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作成:森岡正博 
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エッセイ・論文 

東京大学大学院人文社会系研究科『多分野交流プロジェクト研究ニューズレター』39号 2002年10月30日(頁数なし)
「無痛文明論」の提唱   
森岡正博
 

Traduction francaise
 仏訳

 

 生命倫理の問題を追いかけていて、いつも思うのは、この社会で生きるわれわれの「欲望」の問題を掘り下げて考えることが大事であるはずなのに、それが突き詰めて問われていないということだ。快適な生活を送りながら、なるべく長く生きたいというわれわれの欲望は、当然のこととして不問に付される。医療技術はその欲望をサポートする形で開発され、社会へと受容されてゆく。快適で長い人生を得るためならば、遺伝子操作であれ、臓器移植であれ、人々の基本的人権を明白に侵害しない限りにおいて受容されると考えるのが、現在の生命倫理学を牽引する考え方ではないだろうか。
 私はそのような考え方に異を唱えてきた。私は「昔に帰れ」と言うような保守主義者ではないし、「科学は危険だ」と叫ぶ反科学論者でもない。しかし、快適で長い人生を獲得するために科学技術を使うことにはとりたてて問題はないという考え方には、危険なにおいを感じ取る。なぜなら、われわれは苦しみが少なく、快適で長い人生を手に入れることと引き替えに、自分自身の人生から「生命のよろこび」を奪い取り、死にながら生きる化石のような人生を選び取ってしまうことがあるからである。そして、そのような事態が、社会全体にまで広がったとしたら、いったい何が到来するのだろうか。
 私は生命倫理を問い直す拙著『生命学に何ができるか』(勁草書房 2001)を書きながら、このことをずっと考えていた。胎児に重い障害があったら、それを理由にして中絶してもよいという考え方がある。これが「先進」諸国のマジョリティの思想であるが、障害者たちを中心とする批判もまた根強い。障害をもつ胎児を中絶してもよいという考え方の根本にあるのは、「障害をもつ子どもを育てるという選択は、できるならば避けたい」という発想だ。現代の科学技術は、障害胎児を早期に発見し、その存在を抹消するという手法で、この願望に答える。障害児がこの世に生まれてこないように「予防的」に存在を抹消するわけである。
 障害児が生まれてきたら、家族は苦しまなければならないから(障害児本人が苦しいかどうかは不明のはずだ)、そのような苦しみが襲ってくる前に手を打って、苦しみを予防的に排除する。私はこのことを「予防的無痛化」と呼んできた。現代社会は、至るところに「予防的無痛化」の網を張り巡らせようとしているのではないか。苦しみが襲ってくることが予想されるたびごとに、その苦しみを予防的に無痛化し、もし仮に苦しいことが降りかかってきたとしても、そこから目をそらして、自分の本当の状況から目隠しをしていくような生き方を、多くの人々が選び取っているような社会。私はこれを「無痛文明」と呼ぶ。
 われわれの社会が進もうとしているのは、将来降りかかってくるかもしれない苦しみをシステマティックに避け続け、一定の快楽と快適さと刺激が維持され、自分たちが予想し期待する範囲内に自分たちの人生を収めておくことができるような社会なのではないだろうか。先端医療技術が目指そうとしているものも、まさにこのような状況である。意外に思われるかもしれないが、地球環境問題の解決もまた、もしそれが地球という惑星の状況を一定の範囲内でコントロールすることで成し遂げられるとするならば、それはきわめて「無痛文明」的であることになる。先端医療技術と、地球環境問題の解決は、ともに同じような形の文明を目指して遂行されるのである。
 「無痛文明」のイメージを、いくつかの方法で語ることができる。まず無痛文明は集中治療室に似ている。集中治療室とは、大病院の中の、特殊な設備が整った部屋であり、その部屋の内部では、温度、湿度、細菌数などが管理されている。ベッドの上に横たわる患者には様々なモニターが取り付けられ、患者の身体には人工呼吸器や栄養補給のチューブなどが装着されて、コンピュータで管理される。意識が戻らないまま横たわっている患者には、充分な栄養が補給され、肌つやもよく、まるですやすやと眠っているように見える。このような集中治療室の状況が、社会全体にまで広がったとしたら、どうだろうか。実は、大都市のビル群というのは、巨大な集中治療室のような環境を、部分的に達成していると言える。エアコンによって温度が管理され、食料はどこに行っても金銭と引き替えに自動的に補給され、われわれは明日洪水で死ぬかもしれないというような恐怖からは解放されている。
 あるいは、学校の中庭にあるような疑似自然を想像してみよう。環境教育ではビオトープと呼ばれているのだが、校庭に穴を掘ってビニールシートを敷き、土をかぶせて水を入れ、雑草を植えて、あたかもそこに本物の自然があるかのように見せるのである。昆虫や小さな魚を放して観察することもある。この小さな疑似自然は、大人たちによって見守られていて、もし壊れたりしたら、子どもがいないときに修繕されたりする。これがもう少し大がかりになると動物園や水族館のような施設となる。観客から見れば、そこには自然の一部が再現されていると思えるのだが、実は、魚が泳いでいる水槽の向こう側にある岩や、そこにへばりついているサンゴなどは、人間によって作られた精巧な模型なのである。水槽内の環境はコントロールされ、そこにいる動物たちにとってもっとも快適な環境にチューニングされている。これが地球大に拡大されたと想像してみよう。それこそが、無痛文明の世界である。人間や植物や動物がすっぽりと包み込まれた巨大な水族館としての地球。地球という惑星の環境は、その大枠において管理され、そこでは人間が数百人規模で死んでしまうような災害は、けっして起きない。
 このような「無痛文明」の社会は、われわれにとって、ユートピアなのだろうか。明日をも知れぬぎりぎりの生を過ごしている人々から見れば、これはすばらしい世界であるように見えるだろう。しかしながら、ある程度の生活の保障と自由時間を獲得した人々にとっては、どうだろうか。そこはほんとうにユートピアに見えるだろうか。そこは安楽な世界であると同時に、何か恐るべき圧迫感を感じる世界、比喩的に言えば無茶苦茶に濃い砂糖水の中で溺れ死ぬような漠然とした不安を感じる世界ではないだろうか。
 無痛文明の世界では、苦しみが少なく、快楽と快適さと刺激が満たされ、自分の人生の大枠がコントロールできるようになるのと引き替えに、「どうしようもない苦しみに直面することによって、自分の枠組みが崩壊し、人生のプランが解体するのであるが、そのあとで予期しなかったような新たな世界に出会い、自己が大きく変容して予想もしなかったよろこびが到来する」という可能性が、システマティックに奪われてゆくのだと私は考えている。これが「無痛文明」の罠である。われわれが限りある人生を悔いなく生きてゆくためには、そのような「よろこび」を幾度か体験することが必須であるのに、「無痛文明」はそれを、甘い餌と引き替えに奪い取っていくからである。
 私は、「無痛文明」を牽引するような欲望のことを「身体の欲望」と呼び、「無痛文明」からの脱出を切望する欲望のことを「生命の欲望」と呼んだ。無痛化する現代社会において必要なのは、われわれの「身体の欲望」を「生命の欲望」へと絶えず転換し続ける営みであり、それを支える知の方法である。生命倫理の諸問題もまた、このような文明論的な次元から考察しない限り、根本的な解決には至らないのではないかと私は考えている。「欲望論」は、フロイト、ラカン、ドゥルーズ=ガタリ、フーコーらによって展開されてきたが、「無痛文明論」による「身体の欲望」と「生命の欲望」の分析は、この領域に新たな知見を開くはずである。限られた紙幅で駆け足で語ったので、おおざっぱな描写にとどまった。関心ある方は、私のホームページ(http://lifestudies.org/jp/mutsu.htm)で詳細を確認してほしい。現代の哲学的・倫理的な諸問題は、文明論の次元から考察しない限り、その全体像は見えてこないと私はいま痛感している。