少し 慎重な考え方があり得たのではないかと個人的には批判的に考えている)。



  冒頭に述べたような性犯罪をなくすための鍵は、やはり、犯罪を起こす側の男性のセクシュアリティにある。少女買春をしたり、少女への性犯罪をするのはある 特定の男性だけではない。マスメディアの報道を見ていれば分かるように、学校の教員や教育委員会の人間が、児童買春で逮捕されている。会社の重役なども含 まれている。少女の性への執着は「ロリコン」と呼ばれ、ひ弱き男が力無き少女を支配する性欲だと考えられているが、その解答だけではもはや不充分だ。渋谷 でも、少女を買うのは、むしろ地位も収入もある勝ち組の男たちであると言われている。宮は、前掲書で、学校における教師のストレスが、教師を性犯罪に走ら せるかもしれないと示唆している。たしかに、過剰なストレスが性犯罪に結びつくということは考えられるが、問題はなぜそれが「少女」をターゲットとした性 行為へと暴走するのかということであり、その暴走をなぜ大人が自制できないのかということなのだ。
 その根底には、われわれ男性の内側に根深く刻印された「少女への性幻想」の存在があるのではないかと、私は考えている。その「性幻想」は、おもに現代の大衆メディアからシャワーのように放射されてくるのである。
 買売春に巻き込まれる少女たちの年齢が低下しているが、同じような傾向を示しているものとして、国民的アイドルグループである「モーニング娘。」のメン バーの低年齢化がある。二〇〇〇年には、十二歳のメンバーが二人加入し、一気に人気がブレイクした。また今年八月、矢口真理と小学生五名による「ZYX・ ジックス」というグループがCDデビューした。同時期に、十三歳の少女五名によるグループ「SweetS」も別会社からCDデビューした。
 これらのグループは、音楽が好きで元気な女の子というイメージで売り出しているが、その背後には、「セックスに満ちた少女たち」というサブリミナルな メッセージが巧妙に仕掛けられているのである。たとえば「ジックス」のデビュー写真を見ればすぐに分かるが、小学生の少女たちは、大人の女性が着るような フェミニンで肌があらわになる服を着せられており、全員へそ出しの姿でウェストを強調している。このような格好を見せられたときに、大人の男性の多くは、 自動的に「セックスに満ちた女」をそこに読み込むように訓練付けられているのであり、その結果、性に満ちた視線が小学生の彼女たちに向けて集中して注がれ ることになるのである。「SweetS」の場合も同じだ。彼女たちは、大人の女性と同じ服を着て、ミニスカートから脚を露出し、こちらを誘うような目線で 写真に映っている。そこに充満しているのは、「私たちは性的に成熟した子どもなのだ」というメッセージである。デビュー曲が「LolitA」というのも暗 示的だ。
 このように、大衆メディアには、十二〜三歳の少女たちへの「性的な視線」が巧妙に仕掛けられているのであり、それがいまや日本の一大産業となっているの である。男がそれらアイドルたちに透かし見ているのは、砂糖菓子の雰囲気に包まれて巧妙に演出される、年若き少女たちの「性」にほかならない。これは、共 同配信の新聞原稿(八月)にも書いたことだが、「モーニング娘。」の別ユニットである「ミニモニ。」が出演するミュージックビデオで、彼女たちが順番にミ ルクを飲まされて、瓶に入った白い液体をいやいや口に含むシーンがあったが、ここで暗示されているものは何であろうか。「元気な女の子の笑いと涙の成長 記」という建前の裏で仕掛けられるこのようなサブリミナルな「性幻想」が、いまのテレビにはあふれているのだ。
  このようなメッセージを毎日大量に浴びせられたらどうなるであろうか。男たちの脳裏には、「少女たちは性に満ちており、大人の女性を見るような性的な視線 を浴びせられることを欲している」というメッセージが刻み込まれていくだろう。一方、アイドルたちの姿は、一般の少女にとっても行為モデルとして機能す る。少女たちは、同年代のアイドルのように性的な価値をまわりに放射することがかっこいいのである、という洗脳を受けることになるだろう。これらの洗脳 は、大衆メディアを視聴する男性と少女に選択的に作用する。同じ映像を見たとしても、これらのメッセージの存在をまったく感じ取らない成人女性や母親は多 いかもしれない。成人女性たちは、アイドルに若いときの自分を重ね合わせて「かわいい!」と陶酔するにとどまっているのかもしれない。
 洗脳を受けた男たちの中には、初潮をはじめたばかりの初々しい女性と肉体的につながることによって、このつまらない社会では味わうことのできない超常的 な興奮と癒しを得られるのではないかという「根拠なき妄想」を持ってしまう者が出現するであろう。彼らは、その妄想を脳裏から振り払うことができず、街で 少女を見るたびに、少女を誘惑してその肉体を味わいたいと思うようになるだろう。こうして、援助交際や、少女を巻き込む性犯罪の背景が出来上がる。
 大人に必要なのは、少女たちの性の冒険を受け流す知恵であり、彼女たちを危険から救い出すことである。だが、これらの妄想にはまった男たちは、少女たち をみずからの欲望の道具とする誘惑に勝てず、それを実行したあとも、少女のほうに落ち度があったという言い訳で自己正当化をしようとする。そしてそれを背 後からサポートするのが、鴻池大臣のような発言なのである。
 さらに言えば、少女たちが持っている「有名になりたい」「みんなから注目されたい」「華やかな世界に入りたい」という願望を利用して、彼女たちをアイド ルに仕立て上げ、彼女たちの身体にサブリミナルな性的なメッセージを貼り付け、CDデビューさせて儲けようとする芸能界の人間もまた、少女たちへの犯罪を 間接的に支えていると言えるのである。一般購買者がそういうイメージを欲しているから、自分たちはそれに対応する商品を売っているだけだと、彼らは反論す るだろう。しかしその反論がただちに成立するものではないことは、すでに社会学によって繰り返し指摘されている。すなわち、高度消費社会における一般購買 者の欲望というものは、製品の作り手によって過剰に刺激されて開発されるのであり、そのプロセスを抜きにした欲望というものは存在しない。「少女への性幻 想」は、大衆メディアによって肥大化させられるのであり、その分析をきちんと行なわないかぎり、少女たちへの犯罪に対する根本的な対策はたてられないので ある。